代償 - regret -



 顔をくしゃくしゃに歪めながら足早に軍令部の階段を下りていると、不意に階下から緊張した雰囲気が伝わって来た。その様子にどうしたのかと目の端に浮かんでいた涙を拭いながら顔を上げ、アイリスはよく使う地下牢へと続く階段を上ってきた人物に目を見開いた。思わず、「エルザ様……!」とその名を呼べば、階段を上り切ったエルザが顔を上げ、驚いた表情を浮かべる。


「アイリスじゃない!」


 エルザと顔を合わせるのは久しぶりのことだったが、それ以上にどうして地下牢に行っていたのかという気持ちの方が強い。軍令部の者たちも王女が地下牢に来たということに驚いている様子である。控えている副官の渋面からしても、地下牢を訪れたことをよくは思っていないのだろう。
 エルンストが幽閉されていることを思えば、彼女が地下牢を訪れたがることも決しておかしなことではない。だが、そのような場合はエルザが足を運ぶのではなく、エルンストが移動させられるはずだ。どうしてだろうかと不思議に思うも、今のエルンストの状態を考えれば、移動など出来るはずもないことは当然だった。
 彼女は見たはずだ。しかし、エルザの表情は常と変わらなかった。動揺した様子もなかった。白の輝石の覚醒実験がどのようなものであるのか、知っていたのだろうか――そんなことを考えながら階段を降り切ると、目の前に立ったエルザはアイリスを一瞥し、困ったように笑うと「久しぶりに話がしたいわ。時間はある?」と彼女に言われ、アイリスは誘われるがままにエルザの居室へと行くことになった。


「ばったり会うなんて思わなかったわ」
「……わたしも、驚きました。エルザ様が来られるとは思っていなかったので」
「止められたのだけどね。でも、どうしても……自分の目で見ておきたくて」


 視線を伏せながら口にするその一言で、彼女は覚醒実験のことを知っているのだということは分かった。アイリスは聞こうかどうか悩みはしたものの、意を決した様子で「エルザ様は、実験のことをどう思われているんでしょうか」と口にした。返って来る言葉は大方予想は出来ていた。だが、それでも聞かずにはいられなかったのは、もしかしたら自分と同じ気持ちかもしれないと思ったからだ。
 自分が正しいのか、間違っているのか――それが知りたいわけではない。既に分かっているのだ。人として間違ってはいなくとも、軍人としては自分の考えは相応しくないことぐらい。それでも、エルザに聞いたのはきっと心のどこかで自分の思いを認めて欲しいと思っているからだろう。


「そうね……王女として、この国を守る責務のある王族として……白の輝石の覚醒なくして戦争への勝利はない……この実験はやらなければならない実験だと思うわ」
「……」
「でも……個人的は、思うところはあるわ。あんな状態のエルンストや他の人たちを見ているとね。けど、それは私だけではないと思うの。この実験を指示してるゲアハルトだって、口では何と言っていても本心は別のところにあるはずよ」
「……」
「ベルンシュタインという国のことだけを最優先に考えれば、彼の判断は間違ってはいないし、彼自身もそう思ってるはずよ。この実験に関してはレオだって同じ意見だもの」


 でもね、ゲアハルトだって人の子よ。私たちと何ら変わらない感情だってあるし、思いだってあるのよ。
 エルザのその言葉にアイリスは口を噤んだ。冷たい人だと思った。優しいところもあるということは知っているのに、優しくだってされたのに、冷たい人だと、そう思った。私情を切り捨てたと思っていた。けれど、本当にそうだろうか――そんな問いが心のうちから浮かんでくる。


「ゲアハルトは、不器用なのよ。あんなに器用に何でもこなすのに、変なところで不器用な人よ」
「……」
「感情的になってはならない、感情的になったところで守れるものはない……きっとそう思ってるのね。間違ってはいなけれど、正解でもないと私は思うわ。どちらも半分半分ってところかしら」


 彼はただ、守りたいだけなのよ――その一言にアイリスは顔を歪めた。その気持ちは何より強いことぐらい、知っていた。ベルンシュタインの人間以上に、本当にこの国のことを思ってくれていることぐらい、痛いほど知っていたのだ。だからこそ、傍で力になりたいと思っていた。
 込み上げる涙を堪えるアイリスにエルザは慌ててどうしたの、と問い掛けて来る。まだ、異動になったことを伝えていないのだ。ポケットに乱暴に突っ込んだ書類を取り出して差し出すと、彼女はそれに目を通した。そして、驚くのではなく、困ったように笑っていた。「ほら、やっぱり不器用じゃない」と苦笑を浮かべている。


