離れたところから鎖の揺れる音がした。それと共に聞こえて来るのは複数の靴音、誰から連行されて来たのだろうかと思いながら音が聞こえて来る方向に視線を向ける。僕が幽閉されている階層には僕しかいない。あの馬鹿軍医も別の階層に幽閉されてるとはアイリスから聞いていたけど、兎にも角にも贅沢な使い方だとぼんやりと考える。
 そんなことを考えていると、意外なことに靴音と鎖の音はだんだんとこちらに迫って来るようだった。僕以外の誰かがこの階層の地下牢に幽閉されるということなのかもしれない。一人は暇だけど、かと言って僕自身、それほど喋る方ではないからそれはそれで複雑だ。おしゃべりな相手だったら煩いなと顔を顰めていると、兵士に連行されて来るその人物が僕の牢の前を通りかかった。


『え、』


 連れられて来たのは、あの馬鹿軍医だった。それも、どういうわけか僕の隣の牢に入れられてる。僕の牢を通り過ぎるその時、僕の声に気付いたのかそれとも気配に気付いていたのか、馬鹿軍医と目が合った。少しだけ驚いた顔をした後、何とも言えない顔で笑う。いつものような、軽いものではなく、どこか無理した顔。ごめん、と言いたげな、そんな顔。それを見て僕は、馬鹿だなと、思った。





 馬鹿軍医が隣の牢に引っ越して来てから数日。意外なことに一言も声を掛けて来ることはなかった。お喋りな人だと思ってたから、最初は死んでるんじゃないかと思いもしたけど時折動いてる気配があったから生きてはいるらしい。何をやらかしたかは分かってるから普段と違う様子でも致し方ないとは思う。が、やっぱり慣れない。僕の中では馬鹿軍医は少なくともこんなに静かな人間ではなかった。
 それじゃあ、僕は馬鹿軍医のことをどれぐらい知ってるのかと言われれば、それほど知っているわけではないとしか答えようがない。目立った人間のことは大体調べてはいたけど、馬鹿軍医と司令官は殆ど何も掴めないままだった。とは言っても、司令官は徹底されてたけど馬鹿軍医のことはまだ探れた方だ。
 ベルンシュタインの名門貴族の御曹司で僕と同じく軍には特例入隊した人物。攻撃、防御、回復魔法全てが扱える上に剣の腕も立つ。が、性格に難あり。そして、家族との仲が悪い上にカサンドラに実の兄を殺されている。これぐらいだ。聞いたところではもっと根暗な性格だったっていう話もあったけれど、僕の知る限り、根暗どころか明る過ぎて煩いぐらいだった。勿論、それがあの馬鹿軍医の全てではないことぐらい分かってる。僕が知ってることなんて大したことのない情報量だ。
 だから、掛ける言葉が見つからない。こういう時、何て声を掛けるのが適切なのかが分からない。アイリスだったら何て声を掛けるだろうかと考えるも、そもそもアイリスはこの馬鹿軍医の暴走に付き合わされた被害者だ。下手をすれば死んでいたかもしれない。会いに行くとは言ってたけれど、文句を言ったのかもしれない。


「……それはない、か」


 アイリスに限ってそれはない、と思った。そもそも、そういう文句を口にすることがまず有り得ない。言いたいことがあれば言うけれど、それ以上に相手のことを慮る子だから、責めるようなことは言わないはず。それなら、大丈夫かと気遣ったのだろうかと思うも、それもしっくりこない。というか、僕が馬鹿軍医に大丈夫かなんて、口が裂けても言えるはずがない。寒気がする。
 それじゃあ黙っていたらいればいいのだろうけれど、それはそれで居心地が悪い。僕が居心地の悪さなんてものを気にする日が来るとは僕自身、驚いてる。そんなことを気にする性格ではなかったように思う、少なくとも馬鹿軍医に対して気を遣うつもりなんてこれまで全くなかった。
 ならばどうして、と考えると、答えは一つしかない。僕が今、此処にいられる理由を作ったのが、この人だからだ。だから、放っておけないんだ。この馬鹿軍医があんな奇行に走らなかったら、僕は多分、もう二度とアイリスと会うことはなかった。会うべきではないし、カインと一緒にいなきゃいけないと、そう思っていたに違いない。向き合っているつもりになったまま、逃げていることにも気付かずにいただろう。だから、どういう成り行きだったとしても、結果的に此処まで来れたきっかけはあの馬鹿軍医だ。そこだけは、僕も感謝してる。
そうだ、感謝してる。だからちゃんとそれを、伝えられるうちに伝えるべきなんだと、自分に言い聞かせる。


「……ねえ、起きてる?」


 意を決して声を掛けた。人に声を掛けるのに、こんなに緊張したことはないかもしれない。焦りのような衝動が湧きあがる。慣れないことをしているからだと思いつつも、掌には汗が滲む。人にお礼を言うだけで、こんなに緊張するなんておかしい――そう自嘲した矢先、少し掠れた声で「起きてるよ」と馬鹿軍医の声が聞こえて来た。


「どうかした?」
「……」


 突然、ありがとう、なんておかしい。声を掛けたはいいものの、何て切り出すかまでは考えていなかったことに今更気付いた。慣れないことをしてるとは言っても、もう少し考えてから声を掛けるべきだった後悔する。が、それも後の祭り。声を掛けた以上は、言うしかない。
 でも、僕がお礼を言ったところでこの人にとっては困るだけかもしれない。寧ろ、苦しくなるかもしれない。でも、あんたのやったことは全部が全部、悪いことじゃなかったんだって、それだけは伝えたい。少なくとも僕にとっては、あんたがやったことで戻って来ることが出来たんだって。それだけは伝えたい。


