代償 - regret -



「駄目ですっ、周囲にカサンドラ様の姿がありません!」
「お部屋も片付けられた様子で……!」


 駆け込んで来た兵士らの言葉にブルーノは顔を顰め、カインは不安げな顔をする。いつもならばこの部屋でソファに腰かけ、紅茶を飲んでいるカサンドラの姿が忽然と隠れ家から消えていたのだ。少し離れているだけかと思っていたのだが、それにしては時間が掛かり過ぎている上に誰も何も聞いていない。
 王都に取って返したのだろうかとも思うも、だとすればブルーノかカインに一言あってもいいはずだ。何より、部屋を確認しに行った兵士によると、綺麗に片付いていたらしく、私物の類も見当たらないのだという。それではまるで隠れ家から出奔したとしか思えない。元々、カサンドラはベルンシュタインの人間だ。また裏切ったのではないか――兵士らの困惑した表情にはありありとそんな疑念が浮かんでいた。


「とにかく、落ち着け。何か考えがあって一人で動いているのかもしれない」
「でも、何もお聞きではないのでしょう?!」
「……だとしても、俺たちがすることは変わらない。全て予定通りに行動する」


 兎に角、この場を抑えなければとブルーノは声を大にする。今後の一通りの行動は決まっているのだ。アベルがベルンシュタインに寝返った以上、予定通りに行動したとしても情報はベルンシュタインに筒抜けになっている可能性を考えれば、成功する確率は限りなく低い。だが、カサンドラがどういうつもりかは分からないのだから、迂闊に行動予定を変えるわけにもいかない。もしも、彼女が出奔したのではなく、何か考えがあっての行動であれば、それこそ此方は予定通りに動くしかないのだ。
 こういうことは苦手なんだよ、と頭を掻き毟りたい衝動に駆られながらもブルーノは「とにかく、お前らは持ち場に戻れ」と兵士らを部屋から追い出す。彼らも言いたいことは山ほどあるのだろうが、カサンドラに次ぐ上官に当たるブルーノの指示には従うつもりらしく、何とかこの場を抑えることは出来た。
 だが、長く彼らの不安を抑えることは出来ないだろう。どういうつもりだよ、と姿を消したカサンドラに対して舌打ちしつつ、「お前も心当たりはないんだよな?」と不安げな様子でソファに腰かけて顔を俯けているカインに視線を向けた。彼のらしくはない不安な様子が兵士たちにも伝染しているのだろう。けれど、ブルーノにしてみればカインも逃がしたアイリスやアベルと同じく、子どもなのだ。不安になるな、などと言えるわけもなければ、カサンドラに懐いていたことからカインのことも心配になるほどだった。


「うん……。とにかく、ボクはヨルに頼んでカーサを探してもらうよ」
「ああ、見つかったら教えてくれ」
「それはいいけど……でも、もし……もし……」


 カインはその先を口にせず、ぎゅっと唇を噛み締めて顔を俯けた。裏切られたのかもしれない――それがとても、彼にとっては恐ろしいことなのだろう。既に一度、実の弟に裏切られているのだ。姉のように慕っているカサンドラまで出奔したとなると、それこそカインにとってはどうしようもなく辛いはずだ。
 カサンドラもカインが懐いていることぐらい分かっていただろう。そのことを思うと、ブルーノは顔を顰めずにはいられなかった。あの馬鹿は何処で何をやっているのか、と柳眉を寄せながら一息吐くと、ブルーノはカインの前に膝をついた。すると、彼は小さく鼻をぐすりと鳴らした後、「何?」といつになく弱々しい声音で口を開いた。


「お前が行方を掴んでくれたら、俺が行って来てやる」
「……何で」
「お前じゃああいつに言い包められそうだからな。……それに、こっちにはお前が残ってた方がいい。お前は強いからな」


 ブルーノは最近、鴉に入ったばかりの新参者だ。指示を出すにも慣れてはいない上に実力だって元々あるわけではない。カサンドラの実験の唯一の成功体だからこそ、鴉に入ることが許されただけに過ぎないのだ。だからこそ、実力もあって長く鴉に在籍しているカインの方が指示を出すには向いている。無論、多少性格に問題はあるものの、それも最近は以前よりも改善されているようにブルーノには思えていた。出来ることなら、このままアベルとは離れている方がいいのではないかとさえ、実のところは思ってもいるのだ。
 よくも悪くも、カインはアベルに依存している。たった二人の家族であり、兄弟だからだと思えば、それも無理のない話ではある。少しではあるが、どういう生い立ちかは知っているブルーノにしてみれば、カインがアベルに依存することも無理はないと思っている。けれど、このままでは駄目だとも考えているのだ。
 これから先のことを心配しても、そもそも自分たちにこれから先の時間がどれほどあるかは分からない。もしかしたら数時間後は死んでいるかもしれないのだ。それぐらい、先の分からない生き方をしている。それでも、カインがもしもこの先ずっと生きていくのなら、アベルとは離れている方がいいとブルーノは目を細めて笑った。


