王城 - masquerade -



「死にたいなんて、消えたいなんて言わないで」


 自分自身の存在を否定するレオに対して言えることは、その言葉だけだった。単純な言葉ではあるものの、それがアイリスの紛れもない心からの言葉だった。
 レオに死んで欲しくない、生きていて欲しい。それだけなのだ。だが、その言葉も彼が抱える傷を癒し、心に巣食う闇を払うことは出来ない。否、自身の言葉一つでレオを救うことが出来るのならば、もっと早く、自分ではない誰かに彼は救われていたはずだ。誰の言葉も受け入れず、たった一人で癒えることのない痛みに震えていたのだ。
 彼はあまりに優し過ぎる。その優しさが、こんなにも今、レオを追い詰めているのだ。自分はそれを優しくはないと言いながらも、レオはいつだって自分以外の他者に心を砕いている。困っている者を見掛ければ、彼はいつだって進んで手を差し伸べていた。それは自分自身の存在が許されるように感じるからだとレオは言っていたが、そうだとしても、助けられたその人物が彼に対して感じることは、やはり優しさなのだ。


「レオにはまだやるべきことがあるんじゃないの?」
「……ないよ、何も。オレが第二王子として生き続ける限り、あの人の怒りは収まらないし、第二王子だということが知れ渡った以上、オレを担ぎ上げる奴も出て来るかもしれない」


 そうしたら、ベルンシュタインは二つに割れて国が乱れることになる――レオは顔を伏せながら呟いた。そして、国を乱さず、誰のことも傷つけるずに済む方法は一つだけだと彼は言う。敢えて口に出さずとも、レオが何を考えているのかは容易に想像が付いた。
 それに気付いていたからこそ、エルンストは決してレオに武器になるものを手渡すなと言ったのだということにアイリスは漸く気付いた。国を乱す前に、自分が担ぎ上げられる前に、自分の所為で誰かが傷つけられる前に、彼は自死を選ぼうとするかもしれないのだ。優しいレオらしい選択ではあると思う。だが、それは決して許してはならない選択だ。
 彼が死ぬことで全てが収まるわけではない。寧ろ、ベルンシュタインという国が辿ることの出来る未来の選択肢を一つ失うという大きな損害になるだけのことだ。確かにそれでレオは楽になれるかもしれない。これまでの間、おくびにも出さずにいたが、苦しんで来たのだろう。その苦しみからは解放され、彼が望むように自身の所為で周囲の人間が傷つけられることもなく、キルスティもシリルも心穏やかに過ごすことが出来るかもしれない。
 だが、少なくともアイリス自身は、心穏やかに生きることなど出来るはずもない。たとえ傷つけられることはなかったとしても、レオを喪うという傷は残るのだ。大切な仲間を失うことはもうしたくはない――アイリスはきゅっと唇を噛み締めると、「レオ」と彼の名前を呼ぶ。


「レオが死んだところで、何かが変わるの?」
「……」
「確かに正妃様たちは喜ぶかもしれない。……でも、レオを喪って悲しむ人だっているんだよ」


 わたしは悲しいよ、レックスもエルンストさん司令官も、エルザ様だって悲しむよ。
 レオのことを知る誰もが悲しむのだということを伝えても、彼は顔を上げないままだった。けれど、アイリスはそれを気にせず、声を掛け続ける。
 自分に今出来ることはレオに言葉を掛け続けることだけだ。彼が胸に巣食う癒えない傷の痛みに蹲り、自身の存在を否定し続けるのなら、それ以上の言葉の数でレオの存在を肯定するしかない。そうでなければ、彼はきっと顔を上げてはくれない。目を見てもくれない。笑ってもくれないのだ。


「レオのことを大事に思ってる人はたくさんいるんだよ。レオが周りの人たちのことを大事に思って気に掛けるように、レオだってその人たちから大事に思われてる」
「……でも」
「それに、レオは自分は生まれるべきでなかったって言ってたけど、レオは望まれて生まれて来たんだよ。陛下も、レオのお母さんも生まれて来てくれることをきっと楽しみにしてた」


