代償 - regret -



 ひんやりと冷たい、薄暗い牢の中。壁に凭れかかってエルンストは膝を抱えていた。顔色は悪く、目の下にくっきりと隈も出来ていた。まともに眠れていないのだ。目を瞑れば、瞼の裏に浮かぶのだ。薬品を使って意識を奪った時の、泣きそうなアイリスの顔が。対峙した時のゲアハルトの辛そうな顔が、目に焼き付いて離れないのだ。
 自業自得だ。後悔するぐらいなら最初からやらなければよかったのだ。そうすれば、少なくとも今こんなにも辛くて苦しいはずがなかった。それでも、自分は裏切ることを選んだ。カサンドラに背中を押されたからだと、それだけが理由というわけでもない。決して、彼女を庇うつもりはないが、きっかけにはなったとしても全てをカサンドラの所為にするつもりはなかった。
 焦っていたのだ。アイリスの隣に、一番近いところに、自分ではない他の誰かが立つことに。それがどうしての嫌で、どうしても認められなくて、焦って、無理矢理にでも自分のものにしようとした。馬鹿なことをしたと思っている。そんなことをしたとしても、隣で見たいと思った笑顔なんて見られるはずがないのだ。冷静に考えれば分かることだった。


「馬鹿だな、俺は」


 大事なものを自分の手で全て壊した。自分のしたことは結局、それだけだ。何も得られず、失ってばかり。自業自得だった。だからこそ、自分のしたことで誰かを恨むつもりはなかった。寧ろ、自分が恨まれて然るべきなのだ。特に、アイリスには。
 自分の我儘で、どうしても奪われたくなくて彼女が捕えられている場所を言わなかった。今もまだ、口にはしていない。我ながら、意固地になっている自分に嫌気が差している。本当にアイリスのことを想うのなら、ゲアハルトに居場所を伝えるべきだったのだ。けれど、教えず、それでも彼女はどうなったのだろうかと気にするのだから始末に負えないと自分のことながらエルンストは考えていた。
 膝に顔を押しつけ、重たい瞼を下げる。そうすると、すぐにあの夜のことが浮かび上がるのだ。ゲアハルトは大丈夫なのだろうかとぼんやりと考えながら、エルンストはゲアハルトと対峙した時のことを思い出す。



『……っ、う』


 身体に痛みが走った。思わぬ激痛に顔を顰めながらエルンストはぼんやりと霞む視界の中、自分の身に何が起きたのかを思い起こそうとする。しかし、すぐには何も思い出せなかった。どうしてこんなにも身体が痛みを訴えているのか、此処は何処なのか。頭をぶつけたのだろうかと考えながらも、ゆっくりと身体を起こそうとするも、その瞬間に身体を走り抜ける激痛に上体を支えていた腕から力が抜ける。
 そしてそのまま地面に背を付け、荒い呼吸を繰り返しながらどうしてこのようなことになっているのかを思い起こし、さっと血の気が失せた。そうだった――自分の仕出かしたことを思い起こし、目の前が真っ暗になった。だが、それと同時にどうして自分はまだ生きているのかという疑問が湧き上がる。
 もしかしたら、自分はもう死んでいるのかもしれない。そんな期待が脳裏を過るも、死んでいるのならば何故痛みを感じるのかを考え、自分はどういうわけかまだ生きているのだということを認めざるを得なくなる。無論、死んでも痛覚は残るのかもしれない。その可能性は否定しきれないものの、どうあっても死んでいると思いたい自分自身の希望的観測であるという自覚はあった。
 魔法石の至近距離からの爆発に巻き込まれて生き残るほど、自分は悪運が強かったのか――そのように考えてうんざりとするも、すぐにそこにいたもう一人の存在のことをはっと思い出す。ゲアハルトはどうなったのか。少なくとも、彼には害が出来る限り及ばないように防御魔法を幾重にも展開しておいた。自分が生きていたのだ。彼だって生きているはずだと思うも確認するまでは分からない。ゲアハルトの安否を気にするのなら、最初から彼を危険に遭わすような真似をしなければいいのに――頭のどこかで自身の呆れた声音が聞こえるも、それを黙殺したエルンストは痛みを気にせず、無理矢理に身体を起こし、大きく目を見開いた。


