開戦 - struggler -




「ゲアハルト司令官、アイリスです。……少々お時間、よろしいですか?」


 テントの出入り口近くで立ち止まり、アイリスは薄暗いテントの中を目を凝らして声を掛ける。灯りも何も付いていない。出入り口から漏れる外の松明の灯りだけが光源だった。それでも、テントの最奥に人影が見えた。表情までは窺えない。それでも、きっと沈鬱な表情を浮かべているのだということは何となく察せられた。
 声を掛けるも返事はなかった。無言のうちに拒絶されているようにも思え、心が挫けそうになる。けれど、アイリスは努めて明るい声音で「司令官、少し……少し、散歩に行きませんか」と声を掛けた。そして、ゆっくりと奥で椅子に掛けている彼の傍に歩み寄る。テントの中は温かい。だが、今は少しだけでもこの場から離れた方がいいように思えたのだ。
 アイリスはそっとゲアハルトの腕に手を伸ばすと、そのまま軽く力を入れて立つように促した。拒絶されるだろうかと思ってはいたが、予想に反して彼はすんなりと立ち上がった。
そして、ちらりと傍らに立つアイリスを一瞥すると、彼はゆっくりと歩き出した。その爪先はテントの出入り口へと向かっていく。何も言わなかったものの、一先ずは話す気にはなってくれたらしいことが窺え、アイリスはほっと安堵の息を吐くと、すぐその背中を追い掛けた。


「俺に何か話があるんだろ」


 テントを出ると、周囲はざわめいた。しかし、ゲアハルトはそれらを気に留めることもなく、陣から中心から離れていく。その後を追いかけていくうちに彼は陣を出ると、そこから程近い荒れ果てて岩が剥き出しなった場所で足を止めた。寒々とした風が吹き、陣のざわめきが遠く聞こえる。
 岩の一つに浅く腰かけたゲアハルトはアイリスの方を向き直ることもなく、そう一言口にした。こうして人目に付かないように場所を移し、時間を取ってくれたということは彼にも話す気は一応あるということでもあるため、アイリスは安心した。ヒルデガルトから自暴自棄になったという話も聞いていたため、取り合ってもらえないのではないかと心配もしていたのだ。だが、こうしていざ話を促されると何から話すべきか迷ってしまう。ぶつかっていけばいいのだと先ほどまでは思ってはいたが、いざこうして本人を前にするとぶつかることも簡単ではない。


「あの……伺いました、昼の……指揮のこと」
「……」
「後方支援のわたしがこんなことを言うのは、差し出がましいと重々承知していますが……その……」
「そう思うのならどうして来た」
「……それは……」
「さんざんこれまで手に掛けて来たのに、今更躊躇って、自暴自棄になって無茶苦茶な指示を出した俺を笑いに来たのか?」
「そんなことの為に来たわけではありませんっ」


 嘲るように口にした言葉にアイリスは堪らず声を荒げた。ゲアハルトのことを笑うつもりなど、少しもないのだ。そんな風に思われたのだろうかと拳を握り締めながら、それでも彼女は自分自身を落ちつけながら「わたしは、貴方が心配だから……だから、来たんです」と声を絞り出した。


「わたしは……ただ、」
「心配?そんなことをしたところでどうなるっていうんだ……お前に俺の何が分かるっていうんだ!」
「……っ」
「何にも、分からないくせに……そんな奴に、心配なんて、」
「ええ、仰る通りです。わたしは司令官のことを理解出来ていません。貴方の苦しんでることだって想像するしかない。そこに同情がないと言えば嘘になります。それが、いけないことですか?」


 アイリスは早口に捲し立てた。感情的に怒鳴られて、怯んでしまっては駄目だと自分自身の気持ちを奮い起こす。何も言い返せず、黙り込んでしまえば、そこで終わってしまう。辛うじて未だ繋がっていたか細い糸が切れてしまう。その糸が、関係が、切れてしまったのならもう彼はきっと、会ってはくれないだろう。漠然としたそんな考えが、脳裏を過る。


「わたしは貴方が心配です。独りで抱え込んで無理をするんじゃないかって、独りぼっちなんじゃないかって……独りで傷ついて、耐えてるんじゃないかって……心配で、本当に心配で、……わたしは、貴方を独りにしたくないんです」


 何とか言葉を続けなければとアイリスは懸命に話し続ける。黙ってしまえば、そのまま帰ってしまいそうな気がしたのだ。だからこそ、繋ぎ止める為に彼女は言葉を口にし続ける。胸の内に浮かんでは消える言葉の数々を消えてしまわないうちに、全てを吐き出すように語りかけ続けた。
 少し離れたところにゲアハルトはいる。自分に背を向けて岩に腰かけている彼が振り向いてくれる気配はない。それでも、アイリスはその背に向けて声を掛け続ける。いつもは堂々とした頼もしい背中が今は、酷く頼りなく、儚げに見える――そのことに彼女は唇を噛んだ。


