代償 - regret -



 秋も終わりに近づき、日没も早くなって来ている。茜色の夕焼けが窓から差し込む中、アイリスはアベルと共に国境連隊の詰所に戻っていた。迎えが来るまで自由に使っていいと言われた小部屋のソファに並んで腰かけているのだが、どちらも口数は少なかった。扉のすぐ向こうには警備の兵士がいるということも口数を減らす原因にはなっているのだろうが、それ以上に、気まずさがあった。
 酷いことを言ってしまったとアイリスは視線を伏せた。アベルにベルンシュタインに戻れと言ったことを後悔しているわけではない。戻って来て欲しいということは本心からの言葉で他意はない。だが、彼がベルンシュタインに戻って来るということは兄であるカインと袂を分かつということであり、裏切りだ。つまり、アベルに兄を裏切って欲しいと言ったようなものなのだ。
 勿論、そういうつもりで言ったわけではない。だが、結果的にはそういうことだ。酷いことを言ったという自覚はあり、そのことに対しては申し訳なさもある。けれど、後悔だけはないのだ。どうしても、アベルに戻って来て欲しい――それは生きて再会した時からずっと思っていたことだ。


「……誰だろうね、迎えって」
「……さあね」
「……」


 手を離したくはないのだと訴えた時、アベルは何も言わなかった。何も言わずに顔を伏せ、そのまま立ち尽くしていた。その後、後を追って来た国境連隊の兵士らに発見され、促されるままに詰所に戻って来たのだ。その時もアベルの手を離さなかったのだが、彼は拒むことも受け容れることもしなかった。ただ、少なくとも本当に嫌ならば問答無用で振り払って走り出していたであろうことは想像に難くなく、このことからも決して否定的ではないということは窺えた。
 それだけで十分と言えば、十分だ。一度に多くのことを望むつもりはなく、兎に角、ベルンシュタインに戻ることに否定的でないだけ有り難かった。だが、ここからが大変なのだ。アベルはベルンシュタインを一度裏切った身だ。とは言っても、元々は帝国軍から差し向けられた間者であり、裏切ったというよりは任務を果たして元の所属である帝国軍に戻った、ということが正しい事柄だ。だが、誰もがそのように理屈で物を考えているわけではない。
 少なからず騎士団の兵士や軍令部の人間など、アベルが間者であったという事実が知っている者には裏切り者であると考えられ、それがいつどのようにして彼らの口から出るとも知れない。そのことを思えば、アベルを王都に連れて行くべきではないのかもしれないとも思う。だが、その選択肢は口に出すよりも前に既に破棄されていたものだった。
 気まずい空気が流れる。時折、口を開いてもアベルからは返事らしい返事はなく、ぼんやりとしている様子だった。普段ならばちらちらと視線を向けようものなら、目を半眼にして不機嫌そうに何なのだと言われる。しかし、今はそれもなく、視線さえも合わない。やはり、強引過ぎただろうかと考えながら口から出そうになる溜息を胸の中に押し留めているとそれまで静かだった室内に扉の向こうから聞こえる靴音が届いた。慌ただしい靴音が耳に届き、アイリスが伏せていた視線を扉に向けると同時に勢いよくそれは開け放たれた。


「アイリスっ」


 部屋に駆け込んで来たのはレックスだった。相当急いで馬を飛ばして来たらしく、髪は乱れて息も上がっている。その様子にアイリスは目を見開いていると、駆け寄ってきた彼に痛いほど強く抱き締められた。いきなりのことに驚くも、それ以上に伝わって来る体温とよかった、本当によかった、と聞こえて来る掠れた声に目頭が熱くなった。
 帰って来たのだということを実感した。視界の端に揺れる赤髪を見て、抱き締められる痛みに、帰って来たのだとアイリスは唇を噛み締めて漏れそうになる嗚咽を押し殺すとレックスの胸に顔を押しつけた。ゆっくりと頭を撫でられる。その感触に堪えていた涙が零れた。
 酷いこともされず、ただ閉じ込められていただけだ。食事だって与えられていた。捕虜としては十分すぎるほどの待遇だっただろう。その上、アベルが助けてくれたのだ。この街に辿り着くまでもずっと気遣ってくれていた。必ずベルンシュタインに帰すとも言ってくれていたのだ。だから、平気だと思っていた。怖くはない、何ともない――そう、思っていたのだ。
 けれど、違った。本当はそう思い込もうとしていただけのことだ。本当は心細かったし、怖かったのだ。怖くて怖くて、これからどういう目に遭うのかと想像するだけで身体が震えた。もう大丈夫なのだと思っても、やはりそう簡単には気持ちを切り換えることは出来そうになかった。


