代償 - regret -



 身体中が痛かった。意識を飛ばすことが出来たよかったのにと思うほどの激痛が間髪入れずに身体を襲う。それほど力があるというわけでもないのに、どうしてこんなにも痛めつけることが出来るのだろうかとさえ思えるほどであり、ブルーノは痛みに耐えて歯を食い縛る。そうしている間に人払いを済ませたカインが連れて来た回復魔法士による治療が始まった。そのことに安堵しながらも、自分の悪運の強さを呪った。ブルーノはされるがままになりながら瞼を硬く閉ざすと、過去のことを思い出した。
 まだ、帝国軍に志願する前のことだ。元々、農村の生まれであり、ブルーノ自身も畑を耕すことで生活していた。だが、だんだんと気候が不安定になって農作物が育たなくなり、生活が貧しくなっていったことが入隊のきっかけでもある。兵士になれば、まだもう少し安定した生活が出来るはずだと思ったのだ。だが、実際には、最低限の衣食住は確保できても余裕があるわけではなく、寧ろ命の危機に瀕することの方が多かったぐらいだ。
 剣の腕に覚えがあるわけでもなければ、ただの最前線の一兵士に過ぎない存在だ。いつ命を落とすか分からないような日々が続き、上官とも上手くいかず、よく苛立ちの捌け口にもされていた。それでも、運がいいのか悪いのか生き残って来たのだが、ついに絶体絶命と言っても過言ではない状況に陥ったことがあった。
 クラネルト川流域でのベルンシュタインとの戦闘において、首元を斬られる大怪我を負ったのだ。今もその傷は深々と残っているが、ブルーノはその傷を負った時、死を覚悟した。こんなことになるのなら生活が苦しくとも村で畑を耕すべきだっただろうかと後悔しながら二度と目を開くことはないだろうと思いつつ、瞼を閉ざしたのだ。
 だが、予想に反して瞼は再び持ち上がった。その時に初めて、カサンドラと出会ったのだ。最初は何が起きたのか分からなかった。目の前にいるカサンドラが酷く喜んでいるということぐらいしか理解できなかった。酷く朦朧としていたのだ。言葉が聞こえているのにその意味が分からず、頭に靄がかかっているかのようだった。


『貴方は成功作よ!』


 酷くはしゃいだ声だったことを覚えている。何が成功したのかもその時は分からなかったが、何となく失敗ではなくてよかったと思ったことを思い出す。我ながら図太い神経をしていると思いながらも、すぐにまた意識を手放したのだ。
 自分の身に起きたことを――施された術について明らかにされたのはそれから数日後のことだった。それまでの間、時折酷く意識が朦朧とし、身体が軋み、発熱と嘔吐を繰り返していた。それらが漸く落ち着いた頃に自分を成功作と呼んだカサンドラによって自身の身体に起きたことを説明された。
 瀕死の状態で回収され、カサンドラの実験の為の被検体にされた。しかも、非人道的な実験の被検体であり、本人の同意さえもない。無論、同意を求められたとしても頷く者など皆無だろう。同様に、捕まえて来た猫の魂と自身の魂を掛け合わせて合成したのだと言われてもすぐに理解も納得も出来る者などいようはずもない。ブルーノも当然、すぐには理解が追い付かず、受け容れることなんて出来なかった。
 だが、すぐに自分は運がよかったのだということを思い知ることになる。実験されたのは何もブルーノ一人だけの話ではないのだ。これまで何十人に対しても施されて来た実験だ。カサンドラにしてみれば、幸いにも被検体には困らない状況にあるのだ。秘密裏に瀕死の兵士を回収して試し続けてきた結果、ブルーノという成功に辿り着いたのだという。


『安心して頂戴。貴方の生活は私が保証するわ。貴方だけじゃない、貴方の家族もよ』


 それが交換条件として提示された。ブルーノがカサンドラの実験に協力し、また、部下として特殊部隊鴉に所属することを条件に彼と彼の家族の安全と生活を保証すると彼女は言った。それは決して悪い話ではなかった。今のままでは故郷の畑が荒廃し、農作業など出来なくなってしまうということはブルーノも重々承知していた。
 だからこそ、カサンドラの言葉には惹き付けられるものがあった。少なくとも自分が協力すれば、家族は安定した生活が出来るのだ。そうなってくれた方が彼としても気が楽になる。だからこそ、ブルーノは説明を続けるカサンドラを遮って、その交換条件を呑んだ。元より自分は死んだようなものなのだ。ならば、何も気にすることはないのだ、と自分に言い聞かせつつ。
 それからの生活はブルーノにとっては決して悪いものではなかった。もっときつく辛い、家畜のような生活であるとばかり思っていたのだが、衣食住は兵士として最前線に立っていた時のもの以上であり、また、カサンドラやカイン、アウレールとの生活も決して悪いものではなかったのだ。寧ろ、居心地のよささえ感じていた。


