開戦 - struggler -



 レックスらが移動を開始した頃、アイリスは野営のテントから抜け出し、白い息を吐きながら辺りを見渡しつつ別のテントへと向かっていた。既に帝国領に侵入しているということもあり、野営地の空気は緊張感でぴりぴりとしたものだった。しんと静まりかえるそこは普段とは打って変わった様子ではあるものの、侵攻しているのだと思うと当たり前の空気だとも思った。
 夜の気温はベルンシュタインよりもぐんと下がる。すぐに身体が寒さに震え、奥歯がかちかちとぶつかり合う。アイリスは自身の身体を抱き締めながら、足を動かし続け、後方支援のテントの中でも奥まったところに設営されているテントの中に身を滑り込ませた。テントの中は外よりも幾分もマシではあるが、それでも寒いことに変わりはない。暗いテントの中は静まり返り、微かな寝息が聞こえて来る。その中をそっと足音を殺して歩いていると「……アイリスちゃん?」という微かに掠れた声が聞こえて来た。


「ああ、やっぱり。どうしたの?こんなところまで来て」


 ごそりと身体を起こす人影の方を向くと、そこには目的の人物であるエルンストがいた。このテントには白の輝石の覚醒実験を継続する為に連れて来られた人間に宛がわれたテントだった。今も交代で夜を徹して実験は継続されている。エルンストが次に実験に加わるのは明朝であり、今ならばテントで身体を休めているはずだと思ってアイリスは訪れたのだ。
 出来ることなら身体を休ませていて欲しいのだが、やはり気掛かりだったのだ。何より、自分自身も不安で仕方がなかったというところも大きい。普段ならば、レックスやレオ、アベルが傍にいてくれた。後方のテントに行けば、エルンストがいて、時折そこにはゲアハルトもいた。だが、今回は違う。今までとは比にならないほどの規模での出兵であり、敵地での野営であり、自分の周りには見知った者たちは誰もいないのだ。そのような状況で心細くならないはずがなかった。


「……ちょっと、外に出ようか。寒いだろうけど、休んでる人も多いからね」
「すみません……」
「いいよ。俺も小腹が空いたからね」


 そう言うと、エルンストは身支度を整えてそれまで自分が被っていた毛布を持つと、テントを出た。その後に続いて外に出ると、吹きすさぶ冷たい夜風に身体が震える。エルンストは「寒っ」と長身を縮み込ませながらもテントを離れると、物資が集められているテントへと向かった。そして、丁度人が離れていることをいいことに手早く焚き火用の薪や枯れ木を抱え、ついでにとばかりにヤカンに牛乳を入れ、二つのマグカップと共にアイリスに持たせる。そして、適当にパンなどをポケットに突っ込むと足早にテントを後にした。
 勝手に焚き火などして大丈夫だろうかと心配になるも、常と変わらぬ飄々とした様子で自分の好きなようにするエルンストの様子を見ていると、ほっと安堵することに気付く。普段とはまるで違う状況に置かれているからこそ、何ら変わらぬ彼の様子を見るだけで、じんわりと心が温かくなるのだ。
 エルンストはテントの裏手に回ると、手早く焚き火の準備をする。そして、魔法を使って薪や枯れ木に火を付けるとぱちぱちと小さな音を立てて温かな色をした炎が夜風に揺れながらも少しずつ大きくなっていく。その傍に座り込むと、エルンストはアイリスから受け取ったヤカンを焚き火のすぐ近くに置き、ポケットから取り出したパンを一つ、彼女に差し出した。


「他の人には内緒だよ」
「勿論です。……でも、すぐにバレちゃいそう」
「まあ、そうだろうけど叱られないから平気だよ。焚き火ぐらいじゃあね、つまみ食いがバレたら叱られるだろうけど」


 俺は腫れ物扱いだから焚き火程度のことじゃあ何も咎められないよ、とエルンストは肩を竦めながら言うと、パンを食べ始める。そして、思い出したように持って来ていた毛布を広げると、それをアイリスの肩に掛けた。「エルンストさんが使ってください」と慌てて毛布を彼の肩に掛け直そうとするも、いいからと断られてしまう。


「俺は平気。アイリスちゃんは女の子なんだから、身体を冷やさないようにしないと」
「でも、エルンストさんが風邪を引いちゃいます……」
「そんなに柔でもないよ」
「だからって……あ、じゃあこうしましょう!」