「……そんな言い方してると、もう戻って来ないみたいだ」


 拗ねたように言うカインにブルーノは何も言えなかった。そうかもしれない、と思ったのだ。カサンドラがどういうつもりで姿を消したか分からない以上、それが裏切りであった場合は交戦するかもしれないのだ。無論、そうならなければいいとは思っている。真正面から交戦したとなると、万に一つもブルーノに勝ち目はない。彼に出来ることは多少ナイフの腕が立つことと猫の姿を取れることだけなのだ。


「それはあいつ次第だ」
「ブルーノ、」
「裏切るとかどうとか、そういうつもりねーよ」


 ブルーノにヒッツェルブルグ帝国を裏切るつもりはない。元々、それほど国がどうと考えていたわけではないのだ。ただ、生きる為に軍に志願しただけだ。毎日の食事に困るほどに荒廃した田畑を耕すことよりも、たとえどれほど少なくとも毎日の食事が約束され、給金が得られる軍人になる方がまだ先があると思えたから志願したに過ぎない。ただ、それだけなのだ。国がどうこうというわけでもなく、忠誠を誓っているわけでもない。
 だからこそ、ブルーノはカサンドラのことが気掛かりだった。彼女が作る薬がなければ人型を保つことが出来ないからという理由だけではない。ただ、単純にこのまま一人にしておけないと思っただけなのだ。放っておくわけにはいかない、と。


「俺はお前を裏切るつもりはない。あの馬鹿女を殴って連れ戻せるなら連れ戻すし、戻らないっつーなら一緒に居て見張っとく。お前なら蛇使っていつでも俺たちを探し出せるだろ」
「それは……」
「それにあいつが出奔したなんてことがヴィルヘルム陛下にバレたらそれこそまずい。だからカイン、あいつが何か仕出かす前にお前が見つけ出すんだ」


 その一言にカインはさっと顔色を変える。カサンドラが元々、寝返ったベルンシュタインの人間である以上、またいつ裏切るか分からないと周囲からは思われている。それが現実になったとすれば、彼女はこれまでの成果も何もかもを鑑みることなく処刑されることだろう。そうなる前に連れ戻すことが出来ればいいが、それが無理でも仲間と共にいれば別行動と言い繕うことも出来る。とにかく、今は足取りを掴むことが最優先なのだと言うと、カインはすぐに立ち上がった。そして、「すぐに探し出すよ」と部屋を飛び出して行った。
 それを見送り、ブルーノはどっと疲れた様子でソファに腰掛ける。そして、懐から取り出した袋に今までないほど詰め込まれた錠剤を見遣り、溜息を吐く。それは今朝方、使用している部屋の前で見つけたものであり、カサンドラが残して行ったブルーノが毎日飲まなければならない薬だ。袋一杯の量であり、中には作り方と思われる紙が入っていた。これが残されていたということは、ほぼ間違いなくカサンドラは戻らないつもりなのだということはブルーノには分かっていた。


「……一蓮托生って言ったのはお前だろ」


 いつだったか、自分たちは一蓮托生なのだと彼女は言った。けれど、カサンドラは姿を消し、変わりに半年は困らないと思われる薬と持っていれば自分をずっと手駒に出来る薬の作り方の紙まで入っていた。どういうつもりなのだとブルーノは顔を顰める。
 苛立って仕方なかった。どうしようもなく苛立って、いつもの彼女のように物に当たり散らして暴れたいぐらいだった。けれど、それをしたところで苛立ちが収まるとは思えない。裏切られたことが苦しいわけでも辛いわけでもない。置き去りにされたことが嫌なのだと、子どものようなことを言うつもりもない。ただ、何も言わずに目の前から消えたことに――苛立ったのだ。
 どうしてこんなことを思うのかは分からない。薬の作り方だって分かったのだ。彼女がいなければ生きていけないというわけでもなくなった。だからこそ、もうこの場に縛られることもないのだ。カインのことは気掛かりだが、捨て置くことも出来るのだ。鴉とは関わらず、混乱に乗じて抜け出して静かに暮らすことも今ならば可能だろう。けれど、どうしてもそれを選ぶことは出来なかった。もう一度、カサンドラと会うという、ただそれだけのことが今確かに考えていることだった。
 馬鹿だなと思う。自分で機会を棒に振ろうとしているのだ。とてもではないが、利巧とは言えない。それでも、それ以外の選択肢がまるで浮かんでこないのだ。ブルーノは自嘲する。馬鹿だなと自身を嘲る。それでも、そうしなければ後悔することだけは明らかなのだ。ならば、後は自分の思うようにやるしかない。取り出した薬を一錠、口に放り込む。もうすっかりと薬を飲むことにも慣れてしまった。それなのに、「ちゃんとコップ一杯の水で飲みなさい」と溜息混じりに言うカサンドラの声が、今は聞こえない。そのことに、微かに胸が痛んだような気がした。