「アイリス、念のために言っておくけれど彼は何も貴女のことを邪魔だとか、邪険にしたわけではないのよ。何て口振りで貴女にこの書類を渡したのかは知らないけれど」
「……でも、わたしは……わたしは、力もなければ覚悟もありません。感情的にもなるし、」
「ゲアハルトは貴女にそんなものは求めてないわ、きっと」


 手を伸ばし、アイリスの頬を伝った涙を拭いながらエルザは笑った。


「言ったでしょう、ゲアハルトはただ、守りたいだけなのよ。この国も、貴女のことも」
「……え」
「あの人、頭はいいのに変なところで馬鹿だから。意地っ張りで変に周りに気を遣って……遠慮しているのよ、罪悪感もあるかもしれないけれど」


 ゲアハルトという一人の人にとって、他の何より大事なのが貴女だからこそ、傍にいちゃいけないって思ってるのではないかしら。
 エルザはそう言って、眉を下げて笑った。「アイリスと一緒にいたいと思ってる人は他にもいて、けれど、その人たちは傍にはいられない。それなのに、自分だけが傍にいるのはずるいんだって、そう思って」と言う彼女にアイリスはまさか、と首を横に振った。
 けれど、何となくは気付いていた。自身の周囲から向けられる気持ちに、何となく気付いてはいたのだ。けれど、そんなはずはないと考えないようにしてきた。気付かないままの方がいい、その方が今と変わらぬまま、穏やかなままでいられると思っていた。その考えこそが間違いであり、向き合わなければならないことから逃げて来ただけなのだということもまた、思い知らされた。


「人の気持ちと向き合うことって怖いものね。逃げ出したくなっても仕方ないわ」


 表情を硬くするアイリスにエルザは穏やかな声音で語りかける。膝の上で固くなっていたアイリスの拳に触れ、しっとりとした柔らかく温かな手が包み込んでくれる。その手から伝わる温もりにじんわりと心が温まっていく。


「貴女は少し、優しすぎるのよね。でもね、少しぐらい我儘になってもいいと思うの。だから、誰に何と言われても、自分が正しいと思ったことを貫き通しなさい。後悔だけはしてはだめよ」


 それがたとえ命令違反になるとしても、自分の正しいと思うことなら貫くようにとエルザは言う。後で後悔するぐらいなら、貫き通してから後悔した方がいいのだと。その言葉はとても真っ直ぐにアイリスの心に届いた。いざというときに、後悔するような選択だけはしないように――それはきっと、エルザの経験からの言葉なのだろう。切実な響きの籠ったその声に、彼女は小さく、けれど、はっきりと頷いた。
 今は自分に出来ることをしようと思う。けれど、状況が変わったその時に、自分の置かれている状況を改めて見た時に、自分の今やるべきことが何なのか――それが今自分のしていることと違ったのなら、その時には迷わずに自分の正しいと思ったことをする。そうしなければ、きっと自分は後悔すると思うのなら、たとえ周りに止められても、それを貫き通そうと思った。










「カサンドラめっ、あの女、陛下に拾われたご恩を忘れたか!」


 鳥が運んで来た手紙が寄越され、それに目を通すなり副官の男はぐしゃりとそれを握り潰して声を荒げた。対するヴィルヘルムは平然とした様子であり、冷やかな目で激昂する副官を眺めていた。元より予想出来ていたことであり、いつかは裏切るだろうと思っていた。それまで黒の輝石の研究に当たり、鴉を使って上手く動いてくれればいいと思っていただけのことなのだ。
 白の輝石を運んで来てくれたならよかったものの、それも然程期待してはいなかった。実際、ヴィルヘルムも白の輝石が欲しいというわけではないのだ。それが覚醒することにより、黒の輝石の存在を脅かす脅威となることを良しとせず、自分の手元で管理したかっただけのことだ。
 だが、白の輝石はゲアハルトの手に渡ってしまった。そうなれば、後は時間との戦いだ。万が一にもゲアハルトの手によって白の輝石が覚醒したとなっては、彼は何が何でも黒の輝石を消滅させに掛かるだろう。そうなると前に、是が非でもベルンシュタインの国そのものを叩き潰す必要があった。


