開戦 - struggler -




 時折、がたんと馬車が揺れた。それ意外の音は何も聞こえず、窓の向こうに広がる風景は一定の速度を保って遠ざかっていく。それを見つめるエルザの表情は落ち着いたもので――けれど、膝の上で握られている手は時折、小さく震えていた。
 この馬車が止まる場所で彼女は命を断たれることになっている。それは自ら決めたことであり、覚悟の上での決断だ。けれど、怖くないというわけではなかった。いつかこうなることがあるかもしれない――漠然と考えていたことではあったが、それがいざ、これから起きるのだと思うとたとえどれだけ想定していたことであったとしても、恐れずにいることなど出来なかった。
 自分で決めたくせに怖いだなんて勝手よね――エルザは自嘲した。微かに唇の端を吊り上げて笑いながら、見納めとなるベルンシュタインの冬の景色を眺めていると「……エルザ殿下」と向かい側に座している副官が声を掛けてきた。エルザは努めて視線を窓の外へと向けたまま、どうしたのかと口を開く。


「……ご決断を迷わせることを言いたいわけではないのですが……本当に、よろしいのでしょうか」


 自分は少しも納得していない――そう言外に示す副官の言葉にエルザは眉を下げて笑った。


「貴方の言いたいことは私も分かっているつもりよ。きっと時間がもっともっとあったなら、違った選択肢だってあったと思うわ」
「……」
「でもね、私たちには時間がないわ。たとえ帝国に勝ったとしても、その時にベルンシュタインが攻め込まれていたのなら意味がない。……もう一度戦って、もう一度勝つなんてことはきっと出来ないわ」


 二度目の勝利を得られるほどの余裕など、どこにもない。
 それは紛れもない事実であり、奇跡に縋って博打を打つわけにもいかない。最も確実な方法でベルンシュタインを守る方法――それがエルザの選択だった。そして、彼女自身、自分の選択が今現在の状況において最良の手であると信じていた。


「でも、貴方が聞きたいのはこういうことではないのよね。……本当はね、勿論、怖いわ。死ぬことは怖いし、逃げ出したいって気持ちもある」
「それなら、」
「でもね、怖いからって逃げだしたらきっと私は一生後悔する」
「……エルザ殿下」
「それにね、私だけ逃げるわけにはいかないもの。シリルはたった一人で立派に戦って、そして、希望を繋いだ。それなのに、姉の私が逃げ出すなんて、そんなこと出来るはずがないわ」


 傷だらけになって血塗れになりながらも、シリルは満足げな表情で静かに事切れた。全てをやり切ったと、繋ぐことが出来たのだと満足げに。そんな弟が守ったベルンシュタインという国を終わらせるわけにはいかない。蹂躙させるわけにはいかない。死への恐怖は変わらない、けれど、自然と心は落ち着いていく。


「貴方は納得出来ないと思うわ。私のしようとしていることは貴方の職務に反することだもの。でもね、それでいいのよ。貴方は納得出来なくていいの」
「……」
「だからね、自分を責める必要もないの。貴方は精一杯止めようとしたし、私が自分の意志を貫くだけのことなのだから」
「殿下、」
「これは私自身の選択よ、私が何より最善だと信じる選択。最も流れる血の少ない選択だと私は信じてるわ」 


 それまで窓の外へと向けていた視線をそこで初めて副官へと向ける。真っ直ぐな藍色の瞳に迷いはなく、落ち着き、澄んだ瞳だった。そのような目で見られてしまえば、もうそれ以上は止めることは出来そうになかった。国に殉じると決めた王女の心をこれ以上、乱すことをするべきではないと副官は唇を真一文字に噛み締める。
 そして、暫しの間、顔を俯けていた副官はぽつりと「……それでは最後に一つ、私の願いを聞き届けては頂けませんでしょうか」と零した。今日まで一度もそのようなことを口にしたことのなかった彼にエルザは驚いたように目を瞬かせる。だが、最期だからこそなのだろうと苦笑を浮かべると「私に叶えられることなら」と首肯した。