 いいことを思いついたとばかりにアイリスは明るい声を上げると、エルンストとの距離を詰めてすぐ隣に座り、自分の肩に掛けられていた毛布を広げて隣に腰掛ける彼の肩に掛けた。一枚の毛布を二人で使うには少し無理はあるものの、それでも何とか暖を取ることは出来る。これでいいとばかりにアイリスは満足げな表情を浮かべると、パンにぱくりとかぶりついた。
 そんな彼女にエルンストは唖然とした様子だった。それも無理はなく、何とも言えない表情を浮かべる彼に気付いたアイリスはどうしたのかと問い掛ける。


「……俺がアイリスちゃんにしたこと、忘れたわけじゃないよね?」
「え?……ああ、はい。覚えてますけど……でも、だからってやっぱり態度を変えるなんてこと、出来ませんよ」


 エルンストが言わんとしていることは分かった。だが、それでも態度を変えることは勿論、距離を置こうとも思えなかったのだ。苦笑を浮かべながら言うアイリスに、彼は納得が出来ない様子だった。態度を変えられて、距離を置かれて当然だと思っているのだろう。それにも関わらず、今までと何ら変わりなく接するアイリスに、傍にいる彼女に、色々と思うところがあるらしい。


「だって、あのことがあっても……わたしはエルンストさんのこと、嫌いになんてなれなかったんだから」


 嫌いになれていたのなら、今だって傍にいないし、そもそも来ないし、地下牢にだって通いませんでしたよ。
 ベルンシュタインに戻ってから出立までのことを思い返しながらアイリスは苦笑混じりに言う。本当に、嫌いになどなれなかったのだ。驚きもした、悲しみも苦しみもした。痛みもあった。それでも、エルンストだって自分と同じぐらい、悲しみ、苦しんでいたのだと思うと、嫌いになどなれるはずもなかった。


「……俺は……、……ううん、何でもない」


 それっきりエルンストは口を閉ざしてしまった。それでも、肩に掛けた毛布は拒まれず、すぐ隣にいるこの距離も変わらなかった。そのことにアイリスは安堵しつつ、目の前の温かな炎を見つめた。ゆらゆらと揺れる橙色を見つめていると、不思議と心は落ち着いて来る。心細さも隣にエルンストがいてくれることで緩やかに溶けていくようだった。


「……実験はどうですか?」


 ぱちぱちと焼ける木々を見つめながらアイリスはぽつりと呟いた。進捗状況はアイリスの耳にも届いてはいるのだが、詳しい状況までは知ることは出来ない。エルンストはパンから口を離すと、「芳しくはないな」と険しい表情で答える。そもそも、実験の方法そのものが適したものであるのかどうかさえも分からないのだ。
 今現在行われている白の輝石の覚醒実験は外部から魔力を与えることで覚醒を促すものであり、それはコンラッド・クレーデルの研究の中で提案されていたものだ。しかし、実際に彼によって実験が行われたわけではなく、あくまでも案として書き記されていたものだ。時間もなく、新たに研究する余裕もなかったため、コンラッドによって提案されていた実験を行っているに過ぎず、この実験によって白の輝石が覚醒する保障は何処にもないのだ。
 もしかしたら無意味なことなのかもしれない――そんな考えがエルンストにもあるのだろう。険しい表情を浮かべたままの彼から視線を外し、アイリスはそうですか、と呟く。時間はない。帝都に辿り着くまでに覚醒させなければ、ゲアハルトの為そうとしている輝石の対消滅は実現しない。


「こっちは上手くいってないのに、あっちは上手くいってるみたいで嫌になるよ」
「そうなんですか?」
「うん。例えばほら……ライゼガング平原と川を渡ってからこっちの土地とか気候とか、空とかさ……ぱっと見て分かるぐらいに荒れてるでしょ?」


 それらは全て黒の輝石の影響によるものだとエルンストは言った。ゼクレス国での小競り合いの後、本隊は仮設大橋を渡って北上した。その道中は、だんだんと荒野に向かっていくようであり、天候は荒れ、太陽は分厚い雲に隠れ、大地は痩せ細っていた。遠くに黒々とした森は見えたものの、それらも枯れ果てているらしく、青々としたベルンシュタインの森とはまるで違っていた。
 このような土地で生活出来るのだろうかと考えるも、出来るはずもないことは目に見えて明らかだった。だからこそ、彼らは周辺の国に攻め入り、食糧を求めたのだろう。そうして、周辺の国を取り込んだ結果、大陸に残る国はベルンシュタインだけになってしまった。地形や帝国から最も離れた国であったことが幸いしたのだろう。また、建国当時から国宝として伝わる白の輝石が未覚醒でも存在したからこそ、荒れ果てた気候からも守られていたのかもしれない。


