代償 - regret -



 瞼を閉じて、ごろりと寝返りを打つ。けれど、一向に眠気はやって来ない。この数日、まともに寝られた試しがなく、眠れたとしても先日の光景が蘇ってすぐに目が覚めてしまうのだ。その度に背筋は冷たい汗で濡れている。そうなるぐらいなら起きていた方が余程ましに思えるのだが、出兵準備で忙しく動き回っていることもあり、眠らなければ身体がもたないのだ。
 とは言っても、この数日、まともに眠れていないことは目の下にくっきりと出来た隈を見れば明らかであり、周囲もそれを気遣ってか重労働は回さないように気遣ってもいる。レックスはそのことに感謝しながらも、自分の不甲斐なさに歯噛みする。これでは足を引っ張っているだけではないかと顔を歪めながらぐしゃりと赤い髪を掻き上げる。
 瞼を閉じれば、否応なく思い出されるのは鍛錬場で会ったアイリスの顔だ。驚いた顔をして、悲しげに顔を歪めていた。そんな顔をさせたのは他ならぬ自分自身だ。何も彼女を傷つけたくて言った言葉ではなかったけれど、少し嫌な言い方をしてしまったのだという自覚はあった。アイリスは心配してくれていただけだ。心配させてしまったのに、どうしてあんな言い方をしてしまったのか――今更ながらに、自分の度量の狭さに嫌気が差す。そう思い、握り締めた拳をベッドに叩き付けた矢先、小さな音を立てて窓が開く音がした。


「誰だっ」


 誰も起き上がった気配はなく、窓に近付く足音も何も聞こえて来なかった。それにも関わらず、窓が開いたのだ。レックスは飛び起きて、咄嗟に壁に立てかけていた剣を手にして飛び出すと、「うわっ、ちょ、待てって!」と慌てた声が聞こえてきた。その声音には覚えがあったものの、このような宿舎ではもう聞くはずのない声であり、レックスは目を見開いた。そして、窓の傍に立って、両手を軽く上げて降参のポーズを取っている人影に向けて、「レオ……?」と声を掛けた。


「そうだよ。いきなり剣持って起き上がるなんてお前、寝てなかったのかよ」


 暗闇に慣れた目で改めて人影をじっと見据えると、そこには月明かりを背にしたレオがいた。月明かりに反射する金髪と以前と変わらぬ軽装、顔を隠す為に巻いているらしい襟巻に顎を埋めて呆れた顔を作っている。やれやれと言わんばかりのその様子はまさにレックスの知っている、共に戦場を戦い抜いて来たレオそのものだった。
 いきなりどうして、と驚いていたレックスは「何の騒ぎだよ……」とそれぞれのベッドから起き上がって来た仲間たちが、各々レオを見るなり驚きに素っ頓狂な声を上げる様子を横目に目を見開いていた。だが、すぐに「この馬鹿、何やってるんだよ」と軽くレオの頭をしばいだ。明らかに一人で城を抜け出して来た様子であり、決して褒められた行為ではない。どういう了見でそんなことをしたんだと眦を吊り上げる。


「お、おい、レックス!陛下の頭をしばくってお前、」
「いや、これぐらいで怒ったりしないっつの。つーか、陛下って何だよ。お前に畏まられるとむず痒いから止めろって」


 本気でぞわりと身体を震わせながら、レオはげんなりとした顔で起き出して来た仲間に声を掛けている。今までと何ら変わらぬその態度に、けれど、周囲は戸惑っている様子でもあった。無理もない話だ。これまで自分たちと何も変わらないと思っていた相手が、共に話し、騒いでいた仲間が、実はこの国の王族だったのだ。戸惑うなという方が無理な話だ。
 それはレオ自身も分かっているらしく、戸惑っている彼らに対して微苦笑を浮かべるだけであり、それ以上は何も言わなかった。無理に畏まるなと言うつもりもないのだ。それでは彼らとてやり難いだろうと思ったからであろうが、レックスにしてみれば、そもそもどうしてレオがこの場にいるのかということの方が気掛かりだった。
 何か用があれば城まで呼び付ければいいだけのことだ。今のレオにはそれが出来る権利があり、レックスも呼び出されればそれに応じるつもりでいるのだ。それにも関わらず、こうして夜が更けた頃合いを見計らって城を抜け出し、お忍びでやって来るのだ。何かそれ相応の理由があり、用件があるのではないかとつい構えてしまう。


