開戦 - struggler -




「エルンスト、少しいいか」


 相変わらずの曇天の空模様だったが、時刻は昼に差し掛かる頃、先に出立して迂回ルートを行った後方支援と護衛に就いていた第三騎士団は合流地点である街に到着した。街は予想通り、既に退避が完了しているらしく、誰もおらず閑散としていた。そして、索敵を済ませると出来るだけ塊ながら、周囲を警戒しつつ交替で休憩に入ることとなった直後、それまで指揮を取っていたヒルデガルトが解散を指示した後にその場を離れようとしていたエルンストを呼び止めた。
 一体何の用なのだろうかと思う。ちらりと見た彼女の表情は先ほどまでの凛としたものではなく、どこか疲れたものだったからだ。そういう顔を解散の指示を出したとはいえ、未だ兵士が多くいる場所で晒すわけにもいかない。エルンストは頷くと、周りに兵士がいない街の奥へと足を進めた。


「それで、深刻な顔してどうかした?」


 深刻な顔――というよりも、気遣わしげな様子に感じられたのだが、何か相談されるにしても適切な助言など出来ないから困ったものだと内心溜息を吐く。そして、最後の足掻きとばかりに無意味であろう予防線にも成り得ないそれを口にし、ひんやりと冷たい路地裏の壁に背中を預けた。
 ヒルデガルトはそれをどう受け取ったのか、言葉に迷っているような素振りを見せた。彼女らしくない歯切れの悪い様子を意外に思いつつ、出来ることなら休みたいんだけどなと心の中でぼやく。そんなことを考えながら待っていると、「……よかったのか?」とヒルデガルトは呟いた。


「何が?」
「アイリスを焚きつけてよかったのか?」
「……何で知ってるの?」


 彼女の口から出てきたそれは、アイリスと焚き火をした時のことを指しているのだろう。どうしてそのことを知っているのかとも思うし、どうしてそこで話したことを知っているのかとも思う。だが、すぐに呆れたように溜息を吐き、「あの状況で勝手に焚き火なんてして兵糧に手を付けたとなればすぐに知らせが来るに決まってるだろ」とヒルデガルトは額に手をやった。
 ああ、そりゃそうかと思う。いつも通りのことをしているつもりだったが、本来ならば処罰を受けて然るべき行為だ。それでも何だかんだで今まで何も言われたなかったのは――ゲアハルトからは注意されてはいたものの――単純に彼らよりも自身が上位にあったからだ。疎んでいた身分に甘えていたのは他ならない自分だということを改めて実感させられ、エルンストは頬を掻いた。


「それよりさ、俺も聞いていい?どうしてそっちこそアイリスちゃんを行かせたの?」
「……」
「言い方を変えるよ。あの子を行かせてよかったの?」


 我ながら意地の悪い問い掛けをしていると思う。自分がこのような聞かれ方をすればそれこそ拳の二発や三発は既に相手の頬にめり込んでいるだろう。けれど、ヒルデガルトは首を軽く横に振ると、どこか困ったように苦笑を浮かべた。


「私はもうずっと前に踏ん切りが付いていた」


 彼女の言う“ずっと前”がいつなのかは分からない。ただ、この数日、数週間、少なくとも、数か月ではないということはその顔を見れば明らかだった。ヒルデガルトは恋をしていた。そして、その恋は実らなかった。彼女は言った。誰かの存在があったからではなく、ただ単純に、彼の傍に立ち続けるには自分は抱えているものが多すぎた。
 何より、自分が望んだ意味合いで、彼は自分を見てくれることはないだろう――心の中でずっと、きっと、好きだと自覚したときからその気持ちと同じく存在し続けたある種の確信があったのだという。かと言って、それはそれで物分かりが良すぎるのではないかとエルンストは思う。本気で欲しいと思うのなら、それこそ何をしてでも何を捨ててでも――そこまで考えて、エルンストは自嘲した。だから、自分はカサンドラと似ていると本人に指摘されてしまうのだ、と。
 だが、今となってはそれが自分だとも受け入れられる。そういう自分だったのだ。そして、カサンドラをずっと憎み続けてきた理由も単純に兄を殺されたということも、その所為で自分の人生が狂わされたということも、自分たちを裏切ったということもあるが、それと同じぐらい、きっと心の奥底にあった何もかも捨てて壊して、自分のしたいようにしてやりたいという願望を実現した彼女のへの苛立ちや憎悪があったのだろう。一言で言ってしまえば、同族嫌悪なのかもしれない。だが、そんな言葉で言い尽くせるほど根深くないわけでもなかった。


