開戦 - struggler -




「戻ったら休憩取らせて、その間にこれからどうするか考えなきゃな」


 一足先に王都へと戻ることになったレオはアベルと共に馬車で護送されていた。普段ならば馬車を断って自身で馬を駆っていたところだが、収容施設を爆破した時からアベルの様子がいつもとは異なっていたということもあり、レオは彼を連れて馬車に乗り込んだ。帝国兵らへの追撃を全て任せてきてしまったことは気掛かりではあるものの、取り乱していたアベルのことも心配であり、また、状況がどのように変化しているのかということも気になっていた。
 逐一、ゲアハルトら本隊から報告は届いている。王都を離れている間に報告が届いていたかどうかは知れないものの、やはりどのような戦況であるのかは気になって仕方ない。それに、本隊が出兵している隙を突いて国境が隣接している周辺国が動かないとも限らない。そうなれば、限られた兵力で対応しなければならない――出来れば、彼らが動かないことを願うばかりだが、どう考えてもその願いは非現実的なものと思えてならなかった。
 自分が思っているほど現実は甘くないということをレオは知っていた。これまでずっと最前線で剣を振るっていたからこそ、分かるのだ。起きて欲しくないことほど現実に起きるということも、最悪の予想ほどよく当たるということも。


「もうすぐ王都だ。……アベル、気分はどうだ?」
「……そんなに気を遣われなきゃいけないほど悪くはないよ」
「ならいいけどな、減らず口が叩けるなら大丈夫そうだ」


 向かい側には膝を抱えたアベルが憂鬱そうな顔で座っている。レオは敢えて彼の虚勢に気付かぬ振りをして軽口を叩いた。それさえも気遣いだということをアベルは気付いているだろう。けれど、彼は何も言わず、レオもそれ以上は口を開かなかった。
 アベルは今、壁を乗り越えようとしている。本来ならば、越える必要のない壁だろう。自分の意志で人を手に掛ける決意など――本当ならば必要のない決意であり、行為だ。だが、そうも言っていられない状況だった。ただ、全ての兵士が壁を乗り越えたというわけでもない。言われるがままに、命じられるがままに、かつてのアベルと同様に与えられる命令に従って、あるいは戦場で見える敵から自分の命を守る為に敵を手に掛けている者の方がきっと多いはずだ。
 気に留めていられない――否、意識の外へと罪悪感を追いやっているのだ。そして、多く殺せば殺しただけ称賛され、その行為が肯定されるが為に、彼らは武功を求めて剣を振るい続けることが出来る。無論、そういった者が全てだとは言えない。少なくともレオ自身は武功を求めているつもりはない。ただ偏にベルンシュタインという国を守る為に剣を振るっている。それは玉座に座る前から、兵士として最前線に立っていた時から変わらないつもりだ。そして、アイリスやレックス、自身の近しい者たちも同じだと思っている。
 彼らは皆、剣を振るう度に、目の前の敵を倒す度に、痛みを感じている。そして、アベルも漸く、その痛みに気付いた。それがどれほどの痛みであり、重みのあるものなのかをレオはよくよく知っていた。だが、何も言うことは出来ず、手を差し出すことも出来ない。否、するべきではないのだ。それは自分自身で乗り越えなければならない痛みであり、背負い続けなければならない重みだ。自分の守るべきものの為に他者を傷つけるというのは、そういうことなのだとレオは考えていた。


「……あのさ」


 馬車が王都へと入る門を越えた頃、ぽつりとアベルが口を開いた。しかし、言葉が続かない様子で彼は口を噤んでしまう。レオは視線を外すと、小さな窓から見える暗い街並みへと視線を投じた。ぼんやりと街灯が照らす街並みは静まり返っている。真夜中なのだ。出歩いている者は居らず、誰もが眠りについている頃だ。
 窓の外に広がる平穏な暮らしを、自分は守ることが出来るのだろうか――ぼんやりと考えていると、「僕を近くに置いてて平気なの?」と微かな声が聞こえて来た。ぼんやりとした思考を切り上げ、レオは自分をじっと見つめるアベルへと視線を向けた。沈鬱な表情を浮かべたままではあるものの、橙色の灯りに照らされているからだろうが幾分か顔色がましに見えた。


