鴉 - the shadow -



 戦況はすぐに動き出した。エルンストの指示通り、押し上げていたベルンシュタイン側の兵士らが徐々に後退し始めたことによって、帝国兵らが勢いに乗り始めたのだ。しかし、勢いに乗り始めたと言っても、ある意図の元に中央部分の兵士らを後退させているのであって、勘のいい者ならば何かしらの変化を感じ取ってもおかしくはなかった。
 だが、援軍も送られて来る気配もなく、まさに背水の陣である帝国兵らには気付く余裕もないらしく、好機とばかりに攻める一方だった。そんな様子を見つめるアイリスは作戦であるということは分かっていても、やはり不安を感じていた。このままもしも戦線を押し返せなかった――そのように考えてしまうのだ。


「大丈夫だよ」


 アイリスが何を考えているのかなど、容易く分かったらしいエルンストは苦笑いを浮かべる。そして視線を彼女から中央部分の最前線で剣を振るっているレックスへと向け、「レックスがいるんだから押し返せないはずないよ」と落ち着いた声音で口にした。レックスがエルンストを信頼しているように、彼もまた同じように信頼しているのだということが伝わって来る。


「どちらかと言えば、俺は西側の方が心配かな」
「西側……、メルケルさんのところですか?」
「そう。腕は悪くはないんだけど、指揮するには不向きというか……あの人はレックスやレオとは違って、攻めることよりも守ることの方が得意みたいだから」


 早々戦線が崩れるということはないと思うけど、注意はしておいた方がいいと思う。
 そう言いながらエルンストは視線を前方へと戻し、「そろそろ始めるよ」と落ち着いた様子で口にした。アイリスに任せられていることはエルンストがリュプケ砦に着くまでの間、彼が作り出した防御魔法を維持し、タイミングを見て解除することだ。そして解除と同時に一気に戦線を押し返す段取りとなっている。解除のタイミングはアイリスに一任されているということもあり、彼女の緊張は一入だった。
 エルンストは片手を前方に突き出すと、掌からリュプケ砦に向けて練り上げていた魔力を一気に解放し、瞬時に筒状の防御魔法を展開する。丁度展開する場所に居合わせた帝国兵らは弾き飛ばされ、レックスらと交戦状態にあった帝国兵らも何事かと突如として形成された防御魔法に驚きを隠せない様子だった。


「じゃあ、頼んだからね」
「……はい。ご武運を、エルンストさん」
「君もね」


 軽い調子で笑うと、エルンストは自身が形成した防御魔法の中に飛び込んだ。一気に駆け出し、離れていくその後ろ姿にアイリスは不安を覚えながらも、任せられたからにはそれをきっちりこなさなければと彼が作り上げた防御魔法を維持するべく、魔力を注ぎ始める。
 筒状の防御魔法の中を走り、一直線にリュプケ砦を目指すエルンストの姿に帝国兵らは慌てた。そして彼を止めるべく、防御魔法やリュプケ砦へと急ごうとするも、レックスは「行かせるな!」と声を張り上げる。


「あと、……少し」


 エルンストがリュプケ砦に到達したら、後はこの防御魔法を解除するだけだ。彼の姿はまだ防御魔法の中にあり、一体どのようにしてリュプケ砦の中に突入するつもりなのだろうかとアイリスは目を凝らしながら彼の動きを注視していた。レックスが抑えているためか、彼を妨害する帝国兵は一人としていない。中には急いでエルンストの元に向かおうとしている者もいるが、そういった者はレックスに指示されて前線に応援に駆けつけていた攻撃魔法の部隊の兵士らが狙い撃ちにされていた。
 防御魔法の中を駆けていたエルンストの足が不意に止まる。どうしたのだろうかと思ったのも束の間、彼が先ほどと同じように手を翳すと、突如としてリュプケ砦の壁が爆発した。その爆音と壁の崩れる音に誰もがリュプケ砦を仰ぎ見る。


「何を……」
「多分、仕掛けられていた爆薬の一つを爆発させたのだと思います。あの位置に一つ設置されていると聞いていました、リュプケ砦の爆発は我々攻撃魔法の部隊に任せられていたので、恐らくは」
  

