鴉 - the shadow -



 剣が空気を斬り裂く音が聞こえる。斬られる、とぎゅっと硬く目を瞑って身を小さくし、来る斬撃の痛みに耐えるように歯を食いしばるもその身を襲ったのは斬撃ではなく、炎の塊だった。アイリスは防御魔法を展開していたため、その大部分は防ぐことが出来たものの、中途半端な防御魔法だったこともあり、防ぎ切れなかった爆風に煽られて吹き飛ばされてしまう。地面に叩きつけられるも何とか受け身を取っていたため、アイリスは咳き込みながら上半身を起き上がらせ、目を凝らして何が起こったのかを確認する。
 巻き起こっていた煙も徐々に晴れ、離れたところに倒れている帝国兵が視界に飛び込んで来る。だが、ぴくりとも動かないところを見ると、どうやら炎の塊の直撃を受けてそのまま息を引き取ったようだった。投げ出された黒く焼け焦げた手足から視線を逸らしながら、吐き気を催した。鼻腔を突く人間の焼ける匂いは彼女に二年前の惨劇を彷彿させる。眉を寄せ、口元を手で押えながら荒い呼吸を繰り返していると、不意にその背をゆっくりと撫でられる。一体誰が、と視線を上げれば、帝国兵の亡骸を背にアイリスの視界に入らないように膝を付いたエルンストがそこにいた。


「……エルンスト、さん」


 トレードマークとも言える白衣を着ずにどうしてこのような前線にまで来ているのだろう。そんな疑問がぼんやりと脳裏を過るも、「大丈夫ですか!?」と少し離れたところから聞こえる心配げな声に、今がどのような状況であったのかを思い出す。アイリスははっとして今はこんなことを考えている場合ではないと大丈夫だと返事をしながら浮かんだ疑問を打ち消して、改めて目の前にいるエルンストを見た。
 思えば、彼とこうして顔を合わせるのは一昨日の救護場所以来のことで、それまで姿を見かけることがなかった。そんなエルンストが今になって前線に姿を現すのだから、その理由は気になるところではある。だが、今はそれを話している場合ではなく、アイリスは一先ず助けてくれたことの礼を口にした。


「構わないよ。まあ、あそこでアイリスちゃんが外すと思わなくて多少なりとも焦ったけどね」
「……すみません」
「別に責めてるわけじゃないよ。誰にでも失敗はあるし、ああいうときの距離感だとかタイミングっていうのはある程度経験を積まなきゃ読めないからね」


 実戦経験の足りなさが実感出来て良かったんじゃないの。
 エルンストはそう言いながらアイリスに手を差し出し、重ねられた手を取って立ち上がらせる。そして彼女の頬に付いている煤を指先で払うと、彼はすぐに手を引っ込めた。
 普通に会話は成立しているものの、先日の気まずさは尾を引いている。現に今もエルンストは落ち着きない様子でアイリスから視線を逸らし、彼女もまた、視線を伏せて口を閉ざしている。だが、いつまでもそうしているわけにもいかず、アイリスはどうして此処に来たのかとエルンストに問い掛けた。


「用があるからだよ」
「此処にですか?」
「いや、リュプケ砦」
「……え?」


 エルンストはさらりと目的地は前線でなく、その更に向こうの帝国本陣であるリュプケ砦であると言う。アイリスは目を瞬かせ、彼が視線を向ける先にあるリュプケ砦へと目を向けた。今も尚、攻撃魔法と弓兵による攻撃が続いている。そんな場所に用があると言うエルンストへと視線を戻し、アイリスは何を言っているのだとばかりに眉を寄せる。しかし、あくまでもエルンストの表情は変わらず、今からリュプケ砦に行くとさえ言い出した。


「そんな!あそこは帝国兵がたくさんいるんですよ!?」
「分かってるよ、それぐらい」
「分かってるならどうして!一人で行くなんて危険すぎます!」


 そもそも単身でリュプケ砦に乗り込むなんて、一体あそこにどんな用があるのだとアイリスはエルンストに詰め寄る。一人でリュプケ砦に行くなど、自ら死地に赴くようなものだ。いくらエルンストが前線兵であり、今さっきその実力を垣間見たとしても、アイリスには到底許せることではなかった。
 行かせられないとばかりに険しい顔をするアイリスにエルンストは僅かにたじろぎながら、「ちょっとした用だよ」と言葉を濁す。もちろん、用とは言ってはいるものの、実際には任務であるということは分かっている。だが、今は前線から退いているエルンストに任務を回すということに彼女は違和感を感じていた。


