代償 - regret -



「今日、無理言ってごめんな」


 翌日。中央広場を並んで歩きながら、レックスは申し訳なさそうに口にした。程なく出兵するということもあり、大方の準備は既に完了してはいるものの、それでもやはり忙しいのだ。明日、出撃を控えているレックスは休暇を与えられてはいたが、アイリスはそうではない。そのことを彼は気にしているのだろう。
 アイリスは大丈夫だよ、と首を横に振る。忙しいことには変わりないのだが、後方支援としての医薬品などの準備は既に完了している。細々とした仕事はあるのだが、自分に割り当てられている仕事は何とか夜中のうちに終わらせることが出来たのだ。そして、どうしても今日は抜けたいのだということを頼み通し、何とか時間を作ることは出来た。その代わりとして、また夜は確認作業などを行わなければならないのだが、とにかく時間を作れたことにアイリスは安堵していた。


「目の下に隈が出来てる。……時間作るために夜中まで起きてたんだろ、ごめんな」
「だから、平気だよ。これぐらい、何ともないから」


 何とか隠せないだろうかと頑張ってはみたのだが、やはりこうして近くで見られると隠し通すことは出来なかった。眉を下げるレックスに平気だと首を横に振りつつ、彼の方こそ、休暇を自分と過ごすことに費やしてしまって本当にいいのだろうかと不安にもなる。他にもっと、したいことがあるのではないだろうか、と。そう思えてならないのだ。
 だが、アイリスは何も言わなかった。言えなかった。自分と過ごしたいと言ってくれたのだ。ならば、出来る限り、レックスの望むようにしたいと思ったのだ。ちらりと隣を見上げると、ごめんと言いながらもどこか嬉しそうな彼がいる。静かに浮かべるその笑みに、心が軋んだ。


「今日は行きたいところが色々あるんだ」
「何処?」
「お前に食べさせてやりたいなーって思ってたケーキもあるし、まあ色々」
「どっちかと言うと、レックスが食べたいんじゃないの?」
「その気持ちがないわけではない」


 いつもの彼らしい会話にアイリスはつい噴き出す。いつもと何も変わらない。目を細めて笑うその笑みも、「ほら、こっち」と歩き出す足が早いところも、何も変わらない。何も変わらないのに、ふとした瞬間に、これが最後なのだという考えが付き纏うのだ。今この瞬間も、こうして色々な店に連れて行ってくれるのも、偏にもう会えないからなのではないか、と。
 そう思う度に、心が軋む。太陽が少しずつ西に傾くにつれて、その痛みは増していく。笑うことが、辛くなる。目が痛くなって、ふとした瞬間に泣きそうになる。笑っていようと思うのに、それさえ難しくなる。少しだけ前を歩く彼の隣に、もう並べないのではないかと、その背を見ていて思うのだ。


「アイリス?」
「え?……あ、ううん。ごめんね、なに?」
「ちょっとそこの店で休憩しないか?さっきからずっと歩きっぱなしだったし」


 レックスの提案にアイリスは慌てて笑みを浮かべて頷く。今朝からずっと色々な店を回っているのだ。言われてみれば、そろそろ休憩を入れてもいい頃合いだ。レックスはじゃあこっち、と手招きすると店に入り、彼女には座っているようにと言う。そうしてしばらく待っていると、レックスはジュースの入ったグラスを手に戻って来た。


「はい、どうぞ。……あ」
「どうしたの?」
「取れ掛けてる、それ」


 そう言ってレックスが指差すのはアイリスが髪に挿していた赤い花の髪飾りだ。以前、レックスが贈ってくれたものでもある。せっかく出掛けるのだから、と付けて来たのだ。一度目に贈られたものは壊されてしまい、二度目に贈られたものも彼が迎えに来てくれた馬車が襲撃された時にそのまま失くしてしまったのかと思っていたのだ。しかし、予想に反して後で馬車を回収した兵士の一人が荷物を届けてくれたため、何とか手元に戻ってくることが出来た。
 取れ掛けている髪飾りを慌てて挿し直し、アイリスはほっと安堵の息を吐く。また失くしてしまったら、と思うと肝が冷えた。対するレックスはまさか付けているとは思いもしなかったらしく、その顔が少し赤い。「もしかして、付けてることに気付かなかったの?」と問うと、彼は居心地が悪そうにストローを噛みながら視線を逸らした。どうやら、そうらしい。


「何も言って来ないから、もしかしたら、とは思ってたけど」
「う……」
「ねえ、レックス。……似合ってる?」


 問い掛けると、レックスの視線がゆらゆらと彷徨いながら向けられる。心なしか、先ほどよりも顔が赤い。そんな顔で見られると照れてしまうのだが、それでも一度、ちゃんと聞いておきたかった。こくり、と彼は頷く。似合っている、とは言ってはくれなかった。それでも、頷いてくれるだけで十分だった。


