開戦 - struggler -



「今頃、レオたちは布陣を終えた頃かしら」
「恐らくは」


 王都、バイルシュミット城の自室でエルザはぽつりと呟いた。その表情は常とは異なった翳ったものであり、努めて冷静さを装ってはいるものの、落ち着かない気持ちであることは目に見えて明らかだった。出立するレオを見送ってから既に数時間が経過し、日を跨ごうとしている。そろそろお休みになられた方が、と先ほどから副官が心配げに声を掛けているのだが、エルザは一向に椅子から立ち上がろうとしない。


「……エルザ様」
「ごめんなさいね、手間を取らせて。私が起きていたところで出来ることなんて高が知れているのは分かっているのだけど……」


 だからと言って、いつものように床に就いて朝を迎えるということは出来そうにない。レオだけでなく、帝国に侵攻しているゲアハルトらのことも心配なのだ。今までのような国境での小競り合いとは訳が違うのだ。また、レオらのように領地内での戦闘でもない。圧倒的に不利な状況での戦いになるのだ。どれほどの兵を連れて行こうとも、彼らが手練であろうとも、そのようなことは関係ない。
 ならば、地の利もあるレオたちが容易に事を収めることが出来るのかと言われれば、決してそうとも言えない。そう簡単に事を収めることが出来るのであれば、何も貴重な兵を割いてまで同時に出撃することなどなかったはず。自分にもきっと何か出来るはずだと、エルザは「地図を持って来て頂戴」と副官へと告げた。


「お持ちました」
「南部の捕虜収容施設は此処よね。そして、レオたちが布陣しているのは……」
「王都と収容施設の中間地点、此方で御座います」


 テーブルの上に地図を広げ、駒を置きながら地理関係を整理する。ベルンシュタインの領地内でも王都ブリューゲルは中央よりも北に位置している。そこから更に北上していくと北の国境、ベルトラム山があり、そこ山の向こうには奪取したリュプケ砦がある。そこには第八騎士団が駐屯している。対して、ベルンシュタインに残された兵力のほぼ全てが今現在は収容施設を制圧する為に出陣している。つまり、北側はがら空きと言える。とは言っても、国境沿いの要所には国境連隊が配置されている。たとえ本隊がベルンシュタインを離れ、また、南部に兵が集中していると言っても、すぐには破られることはないだろう。
 だが、手薄であることには変わらない。特に、北方のリュプケ砦方面には第八騎士団と国境連隊が配置されてはいるものの、国境を面している国は帝国の従属国である三国だ。たとえ、普段の小競り合いに対応するには十分な兵力であったとしても、帝国からの侵攻の命令を受け、三国同時に攻め込まれたとなると、一溜まりもない。


「……北方の三国の様子はどうなの?」
「今のところ、特に目立った動きはないとのことです」
「そう……それなら、すぐに密書を出しましょう」


 エルザは先ほどまでとは打って変わって毅然とした態度で口にした。元々、国交もあった国々だ。今は帝国に従ってはいるものの、帝国本国とは遠く離れているため、影響力も強くはないはずであり、聞く耳ぐらいは持ってくれるはずだ。たとえ、聞く耳を持ってくれなかったとしても、少しぐらいは時間は稼げるはず――その時間さえ稼ぐことが出来ればいいのだ。レオらが収容施設を制圧し、北方への守りに就くことが出来るだけの時間を稼ぐことが出来れば。
 すぐに用意を致します、と頭を垂れた副官はエルザの居室を慌ただしく後にする。それを見送りながら、彼女はどのように停戦を提案するべきかを考える。本来ならば、こういったことは会議を通さなければならない。だが、それはあくまでも公式のものの場合であり、通すべき会議があってこそだ。
 しかし、今や城はしんと静まり返っている。それは夜も更けているからというだけでなく、そもそも人が殆どといないから静まり返っているのだ。本来ならば城に詰めているはずの文官らの大半はレオが出立すると同時に逃げ出してしまっている。それぞれの邸に逃げたところで、それ以外の逃げ場所などはない。近隣諸国は既に帝国に陥落し、亡命するにしても国境を越えるには国境連隊や第八騎士団の目を掻い潜らなければならない。彼らにそれが出来るかと言えば、否だろう。結局は邸に閉じ籠って震えて怯えるしかないのだ。
 それでも、残っている文官の中には内々のうちに出す密書を届けてくれる者もいるだろう。そうした者を選別するにも本来ならば時間は掛かるが、逃げ出した者たちのお陰で選別する時間を省くことが出来る。そういう意味では逃げ出してくれて有り難くもあった。それにしてもすっかりと舐められているのだということに我ながら情けなくも思う。彼女は溜息を吐きながらも、密書の内容を思案する。