「……心配なら必要ない。俺は独りではないし、明日からいつも通りに指揮を執れる」
「そんなこと、ありません」
「俺自身が問題ないと言ってるんだ。冷静にいつも通りに……勝って進んで、それで、」
「今の司令官には無理です」


 まるで言い聞かせるような言葉の数々にアイリスは首を横に振った。問題ないと、いつも通りに出来るのだと彼は言う。だが、本当にそれが出来るのなら、ゲアハルトはこんな言い方をしなかっただろう。一度も此方を見ることもなく、そのような乱暴な言い方をすることもない。普段の彼とはまるで違う様子で、問題ないなどと言われても信じられるはずもなかった。


「今の司令官は、ルヴェルチに剣を向けた時と変わりません」
「……言葉が過ぎるぞ、アイリス」
「気分を害したのなら謝ります。ですが、前言撤回はしません。……貴方は自暴自棄になってます。自分の身なんてどうでもいいと……そんな人が、勝利を掴めるはずがない」
「……っ」


 いい加減にしろとばかりに振り向いたゲアハルトはアイリスと間を詰めると、彼女の薄い肩を掴んだ。手加減もなしに思いっきり肩を掴まれたアイリスは痛みに顔を歪める。だが、真っ直ぐに苛立ちを露にするゲアハルトの目を見返した。


「自暴自棄になったって、仕方が無いと思います。だって……わたしたちベルンシュタインの人間が求める勝利は、ゲアハルト司令官に求める勝利は、貴方にはあまりにも酷過ぎる」
「……」
「帝国の皇子様に自分の国を滅ぼせと、身内を殺せと言ってるんです。自暴自棄になったって仕方ないと思ってます。仕方ないとは思うけど、でも、だからって本当に自暴自棄になって事に当たるのは、訳が違います」


 肩を掴むゲアハルトの手に触れる。彼の手は、ひんやりと冷たくなっていた。それは冬に寒さの所為だけではないのだろうとアイリスは漠然と考える。


「冷静になることも、落ち着くことも難しいと思います。だけど、どうか……どうか、冷静になってください。自暴自棄になったって、司令官が辛いだけです」


 冷たい指先を温めるようにその手を握る。すぐ間近で向けられる明るい青の瞳は僅かに揺れていた。そして、彼は一度唇を噛み締めると、僅かに首を横に振り、「……でも、無理だ」と微かな声を絞り出す。冷静でいることなど、落ち着いていることなど無理だと、ゲアハルトは言った。その通りだろうともアイリスは思う。難しすぎることを求めていることぐらい、重々承知しているのだ。
 アイリスは安心させるように微笑を浮かべる。目を細めて、優しい笑みを浮かべる。そして、背伸びをするとそれまで握っていたゲアハルトの手を離し、彼の首に腕を回した。そのまま、ぎゅっと抱きつく。元々、身長差もあり、とても不安定で不格好になるも、彼女はそれでも構わなかった。「……危ないぞ」と支えるように腰に腕が回る。そんな所作に少しだけ、アイリスの目元に涙が滲んだ。怒鳴ったって、何が分かるのだと言われたって、優しい彼のままだと、ただそれだけのことで、ほっと安堵したのだ。


「自棄になるというのならその時はまた、わたしが止めます。何度だって司令官の前に立って止めます」
「……また、傷つけるかもしれない」
「ええ、どうぞ」
「今度は浅い傷では済まないかもしれない」
「構いません。……さっきも言ったように、わたしは司令官のことを理解し切れていませんし、貴方を言葉だけで止められるなんて思ってもいません」
「……」
「わたしに賭けられるものなんて自分の命ぐらいしか持ち合わせていません。それで貴方を止められるなら本望です」


 それぐらいの覚悟もなしに、ゲアハルトと向き合うことは出来ない。アイリスはルヴェルチを手に掛けようとした彼の前に立った時から、ずっとそう思っていた。自分が彼と対等に渡り合うには、命ぐらい賭けなければならないと。それが、軍を預かるゲアハルトを止めるということなのだ。彼の判断一つで、命令一つで死ぬ者がいる。現に今日も命を落とした者がいた。そんな彼の決定を止めようと、覆そうというのなら、自分の命を賭ける他ない。
 無論、止めるような事態に――自棄を起こさないでいてくれれば、それに越したことはない。だが、彼は無理だと言った。そして、アイリスもそうかもしれないと思う。そう容易く気持ちを割り切ることは出来ない。当たり前だ。簡単に割り切ることが出来るのなら、このようなことにはなっていない。
 彼だって悩んで苦しんで躊躇って、それでも前に進む為に判断を下している。上手くいく時もあれば、上手くいかない時だってある。それが本来なら当たり前のことだ。だが、軍にとって当たり前であってはならないことでもある。いつだって正しく、求められた通りであらなければならない――その重圧がどれほどのものなのかを、アイリスは理解し切れないことが歯痒かった。