「特務だということぐらい分かってます。……バルシュミーデ団長の指示ですか?」


 彼女らしくないと、アイリスは感じていた。このような無謀とも言える命令をヒルデガルトはするだろうか、と。感じていた違和感の正体に気付いたアイリスはじっとエルンストを見上げる。彼は「そうだよ」としれっとした態度で答えるものの、アイリスの目を見ようとはしない。その態度に眉を寄せ、「下手な嘘を吐かないでください」とぴしゃりと言い放つ。


「エルンストさんはもっと上手に嘘を吐く人だと思ってました」
「別に、嘘じゃないよ」
「いいえ、嘘です。バルシュミーデ団長はこんな無謀な、生きて帰って来れるか分からないような命令をする人ではありません」
「……」
「誰に命令されたのかを答えて欲しいわけではありません。行って欲しくはないけど、命令だから行くなとも言いません。でも……わたしは、エルンストさんに死んで欲しくありません」


 頬に触れた少し冷たい彼の指先を握り、アイリスは唇を噛み締める。我儘を言っているということは分かっていた。こんなことを言ったところで、エルンストがリュプケ砦に乗り込むことに変わりはない。何より命令ならば速やかに実行すべきであり、引き止めるべきではないということも分かっていた。
 けれど、この手を離せば、エルンストが戻って来ないような気がしてならないアイリスは、我儘だと分かりながらもその手を離すことが出来なかった。人を失うことは怖い。それが親しくしている人間ならば、尚更だ。


「……だからって、連れて行くことは出来ないよ」
「分かってます。……だから、連れて行けなんて言いません」


 足手まといになることが分かり切っているのに、連れて行けなんてことは言えない。アイリスは顔を伏せ、悔しさに歯を食いしばった。もっと強かったなら、例えば攻撃魔法を使うことが出来たのなら、連れて行ってもらえたかもしれない。
 そこまで考えて、アイリスは自分が人を傷つける術を求めているのだということにはたと気付く。人を守りたい、とそう思って入隊したにも関わらず、人を傷つける術を求めている今の自分に半ば唖然としながら、自分は変わってしまったのだろうかと思っていると、不意にエルンストの手が動いた。彼女に握られていない方の手でそっと手を握るアイリスの手を取り、するりと手を離させてしまう。


「……エルンストさん」
「大丈夫だよ。ちゃんと戻って来るから」
「……」
「って、言ってもだめか。……でも、俺はまだこんなところでは死ねないから、必ず戻って来る」


 だからさ、俺のことを信じてよ。
 軽くアイリスの指先を握り、彼は言った。


「アイリスちゃん、俺のこと信じたいってあの時、言ったでしょ?それが嘘じゃないなら、俺のこと信じて」
「……ずるいです」


 今、こんな状況でそんなことを言うのはずるい。アイリスは眉を寄せながらそう言うも、エルンストはただ笑うだけだ。いつものような軽口を叩くときのように笑いながら、その深い青の瞳は真剣そのものだ。そんな風に言われて、そんな目に見られたら嫌だ、とは言えないではないか――そう言いたげな彼女の目を見やり、エルンストは眉を下げて笑う。


「男なんてみんなずるいものだよ。でも俺からしてみれば……、何でもない」


 苦笑いを浮かべながらそこで言葉を切り、「それで、俺のことは信じてくれるの?」とエルンストはアイリスに問い掛ける。彼のことを信じたいとそもそも言ったのは他の誰でもなく彼女自身であり、その言葉に嘘はない。彼女はエルンストのことを信じたいと、確かに思っているのだ。アイリスはこくりと小さく頷くと、エルンストはありがとう、とそっと彼女の指先を離す。
 離れていくその手を見つめ、今すぐ繋ぎ止めたい衝動に駆られる。けれど、その手から視線を逸らすことで衝動を抑え、アイリスはこれからエルンストが突入するリュプケ砦へと視線を向けた。


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