「……まさか、私が密書を出すことがあるなんて」


 レオが即位してからというもの、万が一に備えてエルザも様々なことを学んできた。とは言っても、それほど時間がたくさんあったわけではなく、学んだといっても精々書物を読んで知識を学び、様々な慣例などを副官から聞いて覚えた程度のことだ。このようなことになるのなら、もっと早くから取り組んでおくべきだったと後悔ばかりが募る。
 生まれたからというもの、エルザが学んできたことと言えば、一国の王女として恥ずかしくない教養や手習いのことばかりだ。政治や戦争のことなどはそれほど学ぶ機会もなく、また、そうしたことは弟たちに任せきりになってしまっていた。それが本来のあるべき姿だと言ってしまえばそれまでだが、今ほどそのことを後悔したことはなかった。
 特に、シリルは学ばなければならない政治などに一切の興味を持っていなかった。その時点で、ならば自分が支えられるようにと学んでおけばよかったとエルザは今更ながらに思う。けれど、もしその当時に立ち返ったとしても、自分が学ぼうとしたかと言えば答えは否だ。ギルベルトを亡くした頃なのだ。塞ぎ込み、とてもではないが、そのような前向きな気持ちになることはなかっただろう。


「ギルベルト……」


 最も幸せだった頃のことを思い出す。優しく真面目で周囲からも慕われ、剣の腕も立つ幼馴染――そんな彼と正式に婚約することが決まった時は、本当に嬉しかった。夢にまで見た日だった。父王にその話をされた時、隣にいた彼は自分と同じように心底から嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。
 けれど、その幸せな日々は長くは続かなかった。ギルベルトは殺された。彼の部下の手によって、殺されたのだと弟のエルンストから聞かされた。けれど、エルザはギルベルトの遺体を見ていない。遺体は持ち去られたのだとエルンストから聞かされてはいたが、到底信じられなかった。
 きっと彼は生きている――そう信じて疑わなかった。いつかきっと、少しだけ困ったように笑って「ごめん、遅くなった」と言って戻って来るのだと、信じていたかった。けれど、心の何処かで分かっていたのだ。そのような可能性は万に一つもないのだと。エルンストもゲアハルトも皆、気休めの言葉さえも口にしなかった。彼はもう戻って来ない。少なくとも、温かな身体のまま、戻って来ることはない。そのことを、見ない方がいいと言われながらも頼んで連れて行ってもらったギルベルトが殺された場所を見て、思い知らされた。
 そこは血に塗れていた。素人目に見ても、とてもではないが助かるはずのない夥しい量の血がこべり付いていた。今も尚、血のにおいが濃く残り、酸素に触れて黒く変色したその血痕に腹の底から込み上げて来るものがあった。あの色を、においを、彼女は未だに忘れていない。


「エルザ様、お待たせ致しました」
「ありがとう、ご苦労様」
「密書を届けさせる者も勝手ながら選んでおきました。後ほど連れて参ります」
「あら、そこまでしてくれたのね。さすがだわ」


 私には勿体ない副官ね、とエルザは笑みを浮かべる。元々、有能だとは思っていた。自分には過ぎた人材だとも思っていたのだが、こうして彼がどのような人物かを見極めることが出来てよかったとも思っている。エルザは受け取った羊皮紙を広げると、差し出されたペンをう受け取って文章を書きつつ、「貴方にならレオを任せても安心出来るわ」と口にする。困惑する気配が伝わってはくるものの、それ以上、エルザは何も言わずに三通の密書にペンを走らせ続けた。










 翌朝、ヴィルヘルムは執務室からどんよりとした重苦しい灰色の曇り空を見上げていた。そろそろいつ雪が降り始めてもおかしくはない。窓に吹き付ける風にぎしぎしと軋む音が聞こえて来る。空と同じく重苦しい雰囲気の城下を見つめながら、ヴィルヘルムは帝都に少しずつ近付いて来ているゲアハルトのことを考える。
 彼がこの帝都の様子を見たのならば、一体どのような顔をするのだろう――酷く驚くだろうか、それとも予想の範囲内だと割り切り、無表情を貫くのだろうか。しかし、考えたところで分かるはずもなく、確認するためにはゲアハルトが帝都まで辿り着かなければならない。ヴィルヘルムは辿り着けるものなら辿り着いてみせろとばかりに鼻で笑うと、「失礼致します、陛下」と執務室にやって来た副官を振り向いた。


