優しさ - tender blind -



「お、いたいた。アイリス」


 名前を呼ばれ、振り向けばそこにはレオがいた。時間は既に経ち、空には月も星も出ている。あの後、アイリスは空がオレンジに染まる頃に目を覚ました。既にアベルは起きていたらしく、眠る体勢は逆転していた。慌てて身体を起こせば、アベルは「何でアンタまで寝るかな」と呆れたように溜息を吐き出した。そして立ち上がった彼は「命令があるまで待機だって。僕は奥で寝て来るよ」とだけ言うと、幾分もしっかりとした足取りで立ち去った。
 救護場所に戻ったアイリスは未だ散らかったままの備品を整理し、少なくなった薬や包帯などを補充し、辺りを軽く掃除したところで夕食時となり、レオはそのために呼びに来たらしい。連れ立って救護場所を出ると、離れたところからシチューのおいしそうなにおいが届き、その途端に身体が空腹を訴え始める。


「オレもすっげー腹減った。さっきまで休んでたから身体もがっちがちでさ」
「大丈夫?」
「平気平気。それよりさっさと並んでシチューもらおうぜ」


 既に出来ている列に並び、レオとの会話を続けながら辺りを見渡す。レックスやアベルの姿が見えないものの、辺りの兵士は誰もが明るい表情を浮かべていた。順調に帝国軍に勝ち続けているからだろうか――そう考えると、そうやって明るく笑っていられることが少し、羨ましくなった。もちろん、アイリスも勝てたこと自体は嬉しいと思っている。しかし、どうして心に引っ掛かるものがあった。
 アベルは焦る必要も同じように感じなければと無理に合わせる必要はないと言っていた。その通りだとも思う。けれど、こうして誰もが勝利の喜びを分かち合っている中で一人だけこのように浮かない顔をしているというのは、異端に思えてならない。


「どうした?アイリス。列進んでるぞ」
「あ、ごめんね。何でもないよ」


 ぽん、と肩を叩かれて我に帰り、アイリスは慌てて開いた間を詰める。そして並んでいるうちに最前列まで来た彼女は皿に盛られたシチューを受け取り、同じように皿を受け取ったレオと共に少し離れたところに移動し、木の幹に背を預けて腰を下ろした。ほかほかと温かいそれを口に運ぶと、ほっと安心するように肩から力が抜ける。
 相当空腹だったらしいレオは暫く口も利かずにシチューを口に運び続け、その量が半分ほど減ったところで「何か悩んでるの?」と唐突にアイリスに声を掛けた。いきなりその言葉が飛び出すとは思いもしなかった彼女は一瞬驚いた顔をするも、何でもないとその問い掛けをかわそうとするも、「悩んでるよね?」と断定する言葉を投げかけられ、口を閉ざした。


「何でそうやってすぐ自分で抱え込むかな……、吐き出せばいいのに」
「……だって、これはわたしの問題で」
「オレは関係ない?」
「……」
「関係ない奴に話す方が楽になることもある。吐き出した方がいいこともあるんだよ、アイリス」


 オレじゃあ頼りないかもしれないけど、一生懸命考えるからさ。
 そう言い募るレオの優しさを無碍にすることは出来ない。シチューを一口、口に運んでから悩みながらもアイリスは自分の考えていることを彼に話した。人を助けたいと思って入隊したこと、帝国軍を憎み切れないこと、前線に出るのだからせめて彼らの姿を目に焼き付けようと思ったこと、しかし自分が捕縛した帝国軍の指揮官のこれからを考えると自分のしたことは正しかったのかが分からなくなったこと、それらを全て吐き出した彼女は、やはりこんなことをレオに話すべきではなかったと自己嫌悪した。
 それでもレオはただ黙ってアイリスが話し終えるのを待ち、それから彼女に伏せている顔を上げるようにと口にした。言われた通りに顔を上げれば、そこにはいつも明るく笑っているレオではなく、真剣な表情をした彼がいた。