「……何で輝石なんてものがあるんでしょうか。あんな石がなかったら……こんなことにはならなかったのに」
「それは俺にも分からないけど……でも、そうだね。アイリスちゃんの言う通り、輝石なんてなかったらよかった。でもさ、もう存在しちゃってるんだ。……だから、なかった場合のことを考えたってどうしようもないよ」


 在るものは在るものとして受け入れるしかないのだとエルンストは言う。なかったのならと仮定の話をしても意味はない。それを実現することは出来ないのだ。彼の言う通りであり、それは理解できている。それでも、輝石の為に失ったものはあまりにも大きい。そのことを思うと、自然と顔を俯けてしまう。膝に顔を押しつけていると、不意に恐る恐るといった手つきで頭を撫でられた。今までとはまるで違う、その触れ方にアイリスは顔を歪めながらもくすりと笑った。


「……輝石の所為で失ったものも多いけど、でも……得られたものも多いですよね」


 アイリスは顔を上げると手を引っ込めたエルンストを見上げた。彼にだって、出会うことはきっとなかったのだ。戦争がなければ、きっと顔も知らぬ両親と共に生活を送っていたことだろう。レックスとも出会うことはなく、王都を訪れることもなかったはずだ。レオやエルンストと出会うことはなく、況してや生まれが帝国のゲアハルトやアベルとは最も出会うことはなかっただろう。
 それを思うと、悪いことばかりではなかったとも思う。アイリスがそう言うと、エルンストは暫しの後に目を細めて笑うと「そうだね」と頷いた。彼は腕を伸ばすと、温まったヤカンを引き寄せてマグカップに湯気の立つ牛乳を注ぐ。それをアイリスに差し出すと、冷ましながらエルンストは自分のカップに口を付けた。
 彼に倣ってふうと息を吹きかけながらカップに口を付けると、じんわりと温かい牛乳が口の中に広がる。ほっと心が休まるその優しい味と温度に落ち着くのはアイリスだけではなく、エルンストも同じようだった。


「アイリスちゃんは……司令官と会った?」
「いえ、出立してからは一度も。エルンストさんは?」
「俺も会ってない。こっちからは行けないし、……もし会ったら様子を教えて欲しいんだ」


 心配なんだ、とエルンストは言った。


「焦ってないはずがないんだ。黒の輝石は覚醒間際、ううん、もしかしたらもう覚醒してるかもしれない。あれの危なさは司令官が一番よく分かってる。だから、きっと焦ってる。それにレオたちのことも心配だろうからね。それに……」
「それに?」
「……俺たちが相手取るのは帝国だ。司令官にとっては、母国だ。それも帝国の皇子だった。そんな司令官が、自分の国を攻めるのに、何とも思わないわけがない」


 それは前から分かっていたことでもある。だが、いざこうして侵攻を開始してしまうと、やはりゲアハルトのことをよく知る者にしてみれば、不安なことだらけだ。ゲアハルトが裏切るだとか、そういうことの心配をしているわけではない。ただ、彼が無茶をしないかが、独りで傷ついていないかが、苦しんでいないかが心配で、不安なのだ。
 ゲアハルトの傍には今、誰もいない。エルンストを遠ざけ、アイリスも遠ざけられた。たった独りで最前線に立っているのだ。誰の支えも必要とせず、彼だけの力で立ち続けている。けれど、それをずっと続けられるはずがないのだとエルンストは口にした。前進すればするだけ、帝都に近付いていく。彼の生まれ育った場所に近付いていくのだ。そこに辿り着く前に、きっと多くの帝国の人間の血が流れるだろう。彼が本来守るべき者たちの血が染みついた地を進んでいく。傷つかないはずがないのだと声を絞り出すエルンストからアイリスは顔を逸らした。


「だからって司令官は絶対に手を抜いたりしない。血で血を洗うことになっても前進する。……だからね、アイリスちゃんにお願いがあるんだ」
「……わたしに?」
「司令官の、傍にいてあげて欲しいんだ」


