代償 - regret -



 軍令部に入ると、中は他の軍用施設と変わらず慌ただしい様子だった。出兵する日が決まり、その日に向けて準備を進めていくにつれて周囲からは常の明るい雰囲気が消え、誰もが険しい表情になっていた。それも無理はない。帝国軍の全面戦争というだけでなく、南方の捕虜とした帝国兵の収容施設が乗っ取られているのだ。そちらの対応に人員を割かなければならず、そうなると万全の態勢で帝国軍とぶつかり合うことは出来なくなる。
 ただでさえ、圧倒的な兵力差があるのだ。だが、かと言って籠城したところで勝ち目はない。今でさえ周囲は全て帝国軍の属国なのだ。全方位から攻められる前に打って出る――それがゲアハルトの下した決断だった。その実、彼が黒の輝石を同質の白の輝石によって対消滅させようとしているということを知っているアイリスにしてみれば、何が何でも出撃しなければならないことも理解していた。
 黒の輝石はヒッツェルブグル帝国皇帝でありゲアハルトの従兄弟でもあるヴィルヘルムが所有している。だが、彼が前線に出て来ることはなく、引き摺り出すことも容易なことではないだろう。ならば、何としても敵陣の中に斬り込む必要がある。けれど、無事では済まないだろう。少なからぬ血が流れることになる。命を落とす者も多く出るだろう。出兵する兵士の一体どれだけの人数が生き残ることが出来るのか――それを考え、アイリスは地下牢に向かっていた足を止めた。
 けれど、結局は変わりはしないのだ。戦ったとしても戦わなかったとしても、血は流れ、命は奪われる。生き残ることが出来たとしても、そこに待つのは服従の道だけだ。暗く冷たい未来しかない。ならば、たとえ微かな希望であっても、それを手に入れる為に走る方が余程いいように思えた。


「アベル、エルンストさん」


 数日前にエルンストは牢が移動となっていた。何処に移動させられたのかと様子を見に行ったときは焦りもしたが、何のことはなく、アベルの牢の隣に移されただけだった。ゲアハルトが気を利かせたのだろうと彼らは言っていた。ぽつんとたった一人で薄暗い牢獄に入れられているよりは、たとえ冷たい石壁越しであったとしても隣に見知った者がいる方がいい。時折話している様子の二人にアイリスはほっとしたものだった。
 そして、今日も彼女は与えられた仕事をこなし、出来た僅かな時間を使って牢を訪れていた。二人のことが気掛かりだったのだ。アイリスは二人の名前を呼び、牢へと近づくも、返事はなかった。だが、薄暗い牢の中、蹲っている人影はあった。眠っているのだろうかと思うも、気配に敏感な二人が揃いも揃って眠っているなどとは考えられない。
 アイリスは「どうしたんですかっ」と慌てて牢へと駆け寄る。がしゃん、と掴んだ鉄格子の音が冷たく耳に響く。鉄格子の向こうにぐったりと倒れている二人の胸は微かに上下し、呼吸をしていることだけは窺える。そのことに一先ず安堵の息を吐くも、よく見てみると、身体中、僅かに血が滲んでいるところがあった。そのことにアイリスはさっと顔を青くする。手を上げられているのではないかと、そう思ったのだ。


「ん?ああ、また来てたのか。どうし、」
「何でっ何で二人ともこんなにぼろぼろになってるんですか!」


 見るからに痛めつけられた痕のある二人を背に、アイリスは声を掛けて来た見回りの兵士に声を荒げた。とてもではないが、放っておけるわけもなく、すぐに手当をしないとと彼女は牢を開けるようにと訴える。そんなアイリスに見回りの兵士は困惑した様子で「聞いてないのか?」と口にした。


「え?」
「言っておくけど、これは俺たち見回りが手を上げたとかそういうことじゃないからな」


 心外だと言わんばかりの兵士にアイリスはそれならどういうことなのかと眉を寄せる。この地下牢に出入り出来る者は決して多くはない。だからこそ、手を上げることが出来るとすれば見回り任務に就いている兵士ぐらいのものなのだ。だが、彼は違うと言う。ならば、一体誰がと考えていた矢先、「まあ、俺の口から聞くよりも見た方が早いな。付いて来てくれ」と言うと彼は歩き出してしまう。
 アイリスはちらりと背後を振り返る。アベルとエルンストの様子は先ほどと少しも変わっていない。浅い呼吸を繰り返しつつ、ぐったりとしている。一体何があったのかと思うも、それを知るには今は心配でも見回りの兵士の後を追わなければならない。後で手当をさせてもらおうと決め、アイリスはすぐに兵士の後を追いかけた。