「何か言われたのか?」
「純粋な、疑問だよ」


 本当にそれだけだろうかとも思う。しかし、今は根掘り葉掘り聞く気にはなれなかった。
 アベルが元々は帝国の人間であり、一度ベルンシュタインを裏切ったことがある者であるということは既に周知の事実だ。そんな人間を傍に置くことは決してレオにとってプラスになることではない――それをアベルは危惧しているのだろう。もしかしたら、誰かにそのようなことを言われたのかもしれない。嫌がらせを受けたのかもしれない。
 けれど、やはりそれもアベルが自分自身の力で乗り越えなければならないことだ。それが分かっているからこそ、純粋な疑問だと彼は口にしたのだろう。何かを言われた、されたと口にしてしまえば、それは彼にとっては打ち破れたということになる。アベルはきっとそれを良しとはしないのだろう――レオはそのことを確信していた。


「アベルは仲間だろ。一緒にいるのにいいも悪いもないし、平気も何もない」
「でも、」
「オレはお前のことを信じてる。アイリスもレックスも」


 それに焦ることないって、いつか皆分かってくれるから。
 腕を伸ばし、がしがしと乱暴にアベルの頭を撫で回す。焦ったところでいい結果が得られるとは限らない。特にアベルの場合は、マイナスの印象からのスタートなのだ。居心地の悪さからもがきたくなる気持ちが分からないでもないが、焦ればすぐに信じてもらえるというわけではない。ならば、出来ることから、小さなことからこつこつと積み重ねていくしかない。
 何より、その方がアベルの為だとレオは思うのだ。彼はベルンシュタインで生きていこうと考えている。だからこそ、信じられたいと思っているはずだ。ならば、これから先、時間はいくらでもあるのだ。その分、アベルにとっては辛く苦しいことも多くあるだろう。だが、挫けそうになった時に手を伸ばして支えてくれる者はいる。レオだけじゃない。アイリスもレックスも、きっと、エルンストやゲアハルトも、アベルを支えてくれるはずだ。独りぼっちではないのだから大丈夫だと頭を撫で回していると「もういい、分かったから。やめてよ、馬鹿」と早口に捲し立て、アベルはレオの手を振り払った。その照れた様子に笑っていると、馬車は緩やかに速度を落とし始めた。そして、完全に停車したところで不意に御者が何者かと話している声が聞こえて来た。その様子は決して穏やかなものではなく、レオとアベルは顔を見合わせると馬車の扉を開けた。


「どうかしたのか?……お前は、姉上の……」
「陛下!降りられてはなりません、このまますぐにお逃げください!」


 扉を開けるなり、御者と話していた男――エルザの副官は血相を変えた様子でレオを馬車に押し込もうとする。すぐに逃げろと言う彼にレオは困惑した表情になりながら、「事情を聞かせてくれ。というか、姉上はどうしたんだ」と眉を寄せて尋ねた。彼が此処にいるということは、エルザは今、一人ということだ。今の状況でそれは決して褒められたことではない。
 副官はじれったそうにしつつも、アベルに「事情を話してくれないと逃げる方向が決められないと思うんだけど」と言われてしまい、早口にこれまでに起きたことを説明し始めた。北方の国境に面している三国に密書を送ったこと、彼らからの返書が届き、返書にはベルンシュタインに攻め込まない代わりに国王の首を差し出せと記されていたこと――そして、既に三国に兵の動きが見受けられ、エルザもまた、準備をすると言っていたということ。


「……レオ」


 唖然としていたレオは心配げにアベルに名前を呼ばれ、緩々と「ごめん、ぼーっとした」と呟いた。説明を終えた副官は再びレオに逃げるようにと口にした。なかなか動こうとしないレオを無理矢理馬車に押し込もうとするも、暫しされるがままとなっていた彼は不意に自分の身体を押している腕を握り、押し返した。


「陛下!?」
「知らせてくれてありがとう。逃がそうとしてくれたことも感謝してる」


 どうしてと言わんばかりに口を開き、唖然とした表情を浮かべる副官の肩を押し、レオは馬車から降りた。聞かされた内容には驚いたが、選択の余地はないということに気付いてしまえば、すとんと自分の中に落ち、納得出来てしまった。ベルンシュタイン本国に残された兵力では、三国が合わさった兵力を凌ぐことは出来ない。それでも尚、抵抗して国を蹂躙されるか、最初から剣を下ろして頭を垂れるか――どちらがこの国を、延いては国民を守ることが出来るのかを考えれば、最初から答えは決まっていた。