「もう大丈夫だからな、アイリス。……アベルも、無事でよかった」


 身体を離すと、レックスは鼻をぐすりと鳴らしているアイリスの頭を軽く叩き、視線を逸らしていたアベルの方を向いた。その口振りはまるで最初からアベルが彼女を助けて戻って来ると分かっていたようなものだった。それに気付いたらしく、彼は居心地が悪そうに視線を逸らし、口を開こうとしない。だが、レックスは少しも気を悪くした様子もなく、苦笑いを浮かべて肩を竦めて見せた。
 そして、手を伸ばすとぐしゃぐしゃと「ちょ、止めてよ!」というアベルの言葉を無視して頭を撫でまわす。とうとう堪え切れずに彼が手を叩き落とすと、レックスは「お前だって相当無茶して来たんだろ」と言って半ば強引に頭を掴んで顔を自分の方に向かせる。


「だから、無事で安心した」
「……別に、あんたの為じゃない。あそこでこの子を見捨てたら夢見が悪いからだよ」
「だとしても、だ。夢見云々程度のことで動くようなお前でもないだろ」
「……」


 夢見が悪い程度で済むのなら見捨てればいいだけのことだ。アイリスを助けることの方が余程リスクがある。それは明らかなことだった。だが、それでもアベルはアイリスを選んだ。リスクを取ってでも、彼女の助けることを選んだのだ。それを夢見が悪いといった理由で片付けることが出来るわけもない。
 アベルは頭を掴んだままのレックスの手を振り払い、視線を伏せた。一度は剣を交えたのだ、褒められても気遣われても、それを素直に受け入れることは難しいのかもしれない――アイリスは柳眉を寄せているアベルの横顔をちらりと見遣り、口を閉ざした。


「兎に角、王都に戻ろう。馬車の準備も出来てる」
「待ってよ、僕を捕縛しないつもり?」
「ああ」
「馬鹿じゃないの。分かってる?僕はルヴェルチを殺して……ううん、それよりも前からずっと、あんたたちのことを裏切ってたんだよ」
「だとしても、お前は逃げないよ」


 この期に及んで逃げるようなことはしない。
 レックスはごく平然とした様子で、当たり前のように口にした。アベルがこれまでにしたことを思えば、捕えられて然るべきだ。拘束せずにいるなんて有り得ないのだが、それでもレックスはそうしようとはしなかった。逃げない――それはアベルのことをよく知っているからこその確信なのだろう。
 アイリス自身、アベルに逃げる気はないということは分かっていた。雑踏に消えようとしていた彼の手を握った時に、きっともうそんな気は失せたのかもしれない。アベルはレックスを見上げて信じられないという顔をしていたが、それでもすぐにこの場を離脱しようとはしなかった。やろうと思えばいつだって出来たのだ。アベルにしてみれば、アイリス一人をどうにかして逃げ出すことなんて容易なことだ。けれど、何時間もの間、隣に腰掛けて彼は動こうとしなかった。そのことからも、共にベルンシュタインに戻る気であるということは明らかだった。