「……あの、さ」
「うん、どうしたの?」
「……あんたは、自分のしたこと、どう思ってるの?」
「……」


 元々、気にはなっていたことだ。どういうつもりだったのだろう、と。勿論、カサンドラに唆されたところが大きいとは思う。そういうふうに人を乗せて動かすことに長けてるし、今までいいように掌の上で踊らされてる人たちを何人も見てきた。そして、そういう人たちは揃って、こんなはずじゃなかった、操られていただけだって言っていた。


「……やらなきゃよかったって思ってる。馬鹿なことしたなって……でも、それでも、他の誰かを恨むつもりはないよ。いくら憎くて仕方ないカサンドラでもね」
「何で?あの人が唆したから、」
「唆されはしたけど、最終的に決めたのは俺自身だよ。……唆されていなかったとしても、最終的にはきっと同じことをしてたと思う」
「……」


 俺は欲しいものは全部手に入れなきゃ、安心できないと思ってた。
 聞こえて来るその声は微かなものだったけど、静まり返った牢には響いて聞こえるようだった。欲しいものは全部手に入れなきゃ安心できない――それはきっと、多分、僕にも分かる気持ちだった。僕はそれほど欲しいと思うことがそもそもないけど、何も持ってない人間にしてみれば、一度欲しいと思ったものは手に入れなければ他の誰かに奪われてしまう――そんな心配ばっかりしてしまう。馬鹿軍医は僕なんかとは比べものにならないほど、豊かな環境で生きてきた。それでもきっと、僕にカインがいたように、傍にいてくれる人はいなかったのかもしれない。
 僕だってきっと、傍にカインがいてくれなければ同じようなことをしていたかもしれない。自分以外の誰かを大事に思うことがなければ、きっと、僕も馬鹿軍医と同じことをしていたかもしれない――そのことを思うと、やっぱり、この馬鹿な人を放っておけなかった。


「……今はどうなの?」
「後悔ばっかりだよ。……でも、迷惑を掛けた人たちには悪いけど、何だかすっきりとしたんだ」
「……」
「たくさん迷惑掛けて、周りを傷つけて、本当に馬鹿なことをしたと思ってるけど……でも、心が軽いっていうかさ……何て言っていいのか分からないけどさ」


 憑き物が落ちた、ってことだとは思う。僕だって同じような感じだから言いたいことは分かる。この人の場合は多分、兄さんのことと決別出来たというかそういう感じなんだと思う。今回のことがなければカインから離れるなんてこと、到底思い浮かばなかったから、多分きっと、やり方は間違っていたとしても、こういう大きなきっかけが僕にもこの人にも必要だったのかもしれない。


「……アイリスちゃんさ、許してくれたんだ」
「……うん」
「それもあったと思う。……危険な目に遭わせたのに、それでも許してくれたんだ。もっと詰って怒って恨んでくれていいのに」
「アイリスはそういうことしないよ」


 そうだね、だから楽になったけど同じぐらいに苦しいのかもしれない――そう言って、笑ってる気配が伝わって来た。


「……あのさ。周りは多分、あんたのしたことを責めたり詰ったりすることはあると思うけど……僕は、感謝してるんだ」
「……」
「あんたが何もしなかったら僕は今、此処にいない。……戻って来ることは、なかったと思う」


 以前と変わらず、どうすればいいのか分からないまま、それでもカインの傍を離れられずにいたはずだ。どうなっていたかなんて分からないけど、それだけは間違いないと思う。それぐらい、僕にとってカインの存在は大きい。間違っているかもしれない、自分たちのしていることは間違っているのかもしれないと思っても、それを切り出せないぐらいに。
 だから、隠れ家にアイリスが連れて来られることがなかったらきっと、僕は全てやり直そうなんて思わなかった。出来るはずがないと最初から諦めたままでいた。だから、此処に戻って来れてよかったと思ってる。


「感謝されたって複雑かもしれないけど、言っておきたくて」
「……うん」
「あんたは周りに迷惑かけて傷つけたことを気にしてるかもしれない。全部壊したって思ってるかもしれない。……でも、全部壊れてなんかないと思うよ、僕は」
「……」
「少なくとも僕は戻って来る決心がついた。それに、あんただって楽になった。悪いことばっかじゃないよね」


 周りが何て言おうとも、それは紛れもない事実だ。迷惑をかけた、周りを傷つけた、それだって事実だ。でも、悪いことばかりでもない。少なくとも、僕にとってはそうだった。だから、自分にきっかけを与えてくれたように、自分だってきっかけとまではいかずとも、手を差し伸べることぐらいはしたかった。
 どうしたらいいか分からなくて、周りも頼れなくて、泥沼にはまって沈んでいきそうだった。でも、そこから抜け出すきっかけを掴むことが出来た。だったら、どれだけ足を取られようとも踏ん張って足掻いて抜け出して、そして自分のやってきたことを償えればって思う。偉そうなことを言うつもりなんてないし、言えたものでもないけど、少しでも伝わってエルンストさんが前を向いてくれればいい。僕に今できるのは、それぐらいだから。








たとえ泥に足を取られても


140214

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