『司令官っ!?』


 身体を起こし、最初に目に飛び込んで来たのは東屋の壁に凭れかかるゲアハルトの姿だった。辺りには血が流れ、その中央でぐったりと目を瞑っている。目に見えて血の気が失せ、見るからに危険な状態だった。どうしてこのようなことになっているのか――しかし、考える暇はなく、エルンストは痛みも何もかもを無視してゲアハルトに駆け寄った。
 冷たくなりつつある身体にぞっとしながらも、すぐに手当を始めようとする。周囲には応援に来たらしい第二騎士団の兵士らの姿があったが、誰も医療の心得はないらしく、互いに顔を青くしている。中には、『ぬ、布を用意してきます!』とクレーデル邸に向かっている者もいたが、大多数は司令官であるゲアハルトが重傷を負ったという事実に顔を青くしていた。
 今まで彼がこのような大怪我を負ったことなどなかったからこそ、兵士らは無意識のうちにゲアハルトならば何があっても死なない、なんていう幻想を抱いていたのかもしれない。けれど、エルンストにしてみればゲアハルトはただのそこらにいる男と何ら変わらない存在だ。何でも器用にこなす男だとは思っていても、不死身だとは思っていない。怪我だって人並みに負う、ただの人間だ。けれど、兵士らの動揺だって理解できた。それほどまでに、ゲアハルトという男は精神的な支えになり得る存在だった。


『馬車の用意をしてくれ。それから軍令部に伝令を』
『は、はい!すぐに!』


 自分が何をしたかを知っているだろうに、それでも指示に従うのか――そんなことを考えながら、横目にそれぞれ駆け出していく兵士を見送る。だが、軍令部に伝令を出すようには言ったものの、自分が破壊した軍令部が今どれほどの機能を有しているのかは知れない。それでも、知らせておかないわけにはいかなかった。エルンストは患部を見ながら、急所からずれていることに一先ずは安堵した。かといって、臓器が損傷を受けていないとも限らない。兎に角、すぐに回復魔法で治癒しなければと患部に手を翳すも、淡い光がぼんやりと患部を覆っているにも関わらず、常のように傷口は塞がらなかった。


『どうして……!』


 患部の傷が塞がるどころか、血は流れ続ける一方だ。このままではゲアハルトの命が危ない――だが、どれほど魔力の出力を強めようとも、傷口が塞がることはなかった。どういうことだと顔を歪めながら必死に頭を働かせていると、不意にある現象のことを思い出した。アイリスが展開した防御魔法を貫通した矢――その先に付けられていた黒い魔法石。それで造られたナイフであれば、回復魔法でも治療することの出来ない傷を生み出すことが出来るのではないか。そして、そんな特殊なナイフを手にすることが出来る人間――それはエルンストの知る中でたった一人だけ、該当する者がいた。


『カサンドラか……っ』


 彼女であれば可能だろう。そして何より、この場に現れても何ら不思議なことはないのだ。恐らく、自分が失敗することを見越して、彼女は何処かに潜んで状況を窺っていたのだろう。もしも、エルンストが失敗したとしても、白の輝石を奪取出来るように。そして、機会さえあれば、ゲアハルトを手に掛けようとさえ思っていたはずだ。
 そして、現にその機会は訪れた。エルンストは改めて今自身がいるクレーデル邸の東屋を見遣る。此処まで自分で這って出てきた覚えはない。そうなると、ゲアハルトが救助してくれたということになる。そこまで考えると、後の展開は想像に難くない。気を失っている自身を盾に取られ、ゲアハルトが自由に戦えなかったことは明らかだ。
 くそっ、と言葉を吐き出したエルンストは未だ血が流れ出す傷口とそれに比例するように紙のような白い顔色になっていくゲアハルトを見比べ、唇を噛み締める。そして、丁度布を持って戻って来た兵士にゲアハルトの身体を押えつけるように指示を出す。