「オレの首一つでこの国を守れるのなら安いもんだ」


 恐怖がないと言えば嘘になる。だが、覚悟はしていた。ベルンシュタインに殉じる覚悟は、王の冠を戴いた時から出来ていた。


「待って……待ってよ」
「……アベル」
「おかしいよ!何か、こんなのっておかしいよ……何か、違和感があるんだ」
「……」
「兎に角、もう少し待ってよ。本当にあんたのお姉さんがそんな選択するの?あんたを差し出すような真似、出来るような人とは思えないよ」


 おかしいよ、とアベルは繰り返す。レオの腕を掴むその手は微かに震えていた。だが、エルザの真意は兎も角としても首を差し出すように求められているという事実は変わらない。レオは嫌だ嫌だと首を横に振るアベルの肩に腕を置き、ぽんぽんと優しくあやすように叩く。だが、引き止めるように掴まれた腕の力は少しも緩まらない。
 その間も副官は警備の兵士を集め、何とかレオを馬車に押し込んで逃がそうとしているようだった。自分を生かそうとしてくれる者が多くいるということは素直に嬉しいものだった。だが、こうして彼らの傍にいると、自分の覚悟が鈍りそうにも思え、それがどうしようもなく怖くもあった。
 そんな時、「陛下っ」と兵士が集まり騒がしくなりつつあった空間を切り裂くように女の声が響いた。誰もが口を閉ざし、声が聞こえた方向へと顔を向ける。そこには涙で顔をぐしゃぐしゃにし、すっかりと泣き腫らした様子の城仕えのメイドが立ち尽くしていた。彼女と面識はなかったものの、この状況で涙を流しながら自身を呼ぶ様子を見ていると、返書の一件と何か関係があるのではないかと思えてならない。


「陛下……エルザ殿下が……殿下が……っ」
「……姉上のところに連れて行ってくれるか?」
「なりません、陛下!」
「オレは姉上と話したいんだ」


 腕を広げて立ちはだかるエルザの副官の肩を叩き、レオはその脇を通り抜けようとすると、それまで腕を掴んでいたレオの手から力が抜けた。肩越しに振り向くと、怒ったようでいて泣き出してしまいそうな顔で睨んでくる。「僕も行く」とぽつりと口にした。


「言ったでしょ、あんたは絶対死んじゃだめなんだって」
「……」
「だから、行かせたくはないけど……でも、あんたのお姉さんが……あんたを、差し出すようなことをするとは思えないから……」


 ちゃんと話は聞いてみた方がいいと思っただけ――そう言うと、アベルは早く行こうと促すようにレオの背を押した。エルザが自分を差し出すようなことをするとは思えない――というアベルの言葉にレオはじわりと目頭が熱くなった。そうであって欲しいと、何かの間違いであって欲しいと、心の何処かで考えていたからだ。
 ベルンシュタインに殉じる覚悟は出来ている。けれど、エルザが自分を差し出すことを決めたと彼女の副官に聞かされた時、目の前が真っ暗にならなかったと言えば嘘になる。たとえそれが王女としての選択であったとしても、間違ってはいない選択だったとしても、傷つかなかったわけではないのだ。
 そして、長らくエルザに仕えていた副官がレオに逃げろと言った時に、彼女ならばそんな選択をすると思っていたということもショックだった。だからこそ、エルザは自分を差し出すようなことをするとは思えないと言ってくれたアベルの言葉が胸に深く突き刺さった。自分がよく知る姉は、そんな選択をする人間だっただろうか――そう考えた時、レオは素直にそれを受け入れられなかった。姉はそんな人間ではない――そう思ったからこそ、ちゃんと話を聞かなければならないと、思い直すことが出来た。


