代償 - regret -



 雨に煙る外を見つめていると、時折青白い雷光が視界を白く焼き、雷鳴が鼓膜を震わせる。けれど、何事もなかったかのようにヴィルヘルムは悪天候の外を眺めていた。特に何かあるというわけでもない。ただ、ぼんやりと外を見ていたのだ。
 彼の手には先ほど届いたばかりのアウレールからの報告の手紙があった。それを灯りも付けていない自身の私室で目を通していたのだ。アウレールはヴィルヘルムがベルンシュタインから寝返ったカサンドラに付けた監視役だ。彼は普段、鴉の一員として彼女の指揮の下、動いている。カサンドラの指揮に従うように命じたのはヴィルヘルムであり、彼女の性情は兎も角としても軍人としての力量や指揮能力は買っていたのだ。
 だが、信用も信頼もしていない。彼女は目的があってヒッツェルブルグ帝国に寝返った。だからというわけではないが、カサンドラは自分の目的を遂行した暁には、自分たちを裏切るであろうことは見ていれば明らかなことだった。それまでは忠実な軍人でいるだろう。けれど、それだけだ。利害が一致している間はいい。けれど、それだけの関係だ。アウレールのように忠実なわけでもなく、カインのように御しやすいわけでもない。だからこそ、利用できるうちは利用するべく、アウレールに監視を命じているのだ。


「……アベルが裏切ったか」


 数年前にとある貴族を捕縛する為に帝都の邸に乗り込んだ時、そこで人以下の生活を強いられていた双子の兄弟を拾った。それはカインとアベルであり、行く宛てのない彼らを城に迎え入れたのは他の誰でもなくヴィルヘルム自身だ。文字の読み書きさえも出来なかった双子に勉強を教え、最低限、生きていくことが出来るようにしようと思ったのだ。
 そうしているうちに二人は助けられた恩に報いる為にと軍に志願した。まだ子どもだからと認めるつもりはなかったのだが、元々魔法の素質を持っていたアベルには制御の方法を教えるとめきめきと上達していき、どういうわけかカインは何処かで召喚魔法を会得してきてしまった。どのようにしてそれを得たのかは知れない。だが、そこで漸くカインは本気で志願しているのだということを理解し、兄が志願するならばとアベルも志願したことでヴィルヘルムも考えを改めて彼らを軍に迎え入れた。
 それからはあっという間だった。めきめき才能を開花させた二人はヴィルヘルム直轄の部隊に編入することとなった。様々なことを命じた。血生臭いことも何度もさせて来た。酷なことをさせていると思うときもあった。だが、徐々にそのようなことを思うこともなく、それに比例するようにアベルから向けられる視線には刺々しさが増していくようだった。


「……兄弟で殺し合うようなことにならなければいいが」


 元々、仲のいい兄弟だったということは知っていた。そういう様子も見てきた。だからこそ、二人が殺し合うようなことにならなければいいとは思う。だが、ぽつりと呟いた言葉はその言葉の内容ほど気遣いに満ちたものではなく、どこまでも淡々としたものだった。
 アベルが裏切ったと聞いても、元よりそれほど驚いてもいなかったのだ。そうなるかもしれない、という予感があったからかもしれない。ベルンシュタインへの潜入任務を任せた時にそんな予感がしていた。アベルはカインほどに御しやすくはなく、自分に恩義を感じているわけでもない。カインがいるから――それだけの理由で鴉にいただけなのだ。だからこそ、裏切られたこと自体はやはりな、と思う程度だった。だが、だからといって捨て置けるというわけでもない。
 アベルは知り過ぎている。ヒッツェルブルグ帝国のことも鴉のことも、これからどのようにベルンシュタインを陥落させようとしているのかも、捨て置くには彼は知り過ぎている。生かしておくわけにはいかない。カインはそれを否とするだろうが、殺すしかないのだ。連れ戻せばいいと考えているかもしれないが、一度裏切った者はまたすぐに裏切るものであるとヴィルヘルムは考えていた。