『大丈夫、ちょっと怪我を見せて欲しいだけだから』


 そんな中、作戦行動の一環でベルンシュタインに潜入した際、人型を保つ為に定期的に服用しなければならない薬を紛失した挙句、街でカサンドラらと逸れてしまい、その上、人型が保てなくなって猫の姿になってしまったのだ。猫の姿になると主導権はブルーノから共に合成された猫に移る。そうしている間に街をふらりふらりと目的もなく気ままに巡っている最中、寝床としてたまたまベルンシュタインの騎士団宿舎に辿り着き、そこでアイリスと出会ったのだ。
 街を巡っている最中、カーニバルの期間だということもあって街は込み合っていた。そんな中、人々の足元を駆けている猫が蹴られたり、踏まれたりすることがないわけがなく、宿舎の裏庭に到着した頃には身体は傷だらけになっていた。どうしたものかと考えながら猫の中から外を見ていると、たった一人だけ、猫の存在に気づいた者がいた。それが、アイリスだった。
 人型を保てるようになるまで彼女の世話になっていたのだが、正直なところ、このまま世話になるのもいいかもしれないと思ったこともあった。戦わなくてもいい、猫の姿だが食事に困ることもなく、自由気ままな生活をすることが出来る。それだけを考えれば、猫として生きることもありだろうとブルーノは思ったのだ。少なくとも、人を殺すこともなければ、殺されるような目に遭うこともない。理不尽な暴力を受けずに済むのだ。
 けれど、そう思い始めた途端に人型に戻れてしまった。まるで猫として気ままに生きることなど許さないと言われているかのようだった。身体が戻ってしまえば、長居することも出来ない。結局のところ、カサンドラらの下に戻るしかなかったのだ。そうして人知れず騎士団の宿舎を抜け出してカサンドラらが寝泊まりしている宿に向かう最中、アイリスがそうとは知らずに追って来たのだ。もう二度と会うことはないと思っていた。だからこそ、思ったことを伝えたのだ、偽善者だと。無論、それは批難したかったわけではなく、彼女のことを思ってのことだ。いつかきっとその所為で困ったことになるだろうと思ったからこそ敢えて口にしたのだ。それは一宿一飯以上の恩を感じたからこそでもある。
 だが、意外なことに彼女とは何度も会うこととなった。王都の路地裏で、アルバトフ邸で、挙句の果てには攫われて来たアイリスの面倒を見ることにもなった。自由にしてやることは出来なくとも、それでも不自由がないように面倒もみていたのは恩を返そうと思ったからでもあり、ブルーノにしてみれば彼女がまだ子どもだったからだ。自分を助けてくれた人間を殺させることは出来ず、見捨てることも出来ず、割り切ることも出来なかったこともあって逃がしたのだ。そのことに後悔はない。間違ったことをしている自覚はあったものの、人として間違ったことをしたとは思わなかった。
 無論、それを口にしようものならどのような仕置きをされるか分かったものではないため、これから先も口にすることはないだろう。だが、それでも願うことはある。もう二度と、アイリスと会うことがないことを願わずにはいられないのだ。今度ばかりは庇いきれないということもある。けれど、それ以上に、自分などとは関わらない方が彼女の為だとも思うのだ。
 

「ブルーノ……大丈夫?」


 一通りの手当てを終えた頃、回復魔法士を部屋の外に追い出したカインが傍に膝を付いて控えめに声を掛けて来た。彼らしくはない気遣わしげな様子に内心苦笑を浮かべながらブルーノはごろりと寝返りを打った。それさえも億劫だったものの、うつ伏せのままにいることも苦しかったのだ。
 身体を伸ばし、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら大丈夫だと口にする代わりに軽く手を振る。それだけでも一応は伝わったらしく、視界の端に移るカインの表情はほっとしたものに変わった。回復魔法で治癒したものの、暫くは安静にしておかなければならない。ブルーノは身体から力を抜きながら、そんな休みが自分に与えられるのだろうかとこっそりと溜息を吐いた。