「……でも、いざとなったら……僕はあんたを引き摺ってでも連れて行くからね」
「レオ、それは」
「あんたが首を差し出せば全て終わりってわけじゃないでしょ。本隊がヴィルヘルムを倒してやっと終わりなんだから」
「……」
「それが完遂されるまでに問題はきっと山ほどある。死んで楽になんてさせてあげるほど僕はお人好しじゃないし、僕は…………あんたのこと嫌いじゃないから、黙って指を咥えて見てるだけなんて真っ平だよ」
「アベル……」
「それにこういう時……いつだって前向きに、最後まで足掻くのがあんたでしょ。何でもう諦めようとしてるの。もっと他に方法だってあるかもしれないのに、いつものしつこいぐらいに前向きなあんたは何処に行ったの?」


 もっと他に方法があるかもしれないのにというアベルの言葉に、目が覚める思いがした。諦めているつもりはなかった。けれど、諦めずに他に方法があるかもしれないとも考えていなかった。要は、首を差し出さなければならないという事実を受け止めようと必死になっていたのだ。「ごめん、ありがとうな。アベル」と目を覚ましてくれたアベルに礼を言うと、レオは未だ泣いてばかりいるメイドの背を軽く叩き、エルザの元へと案内を頼んだ。
 どうして彼女はこんなにも泣いているのだろうと不安が過る。もしかしたら、既に近衛兵を集めて自分を捕える用意を整えているのかもしれない。その場に連れて行かなければならない罪悪感で、彼女はこんなにも泣きじゃくっているのだろうかとも考える。だが、まだ王座に就いて間もなく、王として何かをしたというわけでもない。惜しまれるような立場ではないとレオは待ち受けている漠然とした不安に柳眉を寄せた。


「エルザ殿下……陛下を、お連れしました……」


 そして、連れて来られた大広間に足を踏み入れたレオは大きく目を見開いた。


「……姉上……その、格好は……」
「……っ」


 唖然として足を止めたレオとその姿を見て全てを察したらしいアベルは息を詰めた。大広間にはエルザがいた。たった一人、そこに立ち尽くしていた。けれど、彼女の長かった髪は肩につくかどうかという短さに変わり、纏っていたものもレオが普段着ているものと遜色ないものに変わっていた。化粧もしていないエルザのその姿は遠目から見ると、レオとよく似ていた。
 短く切った髪に触れながら「こんなに髪が短いのは子どもの頃以来だわ」と少しだけ恥ずかしそうにエルザは笑った。女性らしい身体つきも服の下で補正しているのだろう。今の彼女とレオの違いは、瞳の色だけだ。藍色の瞳だけがレオと異なるだけで、ぱっと見たところでは瓜二つだった。


「姉上が……姉上が、オレの身代りになる必要なんて……そんな必要はありませんっ」


 穏やかに笑う彼女に対し、レオは腹の底から叫んだ。エルザは身代りになるつもりだ――それは伸ばしていた髪を切り、男の格好をした姿を見れば一目瞭然だった。嫌だ嫌だとレオは首を横に振る。目頭が熱くなるも、形振りなど構っていられなかった。大広間の中央に佇む彼女の元に駆け寄り、力一杯、姉の身体を抱き締める。
 とても小さな体だった。薄くて、力を入れれば容易く折れてしまいそうな体だ。エルザは苦笑を浮かべると、優しくレオの頭を撫で始めた。その手が心地よくて、レオはきゅっと唇を噛み締め、彼女の薄い肩に額を押しつける。


「……嫌です、姉上」
「それじゃあ誰かを身代りにするの?」
「もっと、他に……方法があるはずです!皆で考えればきっと、」
「時間は有限よ、レオ。それに一度でも攻め込まれてしまえば後は蹂躙されるだけ、ベルンシュタインに為す術はないわ」
「でもっ」


 エルザの言うことは理解は出来る。三国は首さえ差し出せば侵攻はして来ない――それが確約されるものである保障はないものの、彼女はそれを信頼に足るものであるとレオの背を撫でながら懇々と話してくれる。そして、彼らも帝国に従属せざるを得ない状況から、それほど猶予を与えてはくれないということも、そんな中で最大限の譲歩をしてくれたということも。だが、それらを聞かされても、理解は出来ても納得は出来なかった。


「何で……そいつらのことを立ててやらなきゃいけないんですか……」
「彼らにだって守らなくてはならない民がいるからよ。わたしたちがベルンシュタインの国民を守りたいように」
「……それは……でも、」


