「……不用心過ぎるぞ」


 夜、食事から戻って来てふとアイリスに貸し与えた軍令部の部屋を見上げると、窓が開け放たれていた。カーテンが揺れ、夜風が吹き込んでいる。いくら何でも狙われている身であるというのに窓を開けっ放しにしているのは不用心過ぎる。そうでなくとも、夜風に当たり過ぎると体調を崩しかねない。仕方がない、と一つ溜息を吐き、アイリスがいる部屋に向かうことにした。
 廊下には護衛に付けている兵士が二人、しっかりと任務をこなしてそこに立っていた。が、窓が開いていてはいくら護衛を付けていても意味がない。とはいっても、窓を一切開けずに締めきっていろとも言えない。それでは気が滅入るだろうし、空気も澱む。何より、まだ夏の暑さが残っていることもあり、それこそ身体によくない。中庭にも警備の兵士を増やすしかないだろうが、アイリスにももっと危機感を持つように言い聞かせた方がいいだろう。
 そんなことを考えながら寝ているだろうが念の為に扉を叩くと、控えめな返事が聞こえて来た。思っていたよりもはっきりとした声音から、彼女がまだ起きていたのだということが伺える。眠れなかったのだろうか――一先ず、警備に付いていた二人に少し席を外すようにと指示を出し、「ゲアハルトだ。少しいいか?」と声を掛ければ、素っ頓狂な声を上げた後に慌てた様子でアイリスは中から扉を開けた。


「もう少し相手を確認した方がいいぞ」
「でも、お声が司令官でしたから……」
「だとしても、だ。君はもう少し狙われているという自覚を持った方がいい。窓だって開けっ放しにするのは危険だ」
「すみません……」
「いや……気温のこともある。開けるなとは言わないが、気を付けてくれるとこちらも助かる」


 言い訳もせずにこうも素直に謝られるとそれ以上言えなくなってしまうから困る。エルンストならば、まず間違いなく言い返して来る。それこそ、言い負かそうとする勢いで言い返して来るのだからアイリスの態度と比べると雲泥の差だ。つい遠い目をしながら考えていると「ちょっと眠れなくて。でももう窓も閉めますから」と彼女は言う。


「心配事か?」
「そういうわけではないんですが……」


 アイリスは視線を伏せて言葉を濁す。明日は彼女の実家でもあるクレーデル邸で白の輝石の研究内容を捜索することになっている。実家に帰りたくないのだろうかと考えていると、アイリスがコンラッド殿の養女だったということを思い出した。それで何か思うところがあるのかもしれない。だが、手掛かりが何かしら彼女に託されているかもしれないという可能性がある以上、アイリスを外すわけにはいかない。
 そのことを申し訳なく思いながら「俺でよければ話を聞くが」と提案する。言い難いことかもしれないが、だからといってアイリスを捨て置くことも出来ない。彼女は少しだけ驚いた顔をした後、「それじゃあ少しだけ、話し相手になって頂いても構いませんか?眠れなくて」と眉を下げて笑った。
 特にこの後、やらなければならないことはあるが、用があるというわけでもない。地下牢に幽閉されていた間、アイリスが足繁く通ってくれたことを思えば、これぐらい大したことでもない。勿論、と頷くと、彼女はそこで漸く笑みを浮かべた。足を踏み入れた部屋は質素なもので、小さなテーブルと寝る為のベッドしかない。何か暇を潰せるものを用意した方がいいだろうかと考えていると、窓を閉めた彼女は少し困った様子で眉を下げていた。


「どうした?」
「あ、いえ。司令官はこちらにお座り下さい」


 そう言ってこの部屋唯一の椅子を指し示す。どうやら腰を落ち着ける場所に困っていたらしい。彼女らしい理由につい笑ってしまいそうになるも、何とかそれを押し殺し、「アイリスは横になればいい」と口にする。先日まで意識が戻らなかったのだ。あまり夜更かしせずに身体をしっかりと休めた方がいいと付け足すと、彼女はうっと言葉を詰まらせた。さすがに横になるのは抵抗があるのかもしれない。けれど、椅子とベッドとの間には十分な距離がある。椅子に腰かけてから横になるように再度促すと、彼女はおずおずとした様子でベッドの中に潜り込んだ。


「そう言えば、以前もこうして眠れないと起きていたことがあったな」
「リュプケ砦に攻め込む時でしたよね」
「ああ。エルンストのはちみつを使ってホットミルクを作ったな」
「おいしかったです」
「そうか。……眠れずにいると知っていれば、持って来たんだがな」