「ゲアハルトはきっとアイリスを選ぶと思ってた」
「……それ、俺に対して言うこと?」
「お前だってそう思ったからこそアイリスを焚きつけたんだろ?」
「それは……」
「私だって同じだ。……国葬での一件を目の当たりにして、確信したし吹っ切れた」


 敵わないって心底から思い知らされたよ。
 首をふるふると横に振りながら思い返すように口にするヒルデガルトにエルンストは口を噤んだ。確かに、国葬での一件はアイリスとゲアハルトにとって決定的なものだっただろう。ルヴェルチによって逆賊と名指しされ、ホラーツは売国奴であるという挑発を受けたゲアハルトは制止を振り切ってルヴェルチを殺そうとした。
 それこそ本気だった。ルヴェルチさえ殺せたのなら、後のことはどうだっていいとさえ思っていただろう。常の冷静さを欠いた状態は、理由は違えど先日見せたものと大差はない。そして、そのどちらもアイリスは関わっていた。止めようとする兵士を薙ぎ払ってルヴェルチに剣を振り上げたその時――前に立ちはだかったのはルヴェルチの護衛ではなく、アイリスだった。


「距離が離れてたからだとか、そういうことじゃない。もし私がアイリスと同じところにいたとしても、私はあの子のようには動けなかった」
「……色々抱えてるんだから動けなくても仕方ないと思うけど」
「ああ、そうだ。だけど、それは言い訳だ」
「……」
「私は自分の保身を選んだ。アイリスは自分の身の安全よりもゲアハルトを助けることを選んだ」


 もしかしたら死んでいたかもしれない。それでも、あの子は必ずあいつが剣を捨てると信じ切った。
 ヒルデガルトは眩しそうに目を細めて口にした――私には真似できない、と。その言葉にエルンストは瞼を閉ざした。今でもはっきりと覚えている。あの時ほど、肝が冷えたことはないかもしれない。ゲアハルトもアイリスも、今にして思えば失っていたかもしれないのだ。結果的に、ゲアハルトは剣を捨て、アイリスも掠り傷程度の軽傷で済んだものの、それが二人にとってきっかけになったことは間違いないだろう。
 そのことを思うとルヴェルチは要らぬことをしてくれたと腹立たしさが募るものの、寧ろそれが吹っ切れるきっかけになったヒルデガルトにしてみれば、要らぬことではないのだろう。何より、元はと言えば、エルザの護衛をアイリスに任せたのは他ならぬ自分自身だ。もし彼女に護衛を任せなければ、このような結果にはならなかったかもしれない――無論、それは何度も考えた、仮定の話でしかない。もしアイリスにエルザの護衛を任せなかったとしても、遅かれ早かれ同じ結末を辿っていたかもしれないのだ。
 考えれば考えるだけどつぼに嵌るだけだ。何とも言えない感情を持て余しながらも、エルンストは「ヒルダは保身だって言うけど」と思うがままに口を開く。


「俺は間違ってなかったと思うよ、その判断。言ってしまえば、何も持たないアイリスちゃんだからこそ出来たことじゃないかな」
「お前に慰められるとは、意外だったよ」
「これでも俺は結構優しいつもりだけど」


 勿論、全員に対してというわけではない。ヒルデガルトは同期であり、入隊直後から同じ部隊に配属されていたということもあり、何かと一緒に行動することは多かった。それぞれ昇進し、彼女が騎士団を任せられ、エルンストが軍医の職に就いてからも顔を合わせば話もするし、冗談も言い合う。時間が合えば食事もする。女性嫌悪は相変わらずだったが、どちらかと言うと、その辺りにいる男よりも男らしいヒルデガルトは然して苦手な部類に入ることもない数少ない異性だった。


「違う、お前は優しいんじゃなくて単に可哀想だと憐れんでるだけさ。お前が優しいのは、アイリスに対してだけだよ」


 首を横に振り、ヒルデガルトは苦笑を浮かべる。 


「……そうかな」
「そうだよ。……ゲアハルトだって同じさ」


 あいつは周りに対して冷たい。だけど、その向こうに見え隠れするのは優しさではなく人心掌握のための親切心だ。
 ヒルデガルトは視線を伏せ、困ったような笑みを浮かべながら「それなりの時間、お前らといたからそれぐらい分かる」と呟いた。言外に、自分は一度も優しくされたことはないのだと含める彼女にエルンストは何も言えなかった。思ったのだ、可哀想に、と。辛いだろうな、残念だろうな、と。それが優しさでないとは言い切れなくとも、それでも、憐みの気持ちがないとは言えない。そこまで気付いた漸く、報われない、可哀想だと思う相手に自分がこれまでずっと安心してきたのだということに気付いた。