「……何でお前は俺を庇ったんだ?」


 先ほどのことを思い返しながら、それまで不思議に思っていたことを口にする。視界は天井を向けたまま、その声音は酷く落ち着いたものだった。
 カインにとって興味や関心があるのは弟であるアベルのことに対してだけだ。それ以外には何ら興味も関心も示さないのだ。とは言っても、周囲の人間――少なくとも鴉やヴィルヘルムに対しては友好的ではある。元々、人懐っこく明るい性格ではあったのだろう。今でこそ何を仕出かすか分からないような態度を取ることの方が多いものの、今のカインからはそういったものを見受けることは出来ず、心底から心配している様子だった。
 だからこそ、不思議だったのだ。それがアベルに向けられるものであるのなら何も不思議なことはない。いつも通りだと思うぐらいだろう。けれど、今はそれが自分に向けられている。だからこそ、不思議でならなかったのだ。


「別に……理由なんてないよ」
「……」
「ボクだって分からないんだよ。ただ……ただ、放っておいちゃいけないって、そう思って……」
「……そうかよ」


 何か明確な理由があるというわけではないだろうとは思っていた。だが、この様子からするとカイン自身、庇ったことに驚いているようでもある。庇うということはカサンドラに楯突くということだ。運が悪ければ怒りの矛先が自分に向くかもしれないのだ。だからこそ、誰もが何が起きても目を背ける。そんな中、カインがブルーノを庇ったのだ。アベルのことにしか興味のない彼が、カサンドラに楯突いてまでブルーノを庇った――普段ならば有り得ないことだからこそ、解せなかったのだ。
 けれど、これ以上聞いても理由が明らかになることはなさそうでもあり、ブルーノは口を閉ざした。身体がだるく、今は少しでも身体を休めた方がいいと思ったのだ。彼が口を閉ざし、目も閉じても、カインはその場から動こうとはしなかった。そのことにブルーノは何も言わず、すぐに意識を手放した。









 全速力で馬を走らせながら、アイリスとアベルは兎に角、追手を振り切ろうと必死だった。レックスは王都の軍令部か街に戻って国境連隊に保護を求めるようにと言ってはいたものの、追手が迫っているにも関わらず、民間人が多くいる場所に飛び込むことなど出来るはずもなかった。
 何とか振り切ろうとアベルが時折、後方に向けて攻撃魔法を放つのだがどれも全て外れるか迎撃されてしまっている。追手にしてみれば前方からの攻撃なのだ。それも手綱を握っているアベルが放っているのだ。避けることなど容易く、満足に魔力が込められていない攻撃魔法を迎撃することなど容易いのだろう。
 せめてアイリスがどちらか一方を担うことが出来れば話は別なのだろうが、生憎、彼女の攻撃魔法は近接格闘に向いたものであり、馬の操作も決して得意とは言えない。今更ながらにもっと鍛錬しておけばよかったと後悔していると不意にひゅんっと空を切る矢の音が耳に届き「まずいっ」とアベルの声が耳に届いた。
 それと同時に馬が嘶き、棹立ちになってしまう。アイリスは咄嗟にバランスを取ろうとするも、馬はそのまま暴れ、倒れ込みそうになってしまう。どうやら追手が放った矢が馬に命中したらしい。このまま倒れれば地面に叩き付けられてしまう――しかし、為す術もなく、アイリスは固く目を閉じて来る衝撃に備えるも、その瞬間、「フェンリルっ」という鋭い声音が響いた。


「……平気?」


 身体が傾いでいく中、唐突に引き寄せられて柔らかくも温かいものの上に落ちた。固く閉ざしていた目を開くと、そこには灰色の毛並みと一安心している様子のアベルの顔が飛び込んで来た。予想外の近さに咄嗟に距離を取るも、すぐに後方から聞こえて来る悲鳴に気付き、視線を向ける。
 すると、そこには召喚されたフェンリルよりも幾分も小さな体躯の狼が群れをなして追手を包囲し、飛びかかっていた。どうやら、フェンリルを召喚すると同時に彼の眷属である狼も呼び出していたらしい。カインを欺く為にアイリスとアベルが向かう方向とは反対の方向に向かって行ったのではなかったのかと問い掛けると、「呼び戻したんだ」とアベルは口にした。