 







 昼に差し掛かるも、一向に議論は終わる気配を見せない。復帰したゲアハルトは、会議室で議論を交わす上層部の人間を眺めていた。本来ならば、まだ休んでいなければならない状態ではある。しかし、既に帝国軍が動き出しているという情報が届いている以上、いつまでも寝ているわけにもいかない。
 ゲアハルトは書類に目を通し、これまでの状況を整理しながら交わされる議論に耳を傾けていた。誰もが、これから起こる帝国軍との全面戦争を警戒している様子だった。だが、それ以上に一部から醸し出されている諦念がゲアハルトには気掛かりだった。勝てるはずがないと思う者がいることも知ってはいた。元々、兵力数からして勝てる見込みも薄いのだ。併合している国が多いからこそ、圧倒的な兵力を誇る帝国軍に対し、ベルンシュタインが持つ兵力は比べものにならない。だからこそ、入隊年齢を下げてまで兵士を募っていたのだ。
 足りない兵力差を一人一人の練度で補ってはいたものの、時間は限られている上での練度だ。策を講じてこれまで何とか切り抜けて来たものの、全面戦争となるとこれまでとは比にならない規模で起こる戦争だ。はっきり言って、ベルンシュタインに勝ち目はない。それを覆すとなると、こちらから打って出るしかないのだ。


「こちらから打って出るとしても、帝都まで到達するのに一体どれだけの従属国を越えなければならないのか、」
「それでもやるしかない」


 打って出るべきではないと主張する上層部の文官の言を遮り、それまで黙っていたゲアハルトが口を開いた。その一言に、周囲のざわめきは一転して静まる。それまで目を通していた書類から視線を持ち上げた彼は、周囲を一瞥し「従属国へは根回しする。元々、好き好んで帝国に従っていたわけではないからな」と言えば、簡単にいくわけがないという意見が聞こえて来る。
 だが、少なくともいくつかの従属国の領地を侵入して帝都に向かうことになる以上、無理だろうが何だろうが根回しをしてみる価値はある。それで成功すれば払う犠牲は少なくて済む。それだけのことだ。元々、成功することを期待して行うわけではない。やれることは全てやる。ただ、それだけのことだ。


「進路はライゼガング平原を突破し、再建が完了したゼクレス国の大橋を使う。大橋を使えば、最短で帝都に向かうことが出来る」
「しかし、」
「こちらが防御に徹すれば、それこそ防ぎ切れるものではない。帝国を叩くには此方から打って出るしかない」


 周囲全てが敵国なのだ。防御に徹することを選べば、こちらから打って出る機会は完全に消滅し、後は消耗戦に持ち込まれてしまう。いくら肥沃な土地を持っていたとしても、それはあくまで平時であれば有用なだけだ。戦時に有用というわけではない。時間が経てば経つだけ、不利になるのは帝国軍ではなくベルンシュタインに他ならない。
 打って出る機会があるうちにこちらから打って出るしかないのだと主張したゲアハルトの言に現場をよく知る軍部の人間は賛同を表す。だが、対して城仕えの文官たちは顔を見合わせて渋面を作っていた。無理もない差だと思いながらも、今はこの時間さえも惜しかった。こうしている間にも帝国軍は出兵準備を整えているのだ。


「捕えた捕虜の供述が上がっている。どうやら奴らは南方からも攻めてくるようだ」
「南方?」
「ああ。……帝国兵の捕虜を収容している施設から、だ」


 ゲアハルトのその一言に会議室はざわめいた。既に数日前にアベルの供述から明らかになってはいたことだ。リュプケ砦での戦闘の際に捕えた帝国兵を収容所に送る手配をアベルに任せたしたものの、その際に彼が手引きしたことだという。ルヴェルチが推薦した兵士という時点で警戒はしていたものの、その当時はそこまで警戒をしていなかったということもあり、任せてしまったことが裏目に出た。アベルが寝返ってくれたことが幸いして早くに知ることが出来たが、それでもやはり国内から攻められるとなると肝が冷える。
 だが、これは自分の甘さが災いしたものだという自覚もゲアハルトにはあった。法律に則っているとはいっても、敵兵である以上、いつまでも保護に徹する場合ではないのだ。アベルが供述してくれたからこそ、最悪の事態を免れることが出来ただけで本来ならばベルンシュタイン本隊が出払った後に無防備な王都を国内から襲撃されていたのだ。アベルには感謝してもしきれない思いだった。