 でも、だって――様々な言葉が浮かんでは消えていく。子どものように駄々をこねているのは自分だということも分かっている。それが彼女を困らせていると分かっていても、止められそうになかった。


「聞いて、レオ。……貴方が私に生きていて欲しいと思ってくれることは嬉しいわ。でもね、だからといって大切な国民を身代りには出来ないわ」
「……」
「かといって、王族の誰かを身代りに差し出すわけにもいかない。そうすれば、レオは後々苦しい立場になるかもしれない。最悪の場合、玉座から引き摺り下ろされるかもしれない」
「玉座なんていらないっオレは!」
「レオ、そんなことは二度と言わないで。……貴方はお父様の息子、ベルンシュタインの正統なのよ」


 身体を離し、エルザは両手でレオの頬を包むと真っ直ぐな視線を向けて来る。涙で滲んだ視界でも、その真っ直ぐな視線は痛いほどに感じられ、レオは唇を噛み締めた。


「貴方は生きなきゃいけないの。……それに、お父様に似ているのは貴方以外だと私だけだもの。他の誰にも代わりは務まらないわ」
「……姉上」


 涙が頬を伝った。どれだけ言葉を重ねてもエルザの決意は固く、止められないのだということがひしひしと伝わって来る。彼女はレオの頬を伝った涙を拭うと優しく微笑む。


「私はギルベルトを失い、シリルも失った。父と母も失ったわ。……それなのに、その上、貴方まで失ったら、私はもう耐えられない」
「……」
「もうこれ以上、失いたくないし、奪われたくもない。レオ、貴方だけは失いたくないのよ」


 それを言われればオレだって――せり上がって来る嗚咽に、伝えたいそれは言葉にならなかった。顔を歪めるレオを引き寄せ、エルザは優しく優しく、惜しむように彼の頭を撫で続ける。そんな彼女は今にも泣きそうな顔で笑っていた。
 三国が要求したものは身柄ではなくあくまでも首だ。つまり、彼らも替え玉は承知の上なのだろう。瞳の色こそ違うものの、顔立ちが似ているエルザの首を差し出せば、彼らはそれをベルンシュタインの王の首として侵攻することなく撤退するという。それは既存の兵力では到底敵わないベルンシュタインからしてみれば、呑まない手はない、これ以上ない要求ではある。
 頭では理解出来ているのだ。この要求を断るわけにはいかないと――けれど、そのために肉親を差し出せるかと考えた時、容易には答えが出せるはずもなかった。エルザもレオと同様にベルンシュタインに殉じる覚悟は出来ていたのだろう。だからこそ、彼女は自身の首を差し出そうとしている。けれど、それを黙って見過ごせるほど、彼は王に成り切れなかった。


「嫌だ……嫌だ、っ……あねう、……姉さんっ」
「……レオ、貴方はすぐに此処を離れて本隊と合流しなさい。公式では貴方は死んだことになるんだから、此処にいて変に噂が立ってはいけないから」


 肩を掴まれ、力一杯突き飛ばされる。真っ直ぐに向けられるその視線に駆け寄ろうした足は縫い止められ、それでも諦めきれずにレオは姉さんと叫ぶ。それでも、彼女はもう応えてはくれない。


「大丈夫よ、貴方は一人じゃないもの。貴方の仲間がきっと守ってくれるし、支えてくれるわ」


 そう言ってエルザの視線は初めてレオから外れ、彼の背後にいた者に微笑みかけた。そして、また視線はレオに戻り、彼女は優しく笑った。


「強く生きなさい。他の誰が死んだとしても、貴方は生きなくてはならない。レオ、貴方はこの国の王なのだから」
「姉さ、……アベル、離せっ」


 レオはアベルに羽交い締めにされながらも何とか拘束を解こうともがき続ける。しかし、冷静さを欠いた状態ではアベルの拘束を解くことは出来ず、逆に生まれた隙を突かれて鳩尾に強烈な一撃をもらってしまう。痛みが全身を駆け抜けると同時に力が抜け、ふわりと意識が浮遊する。駄目だと思うのに、手を伸ばすことさえ出来ず、エルザの微笑みを見つめながらレオは意識を手放した。










