「こんにちは、司令官」


 意識が戻ってから数日が経った。未だ安静にしていなければならない状態にあるのだから、と書類仕事は多少回されても出歩くことは一切許されなかった。半ば軟禁に近い状態であり、そのことには辟易する。だが、これも全て気遣ってくれてのことだと分かっているから、邪険にすることも出来ない。
 そんな中、アイリスは時折訪れてくれていた。数日間は休養に徹していたようだが、最近は鍛錬にも精を出しているらしい。寝てばかりいる自分にしてみれば、思う存分、身体を動かせる彼女が少し羨ましくもあった。とは言っても、アイリスも鍛錬に打ち込むのはじっとしていると、つい色々なことを考えてしまうからだろう。気を紛らわせたいのだということは見ていればすぐに分かった。


「ああ」
「具合はいかがですか?」
「まだ安静にしているようにとのことだ。俺はもう動いても十分だと思うが」
「駄目ですよ。軍医の方が許可されるまでは安静にしていてください」


 近くの椅子に腰かけ、アイリスは微苦笑を浮かべる。彼女も周囲と同じことを言う。そのことを不満に思いながらも、思えばこうしてゆっくりと身体を横にしているのは何年ぶりのことだろうかと考える。司令官に就任してからは殆ど休む間もなかったかもしれない。だが、休まずに働けるというわけではなく、適度に抜け出して休息を取ってもいた。そういう時は決まってエルンストがいる医務室にいたことを思い出してしまう。


「司令官?」
「いや……何でもない」


 エルンストは、アイリスのことを好いていた。俺はそのことに気付いていた。多分、ずっと、気付いていた。それをそうだと認識したのは割と最近のことだが、無意識のうちにずっと以前から気付いていたのだと思う。気付いていながら、俺は、それを認めようとしなかった。否、認められなかったのだ。認めたく、なかったのだ。
 二人は親しかった。元々、アイリスはエルンストの部下だった。それを第二に引き抜いたのが俺だ。最終的にはアイリス自身が第二にいたいのだと言ってはくれたものの、第二に引き抜かなければ彼女は傷つかなかっただろうと思うことも山ほどある。それでも、帰そうという気持ちにはならなかった。元々、親しい二人の距離が縮まるところなど、見たくはなかったのだ。
 そう。エルンストの彼女への気持ちを認めたくなかった理由など、至極簡単なものだった。俺も同じだった。ただ、それだけのことだ。それだけのことで、エルンストのことを、傷つけた。認めて、話してしまえばよかったのだ。同じだと、俺だって同じなのだと言ってしまえばよかった。考えなければならない今後のことはいくらでもあるのに、今更、そんなことばかりを考えてしまう。


「何だか今日は元気がないみたいですね」


 アイリスは苦笑を浮かべて言った。「今日は天気がいいから、許可が出たら散歩でもしませんか?」と彼女は言う。言われて、窓の外を見ると、確かに今日は天気もよかった。風は冷たいだろうが、こうして部屋に閉じこもってばかりいると出てみたくなる。が、許可が出なければどうにもならない。出たとしても車椅子に乗せられるだろう。マスクも付けなければならない。


「どうでしょう」
「……そうだな」


 それでも結局頷いてしまうのは、アイリスが提案してくれたからだ。存外、自分も弱いなと改めて実感した。けれど、「それじゃあ、ちょっと聞いてきますね」と言って立ち上がる彼女を見送って、胸が痛んだ。傷が痛んだわけではない。心が、痛んだ。
 今、こうしてアイリスと話すことが出来るのも自分が生きていたからだ。今回ばかりはもう駄目だと思っていたが、それをエルンストが助けてくれたからだ。そして、あいつは今、牢獄に幽閉されている。未だに誰とも会おうとせず、何も話さず、黙秘を貫いているという。けれど、もしかしたら、少しでも選択や行動が異なっていたのなら今、俺はいないかもしれない。俺はこの世にいなくて、エルンストがいて、その隣にアイリスがいたかもしれない。
 そうでなくとも、エルンストを差し置いてアイリスと一緒にいることが心苦しくもあった。顔を見せてくれることが嬉しかった。気遣ってくれることも嬉しかった。今日は会いに来てくれるだろうかと、それだけが楽しみでもあった。けれど、その度に心が痛んだ。エルンストのことを、どうしても思い出してしまうのだ。