 そうでなければ、きっとレオという名前を付けられることもなかったはずだ――アイリスはホラーツの笑顔を思い出しながら口にした。今にしてみれば、レオはとてもホラーツに似ていた。特に笑ったときに目を細めるところが、親子なのだということを伺わせるほどに似ている。
 ホラーツはレオが生まれることをとても楽しみにしていたのだろう。アウレリアと共に、息子に会える日を楽しみにしていたはずだ。だからこそ、彼は自身の名から取った名前を生まれて来る息子に付けたのだろう。


「陛下のお名前から取って、レオって名付けられたんだよね。それは紛れもなく、レオが望まれて生まれて来た証だよ。陛下とお母さんに愛されている証拠なんだよ」
「……だけど、オレがいた所為で母さんが!」
「確かにそうかもしれない。お母さんがいじめられる原因になったかもしれない。……でもね、レオ。だからってレオがここで諦めてどうするの?」
「オレがいなくなれば全部丸く収まるんだっ」
「丸く収まるわけない!たとえ収まったとしても、それは正妃様たちにとって都合のいい終わり方にしかならないよ。それに、レオが諦めちゃったら、レオのことを守ってたお母さんの気持ちまで裏切ることになる」


 アウレリアは自身の息子をこの城に蔓延る悪意から守っていたはずだ。そうでなければ、今頃、レオはこの場にいない。彼女が守っていたからこそ、彼は今も生きている。だが、そんなレオが屈して、全てを諦めたのならばアウレリアの気持ちは一体どうなってしまうのだろう。それを思うと、やはり黙っていることは出来なかった。


「辛いと思う、苦しいと思う。でも、諦めないで」


 口で言うのは簡単だ。けれど、深く深く傷つけられた人間が、一度は諦めた人間がもう一度立ち上がることは決して簡単なことではなく、誰の支えもなしに立ち上がれる者は少ないだろう。だが、周りで支えてくれる者がいるのなら、立ち上がることは決して不可能なことではない。
 何より、レオだって本当は、心の底から死にたいなどと思っていないはずだ。生きていたい、そう思っているのにそれ以上の苦しみや痛みが彼を苛み、蝕んでいる。それに打ち勝つことが出来れば、きっと変わることが出来るのだ。そしてそれが出来ると、アイリスは信じていた。


「わたしは、レオと出会えてよかったと思ってる。一緒にいてくれて、戦ってくれて、すごく心強いと思ってるの」
「……でも……でも、オレはっ……オレは弱いんだ。お前だって見ただろ。あの人に何を言われても言い返すことも出来ないオレを……」


 そう言って唇を噛み締め、レオは頭を振る。自分は強くないのだと言う彼にアイリスは「そんなことない」と優しい声音で言う。レオは決して弱くない。確かに、キスルティに何を言われても言い返すことが出来ず、顔を青ざめさせていた。だが、それは幼い頃に植え付けられた彼女への恐怖故のことだ。
 それさえなければ、レオが何も言い返せないなんてことはないだろう。そして、今からでもキルスティに対して抱き続けている恐怖をなくすことが出来るとも思っていた。自身に迫る悪意の中、誰にも守られず、支えられることもなく彼はこれまで生きて来た。誰かを頼りにすることも簡単には出来なかっただろう。だが、今はもうそのようなことはないはずだ。
 レオの周りには頼りにすることが出来る者が多くいる。それは彼が周囲に対して明るく、そして優しく接して来たからこそだ。レオからしてみれば、それは違う、というかもしれない。しかし、結果的にそれは彼を支える者になったのだ。それに気付くことさえ出来れば、誰かを頼ることさえ出来るようになれば、彼の胸に巣食う暗闇も晴れるかもしれない――アイリスは未だ、薄暗闇の中で膝を抱えているレオを見つめ、「レオは弱くなんてないよ」と声を掛ける。