「……つーか、そもそもどうやって抜け出して来たんだよ。城の警備には近衛兵がわんさかいるんだろ?」
「いるにはいるけどさ。城の内部は多分オレの方が詳しいし、城ではないにしろ、オレも警備任務には就いたことあるからどういう時間帯が狙い目だとかそういうことは分かってるんだよ」


 どういう場所に目が行きやすいか、逆にどういう場所を通れば目に付き難いか。そういうことは実際に警備に就く側をやったことがあるからこそ分かるのだとレオは言う。しかし、だからといって警備に就く側の人間であるレックスらがそれを聞くと、やはり複雑な心境にはなる。彼の言っていることはどうすれば出し抜けるのかということであり、悪気がないのだと分かってはいるのだが、思うところはあるのである。
 そのことにも気付いているのか、レオは頬を掻きながら「まあ、とにかく」と話題を変えるように口を開く。抜け出して周りに心配を掛けるなと注意しなければと考えていたレックスはその一言に、彼がお忍びで宿舎まで来た理由が何だったのかということを思い出す。


「オレはレックスに用があって来たんだ。場所は変えるからゆっくり寝ててよ。起こしてごめんな。ほら、レックス、ちょっとこっち来い」
「お、おい、レオ!」
「大声出すなっつの。じゃあな、おやすみ」


 そう言うと、レオは半ば強引にレックスの腕を掴んで部屋を後にした。逃がさないとばかりに腕を握る手には力が込められ、さすがのレックスもその痛みに顔を顰めている。だが、周囲はしんと静まり返り、就寝中の者が多いことを思うと大声を出すわけにもいかない。何より、騒ぎ立ててレオがこの場にいることを知られるわけにもいかない。付いて行くしかないかとレックスはこっそりと溜息を吐くと、薄暗い宿舎の中を歩くレオの背に続いた。
 レオは階段を下りると、周囲を窺いながら足早に鍛錬場へと向かった。恐らく、食堂に詰めている夜間警備の兵士らのことを警戒しているのだろう。ならば、鍛錬場に向かうべきではないのではないかとも思うも、鍛錬場であれば多少物音がしたとしても食堂からは離れているということもあって気付かれることはないだろう。
 それにしても寒い、とレックスは口から漏れる吐息が白くなる様を見ながらぼんやりと考える。思えば、もう冬が近いのだ。まだ雪が降るほど気温が下がっているわけではないのだが、それでも朝晩の冷え込みは厳しくなりつつあり、朝も起きるのが辛くなりつつある。そう言えば、レオは朝起きるのが苦手だったなとすぐ前で揺れている金髪を見ながら思い出す。何度起こしても起きず、布団を剥ぎ取れば丸くなって震え、終いには我慢出来なくなったのか怒りながら起きる。その様子が、今となってはとても懐かしく思えた。


「……なあ、アイリスから何か聞いたんだろ」


 片手で鍛錬場の扉を開けるレオに対し、レックスはぽつりと呟いた。微かな呟きも、扉が開く音に掻き消えることなくレオの耳には届いたらしく、彼の肩が微かに跳ねた。そうだろうなと、予想はしていたのだ。そうでなければわざわざ城を抜け出すというリスクをレオが取るとは思えず、また、あまりにもタイミングが良すぎたのだ。
 しかし、レオは何も言わずにレックスの腕を引いたまま、鍛錬場に足を踏み入れた。中は薄暗く、青白い月明かりが差し込む天窓が唯一の光源だった。それを見上げていると、後ろで扉が閉まる音がした。そこで漸く、レオの手が腕から離れているのだということに気付く。鈍い痛みだけが残るそこに触れていると、そうだよ、という声が聞こえて来た。