「……悪かった」


 気付いていた。そう、ずっと気付いていたのに、気付かない振りをした。あいつを追い詰めたのは何も彼女だけではない。俺だって同罪だ。否、気付いていながら気付かない振りをしたのだから、俺の方が余程酷いことをした。責められ、詰られ、傷つけられるべきは俺で会ってアイリスではない。
 そうだ。気付いていた。アイリスと共にコンラッド殿の墓参りに行った時も、エルンストの視線には気付いていた。あいつがどういう顔をしているのかも、どう思っているのかも知った上で、俺は、自分の気持ちを優先した。
 だからこそ、本当はエルンストに対して偉そうに言えることなんて何もなかった。あいつは俺を詰って、責めて、よかった。それが当然のことだ。あいつだってきっと、俺がアイリスのことをどう思っているかなんて分かっていたはずなのだから。


「司令官!散歩、少しだったらいいそうです!」


 ノックの後、アイリスが嬉しそうな様子で戻って来た。案の定、車椅子に乗るようにとのことだったが少しならば外に出てもいいということに「そうか。それは有り難いな」と返事をしながら考えていたことを胸の奥に仕舞い込む。
 俺が彼女のことをどう思っているか、それはきっと口には一生出さないだろう。そんなことは、俺には許されることではない。エルンストを傷つけて追い詰めた結果、アイリスも傷つける結果となった。そんな俺が彼女に想いを伝えるなんてこと、どう考えたって許されることではない。触れることだってもう、ないのだ。
 だからこそ、最後にしようと決めたのだ。もうあれで、最後にしよう、と。けれど、それでもまだ甘い。最後なんて言わずに、触れなければよかったのだ。そうするべきだった。


「司令官?本当に大丈夫ですか?」


 ベッドから降りるべく身体を動かしていると、車椅子を持って来たアイリスは心配げな様子で問い掛けて来る。その心遣いが嬉しくもあり、苦しくもあった。
 つい、手を伸ばしてしまいたくなる。手を伸ばせば触れられる距離にいるのだ。けれど、それだけは出来ない。もう、最後にすると決めたのだから。だからもう、触れることはないのだと、自分に言い聞かせる。「平気だ」とだけ答えて、足に力を入れて車椅子に身体を移す。
 多分、きっと、こうしてゆっくりと過ごすことも最後になるだろう。いつまでも帝国は、ヴィルヘルムは待ってはくれない。あいつらが用意を済ませて仕掛けて来るのも時間の問題だ。こちらも準備は進ませてはいる。それが完了すれば、安静などとは言っていられない。だからきっと、これが彼女と過ごす最後の時間になるはずだ。


「少し風が冷たいから、これ掛けておいてくださいね」


 そう言うと、アイリスは膝かけを掛けて用意してくれたらしいフードを被せてくれる。ガーゼが剥がれてはいけないからとマスクは付けなかった。そのこともあって、庭は人払いを済ませてくれているらしい。彼女らしい気配りだった。
 彼女は自分などには勿体ない。そのことを改めて実感する。こんな狡い自分などよりももっと相応しい相手がいるはずだ。だから、全てが終わった後、アイリスがちゃんと幸せになれるようにする――それが、俺が彼女の為に出来ることなのだと思った。
 もう、隣にはいられない。並べない。俺は彼女の隣には立てない。あいつを傷つけて、俺だけが傍にいるなんてことは出来ない。だから、その代わり、アイリスが幸せになれるように。誰よりも、幸せになれるように、守ること。ただそれだけが、彼女のことを好きになったエルンストの気持ちも含めて、俺がアイリスに出来ることであり、支払うべき代償だ。そのことを改めて自分自身に言い聞かせながら、ゆっくりと動き出した車椅子に身体を預けた。








隣を歩まない代わりに守るから


140119

title/spiritus 
 
inserted by FC2 system