「レオはいつだってわたしのことを励ましてくれたじゃない。守ってもくれたよね。そんな人が弱いわけないよ」
「……けど、」
「正妃様が怖いのは仕方ないことだよ。わたしだってあの方は怖いと思ってる、一緒だよ」
「……」
「だからね、レオ。あんまり自分のことを弱いなんて言わないで。レオは強いよ、これからもっと強くなれる人だよ」


 みんながいるんだから、レオは一人じゃないんだよ。
 そう言うと、彼は僅かに目を見開いた。それは微かな変化ではあったものの、それまで何を言っても首を横に振り、顔を俯けることが多かったことを思えば、大きな変化でもあった。これで少しは気付いてくれればいいと思いつつ、アイリスは「でもね」と付け足すように口を開く。一つだけ、言っておかなければならないことがあるのだ。


「お願いだから、消えたいとか死にたいとか、もうそういうことは言わないで欲しいの」
「……」
「レオはわたしの大事な仲間なんだから、そんなことは冗談でも聞きたくない。……それにね、わたしの命もレオの命も、アベルが繋いでくれたんだよ」
「……アベル……」
「無駄にしちゃ、駄目なんだよ」


 自分の命は自分だけで生きて来たものではなくなった。少なくとも、アベルという一人の人間の命の重みが加わっている。彼が繋いでくれたからこそ、今もこうして生きているのだ。ならば、彼の為にも決して自分から命を放り出すような選択はするべきではない。
 ゲアハルトの剣の前に立ちはだかった自分が偉そうに言えることではないということは分かってはいるのだが、やはり言わずにはいられなかった。レオに自分のことを大切にして欲しい、前向きになって欲しい。その思いだけだった。


「それに、言ってたよね。わたしに、抱き締められるところにいてって、一人ぼっちになんてならないでって」
「……それは」
「あの言葉、そっくりそのままレオに返すよ。手を伸ばせた触れられるところにいて欲しいの、一人になんてならないで欲しいの。……わたしもレックスも、……ちゃんと傍にいるんだから」


 それだけは忘れないで欲しい――それだけがアイリスにとっての望みだった。今はそれだけで十分であり、少しでもレオが前向きになってくれたのなら、自分は一人ではないということに気付いてくれればそれだけでよかった。急かしたところで意味などない。彼が本当に分かってくれなければ意味がないのだ。
 アイリスは気まずそうに顔を逸らすレオから視線を外すと、「本当はね、食糧届けに来たの」と本来の目的を口にする。その目的から随分と離れてしまっていたが、これまでの話が無駄ではないことは確かだ。たとえ食料を届けたとしても、先ほどまでの彼ならばきっと口に運ぶこともしなかっただろう。
 それから二言三言、言葉を交わしたアイリスはまた来るという旨を伝えてそっと立ち上がった。いつまでもこの場にいると、どうしようもなく離れ難くなってしまう。しかし、ただでさえ時間が掛かっているのだ。早く戻らなければという焦りも少なからずある。アイリスは「気を付けてね」とだけ言うと名残惜しさを断ち切るように足早に歩き出した。こつこつという靴音だけが響く地下牢の通路は、足を踏み入れた時よりも僅かに明るい気がした。







「それで、どうすんだよ」


 突然のヴィルヘルムの訪問に終始緊張していたブルーノだが、普段使用している居室に戻るとすっかりと緊張を解いた様子でソファに寝そべっていた。いつもと変わらない様子ではあるものの、やはり気疲れはしているらしく、その顔は疲労の色が濃かった。
 対するカサンドラの顔色は悪く、柳眉はきゅっと寄せられて眉間に皺が寄っている。いつも以上に気難しい表情を浮かべている彼女にこっそりと溜息を吐いていると「どうするもこうするもないわ。ヴィルヘルム様のご命令に従うまでよ」とカサンドラは口にした。