「司令官、わたしが貴方の為に出来ることなんてそう多くはないんです」
「……」
「わたしに出来ることは、貴方の傍にいて、貴方が間違えそうになった時に止めることぐらい……貴方の支えになることぐらいなんです」


 今までのように国境での小競り合いやベルンシュタインから少し離れるぐらいの出兵であれば、きっと彼は今日ほど揺らぐことはなかっただろう。それはきっと、ヒッツェルブルグ帝国という国の土地を踏んでいないからだ。遠く離れているからこそ、それほど大きく心が揺らぐことはなかった。アイリスには理解し切れないものの、やはり違うのだろう。今立っているこの場所がベルンシュタインなのか、生まれ育った守るべきだった国なのか、ということは。
 特別な思い入れのある場所を血で染める――守るべき兵を殺すように指示を出し、そして、守るべき兵に命を狙われる。それはきっと、想像以上の苦痛なのだろうと、自分が理解できる日はきっと来ることもないのだろうと彼女は考える。
 前に進めば進むだけ、帝都に近付けば近付くだけ、きっとこれからも彼の心は血を流す。それを分かっているのに、放っておくことなど出来るはずもない。気付かぬ振りをすることも出来ない。遠く離れた場所にいて、平気でいられるはずがないのだ。


「司令官、お願いです。……わたしを遠ざけるのは、止めてください」
「……」
「確かにわたしは弱いです。貴方に比べるとどうしようもなく弱い。頼りないと思われるでしょう。……でも、わたしは司令官が辛い時に、一番遠くにいるのは、もう嫌なんです」


 後方支援も大事な仕事だということは分かっている。私情を挟まずとも、エルンストの穴を埋める為に自分が後方支援に回されたのだということも分かってはいるのだ。それでも、どうしても願ってしまうのだ。遠くにはいたくないと、傍にいたいのだと。
 首に回していた腕の力を抜き、ゆっくりと踵を地面に付ける。それでも背中に腕は回ったままだった。大きなその手に触れられた場所はやけに温かく感じる。見上げた彼の瞳はもう揺れてはいなかった。凪いだ、静かな湖面のような青い瞳を見上げてアイリスは笑う。


「覚えてますか?貴方が地下牢に幽閉されて、わたしが会いに行った時に言ったこと……わたしは貴方の剣とも盾ともなって、最後まで戦い抜くって言ったことを」
「……ああ」
「今だってその時の気持ちは変わっていません。でも、そこに一つだけ付け加えさせてください」


 わたしは貴方の支えになりたい。傍にいたいんです。
 真っ直ぐにゲアハルトを見上げてアイリスは口にした。少しでも自分の気持ちが彼の心に届けばいいと願いながら、明るい青の瞳を見つめる。独りではないのだと、傍にいたいと思う自分がいるのだということを知っていて欲しかった。
 やがてゆっくりと彼は瞳を閉じる。噛み締めるように、こくりと一度だけゲアハルトは頷いた。そして、そのままきつく抱き締められる。肩に顔を押しつけられ、頬をさらりとした髪が擽る。聞こえて来る「悪かった」と「ありがとう」の言葉にアイリスは目を細めて笑うと首を横に振り、彼の背中に腕を回した。
 痛いぐらいに抱き締められる。けれど、その痛みさえ今は心地よかった。もうきっと、ゲアハルトは大丈夫だろうと彼女は温かい腕に包まれながら考える。身を切るような寒さも温かい腕と彼が落ち着いてくれたことや受け入れてくれたことの安堵を前にすれば取るに足らなかった。


「……アイリス」


 温かさに身を委ねて目を閉ざしていた彼女は名前を呼ばれて目を見開く。そのまま少しだけ身体を離すと、微苦笑を浮かべたゲアハルトの掌が頭を撫でる。その手はするりと滑り、頬を包んだ。その手は温かく、もう冷たくはなかった。促されるように顔を持ち上げられると、視線の先にはアイリスの好きな笑みがあった。
 自然と彼女も顔を綻ばせる。そして、マスクが下げられ、ゆっくりと露になった端正な顔が近付いてくる――アイリスはそっと瞼を閉ざした。数瞬の後、優しく触れた唇は少しだけかさついていた。言葉はなかった。何も、彼は言おうとしなかった。けれど、それでもよかった。唇が離れた後、瞼を持ち上げるとゲアハルトは幸せそうで、けれど、悲しそうな笑みを浮かべていた。
 きっと、全てが終わらないと彼の悲しげな笑みは消えないのだろうと彼女は思う。ならば、全てが終わったその時に、その気持ちが聞けたならそれでいいとアイリスは笑みを零す。今は傍で支えられるだけでいいのだと、彼女は温かいその手を握る。全てが終わったその時に、自分も隣にいる彼に、ちゃんと伝えるのだと決めて。



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