開戦 - struggler -




「爆薬の設置作業、八割が完了しました」


 反対側からは剣と剣がぶつかり合う音や怒声や悲鳴が聞こえて来る。アベルら別動隊が収容施設に爆薬を設置する間、陽動としてレオら本隊が反対側から攻撃を仕掛けているのだ。陽が沈むと同時に爆薬の設置は開始され、既に八割が完了したという。予定よりも早く終わるなと別働隊を任せられているアベルは改めて収容施設へと視線を向けながら考える。
 問題は上手く爆破することが出来るかどうか、という点だ。収容施設には元々反乱などを想定して容易に爆破出来る設計になっているらしい。しかし、さすがに現在レオら本隊が交戦中の箇所に爆薬を設置することは難しい。つまり、全壊にすることは出来ず、よくて半壊ということだ。
 出来るだけこの爆破で事を済ませたいことを考えると、施設の半壊でも確実に帝国兵らの主力を叩き潰す必要がある。だが、本隊と交戦中ということもあり、今は帝国兵らもそちら側に集中していることだろう。だからこそ、こうして手薄になった反対側に爆薬を設置することが可能なのだが、いざ爆発させるとなると大部分の帝国兵らを取り逃してしまう。どうにか誘導しなければとアベルは先ほど報告してきた兵士を呼び寄せた。


「このままだと帝国兵に大打撃は与えられない。寧ろ容器を壊すことにしかならないし、その所為で散り散りに逃げられて面倒な掃討戦まで縺れ込むと単に時間が掛かるだけになる」


 今は兎に角時間が惜しいのだ。だからこそ、中に入って爆薬が設置されている側へと帝国兵を誘導する――アベルがそれを口にすると兵士は目を見開いた。そのようなことが出来るのかと言わんばかりの表情を浮かべるも、すぐに彼の顔は歪んだ。既にアベルが元々は帝国の人間だったのだということは周知の事実なのだ。
 すぐに変わった彼の態度に、しかし、アベルは気にしなかった。素っ気ない、明け透けな態度を取られることぐらい承知しているのだ。何より、自分が一度裏切ったことは変えようのない事実であり、そのことで何を言われても自分には言い返す資格はないことも重々承知していた。
 信じて欲しいと、言うつもりもなかった。彼にしてみれば、また自分が裏切るのではないかと考えるのは当たり前のことなのだとアベル自身、思っていた。だからこそ、「爆破は予定時刻通りにしてくれて構わない。僕が外に出て来ようが出て来なかろうが気にする必要もないよ」と言い添える。


「爆破に巻き込まれたとしても自業自得だからね」
「……しかし」


 承服しかねる様子を見せる兵士をちらりと見遣る。心配をしているわけではないということは容易に見て取れる表情だった。彼が気にかけているのは偏に止めなかったが為にアベルが命を落としたことをレオに咎められるかもしれないということだろう。無論、アベルが爆破までに脱出すればそれは杞憂に終わる。しかし、どうなるかはまるで分からない状況なのだ。
 結局は自分のことしか心配はしない――だが、それが当たり前なのだともアベルは思う。だからこそ、彼を責めるつもりはなかった。ただ、口を開く少し前に思い浮かんだのは、どんな時でも自分よりも他人のことばかりを気にするアイリスのことだ。彼女は無事だろうかと考えるも、すぐにその思考を頭の外へと追いやる。今、自分が考えるべきことは収容施設をいかに制圧するのか、そのことだけだ。
 兎に角、爆破は予定時刻通りに――それだけ言い残すと、アベルは馬の手綱を引き、軽く腹を蹴った。羽織っているローブのフードを引っ張り、出来るだけ顔を隠す。アベルにはカインのように身体に鴉の刺青は入れていない。かと言って、狼の召喚獣を連れている奴は裏切り者であるということが周知されている可能性を考えれば迂闊にフェンリルを召喚するわけにもいかない。
 アベルに自分が鴉に属する者だと相手に知らしめる者は何もないのだ。以前、この収容施設を訪れた時に内部工作が出来たのもヴィルヘルムの密書を携えていたからこそであり、そのことを思い出すと自分には何の力もないことを思い知らされるようだった。けれど、それでもやるしかないのだ。出来るだけ此方に損害を出さずに帝国兵らを一網打尽にする――それが自分のけじめの一つなのだと、アベルは馬から飛び降りるとそのまま収容施設の窓を攻撃魔法で破壊し、内部へと足を踏み入れた。