 俺の代わりに支えてあげて。
 エルンストは笑みを深めて口にする。けれど、彼女はその言葉に首を横に振った。


「わたしでは役不足です。エルンストさんの代わりなんて出来ません。それに……わたしは外されたんです、前線から」
「それはアイリスちゃんが心配だからだよ」
「でも……」
「それとも、アイリスちゃんはこの異動に納得してるの?」
「してるわけありません!わたしだって……わたしだって……」


 言葉が続かなかった。エルンストの前で言うには憚られたのだ。そんなアイリスの気持ちに気付いたのか、彼は微苦笑を浮かべる。そして、ゆっくりとアイリスの頭を撫でながら「そう思ってるのなら、傍にいてあげてよ」とエルンストは言った。


「遠ざけられたからって諦めずに、傍で支えてあげてよ」
「……」
「口では何と言おうと、司令官は今独りなんだ。孤独なんだよ。だからこそ、何を言ってもどんなことをして遠ざけても、変わらず傍にいてくれる人が必要なんだ」


 司令官は優しすぎるから――エルンストは寂しそうに笑った。彼の傍にいることが出来ないのが、支えられないことが、寂しいかもしれない。もしかしたら、違う理由で寂しいのかもしれない。つい、浮かんだ言葉が口を突いて出てきてしまいそうになる。慌ててアイリスはそれを押し込めると、代わりに小さく頷いた。
 彼だって本当は傍に行きたいのだ。けれど、エルンストは白の輝石の覚醒実験を選んだ。それは偏に、ゲアハルトの為だ。彼が何よりも望むことは輝石を対消滅させること――それを実現させる為には白の輝石の覚醒が何よりも重要であるからこそ、エルンストは実験を選んだ。そして、自分が傍で支えられない代わりにと、アイリスの背を押してくれたのだ。
 そこに、痛みも苦しみも悲しみもあるのに、無視をしているのは他の誰でもなくエルンストなのだとアイリスは気付いていた。彼の気持ちは今でもきっと、変わってはいないのだろう。それでも、エルンストは背中を押してくれた。ゲアハルトの元に行くことを躊躇う自分の背を、気持ちを押し殺して押してくれたのだ。
 酷い仕打ちをしてしまったとも思う。けれど、謝罪の言葉を口にしてはならなかった。何も言わずに、ゲアハルトのことだけを考えて背中を押してくれたのだ。ならば、そこにあるはずの痛みも何もかも、気付かぬ振りをしなければならない。そうでなければ、それこそエルンストの気持ちを踏み躙ることになる。


「……きっと、わたしだけでは不足です。でも、踏ん張ってみます」
「うん……よろしくね」
「はい。だから……エルンストさんも、早く来て下さいね」


 わたしが支え切れなくなる前に――そう言うと、エルンストは驚いたように目を見開いた。止まった頭を撫でる手を掴み、アイリスは真っ直ぐに彼に彼を見つめて訴えかける。「司令官はエルンストさんが来ることだって、待ってるはずです」と彼女ははっきりとした声音で告げる。
 心配だからこそ遠ざけたと言うのなら、エルンストにだって言えることだ。ゲアハルトは彼のことを大事に思っている。これまでがそうだったように、今だって変わらずにそう思っているはずだ。アイリスがそう言うと、彼は酷く驚いた顔をしていたが、暫しの後に少しだけ泣きそうに顔を歪めながらも笑みを浮かべると、小さく頷いてくれた。
 そのことに安堵しながら、アイリスは決心する。夜が明けたら再び行軍が始まる。そして、帝国軍に動きさえなければまた夕方頃には野営の準備に入ることになるだろう。その頃であれば、ゲアハルトも時間が取れるはずだ。軍議をしている可能性もあるが、待てば真昼間よりも時間は取ってもらいやすいだろうし、アイリスも時間は作りやすい。
 顔を見ることしか出来ないかもしれないが、それならばまた時間を見つけて行けばいいのだ。それだけのことだと自分に言い聞かせながら、アイリスは少しだけ冷めてしまったホットミルクに口を付けた。そして、時間が許す限り、エルンストとこれまでの出来事のことを話した。互いに楽しかった頃のことを思い返しながら、互いの心を温め合うように。

 















