カーニバル - stray cat -



 外から微かに届く賑やかな声を聞きながら、ゲアハルトは書類に目を通していた。報告書などは次から次へと提出される為、手早く目を通していかなければすぐに溜まってしまう。少しばかり休憩を入れようかと書類を机に置いて肩を回していたところで扉をノックする音が聞こえた。ゲアハルトはげんなりとした表情を浮かべながら誰何を問えば扉が開き、そこからひょっこりと好々爺然と笑んでいるホラーツがいた。


「ホラーツ様、……何か御用があるなら俺から伺います」
「私よりお前の方が忙しいだろう。それに此処に寄ったのはついでだ、ついで」


 そう言いつつ、ホラーツは勝手知ったる部屋とばかりに椅子へと腰かける。そして向かい側に座るようにと手招きされれば、さすがのゲアハルトも断ることは出来ない。失礼致します、と断ってから向かい側に腰かけつつホラーツを見やれば、彼がいつになく機嫌がいいということが伝わって来る。


「何かありましたか?ご機嫌がよろしいようですが」
「何かって、今はカーニバル中だろう?楽しげに笑って騒いでいる国民を見るとやはり嬉しく思うものだ」


 ホラーツは目を細めながらとても嬉しそうに言う。彼が治めているこの国に生きる人々が楽しげに笑っている様を見ることは、国王として幸せなことなのだろう。特に今は戦時中であり、本来ならばこういった国民の様子もカーニバルを開催することも有り得ないことである。それでも毎年、カーニバルの開催を継続しているということは、国民にとってもこの国にとってもそれだけ大事な行事だからだ。
 戦争のことばかりに集中していては気が滅入ってしまう。それは戦場に出撃する兵士だけでなく、この国に生きる者にとっても同様のことだ。だからこそ、時にはベルンシュタイン全体が戦時中であるということを忘れて気を抜ける日がたった数日であったとしても、無ければならないとホラーツは考えている。無論、その間に攻め入られないように国境には通常時以上に警戒を厳しくすることとなってしまうが、それは致し方なくもあった。


「少し休憩してはどうだ?ほら、美味しい菓子や食べ物を買って来た」
「……まさか、お一人で外出されたのですか?」
「なに、少し散歩がてらに回っただけだ。騎士団の兵士が巡回警備に出ているし、問題なかろう」


 然も平然とした様子で言ってのけるホラーツにゲアハルトは額に手を遣り、苦虫を噛み潰した表情になる。今頃、王城では騒ぎになっているかもしれない。連絡を入れるべきだろうと思うが、彼が本当にただの散歩のついでに軍令部に寄ったとは思えない。何かしら、王城では出来ない話があるのかもしれない――それを思うと、すぐに連絡を入れるべきではないとも思える。
 どうしたものかとホラーツをちらりと見遣れば、そんなゲアハルトの思考を読んでいたかのように「ちょっと散歩に行って来ると置き手紙をしておいたから平気だ、気にするな。それより茶を淹れてくれるか?」と菓子の包みを広げながら彼は言う。一国の王が置き手紙を残して気軽に出歩いていいものなのかとゲアハルトは溜息を吐きつつも、言われたままに立ち上がり、茶の用意を始める。


「カーニバルの時にしか店を出さないところの菓子を買って来た。書類仕事の休憩にはやはり甘いものが必要だからな」
「甘いものがお好きなところは相変わらずですね」
「人の嗜好は易々とは変わらんよ。まあ、最近はエルンストが口煩く糖分の取り過ぎだ何だと口を挟んで来るが」


 憂鬱そうな表情で言うホラーツに微苦笑を浮かべつつ、ゲアハルトはカップを差し出す。改めて席に腰かければ、テーブルの上にはクッキーなどの焼き菓子が広げられていた。その多さを見ていると、あまり口煩いことを言わないエルンストがつい口煩く注意するのも頷けた。
 そんな菓子類の中にふとゲアハルトの目を引くものがあった。つい、それに視線を向けていると、「それはお前に買って来たから食べればいいだろう」とホラーツは笑みを浮かべながら包みに入っていたフォークを差し出す。