「くそっ、こっちからも敵が、」
「剣を下ろせ!僕はベルンシュタインの人間じゃない」


 鴉だ、と告げると剣を振り上げて向かって来ようとした三人の兵士がぴたりと動きを止めた。“鴉”という名前はそれほどまでに恐ろしいらしい。しかし、それでも本当に鴉の人間なのだろうかと疑う素振りを彼らは見せる。アベルは視線を交わす彼らに対し、唇を引き結ぶと目深に被っていたフードを取り去った。
 一か八かだった。自分と同じになる為に自身の手で目を潰したカインは、アベルと同じように包帯で片目を覆っている。それぞれ覆っている箇所は左右が異なるのだが、彼らにとっては区別など付かないだろう。少し前に武器を運び込み、どのように動くかを打ち合わせる為にカインが収容施設を訪れた時、きっと彼は顔を晒していたはずだ――アベルはそう踏んで、フードを取り去ったのだ。
 しかし、もしかしたら顔を隠していたかもしれない。だからこそ、一か八かの賭けだった。これでも信じなければ勢いで押し切らなければならない。だが、アベルの読み通り、どうやら顔を晒していたらしいカインと見間違えたらしく、帝国兵らは「お、お待ちしておりました!」と剣を下ろすと深々と腰を折った。


「指揮を執ってる奴のところに案内して」


 そう言うと、彼らはすぐにアベルを先導して歩き出した。あまり時間はない。恐らくはそろそろ爆薬の設置は完了するだろう。そうなると、爆破予定時刻まであと十五分程度だ。急がなければならない――アベルは不自然ではない程度に周囲の様子を窺いながら足を動かし続けた。
 半数以上の兵士が出払っているらしく、収容施設内は外からの喧騒とは異なり、閑散としていた。どうやって外にいる帝国兵らを呼び戻すのが自然かとアベルが考えを巡らせていると、「鴉の方がお見えになりました!」という声音が聞こえ、意識を前方へと向ける。そこには古びた防具や剣を手に、窓から様子を窺っている指揮官と思しき兵士がいた。
 しかし、その顔色は真っ青でもあり、何とか渋面を取り繕うことで指揮官らしさを醸し出そうとはしているものの、既に逃げ腰となっているのは明らかだった。元より、指揮など執ったことはなかったのだろう。そもそも、実際に戦闘において指揮権を任せられるような兵士は収容施設になど収容されるはずがないのだ。尋問の後に即刻処刑されている。
 だからこそ、目の前にいる男は運悪く指揮官役を押し付けられただけなのだ。男はアベルを見るなり、見るからに安堵していた。心底から安堵し、助かったとばかりに緊張を緩めている。その様子を周囲にも伝播し、鴉の人間が来たからにはもう大丈夫だと言わんばかりの安心感が漂っていた。


「……状況は」


 どうやら他に鴉の人間は誰一人としていないらしい。既にベルンシュタインから撤退しているのだろかとアベルは周囲に視線を向けながら状況報告を求める。無論、報告に意味などない。どのような状況であるのかということは、寧ろ、アベルの方がよくよく理解しているぐらいだ。それでも疑われない為にはある程度の体裁を取り繕っておく必要がある。
 この安心しきった男にそこまで警戒する必要もないかもしれないけど――視線をたどたどしく説明する男に向け、アベルは吐きそうになる溜息を堪えながら説明に耳を傾ける振りをする。元々、カインがいると期待していたわけではない。状況からして既に収容施設は放棄している可能性は高く、ゲアハルトが率いる本隊が帝都に向けて出兵している以上、撤退を指示していないはずがないのだ。それでも、もしかしたらと思っていた。
 もしかしたら、カインに会えるかもしれないと、期待している自分がいたのだ。それが万に一つもない可能性だと知ってはいても、それでも期待していた。そう簡単に会えるのなら苦労はしないだろう、とアベルは自嘲するように口の端を歪めて嗤うと、もう結構と手を上げて説明を続けている男を制した。


「あとは僕が引き受ける。表に出している兵士に戻るように指示を出して」
「は、はい!」
「それから戻って兵士は施設全体に散らばらせて。さっき入って来た反対側が手隙過ぎる。迂闊だよ、こっちばかりに兵を集めるのは」


