最善 - checkmate -



「いってー……あいつ、無茶苦茶しやがって……」


 足を引きずりながらブルーノは眉を寄せて文句を口にする。元よりぼろぼろではあった黒のローズは至るところが裂け、どす黒く血に染まって最早使い物にならない状態だった。彼が歩いた後は傷口から溢れた血が落ち、草や地面を赤く染めている。
 ゲアハルトの攻撃魔法によって負った傷は足だけでなく、肩や腕、背中に及んでいた。中には身体を貫通したものさえあり、こうして今も生きて動いていることが彼自身、不思議でならないほどだった。しかし、これまでにも自分の運の強さを実感したこともあったからか、「本当に悪運が強いわ」と溜息混じりに口の端を歪めた。


「何者だ!」


 ライゼガング平原はその名の通り、見通しのいい平原だ。そんな中、本陣の近くに突如として傷だらけの男が現れたのだ。本陣近くにいた兵士らが一斉に殺気立つのも無理はない。ブルーノは向けられる槍や剣の切っ先に舌打ちし、面倒そうに柳眉を寄せながら「そんなもん向けんな」と吐き捨てるように言いつつ、ローブの袖を捲り上げ、右肩に刻まれた鴉の刺青を見せる。
 それが目に入った途端に兵士らはすぐ様、武器を下げて直立不動の姿勢で敬礼する。打って変わったような態度をブルーノは鼻で笑いながら、彼らの横を通り過ぎて本陣へと足を踏み入れた。指揮官の元まで案内するという兵士の申し出を断り、その代わりに自分が呼ぶまで誰も近付けさせるなと命じる。入ってからもローブの袖は戻さずにそのままの状態で進めば、自然と道は開かれていく。それほどまでに帝国軍における特殊部隊・鴉の存在は異質なものだった。


「あー、いたいた」
「何だ、貴様は」


 難なく本陣まで辿り着いたブルーノは声を掛けることなく、幕を捲ってそこに入り込む。陣の中には帝国軍本隊を指揮している男が地図を手に椅子に座していた。男はブルーノを睨みつけ、衛兵は何をしているのだと怒鳴り散らす。そして、すぐに外にいる兵士を呼び寄せるも一向に誰も応援に来る気配はなく、男は椅子をひっくり返しながら立ち上がると腰に差していた剣を抜き出す。
 その様子にブルーノは唇を歪めて笑った。酷く滑稽な姿に見えてならなかったのだ。フードを目深に被っているということもあり、男にはその唇に浮かんだ歪んだ笑みしか見えず、それが更に彼の逆上を誘う。今にも飛びかかりそうな男にブルーノは「俺のことをお忘れですか?」と僅かにフードをずらした。


「……お前は……生きていたのか、ブルーノ」
「ええ。久しぶりですね、ダールマン隊長。ああ、今はダールマン指揮官でしたっけ。覚えてて下さって嬉しいですよ」


 印象的な橙色の瞳の彼を前にダールマンと呼ばれた男は声を失った。そんな彼の様子にブルーノは笑みを深めながらダールマンの向かい側の椅子に腰かけた。不遜な態度を取ってこそいるが、それは態度だけであり彼の身体は既に限界だった。ベルンシュタイン本陣で国王ホラーツを暗殺し、怪我を負いながらも追撃を振り切って帝国軍本陣まで戻って来たのだ。いい加減、身体を休めたいところだと思いつつ、ブルーノは唇の端を持ち上げながらダールマンに席を勧めた。


「どうぞ、座ったらどうです」
「黙れ!何故貴様こそ私の許しなく椅子に座って、」
「何故?当たり前だろ、俺がお前よりも上に立つ人間だからだ」
「何を……っ!?」


 ほら、と言わんばかりにブルーノは肩に掛かっていた袖を捲り上げ、そこに刻まれた黒い鳥のそれを見せつける。本当は本陣に立ち寄る必要はなかった。しかし、現在本隊を率いている人間が誰であるかを案内を申し出た兵士に告げられた瞬間、目的が変わった。
 ダールマンはブルーノの右肩に刻まれた刺青を見るなり、顔色をさっと変えた。音さえ聞こえるのではないかというほどの血の引きように彼は肩を震わせて笑った。まさかかつて自身の隊に所属していたただの一兵卒が皇子であるヴィルヘルム直轄の特殊部隊の所属になっているとは予想もしていなかったらしい。