「……馬鹿だよ、あんたたちは。本当に馬鹿で阿呆で……甘すぎるよ」


 絞り出すようなその声は微かに震えていた。顔を伏せるアベルからそっとアイリスは視線を逸らした。小さくしゃくり上げる声がする。本当は彼も、戻って来たかったのかもしれない。自分で壊したからと、戻れるような立場じゃないのだとアベルは何度も言っていた。けれど、その度に、本当は戻りたいのだと、帰りたいのだという本音が聞こえていたような気もする。
 自分の手ではもう戻れないからこそ、本当はずっと手を伸ばし続けていたのかもしれない。それはもしかしたら自分に都合のいいように捉えているだけかもしれない。だが、それでもよかった。こうして彼が涙を流しているということは、罵倒はしても帰りたくはない、戻りたくはないのだと否定しないということは、きっと本当は――と思えたのだ。そのことだけが分かれば、アイリスもレックスも十分だった。
 アベルが落ち着いたところでレックスに促されてアイリスは国境連隊の詰所を出た。数時間ではあるものの、身を守るべく警護していたことを感謝し、彼女らは用意されていた馬車に乗り込んだ。ゆっくりと動き始める。王都までは騎乗することになるとばかり思っていたため、こうして馬車に乗れて内心ほっとした。


「迎えに来るのが遅くなって悪かった。伝令自体は昼には到着してたけど、即位式の最中で抜けられなくて」
「レオ、即位したんだ……」
「ああ。立派な即位式だった」


 申し訳なさそうに言うレックスの言葉に首を振りながらも、レオの即位式に間に合わなかったことを残念に思う。もう少し先だとばかり思っていたのだが、どうやら自身が誘拐されたことによってゲアハルトが万が一も想定して即位式を速めたらしい。カサンドラらが未だ動いているのだということが自身の件で明らかになった以上、即位を前倒しすることも妥当な判断だと思った。参列出来なかったことは残念ではあるが、レオが無事に即位出来たということが分かっただけでもよかったとアイリスは安堵する。
 だが、他にも色々と気掛かりなことはある。ゲアハルトのこと、エルンストのこと、共にアルバトフ邸に行ったアルヴィンのことなど山ほどあった。けれど、レックスはそれらの話を避けるように視線をアベルに向けると「あのさ」と口を開いた。


「多分、王都に着いたらお前は捕縛されることになると思う。ただ、お前が知ってることを全部話せば恩赦で罰も軽くなるはずだ」


 レックスが口にしたのは王都に着いてからのことだった。レックスが言うには、アベルがアイリスを連れて戻って来たということはまだ知られていないらしい。ただ、伝令から黒髪の隻眼の少年と共に詰所に来たという話を聞いてそれがアベルであるということにレックスは気付くことが出来たのだという。
 まだ、アベルが帝国の内通者であったということは公にはされていない。けれど、アベルが生存して実は内通者だったという噂は既に流れているのだとレックスは視線を伏せた。元々、アベルはルヴェルチの推薦で入隊したのだ。そのルヴェルチがベルンシュタインに反旗を翻したことが明らかな以上、アベルにも疑いの目は向けられる。彼自身はライゼガング平原での戦闘において生死不明という扱いにはなっているのだが、彼の姿を見た者がいたらしい。
 王立美術館でもアイリスの前に姿を現しているのだ。その時に誰かに見られていたのか、それともルヴェルチ邸での戦闘において見られていたのか、その場に居合わせた者が誰かに漏らしたのか――どれだけ彼が身辺に気を遣っていたとしても、誰にも見つからずにいるということは難しいということであり、人の口に戸は立てられないということなのだろう。


「……分かってるよ」
「アベル……」
「いいんだ、もう決めたことだから」


 戻って来て欲しい、帰って来て欲しいんのだと懇願したのは他の誰でもなくアイリス自身だ。だが、やはり申し訳なさはある。アベルは優しいのだ。その優しさに甘えて、自分の我儘で彼にとっては大切なカインさえも裏切るようにと言ったようなものなのだ。気にしなくていいと言われても気にせずにいられるわけもない。
 だが、いつまでも気にしているわけにもいかないということは分かっている。アベルは決めたのだ。ならば、それを願った自分が後悔するべきではなく、うじうじと悩むべきでもないのだ。エゴを押し通した自分に後悔することも悩む資格もないのだから。だからこそ、アイリスは一度視線を伏せて深呼吸した後に顔を上げると、「帰って来てくれてありがとう」とだけ口にした。
 これから先、どのようなことが待っているかは分からない。アベルにとっては辛くて苦しいことばかりかもしれない。それでも、自分が彼の為に出来ることがあるのなら、それを精一杯することが戻ることを選んだ彼の為に出来る唯一のことなのだとアイリスは僅かに目を見開いた後に、すぐに視線を伏せたアベルを前にして思った。
 そうしているうちにも馬車は走り続け、王都が間近に迫った頃、そろそろゲアハルトやエルンストのことを聞いておかなければとアイリスは視線をレックスに向ける。恐らく、馬車はこのまま軍令部に直行することになるだろう。だから、その前にある程度の状況を把握しておきたかったのだ。だが、口を開こうとした矢先――唐突に馬が嘶き、棹立ちになって馬車は急停車した。