「でも、アイリスがオレに相談しに来たわけじゃない。偶然会って、話を聞いただけ」


 告げ口なんてしてないからな、と念を押すレオにレックスは微苦笑を浮かべた。そのようなことは言われずとも分かっている。アイリスはそういうことは苦手だ。よくも悪くも人を頼ろうとしない。それは相手のことを信頼していないからではなく、自分で何でも出来ると思っているからでもない。ただ、単純に人を頼ることを知らないだけだ。
 手を伸ばせば、助けを求めればそれに応えてくれる人間は彼女の周りには大勢いる。それでも、アイリスは手を伸ばそうとも、助けを求めようともしない。自分はそんなに頼りないのだろうか――そう考え、レックスは顔を歪める。頼りになるはずがない。碌に助けられず、動けず、挙句の果てには彼女の身の安全よりも自分の復讐心を優先するような人間なのだ。頼られるはずがない――そこまで考えたところで、唐突に軽い衝撃が頭を駆け抜けた。


「なーに馬鹿なこと考えてんだよ。どうせ自分が頼りになるかならないかとか考えて、勝手に頼りにならないとでも自己解決してんだろ」
「……何で、」
「考えてることが分かるのかって?顔に書いてあるからだよ。お前は思ってるよりも考えてることは馬鹿みてーに正直だし、すぐに顔にも出る。それにオレが入隊してからずっとお前と毎朝顔合わせて過ごしてたんだ。何考えてるかぐらい分かるっつーの」


 さっきの仕返しだとばかりに頭を叩かれたらしい。叩かれるまでレオが近くに来ていたことにも気付かず、手を振り被られたにも関わらずそれにさえも気付かなかった。我ながら情けないと思いながらも、自分が思っている以上にレオはよく知ってくれているのだということを実感した。


「お前は頼りなくなんかない」
「……そんなことない。買い被り過ぎだ」
「違う。……お前は本当に頼りなくなんかない。本当に頼りない奴は、燃えてる塔に駆け込んで、オレを助けたりしない」
「……」


 お前は頼りなくなんかないし、情けなくもない。
 当たり前だろと言わんばかりにレオの言葉に迷いはなかった。向けられる視線はどこまでも真っ直ぐであり、その視線が胸に突き刺さるようだった。頼りになると、情けなくはないのだと言ってくれることは嬉しい。有り難くもあった。けれど、それでも、どうしても自分のことが許せないのだ。


「……お前の気持ちは分かる。でもさ、うじうじしてる場合じゃないだろ」
「……」
「仇を討つ機会は一度だけじゃない。また機会は巡って来る。それに、アイリスのことを優先しなかったことを気にしてるんだろうけど、オレにしてみれば、また仇が目の前に現れたらお前は同じことをするぞ」
「……っ」
「だったら割り切れよ。お前の最優先すべきことは仇討ちなんだって、開き直っちまえ」


 レオの声音に迷いはなかった。心底から思っているのだ。だが、最優先すべきは上官の命令なのだとレックスは反論しようとするも、「だったら、オレが許可してやる」と先んじて言い放った。思いもしないその言葉にレックスは大きく目を見開いた。さすがにそれは承服しかねると眉を寄せて言うも、レオは首を横に振った。


「そうでもしなきゃ、お前は一歩も前に進めないだろ」
「だからって、」
「いいんだよ。相手は帝国の人間で、敵だ。これが身内だったら話は別だけど、結果的に敵を倒したことになるんだ。問題ないよ」
「……ずるくなったな、お前」
「だとしたら、オレも城での暮らしに慣れたってことかな。……でもさ、本当に、お前が前に進むには、そいつを倒さなきゃ駄目なんだと思う」


 ゲアハルトにとってヴィルヘルムが、エルンストにとってはカサンドラが、アベルにとってはカインがそうであるように。どうしても前に進む為には倒さなければならない相手がいる。それがレックスにとってはアウレールだった。家族を殺され、街に火をかけられて故郷を失くし、引き取られた孤児院さえも同じように焼き滅ぼされた。唯一の生き残りである幼馴染のアイリスは、戦争孤児から貴族の養女となり、今は軍人として軍に入隊している。怖い目にも遭った、辛く苦しいことも多くあった。本当ならば、そのようなものからも、戦争からも離れた場所にいるはずだったのだ。
 いられるように、するつもりだった。けれど、どうすることも出来なかった。いつだって彼女が危ない目に遭っている時に、傍にいないのだ。守れないのだ。だから、せめて故郷を滅ぼし、孤児院さえも焼き滅ぼしたアウレールへの仇討ちを果たそうと思った。そのために握った剣だった。何度だって機会はあるとレオは言った。けれど、自分の剣がまるで仇に通用しないのだということにも気付いてしまっていた。――心が、折れたのだ。


