夜中、隠れ家の外に出ると生温い夏の風が吹いていた。いつまで経っても慣れそうにないその不快感に顔を顰めながらも、庭に足を踏み入れる。芝生を踏む度に微かな音が耳に届く。それ以外は、時折吹く生温い風が木々を揺らす音だけでとても静かな夜だった。こんなにも静かな夜は少なくとも僕が騎士団にいた頃には同じ王都の中だというのになかったように思う。思えばあそこは、いつだって誰かが喋って笑って騒いでうるさかった。


「……、」


 うるさいと思っていた。それに巻き込まれたくなくて一歩以上引いて見ていた。それなのに、どういうわけか、静かな夜に何となく寂しさのようなものを感じてもいた。此処には誰もいない。正確に言えば、誰もいないわけではない。だが、いつも僕の周りで騒いで、僕を騒ぎの中に引きずり込んだ人たちが、いない。当たり前だ、此処にいるのは帝国の人間だけなんだから。それぐらい分かってる。
 それなのに、一度気付いてしまえば、捨てたはずの存在に引きずり込まれるように色々なことを思い出してしまう。寝ればいいのに、食べて騒いでばかりいた馬鹿二人組のこと。人のことを心配してばかりで、いつだって自分のことは棚に上げてる馬鹿のこと。それなのにいつだってみんな笑っていた。僕がどれだけ悪態付こうと、文句を言いながらも僕をいつだって引っ張り込んでいた。そこまで思い出すと、不意にぎゅっと握られた手の感触まで蘇り、ぶわりと生温い風が吹き抜けた。







「あっちー……この時期の夜間巡回ってきついな、毎年思うけど」
「だったらいいいい加減慣れろよ」


 夜間巡回の当番に当たったその日は生温い風が吹いていた。まだ春の終わりかけだったから少しは涼しいけど、それでも暑いことには変わらず、額には汗が浮いていた。それを拭いながら宿舎に到着する頃には、身体がだるくて仕方なかった。元々、暑いところは苦手だった。生まれも北の方で夏だってあってないような、涼しい場所だった。だからこそ、ベルンシュタインのこの季節は慣れず、体調を崩すことだってあるぐらいだ。
 我ながら情けないな、と思いつつ、喋りながら歩いている奴らの後に続いていると「お疲れ様です」と不意にアイリスの声が聞こえて来た。もう夜中だというのにどうして宿舎の玄関近くで声が聞こえてるのかと思っていると、ぱちりと視線が合った。「何してるの」と声を掛ければ、彼女は苦笑いを浮かべながら言葉を濁した。


「えっと……」
「眠れなかったり、気分転換だとしても外に出ていいような時間じゃないんだけど」
「う……」


 夜にふらふらするなと注意すれば、アイリスは押し黙った。多分、玄関まで来ていた理由にどちらかが当てはまっていたんだと思う。もうすぐ大きな作戦があるから気が昂っているのかもしれない。だとしても、休めるときには休むべきだし、眠れなくても横になっていた方がいい。
 かと言って、それを言ったところでアイリスが聞くとも思えない。こういうところは変に意地っ張りだから困る。下手なことを言えば、何を根拠にしているのかは知らないけど平気だと言い張って行ってしまうに決まってる。そうなるぐらいなら、それで僕が後で気を揉んでゆっくり休めなくなるぐらいなら、今此処でアイリスに付き合っておく方が余程賢い選択に思えた。


「分かった。……中庭の散歩なら許してあげる」
「別に、アベルは付き合ってくれなくても、」
「あのね、あんたはちょっと油断し過ぎなの。もうちょっと危機感だとか注意力だとか、そういうの持ち合わせてよ。あんたが抜けたことばっかりするから僕は気が気じゃないんだから」


 違う、こういうことを言いたかったわけじゃない。心配なだけだ。アイリスに何かあったら嫌なだけだ。もっと気を付けて欲しいっていうだけなのに、嫌な言い方をしてしまった。いつだってそうだ、僕はこういう言い方しか出来ない。だから、喧嘩になるんだっていうことぐらい分かってる。それでも、悪態じみたことを言ってしまう。
 せめて、彼女にはもっと優しく言ってあげられればいいのに。らしくもないことを考えていると、「心配してくれてありがとう、アベル」とアイリスは少し嬉しそうに笑っていた。どうしてこのタイミングで笑うのかと、にこにことしている彼女の笑みに言葉を失う。拗ねられるとばかり思っていた。そんな言い方しなくてもいいのに、と唇を尖らせるとばかり思っていた。怒ってしまうかとも、思っていたのに。