「既にこの情報の裏付けは済んでいる。だが、先に収容施設の対処をしようものならその隙に帝国軍が攻め入って来ないとも限らない。よって、対応は二手に分かれて同時とする」
「しかし、それでは帝都に向かう兵力が十分ではありません!」
「だとしても、王都を落とされても終わりだ。かと言って、収容施設の対応にかまけて隙を作るわけにもいかない」


 薬物などの小細工をして何とか収容施設を押えるにしても、今のこの状況では容易なことではない。限られた時間と人数を適切に使わなければならないのだ。何より、既に占拠されていると言ってもおかしかくはない状況に収容施設だ。迂闊に手を出すぐらいならば、正面から叩き潰した方が余程ましだろう。言い返すことの出来ない兵士を横目にゲアハルトはあくまで同時出撃を主張する。容易なことではないが、それでも今考え得る最善の手段なのだ。


「全軍の出撃準備はあと数日で完了する。こちらに届いている帝国軍についての報告によると、あちらも出兵準備を整えている。どちらが早いか、競争だな」


 ベルンシュタインの出兵準備は半分ほど完了している報告が届いている。急がせなければならないが、空いた穴を塞ぐことも必要だ。配置変えも検討しなければと思いつつ、未だ渋る文官らの説得に掛かる。戦場を見たことがない彼らに対して、いくら言葉を並べても無駄だろうとは思うも、それでも理解を求めずに貫き通すわけにもいかない。とは言っても、状況が状況である。理解が求められずとも、実行に移す覚悟は出来ていた。
 その後、いくつかの案件の話を終えたゲアハルトは急いで出兵準備を勧めるように伝え、軍の再編を完了し、数日中には出兵を可能にするように命じた上で会議室を後にした。身体は重く、吐き出す溜息を重たいものだった。だが、それでも休んでいる場合ではないのだ。出兵が間近に迫っている以上、今の自分に出来ることをしなければならない。休んでいる時間などないのだから。


「……気が重いな」


 臨時の執務室に戻ったゲアハルトは椅子に腰かけると深い溜息を吐いた。身体が重たくて仕方ない。横になりたい気分になるものの、休んでいる場合ではないのだと自分の身体に鞭を討ち、引き出しから数枚の紙を取り出した。気が進まないと思いながらも、ゲアハルトはそこにペンを走らせる。
 エルンストが幽閉され、原隊復帰が難しい以上、誰か別の軍医を用意する必要がある。無論、軍医は数は多くはないものの、何人もいることはいるのだ。それでも、今まで前線にはエルンストが出ていたこともあり、前線での十分な経験を積んでいる軍医は多いとは言えない。だが、軍医を連れずに出兵するわけにもいかず、こうして人事異動の書類を用意しているのだ。
 既に数名分の用意は出来ている。書き終えた書類を脇に重ねながら、ゲアハルトは最後の一枚に取りかかる。しかし、なかなかその人物の名前を書けずにいた。異動を命じれば、素直に従ってくれるだろうか――そんな不安が過るのだ。否、それだけではない。このような命令を下す自分をどう思うのか。それを思うと、なかなかペンが動いてくれないのだ。
 あまりにも私情を挟みこみ過ぎて、つい自嘲してしまう。だが、これが軍にとって最善なのだと言い聞かせ、ゲアハルトはペンを握る手に力を入れた。自分を第二にいさせて欲しい――そう言われた時のことを思い出す。とても、真剣な様子だった。強くなるから、だから、と言い募っていた。
 彼女は強くなった。とても、以前と見違えるほどに、強くなった。だが、それでも異動を命じるのはそれが最善だと言い繕った自分のエゴだという自覚はあった。傷ついて欲しくないのだ。危険な目に遭って欲しくもない。だからこそ、少しでも安全な場所にいて欲しいという思いで、彼女にはその力があるからという建前を並べて、名前を書類に書きいれた。
 書き終えたそれを見て、ゲアハルトは自嘲した。彼女は、アイリスはきっと怒るだろう。どうして自分を後方支援に回すのか、と。きっと怒って、此処まで来るだろう。自分はそれを感情的にならずに抑えきることが出来るだろうか――ゲアハルトは唇の端を歪めて笑い、自嘲した。やるしかないのだ。ただ、それだけのことだ。たとえ彼女に恨まれたとしても、もう二度と隣を歩めなくてもいいから、どのようなものからも彼女を守れるように――ただ、その思いだけなのだ。それが自分に出来ることなのだと、ペンを置いたゲアハルトはただの押しつけでしかない自分の行為に気付きながらも、それがアイリスの為なのだと自分自身に言い聞かせた。



140209



inserted by FC2 system