「追跡しているブルーノが上手くあの女を始末してくれるといいのですが……」
「構わん、好きにさせておけ」
「陛下!?いえ、それでは示しが、」
「いいと言っている。同じことを二度言わせるな」


 ヴィルヘルムはぴしゃりと言い放つも、副官は納得がいかない様子だった。だが、それさえも彼にとってはどうでもいいことだった。関心は出兵準備であり、白の輝石の覚醒だけだ。あと少しで目的が成就する――その成就だけがヴィルヘルムの望みなのだ。
 この世界そのものを異界に落とし、全てをやり直す。それだけが彼の願いであり、目的だった。全ては黒の輝石の覚醒がきっかけだった。あの輝石の存在によって全ては捻じ曲げられてしまった。父親であるメレヴィスは狂い、兄である当時の皇帝を弑逆した。皇帝となってからも周辺国に次々と攻め入り、多くの血が流れた。待てども白の輝石を借り受けに行ったゲアハルトも戻らない。そして、空も晴れることなく、雨は降り続き、土地は痩せ細り、民も疲弊していった。
 もうどうすることも出来ないのだ。こうなってしまった以上は壊して無に帰すしかない。それが最善なのだといつしか考えるようになっていた。全てを壊し、無に帰すためには輝石がそもそも存在していたという異界に落とすしかない。カインとアベルが連れている召喚獣のいる異界――そこがどのような世界なのかは知れない。だが、今となってはそれもどうだっていいことだった。


「どうせ目的地は此処だ。黒の輝石を狙ってるくるだろう。だが、いくらあの女でもたった一人では何も出来まい」
「しかし、万が一も……!」
「今は出兵準備が最優先だ。それ以外のことは全て捨て置け。準備は滞りなく進んでいるのだろうな」 


 万が一を心配する副官を遮り、ヴィルヘルムは話題を強引に出兵準備へと変える。話題を根本的に変えられてしまうと、さすがにこれ以上、食い下がることは出来なかったらしく、副官は渋面を作ったまま「滞りなく進んでいるとのことです」と口にした。出兵準備といっても、帝都に控えている本隊を動かすわけではない。
 こちらから動くにはあまりにも距離と時間が掛かる。何より、その移動のための食糧も惜しいのだ。ならば、ベルンシュタインに比較的近い従属国の軍を動かした方がいい。完膚無きまでに叩き潰すためにはある程度、ベルンシュタインの本隊をこちらに引き付けなければならない。無論、こちらの手はゲアハルトにも読まれていることだろう。だが、それでも彼はやって来るはずだ。黒の輝石を破壊する為に何が何でもこの地に戻って来るはずだ。
 他のどのようなことを捨て置いても、ゲアハルトが自分に向かって来るということだけはヴィルヘルムは捨て置くことが出来なかった。もう十年以上、顔を合わせていない従兄弟。戻って来ると、必ず戻って来ると言っていたにも関わらず、彼は戻って来なかった。その恨みと憎しみ今も尚、ヴィルヘルムの心の中に残っていた。
 この世界を異界に落とす――それが彼の目的だ。だが、それと同じぐらいに願っていることは自分自身の手で、自分を、帝国を裏切った男を殺すということだ。どうしても許せないのだ。自分たちを裏切ったゲアハルトが、安穏とベルンシュタインで生きてきた彼が、どうしても、許すことが出来なかった。


「結構、そのまま待機させておけ。ゼクレス国の仮設大橋はどうだ」
「こちらも順調に進んでいます。ベルンシュタインの連中であれば通過することが可能かと……しかし、わざわざそこまでして奴らを誘き寄せなくとも、ライゼガング平原で止めを刺せばよいのでは……」
「止めは直接この手で刺す」


 自分自身の手を見つめ、ヴィルヘルムは呟く。もうすぐ夢にまで見た瞬間が訪れる。自分を裏切った男を殺し、そして、この世界を異界に落とす。そうすれば、全ては無に帰し、自分は漸く全てから開放される。憎悪の感情からも全てを壊してしまいたくなる衝動からも、ゲアハルトを殺したいという殺意からも、何もかもから解放される。
 いつだってベルンシュタインに攻め込むことは出来たのだ。しかし、黒の輝石の覚醒に合わせて事を進めてきた。そして、やっとそのその日を迎えることが出来たのだ。彼はずっと待ち侘びていた。全ての状況を整え、最も美しい盤面を作り上げた上で壊したい。ただ、それだけの為に待ち続けた。とは言っても、多少の不備は依然として残ったままだ。だが、それも刻一刻と変化する中で自然に消滅するかもしれないと考え、ヴィルヘルムはついに動き出した。