 アイリスの疑問に答えたのは、攻撃魔法を用いてエルンストの援護をしていた兵士だった。さすがです、とばかりに苦笑いを浮かべている兵士は彼女に頭を下げると、そのまま後方へと戻って行った。しかし、それを見送っている暇もない。アイリスはすかさず「解除します!」と背後に控えている前線への補充要員として待機していた兵士らに声を掛ける。彼女の声に合わせてすぐに臨戦体勢に入った彼らを一瞥し、アイリスは「解除っ」と声を張り上げて展開していた防御魔法を解除した。
 途端に出来あがる穴を埋めるべく、補充要員の兵士らが走り出し、それに合わせて帝国兵らを引き付けていたレックスらも勢いを増して一気に戦線を押し返しにかかる。こうなると、後はアイリスに出来ることは当初と同じく、彼らの上空を守るために防御魔法を展開することだけだ。任せられている小隊の兵士らの様子を声を掛けて伺い、アイリスは自分が元々担っていた場所へと戻った。
 疲労感はあるものの、自分の後ろには自分を隊長と呼ぶ部下がいるということもあり、弱音を吐いてはいられない。アイリスは何度か深い呼吸を繰り返し、杖を握り直して綻び掛けていた防御魔法を張り直した。












「なーんか入り込んだみたいだね」


 リュプケ砦の最上階に位置するアトロの部屋から眼下を見下ろしながら少年は楽しげな声音で言う。もくもくと上がる爆煙の方向を見ながら言う彼に対し、アトロはすぐに対処するという旨を口にする。しかし、少年はそんなことはしなくていいとばかりに手を顔の前で振り、「捨て置けばいいんだよ」と笑う。


「しかし……」
「だって面白いじゃん。たった一人で何をするつもりなのか、気にならない?アトロさん」
「……」
「ボクは気になる。だから放っておいたらいいよ」


 そんなことより――少年はそう言って、興味を他に移す。残忍な様を宿した瞳を蛇のように細め、その視線はアトロへと向けられる。今度は何を言われるのかと冷や汗で背筋を濡らしながら、恐怖を感じながらも少年の言葉を待つしかない。薄い唇が何を吐き出すのか、戦々恐々とする時間は短いのだろうが、彼にしてみればあまりにも長すぎる時間だった。
 少年はそんなアトロの心をまるで読むかのように、なかなか口を開こうとしない。顔を青くする彼のその様を愉しむように口を閉ざし、そして一頻りその反応を味わった後で漸く口を開くのだ。まるで与えられた玩具を甚振るように愉しみながら。


「あの子たちの準備は出来た?」


 その言葉にアトロは額から汗が伝ったのを感じた。あの子たち、と少年が口にしたモノのことを彼はよく知っている。緊張のあまり、乾涸びた喉を通る空気の音さえさせながら、彼はこくりと頷いた。少年はぱっと表情を明るくすると、「それじゃあ早速始めよう、アトロさん!」と子どものようにはしゃぎ始める。


「愉快な遊戯の始まりだ」


 
 窓から眼下に広がる戦場を見つめ、少年は我慢出来ないとばかりに笑い出す。その笑い声から逃げるようにアトロは部屋を抜け出し、屋上へと続く階段を転びそうになりながら駆け上がっていく。
 罪悪感にも似た心苦しさはあった。けれど、真綿で首を絞められるように徐々に追い詰められた彼には、最早自分の命のことしか考える余裕はなかったのだ。だからこそ、アトロは少年の言う通りに動く。死にたくはない、死にたくはないとその気持ち故に――アトロは少年に生贄を捧げた。
 屋上に出ると、魔法攻撃をしている者の後ろでぐったりと座り込んでいる四人の兵士がいた。否、より正確に言うならば、兵士だった、人間だった者がいた。


「……起きろ」


 アトロは震える声を押さえつけながら、彼ら命令する。ぐったりと身体を横たえていた兵士らはその声にぴくりと身体を震わせた。
 その姿は異様だった。通常の人間の数倍の大きさになった肉体、人の胴ほどの腕の筋肉、虚ろな瞳とだらしなく開いた口。それが生贄としてアトロが少年に捧げ、そして彼に命令されるがままにワインに溶かしたあの強化薬を飲ませた四人の兵士の変わり果てた姿だった。四人の強化兵らはぐらりぐらりと身体を引き摺るようにして歩きながら、それぞれ四方向に別れて歩き出す。その異様な様子に攻撃魔法を使用していた兵士らは脇に逃げ、恐れを孕んだ目で彼らを見た。そして強化兵らは眼下に広がる戦場に向け、迷うことなくリュプケ砦の屋上から飛び降りる。
 死の恐怖は失くした彼らは、死の恐怖を与えるべく飛び出していく。窓から外を眺めていた少年は落ちていく強化兵を見つめ、一際甲高く笑うばかりだった。



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