「さっきは気にするなって言ったけど、アイリスは自分であいつらのことを見届けるって決めたんだろ?」
「……うん」
「だったら、戦場では絶対に目を逸らすな」
「……」
「自分で決めたことを簡単に止めるな、諦めるなよ」


 どれだけ辛くとも、それが自分の決めたことならやり抜かなければ意味がない。辛いからといってそれを止めるのならいつまで経っても弱いままだ。レオの青の瞳を見返し、アイリスは唇を噛み締める。辛いと、正しいのかが分からないというのは、ただの泣き言だ。逃げ道を探しているだけで、それを彼に提示してもらおうと心のどこかで思っていただけだ――そう思い知らされたようだった。それに気付けば、自分はなんて意気地なしだと恥ずかしささえ湧いて来る。
 強くならなければならない。力がないのなら、せめて心は強く持たなければならない。自分で決めたことを芯に持って、いつだって顔を上げて前を向いていなければならない。何度も頷くアイリスにレオは少しだけ困ったように笑いながら、「誰でも最初から強いってわけじゃない。皆迷って苦しんで、それでも自分で決めたことを諦めないように、折らないように貫いて来たんだ」と口にする。


「オレだって悩んだ。苦しかったし辛かった。帝国兵だってオレらと同じ人間だ、ただ生まれた国が違うだけでそれ以外は何も変わらない。だから、オレだって最初はアイリスみたいに悩んだ。オレのやってることは正しいのかって」
「……」
「剣で人を斬ったときの感触が嫌だった。もちろん、今だって嫌だよ。でもさ、ここでオレが嫌だから辞めるなんて言えるはずがない。オレはこの国を守りたくて入隊した。まだその目的を果たしていない。……それにさ、それはみんなが思ってることなんだよ。みんな、ただこの国を守りたいだけだ。大切な人を守りたいだけだ。それなのに、オレだけ逃げるわけにはいかない」


 みんな、お互いに支え合って頑張ってるんだよ。
 その言葉に、不意に頬を涙が伝った。熱いそれが一筋零れ、また一筋零れる。止めようと思っても止まらず、拭っても拭っても次から次へとそれは零れていく。


「だからアイリスが一人で耐える必要もないし、自分の考えてることが他の人と違うからなんてこと、気にすることなんてないんだ」
「……っ」
「人を傷つけることが怖いなんて、当たり前のことなんだからさ」


 その怖さは当たり前のもので、それを忘れてしまったらただの人殺しだ。人を傷つけることの怖さと痛みは、決して忘れちゃいけないものだから。レオはそう言って、手を伸ばしてアイリスの頬に触れる。彼女の手よりも大きなそれが頬を包み込み、親指で涙を零す目元を拭う。けれど、片手では間に合わず、レオは苦笑を浮かべるとアイリスとの距離を詰めてもう片方の手も彼女の頬に遣る。


「アイリスの躊躇いも戸惑いも悲しさも、間違ってない。アイリスの心はちゃんと痛みを感じてて、正常に機能してる」
「……レオ」
「だから、一人で抱え込んだりしないで。オレでもレックスでもアベルでも、誰でもいいからちゃんと話して」
「……」
「一人ぼっちになんて、ならないで」


 優しい声音が耳に届くその前に、肩を引き寄せられ、抱き締められる。普段なら気恥ずかしさを感じるそれも今は温かな体温とゆっくりと頭を撫でるその手の心地よさに、ずっとこのままでいたいとすら思ってしまう。


「アイリスは泣き虫なんだから……、ちゃんと涙を拭いてあげられるところにいてよ」
「……うん」
「抱き締められるところにいてよ。じゃなきゃ、励ましてあげられないし、怒ってあげられないし、涙も拭いてあげられなければ抱き締めてもあげられないんだから」


 分かったか、と問うレオに何度も何度も頷くと彼は苦笑しながらも「分かればよろしい」とアイリス泣き止むまでずっと頭を撫で続けた。


120515 


inserted by FC2 system