「そ、それよりほら、もうケーキ来るから」
「ケーキ?」


 先ほど注文してくれたらしく、レックスが言うと丁度、誕生日ケーキのような小さなホールケーキを店員が運んできた。特にチョコレートプレートが飾られているというわけではない。だが、いちごと生クリームがたっぷりとデコレーションされているそれはまさに誕生日ケーキ然りとしていた。どういうことだろうかと思っているとレックスは目尻を下げて笑みを浮かべた。 


「誕生日ケーキみたいだろ?まあ、誕生日ケーキなんだけど」
「わたしもレックスも誕生日じゃないのに?」
「ああ。……これは、これまでオレが祝って来なかった分の、アイリスの誕生日のケーキ」


 同じ王都にいるのに、アイリスが師匠に引き取られたって知ってたのに、一度もこれまで会いに行かなかったから。
 それは以前にも言われた言葉だった。そのことを酷く後悔しているのだということも、言っていた。「気にしなくていいのに」と口にするも、レックスは首を横に振る。そして、アイリスにフォークを差し出すと、「ついでに入隊祝いとかも兼ねてるから」と彼は笑った。思えば、除隊を勧められることはあっても、今まで一度も入隊をレックスに祝われたことはない。
 今でも本当は、軍にいることをレックスはよく思っていないだろう。どういう心境の変化だろうかとも思う。だが、それと同時に気付いてしまった。彼はこれまでの誕生日を祝っていなかったからと言った。だが、きっと、これから先の誕生日を祝うことはもう出来ない――そう思っているからこそ、なのかもしれない。


「……レックス、」
「ほら、食おう。此処のケーキは美味しいんだ、オレのおすすめ」


 早く食べなきゃいちごなくなるぞ、といつもと変わらぬ笑みを浮かべる。その笑みを前に、どうして彼はこんなによくしてくれるのかと、もっと自分のために時間を使えばいいのに、と思わずにはいられない。自分はそこまでよくしてもらえるような人間でないのに、と。それでも、言えなかった。楽しそうに、満足げに笑うレックスを前にして、そんなことは言えなかった。レックスは自分のことをとても大事にしてくれている。それを分かっていればこそ、言えなかった。


「うん、……おいしいね。すっごくおいしい」
「だろ?」


 満足げにレックスは笑う。それを見て、自分もまた笑う。こんな時間がずっと続けばいい――そんな思いばかりが脳裏を過る。けれど、決して終わらない時間なんてものはないのだ。ケーキが少しずつ小さくなっていくように、店に差し込む陽光はだんだんとオレンジ色へと変わっていく。その色が今は、とても悲しい色に見えた。
 レックスは空になったグラスを置くと「最後にもう一か所、付き合って欲しい場所があるんだ」と口にする。最後に、というその言葉につい、肩が跳ねる。もうすぐこの時間も終わりなのだということを彼の口から知らされるとは、思わなかったのだ。自分と同じように、終わらずに続けばいいと、願ってくれているのではないかとばかり、思っていたのだ。


「丁度いい頃合いかもしれない」


 そう言いながら、少し前を歩くレックスの後に続く。一体何処に行くつもりなのだろうかと思いながらも、アイリスは何も聞けずにいた。上り坂を少し早目の歩調で上る。この程度のことでは疲れはしないのだが、もうすぐこの時間が終わるだと思うと、自然と歩みは遅くなり、次第にレックスとの距離が開いていく。
 それに気付いたらしい彼は足を止めて、振り返る。早く、と手を差し出される。言葉とは裏腹に、その表情はとても穏やかなものだった。心が軋む。差し出された手を掴めば、それと同時に一気に時間が過ぎ去っていくように思えたのだ。それでも、その手を取らないという選択は出来なかった。
 そろそろと手を差し出すと、ぎゅっと手を握られる。その手は大きくて、温かかった。指先から伝わるその温度に鼻の奥がつんとする。「うわっ、冷てっ……」そう言いながらも、レックスはぎゅっとアイリスの手を握る。そして、また歩き出した。そうしてしばらく互いに無言で歩き続け、坂道を上り切ったところには開けた高台が広がっていた。
 オレンジ色の夕日に照らされる城下がそこからは一望出来た。とても綺麗な光景に、アイリスは目を見開く。「綺麗だろ?」と隣に立つレックスが自慢げに言う。どうやら此処は、彼のとっておきの場所らしい。彼女がこくんと頷くと、レックスは満足げに笑った。それと同時に少しだけ、握られる手に力が籠る。


「……あのさ」
「うん……」
「誤解されたくないから言っておくけど、……先行部隊に志願したのは、オレからなんだ」
「え?」


 思いもしない言葉にそれまで景色に視線を向けていたアイリスは目を見開いてレックスを見上げた。至極真面目な顔をした彼と目が合う。その目が、嘘ではないのだということを物語っていた。


「一番戦える場所だから、行きたいと思ったんだ」
「……どうして……」
「……ずっと、オレが復讐したいと思ってたことは、知ってるだろ?仇を討ちたいんだって……そして、それに失敗し続けてることも」