「一度裏切った者は二度も三度も裏切るものだ」


 ちらりと視線を手紙に向けたヴィルヘルムは忌々しそうに顔を歪めた。そこには、カサンドラの手によってゲアハルトが瀕死まで追い詰められたことも書かれていた。そこまでカサンドラがやれるとは思っていなかったため、最初読んだ時はさすがに驚いたものだが、読み進めていくと元々手負いの状態だったらしい。
 そこまで追い詰めることが出来たのは彼女の策の成果か、運がよかったのかはその場を見ていないヴィルヘルムには分からない。だが、少なくとも今現在、ゲアハルトが死に瀕した状態であり、これ以上の好機がないということは明らかなことだ。すぐにでも全軍を動かす準備をするべき時であろう。けれど、ヴィルヘルムはすぐに動こうとはしなかった。
 彼は今も意識が戻っていないであろう従兄弟のことを考えていた。もう十数年、顔を会わせていない従兄弟の顔を脳裏に思い浮かべる。活躍だけは耳に届いていた。幾度も帝国兵を追い返し、ベルンシュタインを国軍司令官として守り続けていたゲアハルト。その名を聞く度に、ヴィルヘルムは言い知れない憤りと苛立ちに苛まれていた。


「貴様を殺すのはこの私だ」


 呟かれた言葉は微かに震え、手にしていた手紙はぐしゃりと握り締められる。ヴィルヘルムにとって、ゲアハルトは是が非でも自分自身の手で片を付けなければならない相手だ。どうしても、この手で殺してやらなければ気が済まない――彼は秀麗な顔を歪ませる。普段は眉一つ動かさぬほど落ち着いているヴィルヘルムだ。今のこの表情を見た者がいるとすれば、信じられないとばかりに驚きの表情を浮かべることだろう。
 それほどまでに、ヴィルヘルムは普段、自分自身を律している。だが、どうしても、ゲアハルトのことだけは別なのだ。どうしても彼のことを、許すことが出来ないのだ。自分を裏切り、父を裏切り、ヒッツェルブルグ帝国という本来ならば皇帝としてゲアハルトが守るべき国を彼は裏切った。それがどうしても、許せないのだ。
 子どもの頃はとても仲のいい従兄弟同士だった。ゲアハルトは次の皇位に就く者としてふさわしいと思っていたし、そんな彼を支えようと決めていた。支える為に様々なことを学び、剣を学びもした。それこそ、自分たちの父親が互いに支え合っていたように、自分もそうなるのだと信じて疑うこともなかった。
 だからこそ、信じていたのだ。黒の輝石が暴走した後、それを抑えるべく白の輝石を所有しているベルンシュタインに輝石を借り受けにゲアハルトが向かうことになった。そして、その時に約束したのだ。白の輝石を持って、必ず戻ると。その約束を信じて、ヴィルヘルムは彼の帰りを待っていた。だが、何日経とうとも何週間経とうとも、何ヶ月経とうとも、ゲアハルトは戻って来なかった。手紙もなく、いくら手紙を出しても返事さえもなかった。
 何かあったのではと心配にもなったが、確認することも出来なかった。その頃には既に帝国内で飢饉が蔓延し、それを打開するべく周辺国への侵攻が始まっていた。ヴィルヘルムには止めることも出来なかったのだ。黒の輝石が帝国内にある限り、悪天候も飢饉も終わることはなく。どうすることも出来ないのだ。ならば、国を存続させる為には周辺国へ侵攻し、彼らの領土から食糧を得るしかない。生き残る為には他を蹴落とすしかなかった。
 周囲の人間は変わっていった。特に父親の豹変は凄まじいものだった。黒の輝石に直接触れた影響か、気が狂ったかのように交戦的になり、周囲を傷つけ、ついには自身が支えていたゲアハルトの父親であり、自身の兄弟でもある皇帝をも手に掛けた。弑逆して手に入れた皇位なのだ。血に塗れた皇位であり、そしてそれに、今、自分が就いているのだと思うと、吐き気がした。


