代償 - regret -



「アイリス」


 エルザの居室を辞去した頃には外は暗くなっていた。今までならまだ明るかった時間だということを思えば、すっかりと季節は冬に移り変わっているのだということを実感する。そう思うと、手足の先がひんやりと冷たい気もする。両手を擦り合わせながら、兎に角、早く宿舎に戻ろうと歩き出した矢先、こっそりと顰められた声音で名前を呼ばれた。
 え、と聞こえて来たその声に聞き覚えが合ったアイリスは目を見開き、周囲を見渡す。そのままきょろきょろと見渡していると、柱の影からひょっこりと顔を覗かせているレオを見つけた。こっちにおいでとばかりに手招きされ、アイリスは周囲を見渡した後、誰もいないことを確認してからレオの元へと駆け寄った。


「時間、大丈夫か?」
「わたしは平気だけど……」


 レオこそ、抜け出して来て平気なのだろうかとアイリスは眉を下げる。出兵までもう時間はない。自分よりも彼の方が立て続けに会議などが入って忙しいのではと彼女は心配する。しかし、レオは首を横に振っていつものように笑うと「オレは平気」と口にする。それは多分、嘘なのだとは思う。それでも、今を逃せば次にいつ顔を合わせることが出来るのかは分からないのだ。色々と気になることはあるものの、アイリスはそれに気付かぬ振りをして一緒に来て、というレオの後ろに続いた。
 人目を避けて歩くレオの後ろに続いて歩くうち、アイリスはあれ、と首を傾げた。広い城内だが、一時的に近衛兵団に異動していたということもあり、土地勘は少なからずある。だからこそ、レオが何処に向かっているのかということは歩いているうちに気付いた。それまで黙って歩いていた彼は唐突に足を止めると、渡り廊下から中庭へと踏み出した。そこは、かつて腹違いの兄であり、この国の第一王子であったシリルが管理していた中庭だった。


「……元に、戻ってる」


 消失した東の塔は再建されてはいない。だが、炎が放たれた時に塔と共に燃やされ、兵士らによって踏み荒らされていた花壇が綺麗に整えられていた。勿論、最後に見た時とは季節も違うため、植えられている花も違う。それでも、きっと、冬の花壇はこんな風になっていたのだろうという想像と重なり合う光景がそこには広がっていた。


「この中庭は兄上が管理してたんだけど、多分、こうなんじゃないかなって……姉上と相談しながら作り直したんだ」
「……多分、きっと……こんな風だったと思うよ」


 シリルのことをアイリスもそれほどよく知っているというわけではない。過ごした時間も、本当に僅かなものだった。それでも、きっと、彼ならば今、目の前に広がる光景のように庭を作り上げていたのではないかと思えてならない。そんなところに、レオとシリルが兄弟だという事実を思い出す。たとえ、半分しか血が繋がっていなくとも、彼らは確かに互いを大切に思った兄弟なのだと。
 この庭に来るのは、白の輝石を見つけに来て以来、初めてのことだった。元々、近衛兵団から騎士団に戻った時点で城に出入りすることは殆どなくなった。他にも様々なことがあったからということもあり、気掛かりに思っていても、なかなか来れなかったのだ。アイリスは薄暗い中、それでも目を凝らして庭を見渡す。けれど、そこにはかつてこの庭を案内してくれた人の姿はなく、そのことにじんと目頭が熱くなる。


「今日さ……姉上が教えてくれたんだ。アイリスが来てるって、人を寄越してくれた」
「……そうなんだ」
「多分、今日を逃したらもう会えないかもしれないから……多分、姉上もそう思ったんだと思う」


 レオのその言葉にどきりと心臓が大きく脈を打った。もう会えないかもしれない――その一言に、じわりと冷や汗が背筋に浮かぶ。どうしてと思うも、それを発するよりも先にレオはアイリスに真っ直ぐに向き直る。凛とした碧眼に真っ向から見つめられ、アイリスは視線を逸らしたい衝動に駆られる。それでも、何とか彼の目を見返し、言葉を待った。