「初めてお前をカーニバルに連れて行った時も今みたいにじーっと見ていたのを思い出すよ」
「……よく覚えていらっしゃりますね」


 ゲアハルトはばつの悪そうな顔をしつつも、差し出されたフォークを受け取る。そして、つい視線を向けてしまっていた一切れのタルトタタンを引き寄せる。口元を覆っているマスクを下げて一口、口に運ぶとカラメル色をした林檎の菓子は以前食べた時と遜色ない味だった。そしてまた一口、と食べ始める彼をホラーツは優しげに目を細めて見つめていた。
 その視線に気付いたゲアハルトは僅かに眉を寄せつつ、照れたように色白の頬を赤くする。そのまま視線を逸らし、「何ですか」とぶっきらぼうな声音で言う。


「大したことじゃないさ。お前を面倒を見始めた時のことを思い出しただけだ」
「……そうですか」
「あれからもう……十年以上経つのか」
「ええ、十五年になります。ホラーツ様には面倒を見て頂いただけでなく、第二騎士団をお預け下さって司令官にまで取り立てて頂き、感謝してもし切れません」


 フォークを置き、ゲアハルトは深く頭を下げる。そんな彼にホラーツは「気にすることなんて何もない。第二を任せたのも、司令官に任じたのも全てお前の頑張りがあったからだ」と笑みを浮かべて言う。そして、いつまでも頭を下げていないで食べろ食べろ、と菓子を勧め始める。
 そんないつもと変わらないホラーツの様子に珍しくゲアハルトは表情を緩めた。けれど、やはり感謝せずにはいられなかった。ホラーツがいなければ、――仮にいたとしても、もし彼がこのような性情でなければ――自分はきっと生きてはいなかっただろうと彼は思うのだ。


「この御恩返しは必ず致します」
「気にするなと言っているだろう。それに恩ならもう返してもらっている、お前が司令官になってから戦況は変わった」


 まあ、多少はおいたをしているが。
 そう付け足すホラーツにゲアハルトは視線を逸らす。彼が言うおいたとは、水中花のことを指しているのだということはすぐに分かった。未だにこのことを言うのだ、エルンストに毒物の製作を命じたことを口にすれば、どうなるかなど分かったものではない。やはり内密に進めるべきかと心に決め、何食わぬ顔でゲアハルトはカップに口を付ける。


「それに、帝国の内情などにも明るくなった。これはお前がこちらにいるからこそだ」
「……ですが、既に変わっていることも多いかと」
「それでも何も知らぬよりかは余程いい。……ところで、報告書を読んだが、帝国軍は既に黒の輝石を自在に操ることが出来る可能性がある、ということだったが」


 ぱくり、と言葉や雰囲気とは裏腹にホラーツはクッキーを口に放り込む。そんな言動が一致しない彼の様子に内心こっそりと溜息を吐きつつも、ゲアハルトは背筋を伸ばす。


「リュプケ砦で出現した強化兵をエルンストが解剖した結果、使用された強化薬は黒の輝石を使用して製作された可能性があるということでした」
「つまり、……輝石は既に覚醒している、と」
「……可能性としては高いかと思われます。ただ、完全覚醒には至ってはいないのではないかと」


 出現した強化兵は四体のみだった。つまり、試験的に強化薬を投与され、試験導入されたに過ぎないと考えるべきだろうとゲアハルトは口にした。それには特に異論はないらしく、ホラーツは重々しく頷く。
 そして彼はクッキーに手を伸ばすも、その指先がクッキーを掴むことはなく、両手を組み合わせてテーブルに肘を付き、重々しい溜息を吐いた。先ほどまでの飄々とした様子とはまるで違う雰囲気にゲアハルトは視線を伏せる。顔には出さずにいたが、やはり一国の主としての苦悩があるのだろう。