「ゲアハルトはアイリスに対しても、冷たいところはある。……だが、それと同じぐらい心を砕いてるし、……優しくしようとしてる」
「……羨ましい?」
「吹っ切れたと言っただろ。私は未練がましい女じゃないよ」
「それだと俺が未練がましいみたいだ」
「現に未練がましいじゃないか」


 ばっさりと切り捨てられ、エルンストは眉を寄せる。確かに未練がましいという自覚はある。アイリスを焚きつけた以上、完全に身を引くべきであるということも重々理解している。それでも、そう簡単に全て断ち切れるほど、軽い気持ちではなかったのだ。


「拗ねるな、エルンスト。……いいじゃないか、ゆっくり整理していけば」
「……未練がましいって言ったのはそっちだろ。急に慰めるなよ」
「お前がいつも周りにしているのがこういうことだ」


 仕返しだとばかりにあっさりとそう口にしたヒルデガルトは肩を竦めて見せた。指摘された上に仕返しされたとなると、やはり面白くはない。そもそも、どうして今になってこのような話を振って来たのかとも思う。しかし、考えればすぐに理由は分かった。そもそも、このタイミングで声を掛けて来るということは、ヒルデガルトにしてみれば最終確認のつもりなのだろう。
 恐らく、今後はこうして話している余裕などなくなる。このまま一気に帝都に攻め入ることになれば、いつ戦闘状態に移行するかは帝国軍の動き次第だ。だからこそ、もう迷わないように――悩まないように、此処で踏ん切りをつかせるつもりなのだろう。ゲアハルトから頼まれたのだろうかとも考えるが、それはないかとエルンストは小さく頭を振った。もしそうだったとしたら、いい性格をしている――一発ぐらい殴っても許されるのではないのかなどと物騒なことを考えつつ、「俺は平気だよ」と顔を上げてヒルデガルトを真っ向から見返した。


「俺はさ、アイリスちゃんが幸せならそれで、もういいんだ」
「……私もだ」


 出来ることなら、それが俺の傍だったらよかった。
 そう思うことぐらいは許されてもいいだろう、と心の内で付け足しながらエルンストは凭れ掛かっていた壁から背中を離す。話し込んでいた所為で時間が経過している。まだ本隊との合流までに余裕はあるだろう。休めるうちに休んでおかなければ、と「ヒルダももう休みなよ、話はここでおしまい」と提案する。
 ヒルデガルトもそろそろ頃合いだと思っていたのだろう。エルンストの表情を改めて探るように見た後、「お前はやっぱり、優しいのはあの子にだけだよ」と笑った。そんなに顔に出ていただろうかと自身の頬に触れながら、こんなにも簡単に見抜かれるのは恥ずかしいとばかりに巻き付けていたマフラーに顔を埋めながら、「先に行くから」とだけ言い残して路地裏を後にした。












「なあ、あいつ帰って来てねーんだけど……」
「でも帝国の奴らが騒いでる気配はないから見つかったわけではないだろ……」


 帝国兵らに見つからないように出来るだけ森の奥深くを先行していたレックスらは帝都に近付くにつれて時折ではあったが、唐突に森の中で帝国兵の姿を見つけるようになった。観察し続けると、どうやら帝都から続く抜け道があることが分かった。既に帝都付近の街は退避が完了しているらしく、避難民に紛れ込むことが出来ない以上、帝都に潜入するにはこの抜け道を使うしかない。
 しかし、抜け道が何処に繋がっているかは分からない。帝都に続いていることは恐らく間違いはないだろうが、内部がどうなっているのか、そもそも気付かれやしないか、問題は山ほどあるにも関わらず、時間は殆どない。移動中に確認出来た帝国軍の先遣隊は恐らくそろそろ撃破している頃であり、再び派兵されないうちに全速力で本隊は進軍してくるだろう。その勢いを殺さずに帝都に侵攻するには、レックスらが何が何でも帝都を囲む防壁の内側に入り込み、内側から閉め切られている門を開かなければならない。
 そのためにレックスらはそれぞれ別れて複数の抜け道を見つけ出し、何処からであれば潜入しやすいかを見極めるべく観察を続けていた。そして、今は一度集まってそれぞれが見張っていた抜け道がどういう状況であったのかを報告しようというところなのだが、一人だけ戻らないのだ。既に集合時刻は過ぎている。最後に彼を見た者は「あいつが一番、遠くまで行ったから戻って来るのに時間が掛かってんだよ、きっと」と明るい声音で言うも、その表情は心配そのものだった。