「ベルンシュタインに行くってことだろ?でも、クラネルト川の流域は固められてるだろうし、リュプケ砦の方から行くにしても日数が掛かるぞ」
「時間がないのよ、クラネルト川流域を突っ切って侵入するのよ」
「突っ切るってお前……まあ行けるだろうけど……怪我人もいるんだぜ?つーか、あいつ連れて行って大丈夫なのかよ」
「……全員で、というご命令だもの。連れて行くわ」


 しかし、カサンドラ自身も怪我人も含めて出撃しろというヴィルヘルムの命令には納得していないらしい。何より、報告をこの数カ月間、怠っていた間者だ。下手に動かすよりも厳重な監視下に置くべきであると考えているのだ。だが、カサンドラの主張は受け入れられず、挙句の果てには自分自身で監視するようにさえ言われてしまったのだ。
 巻き込まれるなんて真っ平だとブルーノが思っていると、「でも、私自身が監視するのだから気が済むと言えば済むのだけれど」と彼女は言う。疑いを主張している本人が事に当たるのだ。納得するまで好きにしてろ、とブルーノは思いつつ、「まあ、適当に頑張れよ」とだけ口にした。


「貴方こそ、ちゃんと私の指示に従ってくれなきゃ困るわよ」
「いつだって従ってんだろーが。どうせ俺はお前がいなきゃ生けていけねーんだから」


 それは紛れもない事実だ。彼女が精製する薬なしには生きていくことが彼には出来ない。だからこそ、カサンドラの傍を離れるという選択はどうやっても選ぶことが出来ないのだ。元より存在しない選択肢を探すぐらいなら、自分が生き残る為にも彼女を守る方が余程効率がいい。
 ブルーノは「でもな、勘違いすんなよ」と橙色の瞳を向けながら口にする。彼女が勘違いするような性格ではないということは重々承知しているものの、やはり一言言っておかなくてはと思ったのだ。


「俺がお前に従うのはお前の為じゃねーからな。単純に薬が切れて死ぬっつー、馬鹿みてーな死に方したくねーだけだ」
「分かってるわよ、それぐらい」
「ならいいけどな……」


 薬が切れて死ぬなどあまりにも滑稽すぎる。どうせ死ぬのならば、戦場で死ぬ方が余程いいと思うのだ。それを口にすると、カサンドラはきょとんとした表情になり、それから微苦笑を浮かべた。「貴方だつて案外、軍人らしいのね」とくすくすと笑いながら言う彼女にブルーノは眉を寄せる。
 決してそのようなつもりで言ったわけではない。鴉という組織に身を寄せている以上、まともな死に方など出来るはずもないと思っている。ならば、死に場所の中でも比較的いいと思えたのが戦場だったというだけのことだ。決して軍人らしいと言われるほどのことでもなく、軍人らしいところなど自身には何処にもないとさえブルーノは思っていた。


「馬鹿言うなよ。俺はただの職業軍人だ。……ったく、こんなことになるぐらいなら、給金に釣られずに田舎で農作業してるんだった」
「似合わないわね」
「ほっとけ」


 子どもの頃のことを思い出しつつ口にすれば、カサンドラは至極可笑しそうに笑いながら言う。その笑みにブルーノは舌打ちしつつもそれ以上は何も言わず、不貞寝するように瞼を閉ざした。瞼の裏に広がる光景は、農作物の育たぬ不毛の土地だ。幼い頃、腹が減ったと農作業に勤しむ母親の元に駆け出した頃は青々とした葉が生い茂っていた記憶もあるが、それはほんの僅かな間のことだった。
 数日後にはベルンシュタインに侵入することになる。侵入したとなると、それからの日々は忙しく、惰眠を貪るような余裕はないかもしれない。今のうちにゆっくり寛いでおこうと決めると、ブルーノは脳裏に蘇る記憶に蓋をしてソファに深く身を沈めた。




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