「……だが、もう戻れない」


 即位したのだ。大小十国の従属国を持つ大陸一の帝国、ヒッツェルブルグ帝国の皇帝となったのだ。戻れるはずもない。戻るつもりも、なかった。目を閉じれば、自分の即位を喜ぶ臣下らの声が聞こえてくる。ヒッツェルブルグ帝国の大陸統一まであと僅か、白の輝石を持つが故に安定した気候と豊かな土地を持つベルンシュタインを手に入れれば、帝国の人間たちの飢えを満たすことが出来る。彼らはそう信じているのだ。
 その為にヴィルヘルムが先頭に立つのだということを、信じて疑っていない。現に、即位式ではそのことを臣下の前で宣言したのだ。ベルンシュタインの豊かな土地を手に入れれば、餓えは満たされる。もう食糧に困ることもなく、雨が降り続くこの土地を離れることも出来るのだと。太陽を殆ど見ることもなく、食糧に餓えている彼らにとってそれは酷く魅力的な言葉だっただろう。
 ヴィルヘルム皇帝陛下、万歳――その声が脳裏に蘇る。それらの言葉が掛けられる度に、臣下らの口から出る度に頭の上から冷水を被せられているかのように心が冷えていった。万歳などと言われる存在ではないのだと、知っているのだ。彼らに口にした言葉は、ただの言葉でしかない。そうしようと思っている言葉ではない。ヴィルヘルムにとって、ベルンシュタインの土地などどうだっていいのだ。
 彼の目的はゲアハルトを手に掛け、そしてこの世界を異界に落とすこと。そうして、全てをやり直すことだけが目的なのだ。ベルンシュタインの土地など、どうだっていいのだ。それ以外に何かあるとすれば、自身の目的を果たす為に邪魔と成り得る白の輝石を手に入れるなり、破壊するなりしたいぐらいだ。


「大陸統一まであと少し、ベルンシュタインの豊かな土地を手に入れ、長年の飢えからの解放を、……か」


 即位式での演説で自身が述べた言葉を思い出す。それを諳んじたヴィルヘルムは鼻で笑うと、手元でぐしゃぐしゃになったアウレールかからの報告書を掌の浮かべた炎で燃やす。燃え滓となったそれを払い落すと、彼は目を閉じて椅子に深く背を預けた。


「世界を異界に落とし、やり直すまでがあと少し、だ」


 自分自身の言葉を訂正し、ヴィルヘルムは唇を歪めて笑った。ゲアハルトを殺してから世界を異界に落とす。それだけがヴィルヘルムにとっての生きる目的だった。自分を裏切った者をこの手で始末する、そのことだけを考えて生きてきた。だからこそ、今はまだ死なれては困るのだ。
 ヴィルヘルムにとって、今の世界は間違いだらけだ。こんなはずではなかったのだ。彼にとって正しい世界にすることこそが、彼の悲願そのものだ。だからこそ、自分が皇帝であることが間違いであり、ゲアハルトを信じていたことも間違いだった。いや、それ以前にそもそも黒の輝石が暴走したことが間違いだった。これらの間違いを正さなければならない。そうでなければ、自分の思い描いていた未来を掴み取ることは出来ない。否、これまでの自分の努力も何もかもが実を結ばない。それがどうしても許せないのかもしれない。否、輝石によって狂わされた父親のことが不憫でならないのかもしれない。
 様々な思いが胸を去来する。だが、どれが正しく、どれが間違いであり、どれが自分の本当の願いなのか――既にヴィルヘルムには分からなかった。ただ、早く楽になりたいという思いだけは自分の中に強くあることは確かだった。楽になりたい。それがどういうことなのかは分からない。目的を達することで楽になりたいのか、死んで楽になりたいのか。それとも、ゲアハルトへの憎悪に満ちたこと心を捨て去ることなのか、彼を手に掛けるという生きる目的を達成することで楽になりたいのか。分からない。分からないからこそ、もう前に進むしかなかった。
 聞き慣れてしまった雨音に耳を傾けながら、ヴィルヘルムは暫しの眠りに落ちた。 






「一体何の為に貴方を此処に残したと思っているのよ!」


 甲高い叫び声と共にカサンドラは手を振り上げる。その手は血で染まり、彼女の足元にはぐったりとして動かない黒い塊――ブルーノがいた。周囲にはベルンシュタイン領の北方の森の中の隠れ家に詰めていた帝国軍の兵士らが遠巻きにしていた。誰もが関わり合いになりたくないとばかりい視線を逸らしている。誰もブルーノを助けようとはしなかった。
 カサンドラはアベルがアイリスを連れて逃げ出したという報告を聞いてすぐ、王都ブリューゲルの隠れ家を出立した。そして、丸一日掛けて明け方に差し掛かったついさっき、到着したばかりなのだ。そして、到着するなり、ブルーノに手を上げ続けていた。苛立ちをそのままぶつけているかのようなその行動は凄惨であり、彼女の手だけではなく、床も血でどす黒く染まっている。
 それでもまだ、ブルーノの息はあった。微かに震えるその背中を蹴り転がし、カサンドラは冷え冷えとする彼女の手を染めている血と似た色の瞳を細めた。そして、淡々とした声音で「一体何をしていたのよ」と口にする。


「アベルが裏切るかもしれないってことは分かっていたことじゃない。だから、貴方を置いて行ったのよ?」
「……」
「ねえ、貴方のその失態の所為で、南の作戦が失敗するかもしれないじゃない!」