「オレは、アイリスたちと一緒に、本隊と一緒に出撃しない」
「……」
「任されたんだ、別働隊の指揮を。別働隊を率いて、南の収容施設の鎮圧をさ」


 今まで小隊程度の規模の指揮ならしたことがあるけど、倍以上の規模の隊を任されるなんて思わなかった。
 そう言って、レオは微苦笑を浮かべている。考えるまでもなく、彼が自分たちとは一緒に来ないことは明らかだった。ゲアハルトも言っていたのだ。レオが討ち取られればそこで終わり。そのことを思えば、ゲアハルトが彼を最前線に連れて来るとは思えなかった。たとえ、どれだけレオがそれを望んだとしても、何をしてでも後方に置くだろう。
 本来ならば、このような全面戦争の場面において、国王が後方に置かれることはないだろう。士気にも関わる。最前線ではなくとも、前線には出て来るはずだ。だが、レオを失えば残る王家の人間はエルザだけだ。王家の男子はレオしかいないのだ。ならばこそ、誰もがゲアハルトの意向に従うだろう。そして、他の誰でもなくレオ自身が後方に置かれることを納得するように、彼には別の役目が与えられた。
 出来過ぎているのではないかと、ふと思ってしまう。これも全てゲアハルトの考えを読んだ上で帝国軍が仕向けていることではないのか、と。だが、結局のところは、誰かがベルンシュタインに残り、収容施設を鎮圧しなければならないのだ。任せられる者は決して多くはない。そうなると、レオが妥当であるということも明らかだった。


「大丈夫。あんまり経験はないけど、司令官に色々教わってるから上手くやるよ」
「……レオ」
「不安だらけだけど、あんまりそうも言ってられない状況だから。……でも、指揮だとか作戦だとか色々と教えてもらってると、やっぱりあの人は凄いって思った」
「……」
「やっぱり、オレの憧れた人だった」


 嬉しそうに彼は笑った。その笑顔は初めて会った頃、ゲアハルトを紹介してくれた時に浮かべていたものと同じだった。


「なあ、アイリス。オレは前線に一緒にいけないけど……でも、お前の周りにはたくさんの人がいる。司令官だっている、レックスだって……ああ、あの馬鹿はオレがちゃーんと叱っておいたから。だからもう、大丈夫なはずだよ」
「うん……ありがとう、レオ」
「いいって。オレがアイリスにしてあげられることなんて、もう殆どないから」


 先ほどまでとは打って変わり、少しだけレオは寂しそうに笑った。それは国王となったからなのだろうかと思うも、それを問い掛けることは出来なかった。レオはもう国王として生きることを決めている。ならば、彼を迷わせるようなことは言うべきではない。そう思ってい矢先、「でも、歯痒いな、本当に」とぽつりと彼は口を開いた。
 

「本当は前線に行きたいと思ってるからさ。ああ、大丈夫、勝手なことはしない。……ただ、思ってるだけだから」
「……うん」
「オレがベルンシュタインを守り切らなきゃ本隊が勝っても帰る場所がないんだもんな。だから、オレは自分に出来ることをするよ。アイリスたちが戻って来る場所を守り切る」


 その目は真剣だった。真っ直ぐに向けられる碧眼に、迷いはなかった。アイリスは小さく頷くと、「わたしも自分に出来ること、一生懸命やるね」と伝える。前線に行きたくても彼は行けないのだ。以前と同じように、レックスと肩を並べて戦いたいのだという気持ちが伝わって来る。それでも、レオは自分の役目をきっちり果たすことを選んだのだ。ならば、自分も後方支援という与えられた場所で、精一杯力を尽くすべきなのだと改めて自分に言い聞かせる。
 レオは目を細めて笑うと「頑張るのはいいけど、力み過ぎは逆効果ってことを忘れるなよ」と苦笑する。そして、数歩の距離を埋めると、彼は手を伸ばして力が入っているアイリスの肩を叩いた。とんとん、と叩き、それから、少しだけ顔を歪めると目を見開くアイリスの身体を引き寄せる。ぎゅう、と背に腕が回される。
 このようなところを誰かに見られたら問題だと慌ててアイリスは離すようにと促すも「人払いなら済ませてる」という落ち着いた声音が耳に届く。レオはこんなに用意周到だっただろうかと頭のどこか冷静な部分で考えるも、背中に回されている腕の微かな震えに気付くと、それ以上は何も抵抗出来なかった。
 彼だって本当は、怖いのだ。指揮を任されると言うことは、レオの一言で多くの兵士が動くということだ。そして、命令次第では兵士は命を落とすことだってある。そのことが、怖くないはずがない。何より、この地を守るということは収容施設にいる帝国軍の捕虜を残さず殺し尽くすということだ。レオはとても優しい。それを自分の手で行い、自分自身がその咎を背負うのならばまだいいのだろう。だが、自分の指示によって行うとなれば、話はまた別になってくる。彼の性格をよく知っていれば、このように考えることは想像に難くない。