『絶対動かすな。傷口を焼いて止血する』


 途端に兵士の顔は青くなる。そんなことをしても大丈夫なのかと震えた声で問い掛けられ、咄嗟にならば司令官が死んでもいいのかと怒鳴りそうになるも、そのきっかけを作った人間は自分である以上、怒鳴ることなど出来なかった。その代わりに淡々と、『いいからお前は押えつけて』と言うに止め、掌に赤々と燃える炎を造り出す。
 傷口を癒すことが出来ない以上、強引にでも止血しなければゲアハルトの命はない。焼いて止血するということは火傷の痕が残るということでもあり、彼が男であったことが不幸中の幸いか、とどうでもいいようなことを脳裏で考えながら、エルンストは身体が動かないように馬乗りになると血が流れ続ける傷口を炎で焼き始めた。
 皮膚が焼ける嫌なにおいがした。身体が跳ね、兵士はうろたえながらもゲアハルトの上体を押え付ける。灼熱の炎を押しつけているにも関わらず、意識が戻らないことは不安に思うも攻撃魔法は有効だったらしく程なくして出血は止まった。そのことに一先ずは安堵し、攻撃魔法によって負った火傷は回復魔法で癒すことも出来ず、痕は残ったものの何とか一命を取り留めることは出来た。


『……エルンストさん、両手を挙げ、ゆっくりと司令官から離れてください』


 だが、安堵したのも束の間のことだった。暫しの後、到着したのか、カサンドラを追撃していたのか――クレーデル邸の庭に現れたレックスの緊張に強張った声が背後から掛けられた。そろそろだとは思っていた。この場に医療の心得がある者が自分だけである以上、最低限、ゲアハルトの手当てが終わってからの拘束になるだろうとは思っていたのだ。
 エルンストは短く息を吐き出すと、ゆっくりと立ち上がり、両手を挙げて後ろに下がった。途端に縄が掛けられ、拘束される。だが、彼は少しの抵抗も見せなかった。ただ、視線は意識が戻る気配のない、相変わらず顔色の悪いゲアハルトに向けられていた。自分が彼をこのような目に遭わせたのだと思うと、今更ながらに自分が何を仕出かしたのかということを思い知らされるようだった。



「さっさと殺してくれたらいいのに」


 それだけのことをしたのだ、さっさと死罪に処せばいいのに。そう思うも、自分のしたことが死罪に値するかと言われれば、客観的に見ても極刑に処されることはないことは明らかだ。だが、それにしても何の音沙汰もないことはおかしなことであり、明らかに父親であるディルク・シュレーガーが絡んでいるのだということが嫌でも分かってしまう。
 結局のところ、自分は楽になりたいだけなのだ。アイリスにしたことも、ゲアハルトにしたことからも逃げて楽になりたい――ただ、それだけなのだ。自分の弱さに反吐が出る。情けなくて惨めでどうしようもなくて、けれど、全て自分は仕出かしたことに端を発してるからこそ、どうすることも出来ない。
 自分がまさか、人一人さえまともに愛せないほど弱い人間だとは思いもしなかったのだ。誰も頼ることが出来ず、抱え込み、暴走し、挙句、死にたがるなど弱いにもほどがある。そう何度も自分を責めながらも、舌を噛み切る勇気さえないのだ。いよいよ、始末に負えないなと自分自身、そう思いながらエルンストはぼんやりとした様子で牢の向こうに視線を向けた。
 結局、アイリスがどうなったのかは分からないままだ。エルンストが一向に口を開こうとしないこともあり、この牢に近付いて来る者は最近ではめっきりと減っている。食事を運ぶ時と、時折思い出したように尋問の為に兵士がやって来るもエルンストは黙秘を貫いていた。言うことなんて何もないと思ったのだ。カサンドラと手を結び、アイリスを誘拐し、白の輝石を奪取しようとしたが失敗、ゲアハルトの命を脅かした。自分のしたことはそれ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、これ以上、話すことなんて何もないのだと口を閉ざしていたのだ。否、本当はただ、思い出したくなかっただけなのだろうけれど。


「……無事ならいいのにと思う反面、戻って来て欲しくはないって……まだ思ってるのに、会いたいなんて……矛盾し過ぎだろ」


 ぽつりと呟いた掠れ声は震えていた。アイリスの無事を祈りながらも、やはりこの地に戻って来て欲しくはないのだ。けれど、それと同じぐらいに、会いたいと思う自分もいた。あまりにも矛盾し、自分勝手な思いにエルンスト自身、辟易していた。そのようなことばかりをずっと延々と考えているのだ。自分はもう壊れているのかもしれない――そんなことを考えながら、不意に聞こえて来た小さな靴音に気付き、エルンストはのろのろとそちらに視線を向け、現れた人影に目を大きく見開いた。