 尤もらしい言葉を並べると、彼らはすぐにその通りに動き出した。もうこれで大丈夫だとばかりに弛緩した空気は一気に伝染し、指揮を執っていた青褪めた顔色の男も今ではすっかりと顔色をよくしている。アベルはそんな彼らの様子から目を逸らした。此処にカインはいない、施設全体に帝国兵を配置させることも出来た。既に目的は達成している――後はこの場から離脱するだけだ。
 そろそろ爆破予定時間でもある。窓から本隊を見ると、既に十分過ぎるほどの距離を取っていた。アベルは窓を開け放つと、「それじゃあね」と声を掛ける。彼らを振り返ることもなく、ご武運をお祈りしますと掛けられる言葉に返事もしない――振り向いてはしまえば、返事をしてしまえば、要らぬことを口にしてしまいそうな気がしたのだ。
 そんなことは有り得ないとアベルは窓から飛び降りる。本隊に向かって駆け出しながら、振り向いたとして、返事をしたとして、自分は一体何を口にするというのだろうかと自嘲した。口に出来る言葉などありはしないのだ。何より、彼らを少しでも気に掛けた自分自身に、信じられない思いがしたのだ。
 考えたくなかった。カインを止めるということ以外、レオを守るということ以外は何も考えたくはなかった。他のことなど気にしたくはなかった。それなのに、どうして今まで気にならなかったことが気になるのか――自分の中で何かが変化しているのだということは分かっても、その変化が何であるのかは分からず、また、それがどうしようもなく怖くもあった。


「……っ」


 ぐるぐると渦巻く気持ちを押え付けながら懸命に足を動かし続け、退避している本隊近くまで辿り着いたところで背後から爆発音が轟いた。それと同時に交戦していた時以上の悲鳴や怒声も途切れ途切れに聞こえて来る。背後から襲う爆風につんのめりながら、アベルは足を止めると肩で荒い呼吸を繰り返しながら恐る恐る収容施設を振り向く。
 施設は赤々と燃えていた。遠目に逃げ惑う兵士の姿が見えるも、外に逃げ出すことは出来ないらしい。恐らく、外に逃がさない為に敢えて出入り口付近は脆く造られていたのだろう。彼らが窓から飛び降りる勇気さえあればまだ助かるかもしれない。だが、飛び降りたとしても、結局のところは追撃されるだけであり、助かる見込みは限りなく少ない。
 こうなることは全て分かっていたことだ。それでも、煌々と燃え、崩れていく収容施設を見ているとどうしようもないほどに、苦しくなったのだ。らしくない、そんな感情は自分らしくない――そう思うのに、自分自身に重く圧し掛かって来るものがあった。


「アベルっ!お前どうして、」


 レオの声が聞こえる。「すぐに周囲に帝国兵が逃亡していないか確認しろ!」と指示を出すと、彼はアベルの肩を掴み、どうして収容施設から飛び出して来たのかと、怪我はないのかと矢継ぎ早に彼は問い掛けて来る。答えなくては思う。帝国兵らを誘導したこと、カインがいないかどうか、鴉の情報を求めて内部に入ったのだということ、怪我も何もないということ――それらを答えて安心させなければと思う。


「……こんなの、今更なのに。今まで何人も殺して来た。直接、自分の手で平気で誰だって殺して来たのに」


 口から出たのは別の言葉だった。命じられれば誰だって手に掛けて来た。帝国兵も、ベルンシュタインの人間も、言われるがままに殺して来たのだ。今更すぎる話なのだ。それなのに、どうして今になって僅かに言葉を交わした相手を裏切ったことに、見殺しにしたことに、こんなにも息苦しく、重苦しい気持ちになっているのか――そんな自分が到底理解出来ず、アベルは唇を噛み締めた。


「だってお前、もう今まで言われるままに人を殺して来たアベルじゃないだろ」


 頭を乱暴に撫で回される。何するんだ、放せと振り払おうにも耳に届くその言葉にぴたりと動きが止められる。


「自分で考えて、選んだんだ」
「……っ」


 これまで言われた通りにしてきたということを忘れていたわけではなく、全てを言われた通りにしてきたわけでもない。だが、カインと反目してまで自分の意思を貫いたのは初めてのことだった。そして、その先にあったのは自分で何もかもを選択しなければならない現実だった。今までは全て言われた通りにしていればよかった。カインが選ぶものに合わせて選んでさえいればよかった。
 けれど、自分でそれを止めたのだ。止めたからには、全て自分で選び取っていかなければならない。誰も指針にはなってくれないのだ。思い返せば、どうしようもないほど他者に依存しながら生きて来たのだということが思い知らされる。そして、誰かが命じたから、という大義名分がなければ慣れていることなのに受け止めきれない自分がどうしようもなく情けなかった。