「何……これ……」


 連れて来られたのは地下牢の最下層。そこには拘束され、ぐったりと倒れ込んでいる者で溢れていた。その誰もがアベルやエルンストと同じような様子であり、薄らと血を滲ませている。あまりの光景に呆然としていたアイリスはふとその空間の中央に置かれた小さな石に存在に気付く。アイリスはそれが、何か知っていた。それを見つけると同時に、この場に何が行われているのかを察することが出来た。
 改めてぐったりと倒れ込んでいる者たちの様子を見てみると、一様に中央の白の輝石へと繋がっている細い鎖を持たされていた。その鎖こそが、彼らに苦痛を与えている原因なのだろう。言葉を失うアイリスを横目にこの場に連れて来た兵士は顔を歪めながら「少し前から始まったんだよ。この実験」と呟いた。


「あの石を目覚めさせるんだって。この牢に閉じ込められてる奴らとか近所に閉じ込められてる犯罪者とか連れて来て殆ど休みなしで続行されてる。もちろん、代わる代わるだけど連れて来るこっちの身にもなれっての……正直、見てらんねーし……それに、魔力持ってなくてよかったって、今ほど思ったことないよ」
「……っ」


 彼は恐らく、白の輝石のことは知らず、ただ、連れて来る役目を負わされているだけなのだろう。自分が連れて来た者たちがどのような者たちであれ、生きるか死ぬかの状態に追いやられているのだ。見ていて決して気分のいいものではない。だが、白の輝石の覚醒は急務であるということもアイリスは分かっていた。輝石の覚醒なしには帝国軍に勝つことは出来ない。たとえ勝てたとしても、それは“勝った”とは言えないのだ。
 根源を断たなければ意味がない。だが、そのためにこのような非人道的な行為が許されていいのかとアイリスは唇を噛み締めた。これではまるで生贄だ、と拳を握り締め、「連れて来てくれてありがとうございました」とだけ早口に言うと、彼女は兵士の制止を振り切って地上へと続く階段を駆け上った。そしてそのまま、周囲の目線など気にも留めずに軍令部の中を駆け抜け、ゲアハルトの執務室に向かった。乱暴にノックし、返事も聞かぬまま「失礼します」と入るその様は落ち着きを欠いていた。


「アイリスか。どうした?」


 返事も聞かずに入室したアイリスに対し、一瞬驚いた顔をしたもののゲアハルトは手元の書類に視線を戻して常と変わらぬ冷静さで口を開いた。そんな彼の様子に苛立ちを感じながらも、「……一体、どういうおつもりですか」と彼女は自分自身を努めて落ち着かせながら口にした。


「何がだ」
「地下牢での覚醒実験のことです。あんな……あんな非人道的なことをして、一体どうするおつもりですか!」


 彼の口から返って来る言葉は予想出来ていた。それでも、言わずにはいられなかったのだ。人の命を擦り切らせるようなことをして、それでも成功するかは分からないのだ。仮に成功したとしても、決してその結果に喜ぶことなど出来ないだろう。無論、そのような考えが甘いことも知っていた。生きるか死ぬか、攻め滅ぼすか滅ぼされるか。そんな状況において、非人道的だ何だと言っている場合ではないことぐらい、分かっているのだ。
 自分たちが生き残る為に何人もの人間を殺してきた。自分の手だって血で汚れている。そんな自分が人道が何たるかなどと唱えることは出来ない。けれど、少なくとも倒れ込むアベルやエルンストの姿を見て、黙ってなどいられるはずがなかった。


「どうするもこうするもない。あれが今出来る最善のことだ」
「あれではまるで生贄です!」
「だろうな、成功するかも分からない実験だ。……だが、やる価値はある。勝つ為には必要な犠牲だ」


 常と何ら変わらぬ声だった。震えもない。その声音と言葉がアイリスの心に突き刺さる。冷たい人だとは知っていた。それでも、同じぐらい優しい人だということも知っていた。エルンストのことを友人として、大切にしていることも知っていたのだ。けれど、今のゲアハルトには冷たさしかない。まるで、エルンストのことを切り捨てた時に優しささえも捨てたかのように思え、アイリスは小刻みに震えるほどに拳を握り締めた。


「勝つ為なら何をしてもいいと、そうおっしゃるんですか……エルンストさんやアベルを犠牲にしても、」
「あの二人は自ら志願した。自分に出来ることがしたいと、だから、加えた。その時の実験は俺も見ている」


 それでもゲアハルトの様子は変わらない。淡々とした様子は冷え冷えとするものであり、然して興味もないと言わんばかりだった。あまりのその冷たい態度にアイリスは思わず「勝つ為なら何をしても許されるとお思いですかっ」と声を荒げた。感情的になっているのは自分であり、司令官としてのゲアハルトの考え方が間違ってはいないことも理解はしているのだ。けれど、そこに感情が追い付かない、どうしても納得出来ないのだ。
 そこで漸く、彼は書類に落としていた視線をアイリスに向けた。深い青の瞳はひんやりと冷たく、そのまま射抜かれてしまいそうな鋭さがそこにあった。