「……黒の輝石は初め、周りに不幸を撒き散らすのだったな」
「はい、……その為にヒッツェルブルグでは飢饉や凶作、貧困が徐々に蔓延し、それを打開するべく周辺国を併合し始めました」


 表向きはヒッツェルブルグ帝国は食糧難で、食糧が豊かで気候も安定しているベルンシュタイン王国の領土を狙って宣戦布告し、開戦したということになっている。しかし、実際のところは、黒の輝石というヒッツェルブルグ帝国が所有する石の覚醒がきっかけで気候が不順となり、国内に飢饉が広まり、凶作が続くようになった。
 だが、そのような話を表沙汰にすることは出来ない。だからこそ、ベルンシュタインにおいてはあくまでも黒の輝石のことは伏せて食糧難の帝国がベルンシュタインの食糧や安定した領土を狙っているということにしているのだ。それは決して間違いではなく、帝国軍の兵士らも同じように説明されているのだろう。真実を知っているのは両国のごく一部の上層部のみだ。


「ヒッツェルブルグの狙いは白の輝石です。対になっている石を手に入れることによって……恐らくは、黒の輝石を制御化に置くつもりでしょう」
「……白の輝石、か」
「我々にとっても必要なものです。白の輝石があれば、黒の輝石を対消滅させることが出来る」


 その理論を打ち出した者はこの世にはいない。けれど、同等のものであるそれらをぶつけ合わすことが出来れば、対消滅は可能のはずである。
 だが、肝心の白の輝石の行方は今も分からないままだった。捜索を開始してから既に何年も経過しているが、一向に手がかりすら掴むことが出来ずにいる。黒の輝石の覚醒具合からも、もうあまり時間はなかった。それを分かっているからこそ、ホラーツは伏せた顔を上げようとはせず、ゲアハルトもそれ以上は口を開くことがなかった。


「……あれがこんなにも大切なものだったとは」
「見た目はただの丸い石ですから、……捜索はこれまで以上に力を入れて行います、ですからあまり気に止まないでください」
「ああ、何か私に出来ることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「ええ、必ず。さあ、ホラーツ様、此処には口煩いエルンストもいないのですからお好きなだけ甘いものを召し上がってください」


 あまりにも落ち込むホラーツが見ていられず、ゲアハルトは努めて明るい声音でそう声を掛けた。気遣われているということにはホラーツも気付いているらしく、薄く笑みを浮かべて「それもそうだ、今食べなければいつ食べる」とおどけて見せながら改めてクッキーへと手を伸ばす。
 それでも、先ほどまでの元気は彼にはなく、そんなホラーツを見ていることがゲアハルトには堪えるものがあった。白の輝石を失ってしまったことは決してホラーツだけの責任ではない。国宝として扱われてはいたが、傍から見ればただの石であり、常日頃から気に掛けておくにはあまりにも平凡な石だった。
 不幸中の幸いであるのは、帝国軍の手に渡っていないということだった。渡っていたとすれば、今頃、黒の輝石を自在に操り、ベルンシュタインを領土を奪っていてもおかしくはない。それを思えば、何者かの手のうちにあるとしても、まだこの国の中にあるのだから幾分もましだった。
 しかし、一体誰が何の目的で白の輝石を持ち去ったのかは未だ知れない。失われてから既に十五年以上経過していることもあって探し出すことは実質的には不可能に近いことでもあった。それでも、探し出さなければベルンシュタインに勝利はない。ならば、どのようなことをしてでも見つけ出すしかなのだ。