「鴉に伝令を出せ。帰還命令だ」
「ですが、それでは誰が収容施設で指揮を、」
「要らん。上手く動くように仕組んでいるはずだ」
「陛下、そのような不確かな状況のままにすることは余りにも、」
「鴉に帰還命令を出せ。……構わん、元より収容施設の兵士だけで上手くいくとは思っていない。リュプケ砦方面からも従属国の軍を動かせばいい」


 無論、北と南から挟撃されることもゲアハルトならば考えているはずだ。だが、ベルンシュタインは圧倒的に兵力が少ない。物量で攻め込まれれば為す術もない。だからこそ、上手くゲアハルトらが国を離れてから動かすことにはなるものの、たとえ、収容施設からの攻撃が失敗に終わったとしても、何ら問題はないのだ。 


「分かりました。そのように指示を出して参ります」
「ああ」


 納得し切れていない様子ではあったが、副官は頭を下げると足早に執務室を後にした。それを横目で見ながらヴィルヘルムは窓の外へと視線を向ける。雪が降りそうな、そんな分厚い雲に覆われて青空は見えない。今日は雨こそ降ってはいないが、それでも悪天候は相変わらずだ。去年よりも冷え込んでいるのではないだろうかとさえ思えるほど北風は冷たく、肌に刺す。
 今日もまた、誰かがこの寒空の下で餓えに苦しんでいるのだろう。何人も死んでいるかもしれない。それほどまでに帝都は荒れ果てていた。まだ多くの裕福な者たちは生きている。だが、貧しい者たちはそうではない。瞼を閉じると、ヴィルヘルムは初めてカインとアベルを見た時のことを思い出した。
 彼らは服を与えられず、最低限以下の食事しか与えられていなかった。薄汚れた痩せ細った子ども――読み書きさえも出来ない、そんな子どもたちに物を教えることを決して嫌いではなかった。思えば、彼らと出会い、鴉を作り、カサンドラを拾ってきた頃がもしかしたら最も穏やかな時間だったかもしれない。


「……だったら、何だと言うんだ」


 ぽつりと呟き、ヴィルヘルムは顔を伏せた。脳裏を過ったその当時に戻りたいとでも思っているのだろうかと考え、彼は自嘲した。戻りたいなどと思ってはいない。戻れるはずもないのだ。時間は常に一方通行であり、過去に戻ることなど出来はしない。壊れたモノは二度と元通りにはならないのだ。
 そうだ。だから、壊すのだ。壊してしまえば、もうどうすることも出来ない。苦しむことも悲しむこともない。全て無に帰すのだ。そうすることで漸く、自分は解放される。そして、その瞬間を迎える前に自分を裏切ったゲアハルトを手に掛けることが出来れば、望みは全て叶う。
 全て壊してしまいたい。そんな破壊衝動からも解放される。黒の輝石からも、解放されるのだ。そのことにヴィルヘルムの心は震えた。出来る限り、黒の輝石とは距離を置こうと思っていた。狂っていく父王の姿をすぐ近くで見ていたのだ。黒の輝石に恐怖心を抱かぬわけもない。だが、距離を置いたところで意味などなかったのだ。自分の願いはいつしかこの世界を異界に落とすことになっていた。元の願いは何だったのかはもう思い出せない。
 父王のように目に見えて狂っていないだけで自分はきっともうそれ以上に狂っているのだろう。そうでなければ、この世界全てを異界に落とすなど、願うはずもない。正気の願いではない。ああ、そうだ。自分は狂っている――それを認めると、不思議なぐらい、すとんと自分の中に落ちてきた。


「ああ……そうだ。私は、」


 狂っている。認めてしまうと、心が落ち着いた。そして、次第に嗤いが込み上げて来る。口の端が痛むほど、大きく開けて哄笑する。手当たり次第、執務机の上の備品を薙ぎ払って床に落とた。それを踏みつける度に鈍い音がする。足が痛む。けれど、それすら気にならなかった。
 世界が変わって見えたのだ。壊してしまえばいい、と心の底から思えるほど、世界は醜く歪んで見えた。



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