げほっ。
 喉が痛い。頭が痛い。寒気がする。関節が痛い。
 典型的な風邪の症状だ。熱の所為でぼんやりとしながらも恨めしげに天井を睨む。本当なら今日は、ヴィルヘルム様に任務報告をボクがするはずだった。なのに、任務から帰って来るなりボクは熱で倒れてしまった。体調管理だってちゃんと気を付けていたのに、よりによって何で今回なんだとイライラして仕方ない。
 握り締めた拳を振り上げるも、ベッドに叩きつけることは出来なかった。ぽすん、と柔らかい音を立てて落下。今は物に当たることも出来ないぐらい、ボクは弱っているらしい。そのことがまた情けなさに拍車を掛けて、イライラへと繋がる。ツイてない。とことんツイてない。お忙しいヴィルヘルム様とお話出来る機会なんて、ないのに。
 そう思うとずんと気分がどん底まで落ち込む。げほげほ、と咳き込みながらもう一度寝ようと億劫になりながらも寝返りを打つ。兎に角寝て、早く治そう。それがいい。そう思って瞼を閉じると、ずぶずぶと沼に沈んでいくように眠気がボクを引き摺りこんでいく。


『アベル、大丈夫?』
『……平気』


 いつだったか、アベルが風邪を引いたことを思い出す。布団に潜り込んでボクに背を向けてごほごほと咳き込んでいた。アベルはボクより少し身体が弱い。これまでにも何度か風邪を引いて寝込んでいることがあった。その度にボクは心配で仕方なくなる。アベルの傍にはボクが付いていてあげなきゃいけない。これまでがそうだった。だからこれからもそうだと思っていた。
 それに、ボクが体調を崩したときにはアベルが傍にいて看病してくれた。大丈夫、って心配してくれるのが嬉しかった。ボクたちはこれまでずっと二人で生きてきた。これからだってそうだ――ずっと、そう思っていた。なのに、ボクの隣に今、アベルはいない。アベルは、ヴィルヘルム様の命令でベルンシュタインにスパイとして潜り込んでしまった。
 本当はボクだって一緒に行きたかった。でも、ヴィルヘルム様が許してくれなかった。ボクの頬には鴉の刺青がある。特殊部隊に属する証。これはボクの誇りだ。命を助けてくれたヴィルヘルム様に恩を返すというボクなりの決意の表れでもある。だけど、これがあるから、目立つから、ボクは行かせてもらえなかった。
 アベルは今、どうしてるんだろう。いじめられてないかな。困ってないかな。不安で心配で仕方なかった。ふわふわと浮き沈みする意識の中、ボクはアベルのことを考えていた。すると、不意にボクの名前を呼ぶ声が聞こえて来た。放っておいて欲しい――寝かせてよ、ボクは起きたくないんだ。しんどいんだよ。そう思うも、途切れ途切れに聞こえる声が煩わしく、終いには身体を揺すられ、ボクは仕方なく重たい瞼を持ち上げた。


「あ、起きたか。身体はどうだ?」
「……最悪だよ」
「あっそ。食欲は?なくても食わせるけど」


 ボクを起こしたのはブルーノだった。何か食べ物を持って来てくれたみたいだけど食欲はなかった。というか、正直今は何も食べたくない。食べ物を残すっていう行為自体が嫌だから口に入れたいとは思うけど、今はそれ以上に何も食べたくはない気持ちの方が強い。そのことにまたイライラする。
 要らない、と掠れた声で身体を起こしてご飯を食べさせようとするブルーノに言うも、「知るか。食わなきゃ薬飲めねーだろ」と尤もなことを言われる。その通りではあるけど、だからって無理矢理身体を起こして口に次から次に突っ込んでくるのはやめて欲しい。というか、咽る。


「……味がしない」
「舌が鈍ってんだろ、熱で。味がしなかろうが何だろうが兎に角食え」


 ブルーノは意外と料理が上手い。多分、ボクたちの中では一番上手い。現に作って来てくれた明らかな病人食も見た目はすごく美味しそうだ。舌が鈍って味が分からないっていうのが残念すぎる。が、兎に角、ボクの口に突っ込んで飲みこませればいいっていう食べさせ方はやめてよ、刺すよ。
 何度も咽かえりながらも食事は続き、ブルーノがスプーンを置いた頃にはボクは疲れてぐったりとしていた。ご飯を食べるだけでこんなに疲れるなんてこの先きっともうないと思うっていうぐらい疲れた。食器を脇に片付けるブルーノを横目にベッドに潜り込んで一息。もうこのまま寝ちゃいたい。