「……オレは……もう、」
「無理じゃない。お前はまだ剣を握れる」
「無理なんだよ、オレの剣は通用しなかった」
「だったらもっと腕を磨けばいいだけの話だろ。お前らしくない、そんな弱気な、」
「じゃあオレらしいって何だよ!」


 つい、声を荒げてしまった。怒鳴るつもりなんてなかったのだ。自分のことを心配して、わざわざ城を抜け出して来てくれた相手に対して、怒鳴るなんて恩知らずもいいところだ――そう思いながらも、一度口にした言葉を取り消すことは出来ない。レックスは居心地の悪さを感じながら顔を逸らした。いくら人のいいレオでも、さすがにいい顔はしないだろう。それを思うと、とてもではないが、彼の顔を見ることは出来そうになかった。


「いつだって一生懸命、鍛錬する奴だよ」
「……」
「朝早くから夜遅くまで時間があれば鍛錬してた。それをオレもアイリスも見てきた」
「……」
「なあ、レックス。……お前が復讐の為に剣を振るってるんだって知っても、アイリスは一度もそれを止めなかった理由は分かる?」


 復讐の為に剣を振るって欲しくはないと思われていたことには気付いていた。復讐なんて止めた方がいいと言われたことはあったけれど、それでも剣を振るうことを止められたことはなかった。その理由など、今まで考えたこともなかったのだ。
 思いもしないところで出てきたアイリスの話題にレックスは僅かに目を瞠りながら、けれど、何も思い浮かばなかった。アイリスがどうして剣を振るうことを止めなかったのか――復讐したところでどうにもならないのだということを常々口にしている彼女のことを思うと、確かに剣を振るうことを止めないというのは、不自然だった。


「お前のこれまでの人生を否定したくなかったからだろ」
「……、っ」
「これまでお前がどれだけ真面目に、熱心に、一生懸命に剣に向かって来たから知ってるからこそ、アイリスは言えなかったんだよ。お前のこれまでの頑張りを否定したくなかった。本当は復讐の為に剣を手にして欲しくはなかったけど、あいつは、それでお前が生き甲斐を失くすことの方がずっと嫌だったんだよ」


 オレから剣を取り上げたら何も残らない――それは以前から感じていたことだ。剣の腕だけで第二騎士団の小隊を任せられる信頼を勝ち得たのだ。それが復讐の為の剣だったとしても、それでも何より自分の中で大切なものとなっていた。剣があったからここまで来れた。それは紛れもない事実であり、レックスにとっては生きて来た道そのものだ。
 だからこそ、復讐を遂げることを諦めることは出来ない。アイリスもそのことには気付いていたのだろう。優しい彼女のことだ、思い悩んでいたのかもしれない。否、思い悩んでいたことだろう。けれど、それでもアイリスは何も言わなかった。だが、言わなかったのではなく、言えなくしていたのだということをレオに思い知らされたのだ。


「それなのに一度負けたぐらいで、情けを掛けられたぐらいで腑抜けやがって。お前にとって復讐はその程度のものかよ。自分のプライドを傷つけられたからって引きこもって泣いて剣の鍛錬を休むほど、些細なものなのかよ」
「違うっ」
「だったら!……いつまでも引きこもってないでいつもみたいに鍛錬しろよ。うじうじするなよ、しゃっきりしろよ!もうお前しかいないんだぞ!アイリスの傍にいてやれるやつは!」


 肩を掴まれ、目の前で凄まれる。真正面からぶつけられる言葉にレックスは彼がどうして来たのかを悟った。勿論、自分のことを心配してくれてもいる。だが、それと同じぐらい、アイリスのことが心配だったのだろう。
 彼女は今、一人だ。以前のように、自分やレオ、アベルが共にいるわけではない。エルンストも、ゲアハルトもいないのだ。心細く思っていないはずがない。近しい仲間が裏切り者だった、様々な要因で裏切らせてもしまった。そんなアイリスが、今の状況を何とも思っていないはずがないのだ。