「陛下に、弟君に手紙を残しては頂けませんか」
「……それは……駄目よ。レオの重荷になるようなものは残したくないの」
「ですがあのような別れ方はあんまりです。残される陛下のお気持ちも、どうかお考えください」
「……」
「きっと殿下も後悔されます。……本当はもっと、陛下にお伝えしたいこともあったでしょう。それに、考えてもみてください。陛下は決して弱いお方ではありません、重荷になどなるわけがありません」


 全て見透かしたかのような副官の言葉にエルザは口を閉ざした。伝えたいことは山ほどあった。けれど、伝えられる時間は圧倒的に少なかった。差し出されたペンと紙を受け取ると、次から次へと言葉が浮かび上がってくる。だが、それらはどれも未練からではなく、これから先も続いていくレオの人生を想っての言葉だ。
 弟の成長をもっと見ていたかった、傍で支えたかった――その気持ちがないと言えば嘘になる。それでも、エルザは心配していなかった。自分がいなくとも、レオを支えてくれる心強い味方がたくさんいることを知っているからだ。だから、レオがあの広い城で独りぼっちになることはない。何より、レオは弱くない。今はまだ支えを必要としているかもしれないが、それでも自分の足で立ち上がるだけの強さを持っている。だから、大丈夫なのだとエルザは頬を伝う涙を拭いながらペンを走らせる。
 この手紙はきっときっかけになるだろう。レオを縛る重荷になるのではなく、彼がもう一度立ち上がる為のきっかけになるだろう。エルザは無我夢中でペンを走らせた。いつの間にか涙は止まり、書き終えた頃にはすっきりとした気持ちに落ち着いていた。


「……この手紙を、レオに」
「確かに預かりました。必ず陛下にお届け致します」


 エルザから受け取った手紙を大切そうに仕舞い込み、「これが私の最後の仕事となりましょう」と彼は目を細めて笑みを浮かべた。それと同時に緩やかに馬車は速度を落とし始める。


「エルザ殿下、貴女にお仕え出来たことは私にとってこれ以上ない誉れで御座いました」
「私も、貴方のような副官に仕えてもらえて幸せだったわ。ありがとう」


 そう言うと、エルザは膝の上でぎゅっと握られていた彼の手を取った。両手で握り締め、まるで記憶に刻むように副官の顔を見つめる。彼の目は真っ赤になっていた。しかし、涙を零すことはなく、努めて普段と変わらぬ表情を浮かべているようだった。その心遣いが有り難く、エルザの目頭が熱くなる。
 だが、最後に彼の記憶に残る自分が泣いた顔だということにするわけにもいかず、エルザは気丈に笑んでみせた。そして、「身体に気を付けて。レオのことを頼むわね」とぎゅう、っとその手を握り締めると、「ここでお別れよ」と停車した馬車の扉を開け、素早く外へと降り立った。
 握り締めた彼の手は震えていた。耐えていたのだろう。泣くことも引き止めようとすることも、全て我慢していてくれたのだろう。それでも、彼は送り出してくれた。いつもと変わらない表情を作って、まるでいってらっしゃいと言うように。その気持ちが、ただただ、嬉しかった。


「……殿下」
「大丈夫よ。行きましょう」


 ここから先は近衛兵と共に向かうことになっている。リュプケ砦の向こうに見える赤々とした松明を見つめ、エルザは何度か深呼吸を繰り返した後、ゆったりとした歩調で歩き出した。
 見渡す限り、敵陣が敷かれている。兵の数もベルンシュタインの兵力を優に超えているだろう。けれど、彼らがベルンシュタインの地を踏むことはない。そのことをエルザは心の底から安堵した。


「……どうか……どうか、」


 レオが無事でありますように。そして、ベルンシュタインに平和が訪れ繁栄しますように。
 心の底から彼女は願った。引き渡され、拘束され、敵である三人の国王を前にして、静かに瞼を下ろすときも――その目元を覆う白い目隠しをされ、静かに頭を差し出したその瞬間も、ただ只管願ったのはたった一人の弟の無事と祖国の平和と繁栄だけだった。
 そして、瞼の裏には姉と呼び慕ってくれた弟二人の姿と、終ぞ再会が叶わなかった婚約者の姿が浮かんだ。脳裏には最も幸せだった頃の記憶が駆け巡る。辛いことも多かった。けれど、それ以上に幸せでもあった。
 エルザは口元に笑みを浮かべる。真っ直ぐな願いを胸に、幸せだった記憶を思い出しながら――振り下ろされる刃にその命を差し出した。