「……こんな時に、コンラッドがいたら少しは違っていたのかもしれないな」


 ぽつり、とホラーツが呟いた。アイリスの養父であり、彼の親友でもあった第七騎士団の団長。彼はゲアハルトにとっても縁の深い人物だった。
 コンラッドは白の輝石の文献調査に当たっていた。見つかったとしても扱い方が分からなければどうしようもない。その為、魔法士としての力量も十二分だった彼にホラーツはその役目を託したのだ。コンラッドは白の輝石に関するありとあらゆる書物を研究していた。しかし、そんな彼も半年前に戦死し、彼が研究していた内容についても行方知れずとなってしまった。
 何処かに隠しているのだということだけは確かだったが、いくらクレーデル邸を検めても、コンラッドに近しい人物や彼の養女であるアイリスに何度も問うても隠し部屋一つ見つけることは出来なかった。そんな彼がもしも生きていたのなら、少しは現状が変わっていたのかもしれない――それはゲアハルト自身、時折考えることでもあった。


「……ところで、最近、ルヴェルチがキルスティ様に接近しているようですが」
「ああ、私がなかなか後継者を決めないからだろう。キルスティはどうしてもシリルを次の国王にしたいらしく、ルヴェルチにとっても傀儡にしやすく都合いいから近付いているのだろうな」
「……ホラーツ様はシリル殿下を後継者にするつもりはないのですね」


 溜息混じりに言うホラーツを見ていれば、彼がそのことで思い悩んでいることは明らかだった。今はベルンシュタインの内部で波風を立たせて争っている場合ではない。しかし、だからといって簡単に後継者を決めるということは出来なかった。
 正妃キルスティとの間に生まれた子であり、第一王子のシリルが有能な人材であったのなら何の問題もなかった。しかし、剣技は冴えず、政にも然程興味を示さず、絵や音楽にばかり傾倒している。それを思えば、やはり王位を譲ることは躊躇われた。特に今は戦時中である。国を率いて戦うことが果たして出来るのだろうかと考えた時に、どうしても安心して王座を彼に明け渡すことはホラーツには出来ないのだ。


「だからといって、あの子に王位を譲るというのも……後ろ盾がないからな」


 出来ることなら第二王子に譲りたいと思っているのだということは、その表情を見れば明らかだった。けれど、彼には後ろ盾がいない。母親を早くに亡くし、支えとなってくれる者は一人としていないのだ。
 後ろ盾がいなければ、まともに政など出来るものではない。すぐに第一王子であるシリルらの派閥に取って代わられるということは目に見えていた。だ


「私の代でこんな戦争は終わらせるつもりだが、……万が一のことを思うと、悩まずにはいられないな」
「……」
「……コンラッドが生きていてくれたなら、あの子の後ろ盾になってくれたものを」
「……」


 その言葉にゲアハルトは視線を伏せた。何も言うことが出来ず、掛ける言葉もなかった。
 暫し、沈黙が続き、不意に「最近、お会いになられたのですか?」とゲアハルトが口を開いた。ホラーツは殊更に第二王子を気に掛けている。後ろ盾がないということを差し引いても、その気に掛けようは明らかなものだった。


「いや、……なかなか都合が合わなくてな。……それに」
「……」
「……あの子の顔を見ると、彼女の……アウレリアの顔を思い出して、辛くてな」


 深く嘆息するホラーツから視線を逸らし、ゲアハルトは目を伏せた。そんな彼に気付かず、ホラーツはゆっくりとした動作で立ち上がる。そろそろお暇するよ、と言う彼に王城まで送るとゲアハルトは言って立ち上がるも、やんわりとホラーツは首を横に振った。


「少し考えたいことがある。その気遣いだけ貰っておく」
「……ホラーツ様」
「この菓子は……そうだな、アイリスにでもあげてくれ。お前ももちろん食べていい」


 それだけ言い残すと、ホラーツは足早にゲアハルトの執務室を出て行った。その背中は酷く寂しげで、獅子王と呼ばれるその威厳は見る影もなかった。ただただ、愛した女性に先立たれ、その悲しみがずっと癒えずにいる一人の男性の背中でしかなかった。
 ホラーツを見送ったゲアハルトは椅子へと戻り、深く息を吐き出す。けれど、少しも心はすっきりとすることはなかった。 


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