「……っ」
「大丈夫?」
「おい、どうした!」


 馬車が急停車した勢いでアイリスは体勢を崩す。それをすかさずアベルが支え、レックスは馬車を下りて御者を務めていた兵士に声を掛ける。だが、いくら待っても返事はなく、レックスは腰の剣に手を伸ばしながらも注意深く警戒しつつ馬車を下りた。それに続いてアイリスも降りようとするが、「あんたは此処にいた方がいいよ」とアベルが腕を掴んで止める。
 下手に外に出るべきではないと暗に言われ、アイリスは出て行ったレックスの身を心配しながらも座り直す。だが、すぐに「アイリスっアベル!」と外から緊迫した雰囲気のレックスの声が聞こえて来た。その声音に顔を見合わせた二人はすぐに馬車を飛び出した。そして、ぐったりとして動かなくなっている御者役の兵士の眉間に刺さった矢を見遣り、アイリスは言葉を失った。


「お前たちはすぐにこの場を離れろ。迂回して別の門から……いや、すぐに街に戻って国境連隊の奴らに保護してもらえ」


 装備を外した馬を連れ、レックスは早くしろと促す。その間も忙しなく視線を方々に向けている。どうやら弓の射手を探しているらしい。そのことにアイリスは顔を青くした。要は自分たちを殺す為に放たれた追手が追い付いたということである。まさか今追い付くとは思いもしなかったのだ。フェンリルが違う方向にカインを誘導することになっていたが、それが見破られたのだろうかと思い視線を向けるも、アベルは分からないとばかりに首を横に振った。


「ほら、早く!」
「でもそれじゃあ、レックスがっ」
「オレのことはいいから。アベル、お前が」
「あんたたちが行きなよ、此処には僕が残るから」


 そう言うと、アベルはアイリスの腕を掴んで引き寄せると強引に馬に乗せようとする。「お前を残して行くなんて出来るわけないだろ!」とレックスは声を荒げるも、アベルは落ち着き払った様子で僕なら大丈夫だと主張する。追手はヒッツェルブルグ帝国の人間であり、どう動くかもよく分かっている。だからこそ、自分に任せるのがいいのだと譲ろうとしない。
 だが、追手に出ている者がカインである可能性が高い以上、アイリスはアベルを残すなんてことはしたくなかった。二人は兄弟なのだ。たった一人の家族なのだとも言っていた。そんな相手と殺し合うなど、アベルにはして欲しくなかったのだ。この期に及んで甘いことを言っているという自覚はある。けれど、それだけはして欲しくなかったのだ。
 かと言って、レックスを置いていくこともしたくはない。誰か一人を置き去りにすることの辛さも苦しさも、それらがどれほどのものであるのかは重々分かっているのだ。そのような思いをもうしたくはなかった。それはアベルが残ると言ったときにすぐに却下したレックスも同じ気持ちなのだろう。けれど、誰かがこの場を食い止めなければならないことは明らかだ。既に此方に向かって来ている人影が遠目に見えている。もたもたしている場合ではないのだ。それが分かっている、けれど――と焦りだけが募る中、唐突に「ああもう!」とレックスが声を上げた。


「わっ!」
「とっとと二人で逃げろって言ってるだろ!」


 声を荒げると、レックスは強引にアイリスを馬に乗せると力任せにアベルも馬上に押し上げる。「やめてよ!」とアベルが批難の声を上げるも、それもどこ吹く風といった様子で意に返さず、半ば強引に手綱を持たせると「オレは命令を受けて迎えに来たんだ」と表情を引き締めて言う。