 アイリスは横になったままくすくすと笑うと「そう言えば、どうして此方にいらしたんですか?」と口にする。当然と言えば、当然の疑問だろう。元々、この部屋に立ち寄ったのは窓を閉めようと思ったからだ。しかし、予想外にもアイリスが起きていた為、こうして眠れない彼女の話し相手を務めることになったのだと説明すると、彼女は「お手数をお掛けしてすみません」と申し訳なさそうに口にした。


「いや、気にしなくていい。それに、この部屋でしばらく生活して欲しいと言ったが、色々と足りないものがあると分かってよかった」


 クレーデル邸を捜索中の間には色々と用意させると口にすると、アイリスは「そんな、気を遣って下さらなくても大丈夫です」と想像に難くない返事をする。けれど、彼女が首を横に振ろうとそういうわけにもいかなかった。これは恩返しのようなものでもある。


「俺が幽閉されている間、気遣って色々なものを持って来てくれただろう。そのお礼だ」
「でも、それはエルンストさんから頼まれたもので……」
「だとしても、地下牢まで危険を冒して持って来てくれたのは君だ。受けた恩は返さなければ気が済まない性質なんだ、受け取ってくれ」


 そう言うと、アイリスは小さく唸りながら言葉を探すように宙に視線を彷徨わせる。けれど、結局は何も言葉が見つからなかったのか、それとも受け取ってくれる気になったのか、彼女は笑みを浮かべると「ありがとうございます、司令官」と言ってくれた。やはり、そう言ってくれた方が俺も嬉しい。アイリスから受けた恩に報いるには微々たるものだが、それもこれから返していければいいと思う。
 彼女には何度も助けられた。感情を抑えきれず、ルヴェルチに斬り掛かった時もそうだ。あの場で奴を斬り殺していたら確かに気は晴れたかもしれない。だが、今ここに俺はいないだろう。俺の存在を疎ましく思っているものからすれば、あれほどの好機など早々なかっただろう。だからこそ、それを思えば、俺はアイリスに返しきれないほどの恩がある。


「司令官って実は義理堅いですよね……」
「実はって、一体どう思ってんだ?」
「……最初は冷たい人だなって思ってました」


 だんだんと声音が眠たげなものに変わっていく。よく見れば、いつの間にか目も閉じていた。一人では眠るのが嫌だったのだろうかと思いつつ、「強ち間違ってもいないと思うが」と返事をすると、彼女は眠たげな様子で重いであろう瞼を持ち上げて、そんなことはないのだと口にした。


「司令官はお優しい人だと思います、今はですけど」
「……そうか」
「……だから、少し心配にもなります。またああやって飛び出しちゃうんじゃないかって」


 それが何を指しているのかはすぐに分かった。ルヴェルチに斬り掛かった時、後のことなど何も考えていなかった。ただ、ホラーツ様を侮辱されたことが許せなかった。未だにその気持ちは変わらない。撤回させられなかったことが悔しくてならない。けれど、だからといって、アイリスに怪我を負わせていい理由にはならない。
 身体を張って止めてくれた彼女の為にも二度とあのようなことをするべきではないのだということを自分自身に言い聞かせながらも、それと同時に思ったのはアイリスにも同じことが言えるということだ。彼女は兵士にしては優しすぎる。その優しさがいつかアイリス自身を害す気がしてならないのだ。
 ちらりと視線を向けると、肝心のアイリスは瞼を閉じ、ゆっくりとした規則正しい寝息を立てていた。眠れないと言っていたのに、いつの間にか眠ってしまっている彼女にはつい苦笑してしまうものの、こうして話しているうちに少しでも安心出来たのならそれはそれでよかったと思える。


「でも、俺だって君が心配になるよ」


 音を立てないように椅子から立ち上がり、足音を殺してベッドに近寄る。うつ伏せになって眠っているアイリスの傍に膝を付いて、頬に掛かった髪を払う。その寝顔にはまだ幼さが残り、とても俺が振り上げた剣の前に立ちはだかれるような肝の据わった人間には思えなかった。
 そのまま何度か頭を撫で、シーツを掛け直してから立ち上がる。名残惜しさはあるものの、いつまでもこの部屋にいるわけにもいかない。席を外させた護衛の兵士らにも戻るように伝えなければ思いつつ、腰を折って微かに彼女の額に唇を寄せた。どうか夢の中でだけでも、安らかでいて欲しい。


「おやすみ」


 明日からは忙しくなる。せめて今夜ぐらいはゆっくりと休んで欲しい。最後に頭をもう一撫でしてから部屋を後にした。廊下はじとりとしていた。けれど、不快とまで言えないそれはもうすぐ夏が終わるのだということを告げているようだった。








この夜は君にあげる


130407

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