「こいつらが配置されている以上、カサンドラは僕が戻って来ると思っていたみたいだ。まあ、予想なんてせずとも明らかなことだけど」
「……でもそれじゃあ……」
「平気だよ。いくら配置されていると言っても、すぐに動かせる全ての兵力を僕に割り当てられるはずもないからね」


 そう言うと、アベルはすぐにフェンリルに走り出すよう促した。このまま立ち止まっていては危険だと判断したのだ。すぐに駆け出すフェンリルの勢いにアイリスは慌ててその背にしがみ付きながら「これから何処に行くの?」と問い掛ける。すると、アベルは暫し考えた後に軍令部に向かうとはっきりとした声音で口にした。


「軍令部の方が兵力がしっかりしてる。国境連隊程度の人間じゃあ心許ないからね」


 追手として放たれている兵士の数は決して多くはないだろうが、その分、手練を回しているはずだとアベルは言う。そうなると、人数はいても決して一人一人の力量が秀でているとは言えない国境連隊の詰所に逃げ込むよりも軍令部に行く方が余程いいということは明らかだ。だが、軍令部に行くということはアベルの素性を知る者もいるということでもあり、上手く辿り着くことが出来たとしても彼は捕縛されるだろう。
 それも分かった上で元々、レックスと共に王都に戻ろうとはしていた。だが、本当にそれでいいのだろうかという迷いが再び込み上げる。今まで選択を間違えて来たという自覚があるからこそ、迷ってしまう。自分の我儘を押し通して、アベルに留まって欲しいと言ったのだ。本当にそれでよかったのか――アイリスには自信がなかった。
 レックスが言ったように全てを話せば恩赦にはなるだろう。だが、罪は軽くなったとしても彼が負う心の傷まで軽くなることはない。全てを話すということは、そのままカインを裏切ることに繋がる。彼を止めなければならないからとアベルは言ってはいたものの、何も感じないわけでも、傷つかないわけでもない。そして、自分はそうさせることはしても、彼を守ることは出来ないのだ。
 酷く無責任なことをしているとも思った。傷つけるだけ傷つけて、自分はそれから守ることも出来ないなんて、とても無責任ではないか、と。もっと力があったなら、何か出来ることあったならと思う。そう思って鍛錬を続けたとしても、それはただの付け焼刃だ。その付け焼刃でどうにか出来るほど現実は甘くはなく、優しくもない。それをつくづく思い知らされるようだった。


「……いいんだ。あんたが気にすることじゃない」


 アイリスが何を考えているのか気付いたのか、アベルは微苦笑を交えて言う。こんな時にも関わらず、どうしてそんな風に言えるのかとアイリスは顔を歪めた。


「最初に言ったでしょ。僕はあんたを帰したいんだって」
「……」
「カインのことだって止めたい。……このままでいいはずがないんだ」


 だから、これは僕が自分で選んだことで、自分でつけるべきけじめだ。
 凛とした声音が耳に届く。決意は固く、どれほど言い募ったところで、説得したところでもう翻意させることは出来ないのだということが伝わって来る。恐らく、共に詰所にいるときに決めたのだろう。それまでにもずっと思うところはあったのだろうが、それが漸く形になったのかもしれない。
 それ自体は悪いことではなく、寧ろ漸く決心がついたということは喜ばしくもある。だが、素直に喜べなかった。きっかけと言えば、聞こえはいいが、言いかえれば、原因だ。そして、それは自分にあるのだ。だが、くどくどと言い募ったところでどうすることも出来ないのならば、後はせめて少しでもアベルにとっていいようになるように、周囲に働き掛けるしかない。
 自分に出来ることがあるかは分からない。力不足かもしれない。けれど、全てを投げ打ってでも助けてくれた彼の為に、出来ることがしたかった。それが自分を帰してくれて、そして、帰って来てもくれたアベルに対する精一杯の感謝でもある。アイリスは幾度か深呼吸を繰り返した後、「分かった。アベルが決めたことなら、わたしはもう何も言わない」と口にする。アベルはその言葉に満足げに頷くと、フェンリルにしっかりと掴まるように促す。もうすぐ王都の門だ。そこを飛び越えて、軍令部まで向かうことになる。アイリスは言われた通りにしっかりとフェンリルに掴まりつつ、残して来たレックスの無事とこれからアベルの身に起こるであろうことが少しでも彼を傷つけないことを願った。




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