 

 鈍い音がした。握り締めた拳に痛みが走った。どさりと受け身も取らずに倒れ込むアベルを見ながら、レオは心の奥底から噴き出す怒りのままに倒れ込んだアベルに跨ると拳を振るい続けた。
 レオが意識を取り戻した時には夜が明けようとしていた。薄暗い中、流れる景色は荒涼としたものであり、そこがベルンシュタインから遠く離れた場所であるということはすぐに分かった。此処は何処で何をしているところなのか――僅かに眉を寄せて思い起こそうとした矢先、ちらりとすぐ前にいたアベルが肩越しに振り向いた。
 それと同時に緩やかに荒野を駆けていた狼は速度を落としていく。どうしてオレは狼の背に乗っているのか、アベルと何処に行こうとしているのか――ぼんやりと考えていたレオはまだ微かに星が瞬く藍色の空を見上げ、はっと目を見開いた。次から次へと脳裏を駆け廻っていく記憶。長かった髪を切り、男の格好をした姉の姿、掛けられた言葉、そこから先の途切れた記憶――レオの身体はぐらりと傾いだ。
 それでも何とか落ちずに狼の背に跨り続けるもレオの肩は震え、目は大きく見開かれたままだった。口からは言葉にならない声が漏れ、今にも叫びたい衝動に駆られる。やがて狼は立ち止まり、アベルは慣れた様子でその背から下りた。暫しの間、休憩ということなのだろう。彼に続いてその背から下りるも、アベルは何も言わなかった。そして、そんな彼の胸倉を掴み上げると、アベルは抵抗することもなく目を閉じた。


「何で……何でっ何でオレを連れて来た!」


 声を張り上げ、レオは無抵抗のアベルを殴り続ける。口の端が切れ、血が流れ、その血がレオの拳を濡らした。しかし、そんなことを気に留めることもなく、レオは只管殴り続けた。どうしてオレを連れて来た、どうしてオレを行かせてくれなかったのか――どうしてエルザが死ななければならなかったのか――そのことばかりが口を突いて出てきた。
 アベルに聞いたところで答えが出ることもなく、また、自分が生かされた理由も何もかも、レオも分かってはいたのだ。頭では理解していた。これが現状考え得る最良の選択肢であるということを。最も流れる血の少ない、双方にとって最良の選択だと――けれど、納得出来るかどうかは別の話だった。
 アベルを責めることに意味などないのだ。やり場のない思いをぶつけているに過ぎない。このようなことをしても何の意味もないことも分かってはいたし、アベルに非がないことも理解はしているのだ。それでも、どうして、と言わずにはいられなかった。


「……あんたを連れて行くことがエルザ殿下の願いだったからだよ」


 胸倉を掴んだまま顔を伏せたレオに対し、ぽつりとアベルは呟いた。殴られ続けた頬は赤く腫れ、けれど、その黒曜石のような瞳は静かに凪いでいた。怒りもなく悲しみもなく、淡々としていた。


「あんたが生きることをあの人が望んだ。だから、僕はあんたを連れ出した」
「……っオレはっそんなこと頼んでなんかないだろ!」


 握り締めた拳を振り被り、力一杯、アベルを殴りつける。それでも、彼は避けなかったし、受け止めようともしなかった。目頭が熱くなり、耐え切れずに涙が零れる。幾筋も幾筋も頬を伝い、それはぽたりぽたりとアベルの頬を濡らした。レオは爪が食い込むほどに拳を握り締めると、再びそれを振り被った。まるで零れる涙を振り払うように――だが、その拳はアベルの頬を殴りつけることはなく、その代わりに顔のすぐ横へと振り下ろされた。
 痛かった。殴り続けた拳が、否、それ以上に殴られ続けたアベルは痛かっただろうし、自分の無力さを呪う心が痛かった。自分はいつだって守られてばかりだ。エルザにもシリルにも、ゲアハルトやホラーツにも、アイリスやアベルにだってそうだ。守られてばかりで、自分は彼らにどれだけのものを返せただろう。