「何があってもお前ら二人を連れ帰るようにって」
「そんな……っ、だからってあんたが戻らなきゃ意味ないでしょ!?」
「オレが負けるわけないだろ。ほら、早く行け!」


 そう言うなり、レックスは乱暴に馬の尻を叩いてしまう。馬は一度嘶くと、騎乗している二人のことを忘れたかのように走り出してしまった。アイリスは堪らずレックスの名前を呼びそうになるものの、「舌噛むから黙って!」と早口にアベルに注意されてしまう。舌を噛む痛みは誰より知ってるということもあり、アイリスは慌てて口を閉じる。
 けれど、不安だった。今度はレックスが戻って来ないのではないか、と。それでも、今は逃がしてくれた彼の為にも無事に逃げ切らなければならない。アベルが手綱を引いて馬を操る中、アイリスはレックスの無事を祈った。






 





「ったく、あと少しの距離だっつーのに」


 あともう少しだった。門まであと少しの距離だったのだ。だが、王都内で仕掛けられるよりかはまだマシだったかとも思い直す。王都内で仕掛けられれば市街戦になり、すぐに応援は駆け付けるだろうが周囲の住人に被害が出る可能性が高い。応援が来る分には有り難いものの、だからといって一般人に被害を出していいわけがない。
 それを思うと、門の外だったことは不幸中の幸いだとも思う。しかし、応援は来ないだろう。つまり、自分一人でこの場を切り抜けなければならない。もしかしたら、それ自体は難しいことではないのかもしれない。今此方に向かって来ている刺客たちは恐らく、アイリスやアベルの口封じの為に差し向けられているはずだ。彼らが既にこの場を離れている以上、自分には見向きもしないかもしれない。
 命が助かるという意味ではそれは有り難いことだが、それでは駄目なのだ。二人を逃がす為には、少しでも長く刺客を引き付けておかなければならない。無論、差し向けられた刺客が今この場に姿を見せている者だけとは限らない。他の門にも潜んでいるかもしれないのだ。自分がこの場で引き付けることもただの時間稼ぎに過ぎないかもしれない。
 だが、仮定してばかりいるわけにもいかない。状況が状況なのだ。今自分がすることを正しいと信じて剣を抜くしかない。レックスは自分自身を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。そして、すらりと剣を抜き出し、向かって来る刺客らを一瞥し、僅かに目を見開いた後に口元を歪めて笑った。


「まさか、こんなに早くまた会えるなんてな」
「……あの時の男か」


 向かって来た刺客らの真ん中――率いていた男は、まさに先日、邂逅した仇だった。仇――アウレールもその場に残っていたのがレックスだったことに気付くと、僅かに表情を動かした。だが、すぐにまた表情は消え去り、ぐるりと周囲を見渡す。既にアイリスとアベルが逃げ延びたことを確認すると、「やはり御者よりも馬を狙わせるべきだったか」とぽつりと呟く。
 その言葉から、馬車に誰が乗っているかも知らなかったのかもしれない。ただ、軍用の馬車であったが為に御者を殺して馬車を止めたのか――ならば、あまりにも無差別過ぎるだろう、とレックスは眉を寄せる。だが、目の前の男が任務遂行の為ならば容赦なく街に火をかける男であるということはレックス自身、よくよく分かっているということもあり、それ自体には特に驚きもしなかった。


「お前を追っていれば白の輝石に辿り着くかと思ったが……当てが外れたか」
「何だと」
「まあいい。アベルとアイリス・ブロムベルグの口封じも任務の内だ。行くぞ」
「待てよ、そう簡単にオレが行かせると思ってるのか」