 知らないわけがなかった。それを止めて欲しいとも思っている。だが、どうして今、そのことが出てくるのだろうかとアイリスは困惑する。だが、レックスが全てを話してくれるつもりだということが分かっていることもあり、彼女は静かに続きを待つ。


「オレ、あいつには剣術では叶わないって思い知らされたんだ。いくら努力したって鍛錬を続けたって、どうしようもないって」
「……」
「けどさ……、それはただ単純に、オレが自分の手で直接仇を討ちたいてこだわってるだけだって……そう思ったんだ」
「え?」
「オレ自身の手で仇を討つだけが復讐じゃないってこと」


 一体どういうことなのかが分からず、アイリスは困惑した表情で首を傾げた。そんな彼女にレックスは苦笑を浮かべつつ、もっと冷静になって考えたら、きっともっと早くに気付けていたはずなんだけど、と言い置いてから彼の至った結論を口にする。


「オレたちが、ベルンシュタインがこの戦争で勝ったら……それはそのまま、オレがあいつに勝ったことになると思ったんだ」
「……」
「だって、あいつは帝国の人間だ。オレ一人で勝てなくても、帝国に勝つことが出来たなら……って」
「……レックス」
「勿論、本当は直接勝ちたい。でも、そうするには、時間がないんだ。だから、最終的に勝つことが出来たならって……そうすれば、オレの勝ちなんだ。あいつの目的はこの国を手に入れることだろ?だったら、この国を守り切って帝国に勝てば、あいつの目的を挫いたことになる」


 それに、アイリスも守れる。
 その一言に彼女は大きく目を見開いた。これまでずっと、レックスにとって復讐を遂げることだけが生きる目的だった。それと同じぐらい大事なことのように、彼は自分を守ることにもなるのだと言った。告げられたその言葉にじわりと浮かんだ涙が零れた。


「どうして、……わたし、」
「……お前が、幼馴染で、仲間で、オレにとって一番大事な女の子だから」


 夕焼けに照らされて、それでも分かるほどに顔を赤くして照れたように笑うレックスに腕を引き寄せられる。そのまま、すっぽりと抱き締められた。暗に告げられたその言葉の意味にアイリスは返す言葉が見つからなかった。思いもしなかった、というわけではない。何も予想していなかったわけではない。だが、いざこうして目の当たりにするとなると話は別だった。
 

「もっと早く、会いに行けばよかった。ああだこうだって考える前に、会いに行けばよかったって……心底後悔してる」
「……」
「押し付けてばっかりでごめん。でも……後悔はしたくないから、これだけは言わせて欲しい」


 そっと肩を押されて距離が出来る。促されるままに顔を上げると、そこには目を細めて安心したように、そしてどこか、幸せそうにレックスは笑っていた。


「好きだった。大好きだった」


 告げられたその言葉に、涙が零れた。それはきっと、過去の言葉だったからだ。嫌いになったからというわけではないのだとは分かる。ただ、そう、もう会うことはないだろうからと、二度と会えないだろうから、とそんな意味が込められているようだった。そして何より、彼は返事を求めてはいなかった。
 思い残すことがないように、後悔することがないように――伝えようと思ったのだろう。だからこそ、返事を求めようとはしないのだ。レックスはただ、笑みを浮かべる。そして、彼女の頬を伝う涙を拭った。「伝えられてよかった」そんな呟きが耳を掠め、もう一度、ぎゅっと抱き締められる。


「あーあ……このまま、明日なんて来なければいいのに」
「……っ」
「それぐらい、今、幸せだ」


 耳に届いたその囁きに、堪らずアイリスはレックスの背中に腕を回した。明日なんて来なければいい――心底からそう思う。けれど、徐々に太陽は西に沈みつつある。オレンジ色の夕焼けも徐々に群青色に塗り潰されていくようだった。やがて月が昇り、月が沈み、朝日が昇る。その頃にはもう、彼はいない。
 行かないで、とは言えなかった。言ってはならないと思った。やっと、前向きに進むことが出来そうなのだ。復讐に囚われ続けるのではなく、もっと前向きになれそうなのだ。そして、何よりもレックス自身が選んだことを、否定したくはなかった。迷って苦しんで、そうして漸く行き着いた答えだ。それを間近で見ていたからこそ、彼の行き着いた答えがどれほど尊いものなのかが分かっている。
 だからこそ、止められないのだ。止められない代わりに、アイリスは上擦る声音のまま、「無理しないでね。気を付けてね、……頑張ってね」とそればかりを繰り返す。それしか、言えることがなかったのだ。しゃくり上げる彼女の背中を撫でながら、レックスはその言葉一つ一つに返事をする。そして、落ち着かせるようにゆっくりと頭を撫でてくれる。その手があまりにも優しいから――このまま、明日なんて来なければいいのにと、少しずつ流れていく時間を呪いながらアイリスはぎゅっとレックスの背に回す腕に力を込めた。



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