崩壊 - the fall -



 美しくも冷たい微笑を浮かべるカサンドラを前にアイリスは強く杖を握り締める。目の前の彼女からは先ほど倒した鴉の男――アウレールよりも明確な殺意が感じられた。そしてそれは、背後に庇っているエルザに向けられているものだということもすぐに分かった。
 カサンドラの名を呼んだことからも二人は知り合いだということは分かる。しかし、どのような関係であれ、今は敵同士だ。カサンドラは鴉に属する人間であり、エルザはアイリスにとって守らなければならない人間だ。今はそれ以上のことに考えを割く余裕はなかった。


「……カーニバルの日、わたしが貴女を案内したことも偶然ではなかったということですよね」
「そうね。あの日はアイリス嬢がどんな子かを確認することも潜入の目的の一つだったわ」


 そういう意味では特に接触する必要はなかったのだけれど、と言いながら彼女は笑う。その愛想のいい笑みは以前見たときと何ら変わらないにも関わらず、その目は決して笑ってはおらず、視線はエルザに向けられたままだった。背中を支える手から伝わってくる震えにエルザがどれほどの恐怖を抱いているのかが伝わってくる。
 しかし、その理由までは分からない。一体二人の間に何があったのだろうかと思いつつも、アイリスは杖を構え続ける。その間も自身の力で立ち上がろうとするも、まだ足には力が入らなかった。カサンドラさえこの場にいなければ、エルザの手を借りながら何とか進むことも出来た。だが、今は迂闊に動くことは出来ない。
 仮にエルザを一人で先に行かせれば、その時点で彼女の命は奪われるだろう。かといって、エルザの手を借りながら隠し通路に逃げ込むには距離があり、カサンドラの攻撃を避けて逃げ切れるとは思えない。どうしようかと思いながらも、今は応援が来てくれるかもしれないという不確かな可能性を信じて時間を稼ぐしかない――アイリスはそう決めると、一度きゅっと唇を引き締めてから口を開いた。


「だったら、他に何の目的があってわざわざ警戒態勢だったベルンシュタインに侵入したんですか」
「他にも色々と用事があったのよ。ルヴェルチ卿とも御相談しなきゃいけないこともあったから。まあ、あの人は今頃もうこの世にはいないだろうけれど」


 背後から息を飲む気配が伝わって来る。それに気付きながらもアイリスはエルザに視線を向けたまま、「口封じということですか」と問い掛ける。こうなるということは既に予想出来てはいたことだ。だからこそ、本当はルヴェルチのことではなく、シリルの安否を聞きたかったのだ。
 しかし、明らかにエルザに対して何らかの憎悪を抱いているカサンドラが彼女の心を抉るようなことを言うかもしれないことを思うと容易くは聞けない。何より、協力者だったルヴェルチを容易く切り捨てるような人間がその一部始終を見ていたであろうシリルを見逃すとは思えない。最低を予想するべきだとアイリスは顔を歪めながら唇を噛んだ。


「ええ、そうよ。今頃、アベルが彼を手に掛けている頃ではないかしら」
「そんなっ」
「あの子は私たちの仲間だもの。当然でしょう?」


 何を馬鹿なことを言っているのかとばかりにカサンドラは言う。そんな彼女を前にアイリスは何も言うことが出来なかった。カサンドラはアベルのことを仲間だと言った。その言葉が深く胸に突き刺さったのだ。そんなことはない、アベルは自分の仲間だと言おうにも、言葉が口から出て来なかった。
 その一言を口にしても、カサンドラはきっと一蹴するだろう。ベルンシュタインに与するというのなら、どうしてシリルを助けようとしなかったのか、今この場に現れないのか――いくらでも彼女は口にするだろう。それが分からなくはないからこそ、アイリスは何も言えなかった。唇を噛み締めて悔しげに顔を歪めるアイリスに視線を向けたカサンドラは至極愉しげに笑う。


「貴女は賢くて優しいものね。私が何て答えるかも分かるから聞くに聞けないのよね」
「……」
「大人しくしていてくれたらせめて痛くないように殺してあげる」


 コンラッド・クレーデルの研究について思い出しながら待ってて頂戴。
 カサンドラはそう言うと、こつりと音を立てて一歩を踏み出した。途端にアイリスは身を硬くしながらエルザを庇うように片手を広げる。そして、彼女の口から出た養父のことを考える。
 何かしらの研究をしていたのだということはアイリスも知ってはいた。だが、それが何の研究であるのかまでは知らず、カサンドラが一体何を求めているのかまでは分からなかった。しかし、一つだけ確実に言えることは、彼女が求めている養父の研究について、何一つとして渡してはならないということだ。
 アイリスは唇を引き結ぶと、真っ向からカサンドラを睨みつける。その所作にカサンドラは足を止めると、目を細めた。


「邪魔はしないで頂戴。貴女を殺すわけにはいかないの」
「……だからこそです。わたしを殺せないのなら、それはわたしにとっては好都合ですから」
「盾にでもなってエルザ様を守るつもり?確かに貴女の言う通り、貴女を殺すことは出来ないわ。けれど、傷つけられないわけではないのよ」