「夜中に出歩くのはアベルの言う通り、注意が足りないなってちょっと反省」
「ちょっとじゃなくてちゃんと反省して」
「ご、ごめん」


 どうせ、部屋にいて眠れずにごろごろしていたら他の人たちの迷惑になるかも、なんて思っていたんだと思う。そんな遠慮しなきゃならないような、繊細な人が宿舎にいるとは思えずにいると、アイリスは軽い足取りで宿舎の中庭に向かって歩き出した。その少し後ろを歩き始めると、彼女は唐突にその日の出来事を話し始めた。
 その話を聞きながら時折相槌を打ち、ふと何でもないこの面倒にも思える日常が終わってしまったなら、という考えが脳裏が過った。そんなはずがない、いつまでも続くはずだとは勿論言えない。何より、僕はそれを守る側ではなく、壊す側にいる人間だ。もし僕が帝国の人間だということを彼女が知ったなら、どうするのだろう――少し前を歩く背中を見つめながら、ふと湧き上がった疑問が心に重く圧し掛かる。
 変わらず僕に笑いかけてくれるだろうか。傍にいてくれるだろうか。そこまで考えて、それはないなと自嘲した。いくら優しいアイリスでも、僕のことを許してくれるはずがない。仲間のふりをしてその優しさに付け込んでいるようなものだ。嘘吐きと、裏切り者と罵られても文句なんて言えるはずがなかった。それでも、こんな僕にも優しくしてくれた彼女に罵られたら、きっときついだろうなと考えていると、前を歩いていたはずのアイリスがいつの間にか目の前にいた。咄嗟に半歩後ろに引くも、それよりも先にアイリスが僕の手を握った。


「どうしたの?アベル」
「いや……別に」
「ごめんね、疲れてるのに付き合ってもらっちゃって。もう戻ろっか」
「……いい」


 付き合わせるのは悪いから、とアイリスは宿舎に向かって歩き出そうとする。それと同時に、僕の手を握った手も離れた。するりと抜けていくその手を、気付いた時には掴んでいた。アイリスは驚いた顔で振り向き、「アベル?」と紫色の瞳を瞬かせている。それでも、手を離すことが出来なくて何も言えずにいると、彼女は目を細めて笑って僕の手を握り返した。
 散歩は止めて座って話そうとアイリスは言った。さっきまでは早く部屋に戻って汗を流して寝たいとそればっかり思ってたのに、今は逆だった。握ってくれた手を離して欲しくなかった。いつかは離れると分かってるからこそ、今この時だけは、握っていて欲しかった。





 

 あの時、アイリスが握ってくれた手を見ているとその時の感覚が蘇ってくる。けれど、それと同時に思い出したのは、その時に向けてくれた笑顔だけではなく、橋での泣き出してしまいそうな顔と裏切り者だと知って驚き、酷く悲しげな顔をした顔だった。その時のことを思うと、もっと距離を置いていればよかったと思わずにはいられなかった。
 そうしたらきっと、彼女を悲しませることもなかった。傷つけることもなかった。もっと僕のことを恨んで憎んでくれていたはずだ。その方がずっと僕も楽だ。恨まれる方が、憎まれる方がずっとずっと、楽だった。それだけのことをしたのだからと、自分も納得できるのだから。


「……っ」


 それなのに、アイリスも、レックスも、僕に戻って来いなんて言うから、苦しくて辛くて、傷つけたことへの罪悪感で胸がいっぱいになる。こんな感情は要らなかった。欲しくなかった、抱きたくなんてなかった。それなのに、気付いた頃には遅かった。大事だなんて、あの人たちのことが大事だなんて僕らしくもないことを思うから、こんなに苦しくて辛くなってしまった。
 こんなに辛いなら、何もかも忘れてしまえたらいいのに――何度だってそう思った。忘れようともした。それなのに、目に耳に、手に、染みついて消えてくれない。今だって、生温い夏の風に記憶を揺さぶられた。手には、彼女の温もりが蘇った。それなのに、もうアイリスは傍にいなくて、会うこともなくて、触れることもなくて――寂しさに視界が滲んだ。








うわついた指の記憶


130921

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