 当てが外れた、という言葉にレックスは眉を寄せた。てっきり、アベルとアイリスを口封じする為に馬車を狙ったのかとばかり思っていたが、どうやらそういうわけではなく、レックス自身を狙ったかのような口ぶりだった。まるで自分が白の輝石を回収すると見越して泳がせ、王都に戻るところを襲撃した――というように、アウレールの言葉から窺える。
 しかし、実際にはレックスは白の輝石ではなく、国境連隊からの連絡を受けてアイリスとアベルの保護の為に向かったのだ。だが、彼らにしてみれば、それはそれで問題はないのだ。レックスが白の輝石を回収したにしろ、アイリスとアベルを保護したにしろ、どちらにしろ狙っているものに変わりはない。
 白の輝石をレックスが回収したと彼らが考えている以上、現在行方知れずとなっている――つまり、ゲアハルトが何処かに隠しているということが分かる。彼らが探しているということは現時点では白の輝石も無事ということでもある。ゲアハルトが意識不明であり、エルンストとも面会が出来ない今、白の輝石の行方が気掛かりであったということもあり、レックスにしても思わぬ収穫を得ることが出来た。
 だが、今はそれ以上にアウレールらをいかに足止めするのかが問題だった。敵の数は率いているアウレールを含めて五人。一人で相手をするには少々厳しい人数だ。その上、彼らは王都の方面からやって来た。つまり、この場から最も近く、そして、発見してくれるであろう門番は既に殺されていると考えた方がいい。交代の門番が来てくれれば騎士団も何事かと動き出すかもしれないが、こればかりは運次第だ。
 状況は厳しい。だが、それでも逃げるわけにもいかない。この場で逃げれば、アイリスとアベルに追い付かれてしまう。けれどそれ以上に、自分の矜持がそれを許さなかった。仇を前にして二度も背を向けることなど、出来るはずもない。一度目は致し方なかった。だが、今はそうではない。アイリスらを逃がす為に足を止めるという名分もある――思う存分、剣を振るえる好機なのだ。


「……貴様こそ、たった一人で我らに勝てるとでも思っているのか」
「勝ち負けの問題じゃない。オレはお前らを行かせるわけにはいかない、お前を許すわけにもいかない。ただ、それだけのことだ」


 剣を向け、レックスは言い放つ。勝ち負けの問題ではないとは言っても、勿論、勝ちたいとは思っている。だが、今はそれよりも仲間の方が大事だった。それと同時に、そう思えることにも安堵した。仲間よりも自分の復讐を優先しようとする自分の恐ろしさを前回感じもしたのだ。そうなっては終わりだとも思った。だからこそ、今、安堵もしていた。
 けれど、そう思う心の何処かで、目の前の仇を今すぐこの手で殺したいとも思っていた。腕に刻まれた黒い鳥の刺青を見ていると、ちり、と胸の奥が焼けつくような感覚に襲われる。だが、それには気付かぬ振りをしてレックスは目の前の仇を睨みつけた。


「……いいだろう。相手をしてやる」
「しかし、アウレール様!」
「お前たちが二人を追え。逃がすな、必ず殺せ。カサンドラの命令だ」
「りょ、了解しました!」
「おいっ!」


 馬車の馬に飛び乗り、帝国軍の兵士らがアイリスとアベルが逃げた方向へと駆け出し始める。咄嗟にレックスが追い掛けようとするも、それを阻むようにアウレールが帝国軍の兵士とレックスの間に滑り込んだ。形勢が逆転してしまった。最初はレックスが彼らを足止めしようとしていたが、今はアウレールに足止めされてしまっている。そのことに舌打ちするも、仇を討つ為の舞台としてはこれ以上ないほどに整ってしまっている。そのことに気付くと、胸の奥を焼く焦燥感が込み上げて来る。


「……仇は取らせてもらうぞ」
「……」
「お前が何も、オレのこともクナップの街のことを覚えていなくても、オレは覚えてる。何が何でも、お前を殺して仇を取る!」


 剣を構え、レックスは駆け出す。今はもう、目の前の仇のことしか頭になかった。先ほどまで、仲間のことを慮る余裕があることに安堵していた気持ちは既に消え失せ、ただただ、目の前の仇を殺し、復讐を遂げることを最優先に考えてしまっている。それ以外のことが、黒く塗り潰されていくようだった。
 憎しみを糧に剣を学んだ。歳を経るごとに落ち着きもしてきたが、それでも事あるごとに亡くした家族のことを思い出しもした。その度に胸が疼いたのだ。復讐したい、家族の恨みを晴らしたい、と。