「お呼びでしょうか」
「ああ。東部の三国に指示を出す」
「東部といいますと……リュプケ砦方面の三国でしょうか?」
「そうだ。奴らに兵を出させろ。ただし、交戦はさせるな。あくまで出兵して距離を取って布陣させるだけでいい」


 恐らく、今頃はベルンシュタインに残っている兵たちが捕虜の収容施設の制圧に取り掛かっている頃だろう。その背後を突けば、収容施設の帝国兵らと共に出させた従属国の兵らによって挟撃することが出来る。しかし、ヴィルヘルムはそれを否とした。どうしてとばかりに副官は納得がいかないと渋面を作る。


「此方に向かって来ているベルンシュタインの本隊が挟撃と聞けば引き返さないとも限らない。奴らが確実に此方の手の内に入ってから挟撃だ」
「しかし、それでは……」
「最優先は本隊を叩き潰すことだ。残存兵など、いつでも潰せる」


 ヴィルヘルムにとって最優先すべきことはベルンシュタインを滅ぼすことではなく、ゲアハルトを自分自身の手で殺すこと、そして、この世界そのものを異界に落とすこと。後者は黒の輝石が覚醒すればいずれ引き起こされることであり、時間の問題とも言える。だが、前者はそうではない。ゲアハルトを手に掛けることは容易ではない。無論、時と場合を選ばなければいくらでも手段はあるものの、彼が生まれ育った場所でもあるヒッツェルブルグ帝国の帝都アイレンベルグにまで引き摺り出すことは簡単なことではない。
 この場所で、彼が裏切り、戻らなかった、救わなかったこの街に引き摺り出さなければ意味が無い――ヴィルヘルムはそう考えていた。そして、漸く舞台は整ったのだ。黒の輝石の覚醒は程なく完了する。そして、ゲアハルトは帝国の地に足を付けた。このまま逃がしてなるものか、とヴィルヘルムは口の端を吊り上げて嗤う。


「カインらはどうした」
「現在帰還中、三日以内には帰還できるかと」
「急がせろ」


 誰が戻って来るかは知れない。アベルとカサンドラは既に離反してはいるという報告を受けているものの、他の者が帰還命令に従っているかは分からない。アウレールは従っているだろう。だが、カインは実の弟であるアベルが離反していることもあり、大人しく命令に従っているかどうかは不明だ。そうなると、恐らく帰還する者はアウレールとブルーノだろうとヴィルヘルムは予想を付ける。
 カインがいたならば召喚獣を使わせられたが、それがなくとも兵力は有り余っている。ベルンシュタインの本隊を相手にする分には不足はない。ヴィルヘルムは副官に対し、帝都から兵を差し向けるようにと指示を出す。「前哨戦だ」と言えば、副官は先ほどまでとは打って変わってやる気に満ちた表情を見せる。
 そんな様子をヴィルヘルムは冷やかに見ていた。そんなに愉しいのだろうかと不思議そうに彼を観察する。ヴィルヘルムにしてみれば、ベルンシュタインを、ゲアハルトをより引き寄せる為により効果的だと判断しての指示であり、何もベルンシュタインに痛手を与えてやろうと思ってのことではない。だが、どうやら副官は漸くヴィルヘルムがやる気になったと勘違いしているのか、「すぐに準備を整えさせます!」と意気揚々と執務室を後にした。


「……やる気があるのは結構だが、口煩いのは煩わしいな」


 肘を付きながらうんざりとした顔でヴィルヘルムは溜息を吐いた。しかし、自身が副官のようにやる気に満ちているわけではないことを思えば、これで丁度いいのかもしれないと他人事のようにぼんやりと考える。
 副官が前哨戦としてどの程度の兵士を向かわせるのかは分からない。だが、どちらにしろ、前哨戦程度で手こずるようであれば、期待外れもいいところだとヴィルヘルムは目を細める。十年以上、願ってやまなかったのだ。ゲアハルトをこの手に掛けることを、願ってやまなかったのだと彼は拳を握り締める。


「此処まで来い、ゲアハルト」


 私がこの手で殺してやる。
 呪詛を吐き出すかのように、その声音には怨念が籠っているようだった。その瞳には殺意が宿り、握り締める拳は力み過ぎて微かに震えている。掌に爪が食い込むことすら厭わずに、ヴィルヘルムは血が滲むほどに拳を握り締め続ける。そして、ぽたりと床に皮膚が破れた掌から赤い赤い血が滴った。


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