「……気を失わせただけです。思いっきりやったからしばらくは目が覚めないと思います」


 倒れるレオの身体を支えながらアベルはそう教えてくれた。エルザはほっと安堵の息を吐く。こうでもしなければ、レオはきっと自分から離れてはくれなかっただろう。何より、離れ難いと自分自身が思ってしまっていたに違いない。それを思うと、レオを気絶させてくれたアベルには頭が上がらなかった。


「ありがとう、貴方のお陰で助かったわ」


 気絶し、それでも尚、頬に涙を滑らせる弟の傍に膝をついたエルザはそっとその涙を拭い、頭を撫でる。撫でれば撫でるだけ、名残惜しさが募っていく。これでは駄目だと思いながらも、それでもぐったりとして動かないレオの身体を抱き締めずにはいられなかった。顔を胸に押し付け、押し殺した嗚咽を漏らす。泣きたかったのは、自分だって同じなのだ。
 それでも、これは全て自分で決めたことでもある。ベルンシュタインの為に殉じる覚悟は既に出来ているのだ。ならば、感傷に浸るのではなく、自分自身に課した責務を果たさなければならない。そうでなければ、レオに偉そうなことは言えない。


「さあ、もう行ってちょうだい」
「……はい。必ず本隊と合流して、レオを守り抜きます」


 安心させるように、ぎこちなく笑った隻眼の少年にエルザは深く頷いた。彼ならばきっとレオを守ってくれると思えたのだ。
 アベルはレオを支え直すと、ぶわりと魔力を放出する。そして、次の瞬間に空中に描き出された魔法陣から巨躯の狼が出現した。そのあまりに唐突な狼の出現にエルザを初め、いつの間にか大広間に辿り着いていた彼女の副官も驚きを隠せないようすだった。アベルは狼にしゃがむように命じると、その背中にレオを乗せようとする。しかし、彼の膂力では気を失ったレオを担ぎ上げることは容易なことではなく、慌てて副官が手を貸し、集め回っていたらしい現在の本隊に関する情報をまとめた紙をアベルに手渡していた。


「気を付けてね」
「はい、……殿下も」


 狼の背にアベルも跨ると、彼は深々と頭を下げた。そして、やはりあのぎこちない笑みを浮かべると副官によって開け放たれたバルコニーから飛び出した。エルザもバルコニーへと駆け寄ると、既に遠のき、僅かに動く影が見えるだけだった。この速さならば馬で行くよりもずっと早く本隊と合流出来るだろう。
 そのことにほっと安堵の息を吐いた後、「レオは頼もしい仲間を持てて幸せ者ね」と呟いた。それと同時に涙が頬を伝う。手の甲で次から次へと溢れる涙を拭っていると、それまで黙っていた副官が深々と頭を下げ、申し訳ありませんでしたと上擦った声で謝罪を口にした。


「私はっ、殿下に長くお仕えさせて頂いているにも関わらず……っ」
「いいのよ。黙っていた私が悪いのだから、勘違いしたって仕方がないわ」
「しかし……!どうして、……お話して頂けなかったのですか」


 今にも泣き出してしまいそうな顔だった。そんな彼の様子にエルザは困ったように笑った。今まで仕えていてくれたからこそ、彼がどういう人間であるのかはエルザもよくよく分かっていた。だからこそ、言えなかったのだ。言えば必ず止められる。きっと、気絶でも何でもさせて、それでもエルザを守ろうとするだろう。彼はとても自分を大切にし、誠心誠意仕えてくれていたのだから。


「ごめんなさいね。貴方には辛い思いをさせるわ」
「……殿下、どうしても、お気持ちは変わりませんか?」
「……私も幸せ者ね。貴方みたいな人に仕えてもらえて」


 彼はきっと一生後悔するのだろう。止めるべきだったと、後悔し続けるのだろう。そうなることが分かっているのに、決断を変えられないことが申し訳なかった。エルザは「でも、どうか許してね」とだけ言うと、バルコニーの縁に手をつき、アベルとレオが去った方角を見つめる。どうか無事に辿り着いて欲しいと思う。そして、どうかまたこの国に戻って来て欲しいと心の底から祈る。さようなら、私の大切な大切な弟――エルザは最後に心の中で囁きかけると、そっと踵を返した。



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