優しさ - tender blind -



 救急箱を片手に次から次へと怪我人の元を渡り歩き、薬品や包帯、ガーゼが切れては補充に走る。それを他の救護兵と共にこなしながらも、頭に浮かぶのは先ほどのエルンストの様子ばかりだった。今は目の前の怪我人に意識を向けなければならないとは分かってはいるものの、アイリスはどうにも上手く頭を切り替えられずにいた。
 手分けして怪我人の手当に当たっていると、不意に出入り口の方から「団長、お疲れ様でした!」と口々に賑やかな労いの言葉が飛び交い始める。どうしたのだろうかとそちらの方向を見るなり、アイリスの表情はぱっと明るくなる。


「バルシュミーデ団長!」


 ヒルダさん、と呼びそうになるも、何とか口から出る前に押えることが出来た。救護場所にやって来たヒルデガルトはアイリスの声に気付き、彼女の方に顔を向け、笑みを浮かべた。けれど、それはどこか悲しげな色を綯い交ぜにした笑顔で何かあったのかとアイリスは心配な表情を浮かべる。
 そんなアイリスに対してヒルデガルトはすぐに常と変わらない凛とした表情へと切り換え、堂々とした様子で彼女に歩み寄った。その表情はいつもと変わらぬもので、自分が感じた差異は気の所為だったのだろうかとすら思うほどだった。結局、アイリスはそのことには触れず、「お疲れ様でした、バルシュミーデ団長」と声を掛けるに留まった。


「ああ。アイリスもお疲れ様」


 一瞬、ヒルデガルトの柳眉が寄った。その仕草にアイリスは苦笑を浮かべ、「今は公の場ですから」と彼女に呼ぶよう言われている愛称でなく、“バルシュミーデ団長”と呼び掛けたことを言葉を添えた。今回ばかりは彼女の言うことが尤もであり、ヒルデガルトも頷くだけでそれ以上は何も言わなかった。


「……あの」


 彼女の顔を見て、思い出したことがあった。聞いてもいいだろうかと思いつつ、徐に口を開けば「どうした?」とヒルデガルトが先を促した。それに対してアイリスは悩みながらも、彼女の元に応援に行ったアベルのことを聞いた。こうして怪我をした兵士らは救護場所に手当を受ける為に来ているものの、彼の姿が見当たらないのだ。怪我人の中に紛れてしまっているのかもしれないが、見知った顔を見逃すとは思えず、戻って来ていないのではないかという不安に駆られた。ただでさえ、帝国本陣を奇襲した後に本隊の応援に出ているのだ。魔力も体力も消費し、疲労していることは間違いない。
 不安に顔を俯けながらアイリスは次いで帝国本陣から追撃に出たレックスやレオもまだ戻っていないのかと問いかけた。ゲアハルトからどの辺りまで追撃に出ているのかも教えられ、その地点から本陣に戻って来るまで距離があるということも分かってはいるのだ。それでも、もし何かあったら、と考えると、怖くて怖くて仕方なかった。


「レックスやレオにはゲアハルトが帰還するように伝令を出したと言っていた。もうすぐ戻って来るだろう、……ただ、アベルのことは、悪いが私も知らない」
「……」
「本陣に一度帰還した後に此方に応援に来るということは聞いていたが、顔は合わせていないんだ。すまない」
「いえ、……手当しましょうか」

 あちらにどうぞ、と人の少ない場所へと案内し、アイリスは近くから持って来た椅子に座るように促した。そして近くに救急箱を置くと、怪我は何処なのかと問いかけつつ、改めて近くでヒルデガルトを見た。腕や足、頬などに細かな傷が無数にあり、どれも浅い切り傷ばかりではあるものの、消毒などの手当てをきちんとしておかなければならない。
 とりあえず見えている傷から手当を始めようとガーゼや消毒液を取り出していると、「消毒だけで構わない」とヒルデガルトは口にした。消毒だけで、と言われても、雑菌が入らないように包帯を巻いておいた方がいいとアイリスは困惑した様子で眉を下げる。


「なら、服で隠れるところだけにしてくれるか?団長が包帯をしていると目立つからな」
「でも……」
「私の姿一つで部下の士気に影響が出る。化膿するかもしれないと心配してくれているのは分かっている。だが、このくらいの傷はいつものことだ、慣れている」
「……分かりました」


 ヒルデガルトの言い分も理解出来る。隊を率いる指揮官の手当をしている時にも彼女と同じように申し出ていたことを思い出しつつ、それでも出来ることならしっかりと手当をさせて欲しいと思うのがアイリスの本音だった。だからといって無理矢理、自分のやりたいように手当するというわけにもいかない。特に今回はこれで作戦は全て終了で王都に帰還するというわけではないのだ、士気も高めておかなければならない。
 そのように考えながらガーゼに含ませた消毒液でヒルデガルトの頬の傷を拭っていると、「ゲアハルトから聞いたよ」と唐突に彼女が口を開いた。