「……ちょっとだけでいいんだ」
「……うん」
「あと、少しだけ」


 もう少しだけ、こうしていて欲しい。
 震える声が耳に届き、アイリスは目を閉じる。そして、落ち着かせるようにゆっくりとその背を撫でた。多分、きっと、レオが言っていたようにこうして会えるのは今日が最後だ。また会えるかどうかは、分からない。未来は不確かだ。会えるかもしれないし、会えないかもしれない。彼が生きていても、自分は死んでいるかもしれない。
 否、自分が死んでいる可能性の方が高いだろう。たとえ、最前線から離れた場所で後方支援として参戦していても、そこは前線には違いないのだ。無論、レオも国内ではあるが前線には立つことになる。だが、地の利はベルンシュタイン側にあるのだ。帝国領に進軍するアイリスとでは、そもそも置かれる状況が異なる。
 何より、彼は国王だ。他の誰よりも最優先して守られる存在だ。レオはきっと生き残る――そのことに、アイリスは心の何処かで安堵していた。そしてきっと、レオもそのことを分かっているのだろう。会えなくなるのは自分が死ぬのではなく、彼女が死ぬかもしれないからだ、と。無論、それはまだ決まった運命ではない。だが、限りなく高い可能性ではあるのだ。


「……なあ、アイリス」
「なあに?」
「笑って」


 身体を離し、レオは言った。少しだけ、泣いたのかもしれない。目の端に涙が浮かんでいた。けれど、アイリスはそれには気付かない振りをした。そして、笑みを浮かべる。口元に変に力が入って、引き攣ってしまう。違う、求められてる笑顔はこんなものではない――アイリスは小さく首を振る。その拍子に、いつの間にか浮かんでいた涙が宙に散った。
 自分自身を落ちつけて、ゆっくりと呼吸をする。そして、顔を上げると笑顔を浮かべてみせた。レオは手を伸ばし、少し硬い指先が頬に触れた。ゆっくりと指先で撫でるその所作がくすぐったく、彼女は笑みを零す。その手は頭へと移り、いつかのようにわしゃわしゃと撫でられた。ありがとう、という小さな声が聞こえる。その言葉に頷くと、レオは笑った。真っ暗闇を照らすような、そんな明るい笑顔。迷った時にはいつだって自分を導いてくれた太陽みたいな笑顔を前に、アイリスは今までありがとう、と別れの言葉を口にした。









 レオと別れて宿舎に戻る頃には空には一番星が輝いていた。ひんやりと冷たい夜風に身体を縮こまらせながらも足を止めてぼんやりと空を見上げる。夜空にあるのは冬の星座だ。思えば、夏を過ぎた頃から様々なことがあった。こんな風に空を見上げるのはいつ振りだろうかと考えつつ、それと同時にあと何度、自分はこうして空を見上げられるのだろうかと考える。
 何度だってあるかもしれない。だが、もうあと数度かもしれない。そんなことを考えていると自分のすぐ傍まで死がひっそりと近付いて来ているのかもしれないとも思った。けれど、不思議と怖くはなかった。否、怖いと、恐ろしいと思っているのかもしれない。ただ、それが感じられないだけ――既に麻痺しているのかもしれない。
 それはそれで恐ろしいと思いつつ、アイリスは視線を空から正面へと戻し、目を見開いた。宿舎の脇の壁に凭れかかるレックスを見つけたからだ。一体何をしているのだろうかと思う。だが、ただ何となく、もしかしたら自分に用があるのかもしれないとも思った。鍛錬場で顔を合わせてから今日まで一度も顔を合わせていないのだ。レオにもレックスはもう大丈夫だと教えられていたこともあり、気付けば足は自然と彼の元へと向かって歩き出していた。


「レックス……」


 声を掛けると、彼は伏せていた顔を上げた。一応防寒はしていたようだが、それでも長く外にいたのか、彼の鼻は目や髪と同じぐらい、赤くなっていた。レックスは少し驚いた顔をした後、一度視線を逸らした。しかし、すぐにアイリスへと視線を戻すと、「ちょっと、話したいことがあって待ってた」と口にする。
 仲違いしたままは嫌だとアイリス自身も思っていたこともあり、彼女はこくりと頷く。そして、身体を冷やすとよくないからと食堂で話そうと提案するも、レックスは首を横に振った。人がいるところでは出来ない話なのだろうかと首を傾げるも、「すぐ終わらせるから少しだけ付き合ってくれないか」と言われてしまえば、頷く他なかった。
 壁から背を離した彼はゆっくりとした足取りで宿舎の脇へと歩き出した。小さな庭となっているそこにはベンチもある。レックスはそこに腰掛けると、隣に座るようにとぽんぽんとベンチを軽く叩いた。アイリスは促されるままにそこに腰かけ、レックスが口を開くのを待った。