「……アベル」
「……」
「オレの所為にしていいんだぞ」


 そんな自分の考えに気付いたのか、レオはぽつりと呟いた。崩れていく収容施設へと視線を向けたまま、彼は自分の所為にしていいのだと言う。レオの為に有益な情報を得ようと内部に入り、そして、上手く敵を殲滅出来るように誘導した――そう考えればいいのだと、暗に彼は口にした。


「……ううん」
「アベル、」
「あんたにおんぶに抱っこされるのは御免だよ。……僕は自分の為にやったんだ」
「……」
「中に入れば、カインが何処にいるのか分かるかもしれないと思った。でも、それを言うわけにもいかないから誘導するっていう建前を言っただけ」
「……分かったのか?居所」
「ううん、分からなかった」


 そうかと、レオはそれだけ口にするとそれ以上は何も言わなかった。ただ、励ますようにアベルの肩を叩く。そして、彼は後方へと戻って行った。周囲の索敵を行わせつつも撤退準備を始めさせるのだろう。出来るだけ早く王都に戻らなければならないのだ。そのことを思い出し、アベルは収容施設に背を向け、先を歩くレオの後を追った。
 何もかもをレオの所為にするつもりはない。今までのように、レオに言われたからと自分の行動を決めるつもりもない。無論、命じられればその通りに動くこともある。だが、それは自分も納得が出来た場合、だ。アベルの目的はあくまでもカインを止めることである。そして、誰かの為なら平気で生き急ぐレオを守ることだ。


「……あんたは死んじゃ駄目なんだよ、絶対」


 先を歩くレオの背を見つめ、アベルは小さく呟いた。レオはまだ国王としては未熟だ。けれど、これから先、様々なことを経験し、学び、彼はきっと先王よりも優れた王になるはずだと、心の底から思うのだ。傷つける痛みも傷つけられる痛みも知っている。奪われる悲しみも痛みも、憎しみも、知っているレオだからこそ、何があっても生き延びて、この国を導いていなかければならない――そんな彼を守ることはきっと、何があっても生き残るであろうアイリスにとっての幸せに繋がるはずなのだと、アベルは微かに表情を緩めた。








 

 夜も更けた頃、エルザは返書はまだ届かないのかと気を揉みながら待っていた。先ほど、レオから収容施設の制圧が完了したという知らせは届いた。それにも安堵はしたものの、制圧程度であれば然程心配も要らぬだろうとは思っていたのだ。何より、今は北の国境の方が気になって仕方なかった。
 北の国境は既に帝国の属領となった三国と面している。彼らが動かないはずがないのだ。もっと早くに密書を出すべきだったと今更すぎる後悔をしながら待っていると、慌ただしい靴音が聞こえ、「殿下!」とノックすらせずに副官が扉を開け放った。彼らしくもない冷静を欠いた様子にエルザの肝は冷えた。


「……動きがあったのね?」
「……はい。返書も届きましたが、それと同時に三国が兵を動かしているとの報告がリュプケ砦のガストン団長より入っております」


 動かないはずはないと思っていた。だが、実際に兵が動いているという知らせを聞くと、さっと血の気が引いた。此方に残っている兵力は決して多くはない。リュプケ砦にはガストンが騎士団を率いて詰めてはいるものの、彼らだけで敵うはずがない。圧倒的兵力差をもって叩き潰されるのは目に見えて明らかだ。


「帝都から指示があったようね」
「しかし、示し合わせて動いている可能性も……その、手柄をあげようと……」
「それはないと思うわ。……そんなことをする方たちではないもの」


 それぞれの国を治める彼らと顔を合わせた時のことを思い返す。先王がまだ生きていた頃の、帝国に侵略される前のことだ。彼らのことをよく知っているとは言えないものの、それでも、手柄をあげるために自主的に動くような者ではないということだけは信じられると思うのだ。私利私欲で動く為政者ではないと――そうでなければ、彼らはもっと早くに結託して攻め込んで来ていたはずだ。
 しかし、副官の不安げな気持ちが分からないわけではないのだ。寧ろ、この状況でこれから攻め込んで来るかもしれない国々の国王を以前と何ら変わらぬ心根の人間だと信じる方が楽観的だと思われても仕方がないことだ。けれど、エルザは決して楽観視しているわけではない。心底から彼らは変わっていない、ただただ自身の国を大切に思う為政者なのだと思っている。
 エルザはそこで漸く、届いた返書に目を通した。届いた三通の返書には示し合わせたように全て同様の文言が書かれている。――否、示し合わせたのだろう。綴られていた文言にエルザは瞳を伏せる。そして、ああやっぱり彼らは変わっていなかったと、心の底から安堵した。