「……心配だけど、報告を始めよう。俺のところは駄目だった。見張りが変わる頻度が高い」


 安否が気掛かりではあるものの、今は時間が惜しい。本当ならばすぐにでも探しに行きたいところではあるのだが、誰もそれを口にはしなかった。自分たちが失敗することで本隊を窮地を陥らせるわけにはいかないのだ。何より、誰一人、犠牲になることなく任務が達成出来るとは端から思っていない。
 レックスは気持ちを切り換えると、報告を始めた。彼が見張っていた抜け道は本隊が突入する予定になっている門に最も近い抜け道だったが、やはりその抜け道は頻繁に見張りが交替していることから内部にも多くの帝国兵がいることは容易に想像がついた。最短距離で移動が出来るであろうその抜け道が理想ではあるのだが、決して多くはない人数で帝国軍の兵士らがどれだけいるか分からない抜け道を突破し、防衛拠点となっているであろう防壁まで辿り着くことはまず不可能だ。
 誰もが似たり寄ったりな報告を続け、比較的まだ警備が甘い現在地から西に離れた場所の抜け道を使用することを決めた矢先――木々の間を動く人影を見つけ、レックスらは無言のうちにそれぞれの武器に手を伸ばし、警戒態勢に入る。が、人影はそれに気付いてか慌てた様子で両手を大きく振り始める。そして、漸く姿形がはっきりと見える距離までその人物が来たところで、それが集合時間を過ぎても戻らなかった彼だということに気付く。


「悪い!なっかなか抜け道見つからなくてさ……割と遠くまで行っちゃって戻るのに時間掛かった」
「見つかったのかと思ったっつの」
「いやいや、そんなヘマ踏まないし。つーか、遠くまで行った甲斐があった。オレが見つけた抜け道、殆ど帝国兵が入れ替わらねーの」


 ただ、攻略目標から遠のくし、内部がどうなってるのかはもちろん分かんねーけど。
 そう付け足すも、内部がどうなっているのかは入ってみなければ誰も分からないのだ。攻略目標である門から遠のくことは確かに気掛かりではあるものの、距離を優先すればそれだけ突破は困難になる。ならば、時間との勝負に賭けた方がまだ可能性があると誰もが判断し、戻って来たばかりの彼を労いながらすぐに彼が見つけた抜け道へと急ぐこととなった。


「それで、潜入は誰がするんだ?」
「オレが行く。その見張りを気絶させて身ぐるみ剥ぐ。オレが潜入してる間に見張りを尋問しておいてくれ」


 移動しつつ、レックスは指示を出す。潜入し、抜け道の内部やどの程度の帝国兵がいるのかを確認しなければならない。それは見張りの帝国兵を尋問すれば分かるだろうが、その者が嘘を口にしないとも限らない。出来れば、全員分の帝国軍の武装を奪い、内部を制圧したいところでもある。しかし、欲張ると全てが台無しになる危険性もあるため、判断は慎重にせねばならない――ミスは決して許されないのだ。


「一人で平気か?」
「ああ。潜入する抜け道に割かれてる人員が少ないなら、複数で連れ立ってる方がおかしい」


 怪しい奴を見つけたとでも言って仲間を連れて抜け道に入ったとしても、ベルンシュタインの人間だと気付かれてしまえば意味がない。避難し損ねた民間人を保護したことにするとしても、帝国軍がどの程度、民間人の退避に気を配ったかは分からないのだから、迂闊なことはしない方がいい。名簿などと照合され、名前や出身を問われれば、その時点でレックスらは窮地に立たされることになるのだ。
 周囲の仲間は心配な様子ではあるものの、今はそれが最善の方法であると考えたらしく、「危ないと思ったらすぐ戻って来いよ」と口々に言う。その気持ちは嬉しかったが、この程度の潜入で危険だなどとは言っていられないのだ。本当に危険なのは帝都への潜入に成功してからなのだ。レックスは気合を入れるように軽く頬を両手で叩いていると、「オレもやってやろうか?」と隣を歩いていた仲間がにやついた笑みを浮かべながら肩を軽く回す。潜入出来なくさせる気か、と突っ込みながら、こういう時につい気負い過ぎてしまう自分のことをちゃんと分かってくれている仲間らの気遣いが嬉しく、彼らの為にも潜入を成功させたいと気持ちを新たに一歩を踏み出した。



140728

inserted by FC2 system