「どうせ覚えていないだろうけど、一つ聞きたいことがある」
「……何だ」


 剣をぶつけ合い、金属音が響き渡る。力が拮抗し、かちかちと微かな金属音が耳に届く中、レックスは押し殺した声で目の前にいる仇に声を掛けた。どうしても一つだけ、確認しておかなければならないことがあった。それは殆ど確認に近い状態にあるものの、レックスは敢えてそれをアウレールにぶつける。


「二年前、お前はオレの街にしたのと同じように、別の街を焼き払ったか」
「……二年前」
「ああ。南方の街だ、ローエという……クラネルト川下流域にある街だ」
「……ああ、あの街か」


 そういえばそういうこともしたな、と言わんばかりの様子でアウレールは頷いて見せた。その様子にレックスは目を見開くと、歯を食い縛る。そして、後方に飛び退って一旦距離を取った後に再び地面を蹴り出して肉薄する。一際、鋭い金属音が響き渡り、その一撃を受け止めたアウレールも剣に籠る憎悪の深さに僅かに眉を寄せた。


「お前が、あの街を……ローエを焼き払った所為で……アイリスはっ」


 同じ手法だったのだ。街の人々を追い詰めて火を放つその手法が、クナップの時と同じだった。だからこそ、もしかしたらとは思っていたのだ。もしかしたら、自分の家族を奪った黒い鳥の刺青を持つ男が、ローエの街に火を放ったのではないのか、と。そして、それは今この場で、火を放った本人によって認められた。
 あのようなことがなければ、アイリスが軍に入隊することもなかった。攫われて傷つけられるようなこともなかった。泣くこともなかった。今も孤児院で、幼い子どもたちを守り、育てて、きっと穏やかに暮らしていたはずだ。戦争とはかけ離れた、優しい場所にいたはずなのだ。それを、血で血を洗う戦場に引きずり込んだのは他の誰でもなく、目の前の男の所為だ。
 戦場に立つことを彼女は自分で選んだのだと、後悔はしていないのだと言うかもしれない。けれど、レックスにしてみればそうはいかない。孤児院が、街が焼け野原になるようなことがなければ、アイリスが軍に入隊することを選ぶはずがないのだ。そうする理由もない、軍人と関わることもなければ、彼女に魔法の素養があることだってきっと死ぬまで分からなかったはずなのだ。
 そうして生きていって欲しいと思っていた。孤児院で、穏やかに生きていて欲しいと。たったそれだけだった。それだけの願いだったのだ。自分の居場所でもあったあの場所を守りたくて、そこで生きる彼女を守りたかったのに――それを壊したのは他の誰でもなく、自分の家族を奪った人間だった。


「何度……何度、オレから奪えば気が済むんだ……っ」
「……」
「オレから、何度……大事なものを奪って、傷つけたら気が済むんだ、お前は!」


 レックスは力で押し切ると、一気に距離を詰めて斬りつける。それをアウレールも捌いていくものの、勢いはレックスの方が上である。少しずつ刃先がアウレールの身体を傷つけていく。その血が流れる様を見ると、昂揚した。
 だが、そんなレックスとは正反対にアウレールは酷く落ち着いた様子だった。じっと目前に迫る彼を見遣り、何かを見極めようとしているかのようだった。そして、防戦一方になっていたアウレールが後方へと距離を置く。レックスはすぐさま追撃しようとするも、寸前のところで足を止めて警戒するように剣を構える。雰囲気が変わったのだ。


「……そうか。随分と厄介な生存者を残してしまったということか」
「……」
「つまり、あの任務は失敗していたと……。だが、今此処でお前を殺せば何の問題もなくなる。本来ならば、アベルとアイリス・ブロムベルグの口封じが最優先事項だが、まずはお前を殺してからだ。それでも遅くはない」


 アウレールが剣を構える。たったそれだけのことで周囲の雰囲気が変わる。重く圧し掛かるような剣呑な気配にレックスは生唾を飲み下す。肌を刺す殺意に背筋が粟立つ。けれど、逃げようとは思わなかった。寧ろ、相手がやる気になってよかったとさえ思っている。だが、それは引き付けていられる時間が延びたというよりも、無抵抗な仇を斬ったところで憎しみや恨み、苛立ちが消えるはずもないということの方が大きかった。レックスは剣を握り直す。そして、地面を蹴り出した。




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