 そう言うなり、カサンドラは一気に距離を詰める。咄嗟にアイリスは杖に魔力を注ぎ、攻撃魔法をぶつけようとするも杖がカサンドラを打ち据えるよりも先に杖を握る手を掴まれてしまった。振り解こうとするも、予想以上の膂力で引き寄せられ、そのまま脇に転がされてしまう。
 杖はアイリスの手を離れ、床に鈍い音を立てながら転がった。慌てて身体を起こすも、あっという間にエルザとカサンドラの距離は狭まってしまっている。アイリスは尚も痺れて動かせない足を拳で叩きながら「エルザ様っお逃げください!」と声を張り上げる。しかし、恐怖に震える彼女にその声は届いていない。


「やっと貴女を殺せる……」


 恍惚とした声が聞こえてきた。カサンドラの手には鈍く光るナイフが握られ、その切っ先がゆっくりとエルザに向けられる。


「これでやっと……やっと」
「……っ」
「ギルベルトは、私だけのものになる!」


 その言葉にアイリスは弾かれるように目を見開いた。そこで漸く、気付いたのだ。カサンドラという彼女の名前がエルンストから聞かされていた裏切り者の名前と同じであり、彼女が何をしたのかということを。
 カサンドラこそが、エルンストの兄であり、エルザの婚約者だったギルベルトを手に掛け、ベルンシュタインを出奔した裏切り者だ。そして、彼女は今も尚、ギルベルトの遺体を所有し、エルザの命を狙い続けている。他の何よりもエルザに近付けてはならない者であり、だからこそ、エルンストはずっとそれを危惧していた。恐らくは彼だけでなく、シリルも同じだったはずだ。
 ゆっくりと両手で握られたナイフが大きく頭上に振り被られる。アイリスは逃げるように叫ぼうとエルザに視線を向けるも、彼女は既に頭を抱えて蹲ってしまっている。「エルザ様っ」と声を張り上げても、それは恐怖に雁字搦めにされた彼女には届かない。アイリスは拳を握り締めると、それを強く足に叩きつけ続ける。動け、動けと痛みさえ気に留めず、振り上げられる刃を睨み上げた。









「……っ」
「何でさっきから手加減してるの?死にたいの?」


 痛みを訴える肩を押えると、ぬるりとした生温かい液体が掌を濡らした。それほど深い傷ではないものの、剣を構え続けることは難しいだろう。それでも、肩の傷だけでなくナイフで裂かれた他の傷の痛みを押し殺し、レックスは剣を構え続けた。だが、その刃はアベルが手にしている血塗れのナイフに比べると、全くと言っていいほど血に濡れてはいなかった。
 間合いを取ったアベルは荒い呼吸を繰り返すレックスを前に不愉快そうに顔を歪め、呟いた。その言葉にレックスは自嘲するような笑みを浮かべる。手加減をしているというわけではない。ただ、割り切れないのだ。アベルが帝国に与する人間だと、自分たちをずっと欺き続けてきたのだということを認め、受け容れ、敵として向き合うことが出来ないのだ。それでは駄目だということも分かっている。敵性が認められている以上、どのような理由であれ、裏切り者として処断しなければならない。だが、頭で理解出来ていても、感情がそれを認めようとはしないのだ。


「……死にたいわけじゃないさ」
「じゃあどうして?……僕はあんたたちを裏切ってたんだ。裏切り者なんだよ」


 アベルは早口に捲し立てる。けれど、レックスにはその様がまるで罰を欲しているようにしか見えなかった。死にたがっているようにしか見えなかったのだ。そんな相手に剣を突き立てられるほど、レックスは容易く人を手に掛けられるような人間ではない。何か理由があったのだと、そう考えてしまうのだ。


「だとしても、死にたがりを殺してやるほどオレは親切な人間じゃない」
「死にたがりって僕のこと?別に死にたがってなんかないよ。あんたが僕を裏切り者だと思ってないみたいだから言ってるんだよ」
「お前が裏切り者だったとしても、何か理由があるはずだろ」
「ないよ、そんなの。僕はルヴェルチの手で騎士団に侵入してずっと内部の情報を流し続けてたんだ、その為に僕はずっと騎士団にいた」


 それ以上でもそれ以下でもないのだと、アベルは吐き捨てるように言う。だが、その様は自分で自分を傷つけているようにしかレックスには見えなかった。アベルは自分が思っているほど冷たい人間でもなければ、簡単に感情を割り切れる人間でもないとレックス自身は思っていた。人と接することに不慣れで、不器用で、それでも他者を気遣える人間なのだと思っていたのだ。
 だからこそ、今もこうして自分はまだこの場に立ち続けているのだとレックスは奥歯を噛み締める。そうでなければ、とうに急所をナイフで刺され、血塗れになって床に伏しているはずだ。振るわれたナイフで負った傷もどれも急所を外れ、それほど深い傷というわけでもない。手加減しているのはお前の方じゃないかとレックスは唇を噛み締めて睨むような視線を向けて来るアベルを見据えた。