 一体どうするつもりなのよ、とカサンドラはブルーノの背を踏みつける。爪先で踏み躙りながら、「私はゲアハルトを倒したのに、貴方の所為で手柄が台無しじゃない」と微かに震える声で言った。確かな手柄なのだ。これ以上ないほどの手柄と言ってもいい。それにも関わらず、ブルーノの失態によって手柄に泥を塗られたのだ。
 まだヴィルヘルムにアベルの裏切りについては報告していないものの、兎に角、すぐにでも彼を見つけ出す必要がある。だが、既に隠れ家に詰めていた半数の兵士は白の輝石を確保するべく、王都に向かってしまっている。隠れ家に残っている兵士だけでアベルとアイリスを見つけ出すには、あまりにもベルンシュタインの領土は広い。しかし、二人の目的地が王都ブリューゲルであるということは分かっているため、ある程度、移動経路を絞ることは出来る。だが、さすがにそれら全てに兵士を割り振ることは出来ない。
 カサンドラは苛立ちに満ちた目で背を丸めて咽込んでいるブルーノに対し、足を振り上げた矢先、「やめて!」というまだ少し高い少年の声――カインの声が聞こえた。突然の闖入者にカサンドラは声が聞こえた方へと視線を向ける。そこには顔を青くしたカインが立ち尽くしていた。


「止めてよ、……カーサ」
「邪魔しないで頂戴、カイン。これは仕置きよ」
「でも……でも、もう十分だよ。これ以上は……!」


 普段、アベル以外に興味を示さないカインの予想外の言葉にカサンドラは僅かに目を瞠る。一体どういう風の吹き回しなのだろうかとさえ思えてならない。それほどまでに、彼がブルーノを庇うことは予想外だった。捨て置くだろうと思っていたのだ。興味を示さず、ただ、アベルに裏切られたことを信じられず、部屋に閉じこもっているか飛び出していくか、そのどちらかだろうと思っていたのだ。
 そこまで二人は親しかったのだろうかとも考える。だが、カサンドラには心当たりがなかった。尤も、彼女自身、二人に対してそれほど興味があるというわけではない。カインのことは可愛がってはいたが、それも他と比べて、というだけのことだ。彼女にとって興味があるのはただ一つ、ギルベルトのことだけだ。


「アベルの居場所はヨルに探させてる、すぐに見つかるよ」
「そう……ヨルムンガンドに」
「うん、ヨルの眷属を使って探してるところ。だから……!」
「いい報告を待ってるわ」
「カーサ!」


 カインが既に手を打っているのならば、アベルとアイリスの行方を掴むことが出来るのも時間の問題だろう。だが、それとこれとは別だ。カインが契約している召喚獣であるヨルムンガンドに命じてその行方を探しているとしても、ブルーノの失態が帳消しになるというわけではない。容赦なく足を踏み下ろすと、ブルーノの呻き声が聞こえて来る。途端にカインの批難するような声が聞こえて来る。
 しかし、それを無視して横たわり震えているブルーノを蹴り転がせば、それ以上はやらせないとばかりに間にカインが走り込んで来た。今までとはまるで違う彼の様子に違和感を覚えながら、「邪魔をしないで」と柳眉を寄せながら言う。だが、カインは首を横に振った。


「これ以上は駄目だよ!ブルーノが死んじゃう、」
「死なないわよ」
「死んじゃうよ!」
「それはそんなに弱くないもの。ほら、見てみなさい」
「……え」


 カサンドラは自分を顔を歪めて睨みつけてくるカインから視線を外し、彼の後ろに倒れているブルーノに視線を向けた。そして、倒れ込んでいる彼の、いつも目深に被っているフードが捲れ、露になった頭部を見たカインは目を大きく見開いた。信じられないものを見たとばかりに目を見開いて言葉を失う彼を横目にカサンドラは冷たい視線を向けて微かな笑みを浮かべた。


「ブルーノは簡単には死なないわ。……だって、彼はね」


 視線の先にはフードが捲れて露になったブルーノの頭部――そこにある、本来なら人の身体に存在するはずのない形状をした三角の耳があった。猫を思わせるような形をしたそれは時折ぴくりと震えている。