「オレは前みたいに一緒にいられないんだ。アベルもエルンストさんもそうだ。司令官だってこれからもっと忙しくなる。……だから、一緒にいられるのはお前だけなんだよ、レックス」
「……」
「しっかりしろよ、幼馴染なんだろ!」


 本当は自分が一緒にいたいのだと、そう思っているレオの気持ちが伝わって来る。否、本当は誰もが思っているのだろう。けれど、今はそれが叶わぬ状況にある。そして、自分だけは今も変わらず傍にいられるのだ。ならば、せめてもうアイリスが二度と傷つかないようにするに、悲しませないようにするにはどうすればいいのか――考えるまでもなく、それは明らかなことだった。


「……悪い、レオ」


 本当に、自分が情けないと思った。彼女を悲しませていたのは、他ならぬ自分自身ではないか。こうまで言われなければ気付けない――余裕がなかったとはいえ、幼馴染失格だとレックスは自嘲した。
 レックスが顔を俯けると、漸く分かったかとレオは呆れた様子で溜息を吐き、そして、「説教ついでに鍛錬も付き合うよ。腕の鈍ったオレに一本取られたら、ヒルダさんに頼んで扱いてもらうからな」と肩を竦めて笑って見せる。それは勘弁してほしいなとレックスは顔を俯けたまま笑った。とてもではないが、目の端に涙を浮かべたまま、顔を上げることは出来そうになかった。







 明け方、まだ太陽も昇らぬ薄暗闇の中、カサンドラはバルコニーに立っていた。その傍らには僅かな手荷物と分厚い布で包まれた彼女よりもずっと大きなモノがあった。それは椅子に腰掛けるように置かれている――中身はギルベルトの遺体だった。出来るだけ安置しておきたいところではあるのだが、分厚い布に包み、紐でしっかりと布を押さえ込んでいる以上、持ち歩こうとしているのだということが窺える。


「……結局のところ、私に居場所なんてなかったのよ」


 分かっていたことだ。ギルベルトを手に掛け、ベルンシュタインを出奔した時から自分に居場所なんてものは全て無くなったのだということは、分かっていた。仲間を裏切り、帝国に寝返り、実家も取り潰された。ベルシュンタインの何処にも、自分の居場所などないのだ。かと言って、帝国に居場所があるかと言われれば、決してそのようなこともない。
 カインやブルーノと共にいることは楽しくもあった。つまらないことも多かったけれど、それでも心の何処かで楽しいと思っている自分がいたことも確かだ。だが、それだけだ。彼女にとって最優先すべきはギルベルトであり、彼の蘇生の為に必要な黒の輝石を手に入れることこそが、そもそも帝国軍に寝返った理由だ。


『いいだろう。拾ってやる』


 ベルンシュタインを出奔して数日、何の当てもなく帝国との国境線を逃げ惑っていたカサンドラは出兵していた帝国兵らに捕縛された。その後、珍しく前線まで来ていたヴィルヘルム直々に尋問を受け、もうどうでもいいとばかりに知っていることを話したのだ。ギルベルトのいないベルンシュタインという国に、カサンドラは少しの未練も持ち合わせていなかった。
 半ば自棄になって知っていることを全て吐き出すと、意外な言葉がヴィルヘルムの口から出た。どういうつもりで自分を拾ったのかは今でも分からない。だが、拾われたが故に黒の輝石の存在を知り、彼女は自身の頭脳を活かして輝石の研究員になった。その後は、様々な黒の輝石による恩恵を帝国軍に与えた。
 けれど、それもあくまで黒の輝石を研究する際の副産物でしかなく、また、元々はベルンシュタインに属していたということもあって周囲からは白い目で見られていたカサンドラにとっては出さなければならない成果を出したに過ぎなかった。決して、彼女にとってヒッツェルブグル帝国という場所は居心地のいい場所ではなかった。
 だからこそ、余計に居心地がよかったのだ、カインやブルーノと共にいた鴉という場所は。無論、アウレールという監視役を宛がわれてはいたものの、それでも他のどの場所よりも居心地はよく、恐らくはきっと、居場所だったのだろうとも思う。