「そもそも貴様は……クラネルト川での作戦行動中に死んだのではなかったのか……」
「俺も死んだと思っていたんですけどね。どうやら俺の悪運は相当強いらしい」


 ブルーノは片方の口端を持ち上げ、吐き捨てるように言う。本当ならば、自分は今この場にはいないはずの人間だ。自分自身でさえも死んだと思うほどの大怪我をクラネルト川での作戦行動中に負ったのだ。初めてベルンシュタインが水中花を実戦投入したその時、彼はその場にいた。
 今でもその時のことは記憶にしっかりと刻みつけられている。負った傷は確かな痕となって彼の身体に刻み込まれている。ブルーノは首筋に触れながらその時のことを思い出しながら「回復魔法士連れて来い」と陣の外にいるであろう兵士らに声を掛けた。途端に慌ただしく動き出す気配のする兵士らにダールマンは顔を歪めた。


「……それで何の用で此処に来た」
「用?別にこれといってねーよ。怪我を治して鳥と馬借りようってぐらいで……あー、ついでにこれの替えも欲しいな。さすがにもう使い物にならねーし」


 先ほどまでの態度とは一変し、口調はぞんざいなものになる。そのことにダールマンは不快感を露にするも、ブルーノの方が今となっては上官に当たるということもあり、彼は唇を噛み締めるしかない。そんな様子をブルーノは内心嘲笑っていた。兵卒としてダールマンの隊にいた頃、彼にはいつも言いがかりに近い文句を付けられ、憂さ晴らしの為に暴力も振るわれていた。その時のことを思えば、自分が今していることは余程可愛らしいものだろうと考えているのだ。
 程なくして回復魔法士が陣に入って来た。鴉に所属する者の手当てということで緊張しきった様子ではあったが、怪我を前にすると「よくこんな状態で……」と眉根を下げてすぐに回復魔法を掛け始めた。漸く痛みも薄らぎ、ブルーノは僅かに表情を緩める。いくら悪運が強くといっても、痛みを感じないわけではないのだ。


「馬と報告用の鳥を用意させる。着替えも。……本当にそれだけだな?」
「そうだって言ってんだろ。カサンドラから言付かってることもねーよ。だからあいつに既に出されてる指示通り動けばいいだろ。何て言われてるかまで俺は知らねーけど」


 ブルーノが命じられていたのはあくまでもホラーツの暗殺である。可能であればゲアハルトも暗殺するように言われてはいたものの、あくまでも可能の範囲内でのことだ。絶対条件であるホラーツの暗殺を完遂している以上、任務はその時点で終了している。ゲアハルトにも一応は暗殺を試みたが、不可能と感じて即撤退したのだ。
 あのまま戦っていたあまりに分が悪すぎる――さすがに死んでいただろう、とブルーノは考えていると指示を出すべく、ダールマンは椅子から立ち上がった。視線を感じたブルーノが伏せていた視線を持ち上げれば、苛立ちや怒りの籠った瞳と目が合う。余程、自分の存在が気に入らないらしい。それも無理のないことだろうと彼は思った。虫けら以下の存在だと散々罵っていた相手に使われているのだ。プライドの高いダールマンが何も感じていないはずがない――しかし、その苛立ちや怒りの視線が、ブルーノには面白くて仕方なかった。


「あの、何か……」
「……いや、何でもねー。もういい、身体も軽くなった」


 つい笑みが漏れてしまった。顔を青くしながら伺う回復魔法士にブルーノは首を横に振りながら大きい傷は治癒が終わったということもあり、もういいと手を振る。元々長居するつもりはないのだ。傷の手当ても終わり、後はカサンドラに作戦成功の報告の旨を記した暗号文を鳥に運ばせるだけだ。テーブルにあった紙とペンを手元に引き寄せ、入隊時に叩き込まれたものとは別の鴉のみが使用する暗号を用いて文章を作っていると「用意が出来た」というダールマンの声が聞こえて来た。