「私が創ったキメラだもの」


 カサンドラのその一言に周囲にいた兵士らも驚きを隠せないでいた。だが、誰も大声を出すこともなく、小さな声が互いに囁き合っているのは、そのようなことをする彼女の目に止まりたくはないだろう。キメラがどういうものであるのか、正しく理解している者がこの場にいるとは思えない。だからこそ、彼らは恐ろしかったのだ。人の姿を作り変えてしまうような、そんな悪魔の所業を平然と行ったであろうカサンドラのことが、心底から恐ろしくてならなかったのだ。


「黒の輝石を使って二つの魂を一つの身体に宿し、混ぜ合わせて創り上げた存在。それがブルーノよ。彼はね、人と猫のキメラなの。何度も何度も実験をした上で漸く完成したこの世に存在するたった一体のキメラよ」
「……っ」
「でもね、まだ完成ではないの。薬を飲まないと人型を保っていられないのよ」


 そこは失敗ね、と言いつつ、カサンドラは微かに震えている猫の耳に視線を向けた。この姿であるからこそ、ブルーノは鴉に籍を置いているのだ。人ではなく、猫でもなく、そのどちらにもなることが出来る存在。それは諜報活動にしろ、暗殺にしろ、とても有効なものだ。現に彼は猫の姿でライゼガング平原での戦いの際にベルンシュタインの当時の国王であったホラーツの寝所に潜入し、彼の暗殺に成功している。また、エルザの王立美術館での公務の際にも挨拶をしている彼女のすぐ近くにシャンデリアを落としたこともブルーノに命じてやらせたことだ。猫の姿でなければ、とてもではないがシャンデリアまで到達することは出来なかっただろう。
 思えば、彼はよく働いてくれているとも思う。だが、今回のことを不問にすることは出来ない。だが、そろそろ仕置きを止めてやろうかと思いつつ、カサンドラは愕然としているカインや周囲の兵士らに向けて口を開く。


「これこそが私の研究の集大成。けれど、まだ完成していないのよ。協力してくれるっていうのならいつでも言って頂戴ね」


 その言葉に兵士らは身体を竦み上げると一目散に部屋から逃げ出し始めた。それらを興味なく眺めながら、カサンドラは目を細める。実験をしようにも黒の輝石が手元にはないのだ。出来るはずもないだろう、と内心思いながらも、彼女は同時に焦りも感じていた。
 時間がないのだ。それにも関わらず、一応成功した存在はブルーノただ一人しかいないのだ。だからこそ、出来ることならもっと多くの実験がしたいところではある。しかし、今回のブルーノの失態でそれも難しくなった。黒の輝石は以前と変わらず自身の手から遠のいた場所にある。それでは駄目なのだ。それでは、ベルンシュタインを裏切った意味がない。研究して来た意味がないのだ。
 カサンドラには時間が残されていない。どうしても、黒の輝石を手に入れなければならないのだ。そうでなければ、ギルベルトを蘇生させるという彼女の悲願は成就させることが出来ないまま、彼の身体が腐敗するという最悪の結末を迎え、潰えてしまう。それだけは避けなければならないことだった。今はまだ魔法で腐敗を遅らせることは出来てはいるものの、それも時間の問題は。永遠に腐敗を遅らせるということは出来ない。二年ほど保っていること自体、奇跡に等しいのだ。


「……っ」


 ブルーノへの苛立ちが込み上げて来る。その苛立ちのままに手を振り上げるも、「カーサ!やめて!」というカインの悲鳴にも似た声が響き、それと同時に腕を掴まされてしまう。子どもだと思っていた相手だったが、腕を掴む手の力が存外強く、ブルーノを打つことも出来そうになく、カサンドラは顔を歪めて舌打ちすると、強引に手を振り払った。
 そして、「……アベルの行方が分かったらすぐに知らせなさい」とだけ言い置くと、背を向けて歩き出した。これ以上、ブルーノを痛めつけたところで意味はない。ただの苛立ちの捌け口でしかなく、死んでもおかしくはない。失態を犯した彼のことは憎いものの、兵力を失うわけにもいかない。まだブルーノの力は有用なのだ。そう言い聞かせて自分の怒りを鎮めつつ、カサンドラは足早に自分の部屋として使っている部屋へと向かった。
 時間がない。焦りだけが募っていく。彼女は部屋に辿り着くなり、扉を閉めるとそこに凭れかかって深い息を吐き出す。どうしても、蘇生したいのだ。そして、もう一度、やり直したい。自分のことだけを愛してくれる彼が欲しい。その為だけに、自分が今、この場にいるのだとカサンドラは唇を噛み締め、その場に座り込んだ。


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