「……アベル」
「剣を下げないでよ、レックス。頭沸いてるんじゃないの、そんなに僕に殺されたいの」
「違う、そうじゃない。……お前こそ、どうして俺を殺そうとしないんだよ。攻撃魔法も使わず、さっきから急所を外してばっかりで、お前の力量はそんなもんじゃないだろ!……っ」


 そう言った矢先、目前にナイフの切っ先が迫った。レックスは咄嗟にそれを剣で凌ぐも、僅かに体勢が崩れた隙に足を払われてしまう。けれどその瞬間、黒の隻眼は目に見えて揺れていた。


「……いつまで僕を仲間だと思ってるんだ」


 そして、床へと倒されると、間髪入れずに顔のすぐ傍にナイフが突き立てられ、頭上からは微かに震えた声が聞こえてきた。泣き出してしまいそうなほどに顔を歪め、力無く顔を伏せている。それでもなお、口にする言葉は変わらない。仲間ではないのだと、自分は敵なのだという言葉ばかりを口にする。だが、微かに震えたその声で呟かれる言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。


「こんなに怪我させられて、どうしてそれでもまだ仲間だって思えるの」
「……」
「僕は、あんたたちの仲間じゃないんだ」
「じゃあお前は、同じことをアイリスにも言えるのか?」


 溜息混じりにレックスは口にした。自分とは兎も角としても、アイリスとは仲が良かった。彼女のことを大事に思っていたのだということも見ていたのだから分かる。だからこそ、自分に今まで口にしたことをそのままアイリスにも言うことが出来るのかと、レックスは真っ直ぐに間近の黒い瞳を見返した。
 そして、アイリスの名が出た瞬間、一際大きく瞳が揺れたことにも気付いた。口ではいくらでも仲間ではないのだということが言えても、何の未練もないわけではないのだということが明らかになる。少なくとも、アイリスのことを容易く切り捨てられるほど、なかったことに出来るほど、アベルはベルンシュタインにいた頃のことを捨て切れていない。
 だからこそ、今ならばまだ説得出来ると思ったのだ。罰は受けなければならないだろうが、それでもゲアハルトやエルンストに掛け合えば、レオに頼めば何とかなるのではないかとレックスは冷静に言葉を選びながら、戻って来るようにと口にする。けれど、アベルは真一文字に唇を引き結ぶと僅かに頭を横に振った。


「……仲間じゃない。仲間じゃないんだ。僕は、この目が潰れた時に、あんたたちの仲間だった僕は死んだんだ」
「アベル、」
「戻れるわけないじゃないか……僕は、自分の居場所を自分で叩き潰したんだ」


 泣きそうになりながらアベルは微かな笑みを浮かべた。戻れるはずがないのだと、諦めを声に滲ませたアベルにレックスが目を見開いていると、離れた場所から慌ただしい複数の足音が聞こえてきた。それと同時にアベルは立ち上がると、レックスの顔の傍に突き立てていたナイフを回収する。
 そのままゆっくりと離れていくアベルに慌てて身体を起こしたレックスに「大丈夫か!?」と仲間たちが駆け寄って来た。そんな彼らへの返事をした矢先、青い顔をした仲間の一人が短い悲鳴を上げた。それと同時に頭上を飛び越える何かにレックスらはすぐに身を屈めた。「何だ!?」とレックスが頭上を飛び越えたそれに視線を向けると、そこにはアベルに寄り添う大型の狼がいた。
 口元を血で赤く染め、青い冷え冷えとする視線を向けて来る狼にレックスが目を瞠っていると「あ、あいつに食われてたんだ!」と悲鳴を上げた仲間が早口に言った。彼らが確保に向かったルヴェルチ邸の家人らは既に殺されていたのだという。そのどれもが喉元を喰い破られていたらしい。


「……その狼の仕業か」
「そうだよ。僕の任務はルヴェルチたちの口封じだからね」


 そう言いながらアベルは自身の倍以上の体躯の狼を犬や猫にするように撫でた。そして、慣れた動作でその背に跨る所作に「逃がすなっ!」とレックスは鋭い声で仲間に命じた。ここでアベルを逃がせば、次に顔を合わせるのは恐らく戦場となるだろう。そうなれば、説得などと悠長なことを言っている余裕はない。今が最後の機会なのだとレックスはすぐに床を蹴り出すも、その手がアベルに届くよりも先に狼は素早い身のこなしで窓を破って庭へと駆け抜けてしまう。
 レックスは尚も追いかけ続けるも、その背はルヴェルチ邸の塀を越えてすぐに見えなくなってしまった。結局は何も出来なかったとレックスは拳を握り締める。何をしてでもアベルをこの場に留めて捕縛するべきだったのだ。説得など、その後からでもいくらでも出来たはずだ。


「くそっ」


 甘かったのは自分の方だ。もっと他に取るべき方法があったのに、とレックスは自分自身への怒りのままに拳を地面に叩きつけた。 



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