「……でも、もうおしまいね」


 ぬるま湯に浸かっているのは心地よい。けれど、部屋に戻る度に冷水を浴びせかけられて思い起こされるのだ。自分は本来ならば、この場所にいない人間なのだということを。ギルベルトを手に掛け、出奔したからこそ、今はこの場にいる。そうでなければ、自分は此処にはおらず、カインやブルーノと出会うこともなかった。
 それをギルベルトの躯を見る度に思い出す。その度に、怖くなるのだ。どうして自分は居心地のよさを感じているのか。楽しいなどと思っているのか。自分にとって最も大切なのは彼だけだ。ギルベルトだけが大切なのだ。他のものなどどうでもよく、そう思ったからこそ、ベルンシュタインを裏切り、自分の居場所を壊し、家族を傷つけ、かつての仲間を傷つけて来た。
 全てはギルベルトを蘇生させて、やり直す為に今、自分は此処にいるのだ――それを、忘れているような気がして、怖くなるのだ。ギルベルトへの愛が薄くなっているように思えて、別の感情が心にあるように思えて、そんな自分が恐ろしくてならなかった。その気持ちを認めてしまえば、これまでの自分の全てを否定するかのように思えて、怖くて怖くて仕方なくなる。
 だからこそ、夜毎、冷たい躯に触れた。そうでもしなければ、彼への想いを思い起こせなくなる自分に気づかぬ振りをしてきた。特に最近は、その頻度が増えていたように思う。カサンドラは唇を噛み締めると、拳を握り締める。違う、違うのだと何度もそう繰り返す。愛しているのはギルベルトだけ、彼以外のことには何の興味もないのだと繰り返すその様はまるで自分に言い聞かせているようでもあった。


「……ギルベルト、もうすぐよ。もうすぐなの」


 もうすぐまた貴方に会えるわ。
 カサンドラは振り返り、分厚い布を巻き付けた彼の躯に語り掛ける。蘇生した彼は何と言うだろう。自分を恐れるだろうか、怒るだろうか。どうなるかは分からない。けれど、自分はそれでも彼を――どうしたいのだろう、とふとカサンドラは自分自身に問い掛ける。
 ギルベルトが蘇れば、今度は自分を見てくれるかもしれない。愛してくれるかもしれない。そう思っていた。そう思って来たのだ。けれど、ふと思った。彼は自分を見てくれるだろうか、愛してくれるだろうか――ギルベルトを殺した自分自身を、彼は許してくれるだろうか、と。ふつふつと心の底から込み上げて来る恐怖にさっと血の気が失せる。カサンドラはすぐに頭を振って浮かんで来た考えを外へと追いやる。


「大丈夫……大丈夫よ、だって……だって、彼は、優しいもの」


 その声は震えていた。それでも、カサンドラは自分自身を落ちつけるように何度もそれを繰り返す。
 頭のどこかでは分かっていたのだ。このようなことをしても、たとえギルベルトが蘇生したとしても、彼は生きることを望まないということぐらい。自分のことを許して、愛してくれるなんてことは有り得ないのだということも分かっていた。けれどもう、引き返せないのだ。このためだけに全てを捨てて、周囲を巻き込んで、傷つけてきた。だからこそ、もう後戻りは出来ないのだ。貫くしかない。戻る道も何もかもを、全て壊してたった一人で立っている。ならば、後は目の前に続く血塗れの茨道を歩くしかない。
 カサンドラは自身を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。その度に、心からはほんの僅かに残っていた温かい記憶が抜け落ちていくようだった。カインとブルーノと過ごした時間。それは彼女にとっては束の間の、ほんの僅かな、温かい時間だった。けれど、カサンドラはそれさえも捨て去り、最後に残った迷いと決別するとふわりといつかのようにギルベルトの躯を魔法で浮かせ、バルコニーの手すりに立ち上がった。
 夜明け前の空は暗く、星もまだ輝いている。それを一瞥した彼女は、白い息を零しながらさよならの一言を残してそこから宙に舞い、姿を消した。




140209



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