 王城の庭を後にしたアイリスは一人、エルンストが幽閉されている牢へと来ていた。何と声を掛ければいいのか、それは結局決まらぬままになってしまったが、これ以上、面会を先延ばしにする気にもなれなかった。ゲアハルトに頼まれこそしたものの、元々、エルンストには会いに来るつもりだったのだ。ブルーノに言われた言葉が脳裏に蘇る。逃げていては駄目なのだ。向き合わなければ、どうすることも出来ない――自分にそう言い聞かせながら、ひんやりと冷たい空気に満ちた牢へとやって来たアイリスは最奥の牢へと近づいていく。
 そして、漸く牢の中に人影が確認できるほどの距離まで近付いたところで、掠れた微かな声で名前を呼ばれた。「アイリスちゃん……」と驚いたようなその声にアイリスは小さく唇を噛み締める。止まりかけた足を動かし、更に距離を詰める。薄暗い牢の中にいても、表情が確認できる距離までやって来て、そこで漸く、足を止めた。久しぶりに見たエルンストは顔色も悪く、やつれていた。


「……エルンストさん」


 声を掛けると、彼はますます目を見開いた。もしかしたら、夢だと思っていたのかもしれない。夢や幻であり、アイリス本人ではないと、そう思っていたのか――そう思いたかったのかもしれない。アイリスは何と声を掛けようかと悩みながら、何度か口を開閉する。それでも、言葉が口を突いて出て来ることはなかった。
 自分がエルンストに対して何を言いたいのか、それが分からなかったのだ。ただ、少なくとも責めたいわけではないことだけは確かだった。エルンストに誘拐されたことで、酷い目に遭わなかったと言えば、嘘になる。だが、自分が攫われたからこそ、アベルを取り戻すことが出来たことを思えば、一概に悪いとは言い切れないのだ。自分が攫われることがなければ、きっと今も、アベルはカインと共に帝国軍にいたことだろう。


「……身体は、平気?痛いとか、そういうの……」
「平気です。怪我も、してません」


 口を開いたのは、エルンストだった。彼も言葉に悩んでいたようだったが、その口から出たのは身の安全を慮るものだった。けれど、アイリスにしてみれば、彼の体調の方がずっと気掛かりだった。とてもではないが、睡眠も食事もしっかりと取っているようには見えない。食事が出されていないということはないのだろうが、手を付けずにいるのだということが一目で分かった。


「……司令官、どういう状況か知ってる?」
「少し前に意識を取り戻されてます。多分、そろそろ復帰されるかと思います。まだ休んでいた方がいいと思いますが」
「そっか。……無事だったんだね、司令官」


 よかった、と心底からエルンストはほっと安堵している様子だった。そもそもゲアハルトが意識不明の重体に陥った原因はエルンストにあるのだが、それを咎めることはアイリスには出来なかった。その要因となったのは他ならぬ自分自身であるということを分かっているからだ。自分のことを棚に上げてエルンストのことを責めることは出来ない。
 けれど、そんなアイリスの考えに気付いているのか、エルンストは「俺のこと責めていいんだよ」とぽつりと呟いた。君は俺を責めていいんだよ、どうしてあんなことをしたのかって――視線を伏せて弱々しく言う彼は心底からそう思っているようだった。だが、責められて楽になりたいと思っているのだということはアイリスには手に取るように分かった。彼女もまた、そう思っていたことがあるからだ。


「……責めませんよ、わたしは」
「……」
「だって、エルンストさん一人の所為じゃないから。……わたしは、エルンストさんがわたしのことをどう思ってくれているのか知ってたのに、曖昧なことばかり言っていました」
「けど、それでもやっぱり君は、」
「悪くない、はずがないんです。……それに、司令官だって言ってました。司令官も同じなんだって」


 気付いていたのに気付かない振りをしていたのだと言っていたことをエルンストに伝えると彼は大きく目を見開いた。そんな彼を一瞥しアイリスは視線を伏せる。気付いていないのに気付かぬ振りをしていた。気付いたのなら、ちゃんと向き合うべきだったのは。自分も、ゲアハルトも。そうすれば、もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれない。
 無論、向き合っていたとしても、同じ事態に陥っていたかもしれない。結局のところ、ただの結果論であり、言葉遊びに過ぎないのだ。起きてしまったことをなかったことには出来ない。どうにか出来るとすれば、それは神の所業だ。