 夜も更け、一段と寒さが増した頃、レオは王都と南部の帝国軍の捕虜収容施設の丁度、中間地点に設営された本陣のテントにいた。日没と共に王都を出立した先遣隊から準備が整ったという報告を受け、先ほど本陣に到着したのだ。既に周辺の街への避難も完了しているため、後はレオの号令一つで戦闘開始という状況である。
 ライゼガング平原で戦ってからというもの、今まで一度もレオは剣を握る機会がなかった。幽閉されたり、会議に出なければならなかったり、即位式があったりと、なかなか鍛錬をすることも出来なかった。鍛錬と言えば、レックスを叱りに城を抜け出した際に彼としたことが思い起こされる。先発隊として先に帝国領に侵入しているレックスらは大丈夫だろうかと心配になるも、レオは頭を振ってすぐにその考えを外に追いやる。
 気にはなる。気にならないはずがないのだ。だが、収容施設を制圧すること以外に気を配っている余裕はない。無論、国王として全体のことを見なければならないことは分かっている。しかし、自分がゲアハルトのようにそう易々と全体を見通し、全てに指示を出すことが出来るほど器用な人間ではないということをレオは自覚していた。ならば、目の前のことを一つ一つ確実にこなしていくしかないのだ。不甲斐ないなと思いつつも、レオはこっそりと溜息を吐く。


「大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫。緊張してるだけ」


 こっそりと気付かれないように吐いた溜息はどうやら無意味だったらしい。しっかりとその溜息に気付いたアベルは視線をレオに向け、僅かに心配そうな表情を浮かべる。自分と共に来ることを選んだアベルをレオは身近に置いていた。傍から離して何かあるとよくないからと平気だと言うアベルに頻りに言い聞かせて、自分の傍にいるようにと言いつけたのだ。
 鴉の一員として動いていたアベルは一度、バイルシュミット城を襲撃している。その時に彼の姿を見た者がいるかもしれないのだ。余計な話が広まれば、それこそ、アベルが害されるだけでなく、足並みを揃えることが出来なくなってしまう。その点、自分の傍から離さなければ、人目に触れることも最低限に抑えることが出来るとレオは考えたのだ。


「緊張って…………大丈夫だよ、指揮を執るって言ってもいつも指揮を出していた小隊に対して出すみたいな感じで大丈夫なんだから」
「規模が違うだろ、規模が。それに指揮を出す部隊の数だって多いんだ」
「それでもやることは変わらないよ。大丈夫、あんたは上手くやれるよ。だから、司令官はあんたに此処を任せたんだから」


 本当に任せられないと思っていたのなら、あの人はあんたがたとえ国王でも指揮官は別に立てるよ。
 アベルは当然だとばかりに口にする。しかし、言われてみるとああ確かに、とレオは納得もした。ゲアハルトは相手が国王だからといって、遠慮をするような人間ではない。そういう意味では、ちゃんと認められて任されているのだといえる。だが、かと言って、不安や心配、緊張がなくなるというわけではない。
 幾分か顔色はよくなったものの、それでもやはり表情は強張っている。このような状況で兵士の前に出れば、自分が感じているそれらが伝播しかねない――落ち着かなければとレオは深呼吸を繰り返す。だが、深呼吸を繰り返す程度で収まるのならば、アベルも心配はしないのだ。


「ところで、前から聞いてみたかったんだけど」


 深呼吸を繰り返すレオに対し、アベルは口を開いた。その声音は溜息混じりであり、前から聞いてみたかったと言いつつも、レオの気を紛らわせる為に彼が口にした言葉であるということは明らかだった。


「何だよ」
「どうしてあんたは二刀流なの?別に両利きってわけでもないのに」


 そう言ってアベルはレオが腰に差している剣に視線を向けた。そこには二本の剣があり、彼が指摘するようにレオは両利きというわけでもない。ならばどうして、とアベルが思うことも無理はなく、彼の視線を辿って自分が持つ二本の剣を見つめたレオは僅かに目を細めると懐かしむように微かな笑みを浮かべた。


「母さんの形見なんだ」


 軍人であり、見初められて第二妃となった庶民の出の母、アウレリアの形見であるそれらに触れる。実際に彼女がそれを手にしている姿を見たことはなかったが、それでも時折、育ててくれた祖母や鍛錬を見てくれた父は懐かしそうに彼女がいかに武勇に優れていたのかということを話してくれた。けれど、決まって祖母は悲しげになり、父は寂しげになる。祖母にしてみれば、武勇に優れることがなければ娘を失わずに済み、父にしてみると、それがあったからこそ出会えたけれども、それ故に彼女を失うことにもなったため、寂しくなるのだろう。
 それを手にする孫を、息子を見た彼らがどのような気持ちになったのかをレオはもう知ることは出来ない。それでもきっと、この国を守り切ることが出来たのなら、彼らは喜んでくれるだろうと思う。亡き母もきっとそれを望むはずだとレオは信じていた。