「ねえ……薬は?」
「あー、今カサンドラが作ってるからちょっと寝て待っとけ」
「……作ってる?今?」


 カーサが色々と薬だとか作ってるのはボクも知ってる。ブルーノがカーサの作った薬を飲んでるところも見たことはある。だから、ちゃんと効果のある薬を作ってるのだとは思う。が、本当にそれって飲んで大丈夫なのかなっていう不安がむくむくと湧き上がってくる。カーサのことを信用してないわけじゃない。ただ、こう、カーサってたまに失敗するときがあるから、それが今回にならないかだけがすごく、すごーく心配というか。


「待って、普通に軍医呼んで来たらいいだけの話だよね。ブルーノ、」
「いいからいいから。面倒ならおれらが診るから、遠慮せずにお前は寝てろ」
「いやいやいやいやいや、遠慮とかじゃなくて」
「大人しく寝てろって。興奮してると熱上がるぞ」


 思いっきりボクの顔まで布団を被せると、ブルーノは「後で様子見に来るけどちゃんと寝てろよ」とだけ言い残してさっさと部屋から出ていった。しんと再び静まり返る部屋――何かちょっと泣きたくなってきた。ボクのことを心配して薬を調合してくれてるカーサの気持ちは嬉しい。でも、ボクはまだ死にたくない。普通の、ごく普通の軍医が処方してくれた薬を飲んでおけば治るただの風邪なんだよ。カーサがわざわざ新しく調合して作り出す必要なんてないんだよ。
 言いたいことは山のように湧いてくるのに、それを口にする気力がない。ああだこうだと色々と考えているうちに、また意識がふわふわして夢と現実を行ったり来たりし始める。こんな時、アベルがいてくれたらなあと思う――思い返せば、アベルが任務に行ってしまってから初めて風邪を引いた。そんなにしょっちゅう風邪を引くわけではないけど、それでも、いつもよりも落ち着かないのはきっとアベルがいないからだ。
 そのことを改めて実感すると、ぐすりと鼻が鳴った。もう子どもじゃないのに、心細いなんて馬鹿げてる――そう思うのに、アベルが近くにいないんだという事実を実感すると途端に心細くなった。でも、それもきっと風邪のせいだ。風邪を引いてるから心細くなってるだけ。そう自分に言い聞かせるも、ぐすりと再び鼻が鳴る。すると、「あらあら。アベルがいなくて寂しいの?」とくすくす笑う声が聞こえ、おでこにひんやりと冷たいモノが触れた。


「……カーサ?」
「ええ。寝ながら泣いてたわよ、心細いのかしら」
「……」
「拗ねることないわ。誰だって風邪を引いて寝込めば心細くなるもの」


 おでこに触れていたのはカーサの手だった。ひんやりと冷たい手が離れ、代わりに冷えたタオルが置かれる。そして、ゆっくりとした優しい手つきでボクの頭を撫でてくれた。カーサは優しい。酷いこともするし、酷いことも言うけど、時々すごく優しい。特に、アベルが行ってしまってからはよく構ってくれる。


「薬を用意したの。飲める?」
「……これ、飲んで大丈夫?」
「あら、失礼ね。ごく普通の風邪薬よ。ただ、味を甘くしただけ。苦い薬だと飲みたがらないでしょう?」


 私を何だと思ってるのかしら、と溜息を吐きながらカーサはボクに薬が入った小瓶を手渡してくれた。カーサが言うように、ボクは苦い薬は好きじゃない。飲みたくないなあと渋って、全部飲むまでに時間が掛かってしまう。だから、ボクがすぐに飲めるようにというカーサの気遣いはすごく嬉しかった。
 薬の入った小瓶に口を付けて一気に呷るととろりとした液体が喉の奥に流れていく。薬の嫌な苦さもなくて、どっちかというと甘くておいしかった。思っていた以上の飲みやすさに驚いていると、「ほら、水を飲んだら後はもうゆっくり寝てなさい。明日には熱も下がってるはずだから」と水が注がれたコップを差し出してくれた。


「薬、ありがとう」
「どういたしまして。ヴィルヘルム殿下もご心配なさってたわ」
「……そっか」
「殿下が貴方に頼みたい任務があると仰ってたわ。体調が整ったら忘れずに伺いに行くのよ」


 ヴィルヘルム様がボクに任務を与えてくれるなんて思いもしなかったらつい食い気味にカーサに本当かと尋ねてしまう。そんなボクの様子にカーサは笑いながら頷き、「だけど、殿下に風邪を移すわけにはいかないもの。ちゃんと治すまでは治療に専念するのよ」とおでこから転がり落ちたタオルを置き直しながらカーサは言う。
 確かにヴィルヘルム様に風邪を移したら一大事だ。うん、分かった――頷いて見せると、カーサは「それじゃあ寝なさい。おやすみ」とボクの頭を撫でてくれる。その手が気持ちよくて、ボクは目を閉じる。すぐにまたふわふわと意識が浮かび上がるも、――さっきまでとは違って、うじうじとした感情が湧き上がることはなかった。









刹那の夢に垣間見て、空白


140708

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