「ならば聞くが、君は負けてもいいと言うのか?」
「……それは……」
「我々が負ければその背に守っているベルンシュタインの国が侵略される。この地は燃え盛り、血も流れる。アイリス、君のような戦争孤児だって増えるだろう」
「……っ」
「それだけではない。国王としてレオは処刑され、生き残った者たちは全て帝国の奴隷にされ、一生日陰で生きることになる。敗者は勝者に従うしかない、それがどれだけ惨めであったとしても。周囲の帝国の従属国の有様を考えてみろ。暗く沈み、かつての栄光なんて見る影もない」


 真っ直ぐに告げられる言葉にアイリスは何も言い返せなかった。負けた後、どのような目に遭うのか――それを考えたことがなかったわけではない。だが、漠然と思っていた。ベルンシュタインが負ける時に、自分はきっと生き残ってはいないだろう、と。後のことを考えていなかったわけではない。ただ、考え切れていなかったのだ。
 ベルンシュタインを守りたいと言いながらも、負けた後、この国に生きる者がどのような目に遭うのかを分かっていなかった。周辺の帝国の従属国がどのような状況にあるのかを考えれば、決して負けていいはずなどないのだ。必ず勝たなければならない。そうでなければ、光に溢れ、豊かなこの国は永遠に失われてしまう。
 自分の口にしたことが、いかに自分自身の周りしか見えていないのか、後のことなど何も考えていないのかということが明らかになり、アイリスは顔を俯けた。ゲアハルトの言っていることは決して間違ってはいない。ベルンシュタインの為に私情を切り捨てたことは司令官としては正しいことなのだろう。そして、私情を切り捨てられず、感情的になっている自分は軍人としては間違っているのだとも思う。けれど、アベルやエルンストがたとえ自分で志願したのだとしても、あのように虫の息で倒れ込んでいる様を思い出すと、仲間を大切にしている彼だからこそ、付いて行きたいと思っていたその気持ちが、ぐらついてしまう。


「……丁度いい。君に届けさせようと思っていたものがある」


 顔を俯け、唇を噛んでいた彼女に対し、ゲアハルトは引き出しから取り出した書類を手渡した。差し出されたそれを受け取り、アイリスは大きく目を見開く。そこに書かれていた“異動”という文字に頭を殴られたかのような衝撃が走る。第二騎士団から後方支援への異動の旨が書かれ、そこには既にゲアハルトの署名が済まされていた。


「どういうことですか!」
「書いてある通りだ。第二から後方支援への異動、元々君は後方支援配置だった。元に戻るだけのことだ」
「だとしても、こんな急に……!」


 帝国軍との戦争に備えて人事異動が行われてはいたが、それが自分に及ぶとはまるで予想していなかったのだ。


「後方支援はエルンストの抜けた穴が大きい。その穴を埋める為にも君には異動してもらう」
「でも、」
「元々、君を第二に移したのもコンラッド殿の研究の奪取を目的に狙われる可能性があったからだ。その可能性もなくなった以上、第二に置いおかなければならない理由もない」


 その一言に、自分が第二に移された理由をアイリスは思い出した。元々、能力が認められて抜擢されたというわけではない。人を手に掛ける覚悟もなかった。そんな自分が第二にいられたのは偏に養父の研究内容を奪取しようとしていた鴉から身を守る為でしかない。だが、カサンドラらはもうそれらを狙うこともなく、また、実家の地下にあった研究施設も先日、地中で崩れたと聞いている。そうなると、戦うことにそもそも迷いのある彼女を第二に置いておく理由もないのだ。
 暗に足手纏いだと告げられ、アイリスは何も言えなかった。「君は後方支援の方が力を発揮できる。活躍を期待する」とまで告げられてしまえば、それ以上は食い下がれなかった。何も出来やしないのだと、第二での活躍など期待されていないのだということが言葉の裏に潜んでいる。そう思ってしまうと、それ以上、ゲアハルトの前に立つことも出来なかった。
 自惚れていたのかもしれない。自分は彼に近しいのだと。エルンストやアベルのことも、自分の口から言えば聞き届けてくれるのではないかと、勘違いしていた。そんなはずがないのだ。ゲアハルトはこの軍を取り仕切る司令官だ。私情で動くはずもない、いつだって冷静に必要な判断を下せる人間――分かっていたはずではないか、とアイリスはきつく唇を引き結ぶと頭を下げ、くしゃりと書類を握り締めながら足早に執務室を飛び出した。



140309



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