「使いこなせるようになるまで時間は掛かったけど、今ではこれが一番しっくり来る。……それに……この歳になったこんなことを言うのもあれだけどさ、……母さんが見守ってくれてる気がするんだ」


 そっと柄を撫でながらレオは口にした。自分は一人ではないのだと、そう思える気がする。それが自分の勘違いだとしても、思い込みだとしても、自分がそう感じているのだからいいのだと彼は思っていた。だからこそ、「いいんじゃないの、そう思ってて」というぶっきらぼうなアベルの返事を耳にしたときには、ついきょとんとした表情を浮かべてしまった。


「……僕はそういうの、よく分からないけど。でも、そう思うのに歳も何も関係ないでしょ。家族ってそういうもんだと思うけど」


 よく分からないけどねと付け加えながらアベルは顔を背ける。彼なりの励ましの言葉にレオは目を見開くも、すぐに破顔して嬉しそうに頷く。それと同時に家族という言葉を聞いて、自分を城で見送ってくれたエルザのことを思い出した。彼女はレオに残された最後の家族だ。血は半分しか繋がってはおらず、家族として過ごした時間はとてつもなく短いものだ。
 それでも、彼女は自分のことをシリルと同様に弟として扱ってくれた。姉と慕えば、優しく笑って迎えてくれた。エルザは自分に残されたたった一人の姉なのだ。もうこれ以上、家族を失いたくはないのだと、レオは拳を握り締める。


「……ねえ、大丈夫だよ」
「……アベル?」
「そんなに力まなくても、不安に思わなくてもさ。あんたには僕や、大勢の仲間がいる。上手くいくよ」


 その言葉に振り向くと、アベルは背を向けて立っていた。真っ直ぐに伸びた背筋を見遣り、レオは少しだけそれを眩しそうに見た。


「……そうだよな。お前がいて、大勢の仲間がいて……それなのに、オレたちが負けるわけがないよな」
「そうだよ。だから、辛気臭い顔はしないでよ、それこそ士気に関わるよ」
「酷い言い草だな。……でも、お前の言う通りだよ。それに、オレたちよりも本隊の方が大変だよな」


 ゲアハルトが率いる本隊は現在、帝国領に侵攻している。こちらよりも気候は厳しく、敵地であることから気を抜くことも出来ない。応援もなく、出撃している彼らだけで全ての事柄に対応しなければならない。たとえ、どれだけ兵力や装備を整えていったとしても、客観的に見ても彼らは絶望的な状況に置かれている。
 それでも尚、彼らは承知の上で出撃していった。そうしなければ、平和を得られないからだ。時間を掛けたところで不利になるのは此方であり、何より、時間を掛ければそれだけ黒の輝石が覚醒する猶予をヒッツェルブルグ帝国に与えるだけであり、黒の輝石が覚醒してしまえば、打つ手はなくなってしまうのだ。


「兎に角さ、ここまで来たらもう出来ることをやるしかないよな。悩んでても仕方ない」


 戻って来る場所はちゃんとオレたちが守らないとな――そう言って浮かべた笑みは常と変わらぬ明るいものだった。元から自分に出来ることは多くはないのだ。そして、全てはベルンシュタインを守るというそのことだけに集約される。ならば、悩んでいたって仕方がないのだ。自分に出来ることをする――否、出来る出来ないではなく、やるしかないのだ。
 そして、自分はこの国の王なのだということをレオは自分自身に言い聞かせる。何と引き替えにしたとしても、自分は生き延びなければならないのだ。たとえ、そのためにどれだけの血が流れ、どれだけの痛みが伴うとしても、自分が生き延びなければたとえ戦争に勝ったとしても、この国に未来はなくなってしまう。
 レオは自分自身を奮い立たせるように拳を握り締める。そして、一度だけ深呼吸をすると、心配げに自分を見ていたアベルを振り返り、「行くか」と声を掛け、笑みを浮かべて見せた。強張っていないだろうかと心配になるも、アベルは何も言わずに頷く。そのことに安堵したレオは表情を引き締めると、アベルを伴って宵闇が広がるテントの外へと足を踏み出した。


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