「……エルンストさん、覚えてますか?カーニバルの最中にした、約束のこと」
「……」
「秋になったら一緒に城の庭に花を見に行こうって言ってくれましたよね」
「……覚えて、た……んだ」


 今度こそ、信じられないとばかりにエルンストは目を見開いた。否、もしかしたら、彼は忘れていたのかもしれない。深い青の瞳を見開いて自分を見上げるエルンストを見返し、アイリスは微かに笑った。けれどきっと、少しだけ泣いてしまいそうな、そんな笑みになっていただろう。


「覚えてましたよ。秋になるのを、楽しみにしてました」
「……」


 一緒に見られたらよかったと先ほど見てきた庭の花を思い出し、アイリスは顔を俯けるエルンストを見つめた。交わした約束は果たせると思っていた。信じて疑わなかった。何も言わずとも、秋が来れば自ずと一緒に見に行くものだとばかり思っていたのだ。けれど、そうではなかった。交わした約束が必ずしも果たされるとは限らないのだということを、忘れていた。約束とはそういうものだ。果たせるかどうかはその時々で違ってくる。とても、危うく、儚いものだ。
 そして、彼と交わした約束は果たすことが出来なかった。きっと、エルンストは約束のことを覚えてくれていたのだろう。だが、忘れられていると思っていたのかもしれない。アイリスは牢の傍に膝を付き、顔を俯けているエルンストの名前を呼んだ。自分が思っていたよりも、彼は強くない人だった。もしかしたら、自分と同じぐらいに、否、自分よりも弱い人なのかもしれない。力はあっても、心が弱い。どうしてもっと早くに気付けなかったのだろう――今更ながらに傍にいたのに少しだって気付けなかった自分を情けなく思いながら、アイリスは後ろ手に持っていた一輪の白い花を差し出す。


「……これ」
「レオに会って、取ってもいいよって言われたので持って来ました。城が襲撃を受けた時、一部が燃えてしまったらしいんですけどちゃんと残ってるところもありました。一面真っ白で、雪みたいで、綺麗でした」


 何という名前の花かはアイリスは知らない。けれど、きっと、エルンストにとっては特別なものなのだろうと思う。差し出した花を受け取った彼は泣き出しそうに顔を歪めた。


「司令官、とっても心配してました。エルンストさんのことを気に掛けてばかりいる様子でした」
「……うん」
「だから……司令官が来た時にびっくりしたいようにちゃんと食べて、ちゃんと寝てください」
「……うん」
「わたしも心配です。……倒れるなんて許さないですからね」


 約束してください。そう言って小指を差し出すと、エルンストは唇を噛み締めて何度も頷きながらそろそろと小指を鉄格子の隙間から出してくれた。細いそれに小指を絡め、軽く揺らす。決まり文句を口にして、ゆっくりと小指を離す頃にはぽたぽたと石畳の上に涙が落ちていた。頼りなく下がった肩が震えている。


「ごめ、ん……」


 掠れて震えた声が耳に届いた。押し殺した嗚咽に紛れて聞こえる謝罪の言葉にアイリスは困ったように笑った。謝らなければならないのは自分の方だ。自分の行動が、言葉が、エルンストを追い詰めた。それは紛れもない事実なのだ。「謝らなきゃいけないのはわたしの方です」と言い、ごめんなさいと謝った。謝ったぐらいで済むとは思っていない。けれど、今は謝ることしか出来ない自分が歯痒かった。
 けれど、エルンストはふるふると首を横に振り、アイリスちゃんは悪くない、と言ってくれる。その優しさが嬉しくもあり、苦しくもあった。多分きっと、ずっと、この気持ちも痛みも消えることはないのだろう。消えてなくなることはなく、深く根付くことになるのだと思う。だが、それでいいとも思うのだ。決して、忘れてはならない。忘れることは許されない。どれほどの痛みを伴ったとしても、それが向き合わずに逃げた結果であり、贖うべき代償なのだとアイリスは眉を下げて微かな笑みを浮かべると、エルンストさんだって悪くないですよと口にした。



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