「……実はさ……オレ、最前線配置になった」
「……え?」
「部隊を率いて先行することが決まった。出撃は明後日」


 思いもしない言葉にアイリスは目を大きく見開く。そして、「待って、ちょっと待って、」と慌ててレックスの方を向き直り、身を乗り出す。最前線配置、それも本隊よりも先に部隊を率いて出撃するという事実に頭が追い付かなかった。もうすぐ出撃だとは思っていた。大体の予定は把握してもいたのだ。だが、まさかレックスが先行部隊として先に出撃することになるとは思っていなかったのだ。
 だが、取り乱すアイリスに対し、レックスはとても落ち着いていた。落ち着いた表情を浮かべて、苦笑している。その様子に彼女はどうして、と思った。先行部隊ということは、本隊が合流するまでに何かしらの任務を自分たちだけで遂行するということだ。与えられている任務が何であるかは分からない。だが、既にベルンシュタイン本国にある程度の兵力を残す以上、本隊の兵力も限られている。そこから更に先行部隊を出すのだ。レックスに預けられる兵力は十分ではないということは明らかだった。


「どうして……そんな……」
「司令官に信頼してもらえたからだよ。こんなに名誉なことはない」
「でも、」
「いいんだ」


 どういう気持ちで彼はこの任務を受け入れたのだろう。アイリスは言葉を失った。いいんだ、というその一言に、言い募ろうとした言葉を全て封じられてしまう。そもそも、分かっていたのだ。自分が何を言おうともレックスの意思は変えられない。何より、これは命令なのだ。上官の命令には従わなければならない。そして、きっと、先行任務を与えられるということは彼が言うように、とても名誉なことなのだということも、分かっていた。全てはレックスらに掛かっているのだ。彼らが任務を失敗すれば、それだけ本隊に影響も出る。だが、レックスらが任務に成功すれば、それはきっと本隊にとって大きな一歩となるのだろう。
 そうして得られる勝利の礎になれるのだ。それを思えば、とても名誉なことなのだろう。だが、それはあくまで軍人として考えれば、の話だ。幼馴染が最前線に、死地に立つのだ。生きて帰って来られる保証など何処にもない。それを思えば、どうしようもなく、胸が痛んだ。無論、任務を与えたゲアハルトのことを恨むつもりはない。それでも、どうして、と思わずにはいられなかった。


「……聞いたよ。後方支援に異動になったって」
「あ……うん」
「それを聞いて、正直、オレ……ほっとしたんだ」


 自分の話は終わりだとばかりにレックスは話題をアイリスの異動の話へと振った。だが、そう簡単に思考を切り換えられるはずもなく、彼女は顔を伏せたまま、頷いた。そんなアイリスに対し、レックスは目を細めて笑いながら呟く。


「出来れば、除隊して欲しいっていう気持ちは変わらない。変わってない。……でも、最前線に立つことがなくなって、安心した」
「……」
「お前には生きてて欲しいから。だから、よかった」


 自分は最前線に立つというのに、どうしてこんな時までわたしのことを心配するのか――そう言って、怒鳴りたくなった。自分の心配をして欲しい、もっと自分を大事にして欲しい。言いたいことは山ほどある。それなのに、とても穏やかに彼は笑うのだ。穏やかに、これは自分の選んだことなのだからと真っ直ぐな目を向けて来る。そのような目で見られてしまえば、何も言えなくなってしまう。
 レックスにだって生きていて欲しい。心の底からそう思うのに、言えなかった。上手く言葉にならなかった。気付けば、じわりと涙が滲み、すぐ近くで笑う彼の顔さえはっきりと見えない。自分はこんなにも涙脆かっただろうか――そのことを情けなく思いながら、アイリスは顔を伏せて、零れそうになる涙をやり過ごす。そんな彼女に、涙のことには触れず、レックスは「忙しいのは分かってるんだけど、オレの我儘を聞いてくれないか」と口にした。


「……何?」


 ぐすりと鼻を鳴らしながらも、アイリスは努めて自分自身を落ちつけて言う。ともすれば、色々なことを口にしてしまいそうになる。だからこそ、必要最低限のことしか口にしなかった。嗚咽も、言いたいことも、何もかも。それらは我慢しなければならない。そうでなければ、レックスを迷わせてしまう。自分が最前線に立つというのに、それでも尚、自分のことを気に掛けてくれる優しい人なのだ。迷わせてはならない、重荷になりたくはない――そう自分に言い聞かせる。


「明日一日、オレと過ごして欲しい」


 思いもしない言葉にアイリスは目を見開き、顔を上げた。だが、それと同時に分かってしまった。向けてくれる優しい笑顔を見て、ああ、また、と――これはお別れなのだと。レオが自分に別れを告げたように、レックスもまた、そうしようとしているのだと。


「……うん、」


 分かった。
 アイリスは小さく頷く。それと同時に、笑みを浮かべる。それでもやっぱり、頬が上手く動かない。いつもならそれをからかうであろうレックスも今ばかりは何も言わなかった。まるで、そんな不格好な笑みさえも目に焼き付けるように赤い瞳が真っ直ぐに向けられる。その視線にまた、じわりと涙が浮かんだ。




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