「……エルザ殿下?」


 心配げな副官の声にエルザは伏せていた瞼を持ち上げた。返書を膝の上に置き、それらを指先でゆっくりと撫でる。


「私にはね、大切なものがあるの。この国の王女として」
「……」
「領土だって勿論大切よ。でもね、それ以上にこの国に生きる人たちの方が大切なの。彼らがいなければ国は成り立たないし、彼らがいるからベルンシュタインは国で在り続けることが出来る。勿論、このことはうちに限ったことではないわ。どこの国も同じ」
「……」
「彼らにとっても最も大切なのは自分たちの国よ。一度、帝国に蹂躙されているからこそ、彼らはその恐ろしさを身を以て知っている。それをもう一度経験するなんてこと、彼らには耐えられないし、何よりも酷なことよ」


 それでも、彼らは精一杯の譲歩をしてくれた。
 エルザは膝の上に置いていた返書を抱き締め、顔を伏せた。何よりも大切なものを失うわけにはいかない。何をしてでも守らなければならない。もうこれ以上、失いたくはないのだ。


「エルザ殿下……返書には、一体何が……」


 困惑した表情を浮かべる副官にエルザは胸に抱いていた返書の一通を差し出す。そして、それに目を通した副官は言葉を失くした。そんな彼の様子にエルザは困ったような笑みを浮かべた。


「レオはもう帰還準備をしている頃よね。準備しないと」
「エルザ殿下、しかし、こんな……!」
「妥当な落とし所よ。彼らだって手ぶらでは帰れないもの」


 腰かけていた椅子から立ち上がったエルザの声音は淡々としていた。一切の感情を排したその様子に副官は息を呑む。だが、すぐに納得など出来るはずがないとばかりに彼女に食い下がり、「しかしっ」と声を荒げる。


「貴女様は……本当に平気なのですか?!この国を守らなければならないというお気持ちは痛いほど分かります、私も同じ気持ちです。しかし……そのために、陛下を……弟君の首を奴らに差し出すことが、本当に正しい決断でしょうかっ!?」


 背中に向けて吐き出される叫びに、エルザは足を止めた。三国の返書に示し合わせて書かれた返答は、領土を侵犯せず、侵攻しない代わりに国王の首を差し出せ――というものだった。つまり、レオの首を差し出すことを代償にベルンシュタインへの侵攻を取り止めるということだ。無論、それが守られるという保証は何処にもない。しかし、エルザにしてみれば、彼らを知っているからこそ、首さえ差し出せば必ず約束は守ってくれると信じられた。
 浅はかだと人は言うかもしれない。裏切られる可能性の方が高いのだ。それにも関わらず、国王の首を差し出すなど決して下すべき判断ではない。あまりにも稚拙な判断であり、愚策とさえも言えないほどの愚かしい判断だと言われるだろう。それでも、エルザに出来ることはこれだけだ。
 他の誰に何と言われようと、この判断を覆すわけにはいかない。ベルンシュタインの領土への一切の侵攻を許すわけにはいかないのだ。エルザは尚も止めようとする副官を振り切るように居室を出ると、足早に歩き出す。真っ暗闇の廊下を歩くと、思い出されるのはアイリスに手を引かれながら安全だった城内を敵から逃れ、逃げ惑った時のことだ。敵に襲われることの恐ろしさを身を以て知ったのだ。あの時の恐怖を誰にも味合わせたくなどない。
 ひんやりと冷えた廊下に身体を震わせながらもエルザはじっとりと汗ばむ夏の頃を思い返す。ホラーツがまだ生きていた頃の、カーニバルだ。王都は人で溢れ返り、夜になっても賑わっていた。そんな様子が今となっては心底から愛しく思える。彼らには、この国で生きる者にはいつまでもいつまでも笑っていて欲しい――それがエルザの願いなのだ。


「急がなきゃ……レオが帰って来てしまう」


 それまでに全ての用意を済ませてしまわなければならない。返書には彼らが定めた期限だってあるのだ。その期限に間に合うように、リュプケ砦に場所を移す必要だってあるのだ。ぐずぐずしている時間はない。副官に邪魔をされないとも限らないのだ。エルザは足を速め、目的の場所に急いだ。

 


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