「……情けないよ、自分が。たった一人の家族さえ守れなくて……いつだって守ってもらってばかりで……」
「……」
「強くなりたいのに……少しだって変わっちゃいない。こんなオレが生きてて、どうして、姉上がっ」


 拳を振り上げる。無力な自分を痛めつけようと地面を殴りつけ、そしてまた、拳を振り上げた。だが、その拳が再び地面を殴りつける前にアベルの手がそれを受け止める。涙に濡れ、歪んで見える視界の中、それでも真っ直ぐに黒い瞳に見上げられる。


「エルザ殿下が何よりもあんたが生きることを望んだから、だから、あんたは今生きてるんだよ」


 淡々と、けれど、言葉を選びながら告げられるその声音は酷く落ち着いたものだった。レオは震える唇を懸命に動かし、でも、と言い募ろうとするも「あんたに生きてて欲しいから、みんなあんたを守ってきたんだ」と言葉を重ねられる。


「あんたに生きてて欲しい理由はみんな違うと思う。あんたが王だからっていうのもあるだろうし、あんたのことが好きだからっていうのもあると思う。……あんたが殿下に生きてて欲しかったように、殿下だって同じ気持ちだったんだよ」
「……それは……でも、」
「あんたは生かされたんだ。生きてて欲しいと願われた、たくさんの希望と一緒に。だから、あんたは生きなきゃ駄目なんだよ」


 他の誰でもなくあんたが生きてなきゃ駄目なんだよ、とアベルは微かな笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと引き倒されたままだった身体を起こすと、今更ながらに殴られた痛みを感じたのか、顔を顰め始める。そして、空いている手で頬を抑えながら「僕だってこれが正しい選択だったのかなんて分からないし、そもそも何をもって正しさを判断するのかなんて知らないけどさ」と口を開く。


「ただ一つだけ確かなことは、エルザ殿下が命に代えて守ったあんたは何があっても死んじゃ駄目ってこと……生きて、また、ベルンシュタインに戻ること。……だから、もっと自分のことは大事にしなよ」


 何度も何度も拳を振るったせいで血が滲み、掌は食い込んだ爪が皮膚を破っていたらしい。アベルはポーチから取り出した包帯をレオの手に巻きながら「あんまり僕に世話かけさせないでよね」と溜息を吐く。そして、ゆっくりと立ち上がると顔を寄せてきたフェンリルを軽く撫で、その背に跨る。


「ほら、時間がないんだ。もう行くよ」
「お前の手当ても、」
「放っておいていいから、これぐらい。次に川を見かけたら冷やせばいい」


 殴ったあんたが心配することじゃないよ、と呆れた顔をしたアベルに促され、レオは眉を下げながらもフェンリルの背に跨った。まだ気持ちの整理は少しもついてはいないのだが、時間がないということはレオも分かっている。出来るだけ早く本隊と合流しなければならない――予定通りに事が進んでいるのであれば、本隊が攻略目標である帝都アイレンベルグに到着するまで時間は残り少ない。
 何より、たとえアベルが召喚獣を操っているとしても帝国軍と遭遇すれば戦力差はあまりにも大きい。追撃されようものなら堪ったものではないのだ。


「……生きなきゃいけないんだ」


 ぽつりとレオは呟く。それは誰の耳にも届くこともないような小さな囁きであり、冷たい冬の風に紛れて消える。多くの人に守られてきたことは事実であり、繋いでくれた命だ。そう簡単に投げ出していいようなものではなく、生きることを諦めるわけにもいかない。そんなことをしたのなら、自分を守ってくれた人たちに対して申し訳が立たないのだ。
 足掻いて足掻いて、みっともないぐらいに生きることにしがみ付かなければならない。そうして生きて再びベルンシュタインに戻ること――それが自分を生かしてくれた、何よりも国を守ろうとした姉の気持ちに報いるということだ。今すぐに全てを受け入れて納得して整理するということは出来ない。それでも、今はただ、生き延びることを、勝つことだけを考えていればいい――レオは自分自身にそう言い聞かせると、朝焼けの色に染まる空を見上げ、西に僅かに残る藍色の空を見つめた。
 



141125

inserted by FC2 system