「帝国本陣の奇襲に出したと聞いたときは驚いたよ。でも、無事でよかった」
「バルシュミーデ団長もご無事で何よりです」
「ああ。それに帝国の指揮官を捕縛したそうじゃないか。よくやった、アイリス」
「いいえ……殆ど火事場の馬鹿力みたいなもので、まぐれですよ」


 これからももっと練習しないと、とアイリスは苦笑混じりに言う。今回のことは本当にたまたまで今同じことをするように言われても成功出来る自信はない。そのままヒルデガルトにその旨を伝えると、「何事も練習を続けることが大事だからな」と彼女は頷く。


「ゲアハルトからこれからのことは聞いているのか?」
「一応。陛下のお返事待っていることですよね?」
「そうだ。返答は今日明日にでも頂けるはずだが、恐らくこのまま我々の進軍をお認めになるだろう」


 つまり、間髪入れずに次の作戦行動に移るということだ。リュプケ砦への増援はほぼないとゲアハルトは言っていたものの、今回が初陣であるアイリスからしてみれば、勿論のこと、連戦も初めてであり、様々な不安が脳裏を過る。せめて足手まといになることだけは避けなければと気持ちを切り換え、袖を捲ったところに出来ていた傷にガーゼを押し当て、その間に包帯を用意する。


「しかしさすがに一気に移動することも出来ない。索敵だけでなく、本陣を移さなければならないし、何より山越えだ」
「……大変ですよね」
「ああ。だが、それなりに時間もあるだろうからその間に稽古をしよう」
「え?でも……さすがにそれは……」
「平気さ。それになるべく感覚を覚えている間にしっかりと稽古を積んだ方がいい。それこそ、今度は火事場の馬鹿力でもまぐれでもなく、自由に扱えるように」


 さすがに今日は疲れているだろうから明日からにしよう、ヒルデガルトは決定だとばかりに頷いている。全員が索敵や本陣を移す為に動いている間に稽古を付けてもらうことにはやはり気が引ける。だからと言って、自分に索敵の為に山の中を駆け巡れるかと言われてもそもそも土地勘もなく、足場の悪い山中にも慣れてはおらず、敵を発見したとしても先ほどアイリス自身が口にしたように百発百中で魔法で相手を捕縛出来るというわけではない。それならば、今は兎に角鍛錬を積む方が良いようにも思える。
 アイリスが何を考えているのかに気付いたらしいヒルデガルトは苦笑を浮かべながら「そんなに考え込む必要はないだろう。気が引けるなら、私が後でゲアハルトに話を入れておこう。快諾するのは目に見えているが」と言葉を添えた。


「そんな、……それならわたしが自分で司令官に言います」
「それならアイリスも奴に会ったら声を掛けておいてくれ。まあ、どの道結果は同じことだ」


 アイリスが巻き終えた包帯に触れ、そしてそれを袖を伸ばして隠したヒルデガルトは疲れたとばかりに身体の筋を伸ばす。「包帯、きついところはありませんか?」と声を掛けると彼女は笑みを浮かべて平気だと頷いた。そして椅子から立ち上がり、軽く肩を回し始める。


「ゲアハルトにも言われているし、少し休むことにするよ。アイリスはまだ詰めているのか?」
「はい、エルンストさんも離れていますし、まだレックスたちが戻って来ていないので」


 送り出すべく救護場所の出入り口までヒルデガルトの後に続きながら、考えることはレックスやレオ、そしてアベルのことだ。レックスやレオは高台からの奇襲を終えた頃に一度その姿を見てはいるものの、その後はどうなったのかは詳しくは分かっていない。ゲアハルトからどの辺りまで追撃しているかは聞いている為、たとえ伝令を出していても戻って来るには時間を要するということは分かってはいるのだが、やはり心配だった。
 アベルにしても同じだ。ヒルデガルトも把握出来ていないというのだから、心配はどうしようもなく募る。さすがにアベルがやられたとなれば何らかの話は伝わって来るはずであり、怪我をしているのなら救護場所に連れて来られるはずだ。仮に動けない程の怪我を負っているとしても、それならばゲアハルトに何らかの連絡があるはずだ。しかし、未だに何も伝わって来ない。様々な考えが頭の中を交錯し、いよいよ不安を抑えきれなくなったところで、「第二が戻って来たぞ!」という声が聞こえて来た。
 その声に釣られるようにいつの間にか伏せてしまっていた顔をぱっと上げたアイリスは帰って来たと口々に上げる声が聞こえて来る方向に顔を向けた。そして逸る気持ちを押えながらその場で待っていると、遠目にだがはっきりと、赤い髪と明るい金髪の青年が兵士らと共に戻って来る様が見えた。


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