「ご苦労さん」


 ダールマンはその労いにさえ眉を顰めていたが、何も言わずにいる。さっさと追い返したいところなのだろうと彼の心中を見透かしながら、ブルーノはペンをテーブルに転がす。そして、鳥かごから伝令用の鷹を出すとその足に手紙を結わえた。指先でそっと頭を撫で、腕に止まらせた鷹を勢いをつけて空へと送り出せば、大きな翼をはためかせて鷹はゼクレス国の方角へと飛び去った。
 それを暫く見送った後、鳥かごの脇に用意されていた着替えへと手を伸ばす。黒いローブは誰かの使用済みのものらしく、所々が
解れている。どうやらそれがダールマンにとっての精一杯の嫌がらせらしい。ブルーノは些細な嫌がらせを鼻で笑いながら彼が背を向けている隙に手早く着替えを済ませた。自身の血や返り血に塗れたそれを適当に放ると、「それじゃあ、お邪魔しました」と嫌味っぽく口にする。
 ダールマンは何も言わず、背を向けたままでいる。そんな態度にブルーノは笑みを噛み殺すも、どうしても肩は震えてしまう。フードを目深に被り直しながら唇を噛み殺すも、つい隙間から息が漏れて噴き出してしまう。鴉になってからというもの、新参者だからとこき使われて雑務ばかり押し付けられていたが、今ほど鴉に入ったことを感謝したことはなかった。
 陣の外に出ると馬はきちと用意されていた。何かしら他にも嫌がらせをしているのではないかと思っていたものの、どうやらそれはないらしい。そのことに内心僅かにがっかりしつつ馬に跨り、ブルーノは向けられる敬礼に緩いそれを返すと馬の腹を蹴って鷹が飛び去っていった方角へと馬を走らせ始めた。

 






 夜も更け、ゼクレス国はしんと静まり返っていた。昨夜のベルンシュタインの急襲によって受けた損失は大きく、ゼクレス国に残っていた兵力の大半は橋の崩落と共に失われてしまった。橋の再建については現在、本国に伺いを立てているところである。
 カサンドラは赤く彩られた爪を鑢で整えていた。しかし、何かを待っているのか、視線は落ち着かず窓と爪を行ったり来たりしている。予定通りに事が進めば、今日辺りにはベルンシュタイン軍に潜入していたブルーノから何かしらの知らせが到着することになっているからだ。
 今か今かとその知らせを待っていると、不意にバルコニーに続く扉が開いた。昼を過ぎた頃からブルーノの知らせをいち早く受け取る為にアウレールがそこで待機していたのだ。部屋へと入って来る彼の手には一枚の折り畳まれた紙が握られており、それを見るなりカサンドラは鑢を放り投げて立ち上がった。


「どうだったの?」
「成功したとのことだ。今、此方に帰還しているとも書いてあった」
「本当に成功したのね?ホラーツ陛下を討ち取ったのよね!」


 見る見るうちに歓喜の笑みがカサンドラの顔を彩る。自分の欲しかったものを贈られた少女のように喜ぶ様ではあったが、口にしている内容は決して穏やかではない。その証拠に最初は少女のようだったその笑みも徐々に歪んだ感情が見え隠れするものへと変わる。
 その変わり様を前にしながらもアウレールの表情が変わることはなく、淡々とした様子で「このことは伝えるのか?」と暗にこの場にいない少年のことを問う。その言葉に我に返ったように表情を消し去ったカサンドラは緩く首を横に振った。


「今は何を言っても無駄よ。部屋から一歩も出て来ないもの」
「……そうか」
「心配しなくても平気よ。あの子のことなら私が上手く何とかするから」


 そんなことよりも、とカサンドラは続けながらくるりと踵を返す。踊るような軽やかな足取りで棚へと近付くと、そこからグラスを取り出す。にこりと赤い唇に笑みを浮かべ、「祝杯をあげましょう、アウレール」と赤い瞳を細めた。



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