強化兵 - the berserkers -



 夜が明けた。洞窟に差し込む光は強くなり、空が白み始めるまであと僅かという頃だった。レックスが軍に入隊した理由を話し終えてから互いに口を閉ざしていた二人は、そろそろ頃合いだろうと互いに視線を交わし合い、立ち上がった。
 途端にアイリスは眉を潜め、痛みの走った足に触れる。痛みも引いていたが、ずっと座っていたところを急に立ち上がった為に傷に響いたのだろう。レックスは傾いた彼女の身体を支え、「大丈夫か?」と心配げに声を掛けた。


「うん、これぐらい大丈夫」
「傷は治さないのか?」
「この程度の傷なら手当して放っておいて平気だよ。……それに、正直なところ、もう魔力も殆ど残ってない状態だから」


 いくら休憩を入れたといっても、連日使い続ければ魔力の回復も追いつかない。長時間に及ぶ防御魔法の展開や強化兵への攻撃魔法、そしてそれ以前から続く帝国軍との交戦によってアイリスの体力も魔力も擦り切れてしまう直前にまで追い込まれていた。そんな中、自身が負った掠り傷に割く魔力の余裕はない。
 思っていた以上に疲労の色の濃いアイリスだが、それは彼女だけでなく、レックスも同様だった。しかし、既に夜は明け始め、休んでいられる時間も終わりだった。「無理はするなよ」とレックスは眉を下げながら言うと、洞窟を出るべく歩き出した。外に出ると、空は白み始めていた。アイリスは群青色と白が混ざり合う空を見上げ、明るくなりつつある中ですら瞬く星を見つめた。空はこんなに美しいのに、視線を下げれば、そこは赤で塗れた戦場があるのだと思うと、そのあまりにも反対な在り方に吐き気を催しそうになる。
 先を歩くレックスの後に続くも、アイリスはその道に見覚えがなかった。その距離が続けば続くほど、自身の情けなさを痛感し、抱えて運んでくれたレックスには感謝してもし切れないほどだった。そうして暫く歩き続けて、唐突に彼は足を止めた。つられてアイリスも足を止め、肩越しに振り向くレックスの暗い赤の瞳と視線が重なり合う。


「あそこだ。変化はないように見えるけど、油断はするなよ」
「……うん」
「万が一、奴がまだ生きていたのならまた戦うことになる。……大丈夫、だからそんなに不安そうな顔をするな」


 自身も彼も、体力は尽きかけている。昨日も満足に補給することも出来なかったのだ、そんな状態で強化兵の相手をするなど、昨日以上に苦戦することは目に見えている。しかし、強化兵が死亡しているかどうかを確認せずに戻ることは決して出来ない。そのようなことをして、仮に生きていた場合、更なる被害を被ることは火を見るより明らかだった。
 強張った表情で頷くアイリスにレックスは微苦笑を浮かべると、そっと彼女の頭に手を置いた。そして、「早く確認して、早く帰ろう」と優しい声音で言う。早くみんなのところに帰ろう、その言葉がすとんとアイリスの心に落ちる。レオやアベル、ヒルデガルト、メルケル、そして自身に任されていた小隊の兵士たちの顔が脳裏を過った。彼らは大丈夫だろうか、早く顔を見て安心したい、という思いが胸一杯に広がる。こくこくと何度も頷くアイリスにレックスは笑みを深め、ぽんぽんと数度、彼女の頭を軽く叩くとその手で剣の柄を握り締めた。
 すらりと鞘から抜かれた抜き身の剣は朝の陽光を浴びて鋭利な光を帯びている。それを手に、表情を引き締めたレックスは、息を潜めながらゆっくりと足音を殺して崩れた崖の岩の山へと近付いていく。その様子を、アイリスは息を殺して見守っていた。杖を握り締め、もしもの時に備えながらレックスの背を緊張した様子で見つめる。
レックスは岩の山と化しているそこに立ち、気配を伺う。暫しの間、様子を見た後にゆっくりとその山に登り、積み重なっている瓦礫を退かし始める。鈍い音を立てながら斜面となったそこを岩が転がり、その度にアイリスは肩を震わせた。今はただ気を失っているだけで、その音がきっかけとなって意識を取り戻すのではないか、とすら考えてしまう。朝の静寂の中、レックスが岩を退け、それが転がる音だけが森に響く。そうして何度かそれを繰り返し、唐突に彼の手が止まった。しゃがみこみ、手を伸ばして何かに触れているのが見て取れる。どうやら、強化兵の身体が漸く見えたらしい。


「……死んでる」


 アイリスの方を振り向き、レックスはそれだけを口にした。しかし、彼はそこから動こうとはせず、剣を握り直した、


「アイリスはあっち向いてろ。それからオレが肩を叩くまで耳を塞いでてくれ」
「……ううん、見てる」
「……見届けること、ないんだぞ」


 彼が今からしようとしていることが何なのかは分かっていた。万が一にも備えて死んでいると分かっていても留めを刺すことが必要なのだと、エルンストとクラネルト川で顔を合わせたときに言っていたことを思い出したのだ。それを今からレックスはしようとしている。
 アイリスは見なくていいと言ってくれるレックスに首を横に振った。そうやっていつまでも優しく目隠しをされているままでいるわけにはいかない。そのままでは、少しだって強くなることも前に進むことも出来はしないのだ。いつか自分がこの手で同じ行為をしなければならなくなった時に、出来ないから代わって欲しいなんてことは決して許されないのだから。そして何より、強化兵を手に掛けたのは自分自身に他ならない。
 レックスは暫しアイリスを見つめ、彼女の意志が変わらないことを確認してから前を向き直った。剣が持ち上げられ、それは勢いよく、そして迷いなく、振り下ろされた。厚い肉に剣が突き刺さる鈍い音が耳に届く、力を乗せてレックスは剣を突き刺し、その度に噴き出した血が彼を赤く染めていく。アイリスはきゅっと唇を噛み締め、その光景を見つめていた。


「……レックス」
「……終わった。行こうか」


 赤く染まった剣を振るって血を落とし、それを鞘に戻した頃にはレックスは努めて何事もなかったかのように平然と口を開いた。いつまでも引き摺っているわけにはいかないと、剣を仕舞った時点で終わりだと暗に示しているようだった。アイリスはこくりと頷くと、彼の背に続いて森の中を歩き出した。
 けれど、彼女はレックスのようにすぐに頭を切り換えることが出来なかった。ちらりちらりと時折、振り返りながらあの強化兵は一体どうなるのだろうかと不安に思えて来たのだ。いくら敵で、強化兵によって受けた被害は甚大なものであったとしても、あのまま野晒しにされることは見過ごせなかったのだ。自分が手に掛けたのだから、それは尚更だった。
 振り返り、血でどす黒く染まった土砂を見ると、息苦しくなった。微かに手が震えているのが分かる。今更ながらに人を手に掛けたのだということを思い知らされる。いつかはこうなると思っていた、そうなることの覚悟をした上での入隊だった。けれど、心の何処かでそんなことにはならないのではないかと思っていたのも事実だ。以前、後方支援に配属なのだから前線には出ないだろうと思っていたことと同様に。それを思うと、何て自分の考えは甘かったのだろうかと痛感させられる。
 だが、それが帝国の兵士であったとしても人を殺したことに違いはない。いくらレックスを守りたい一心であったとしても、この手で、攻撃魔法で、人を殺したという事実は一生消えることはない。戦争なんて殺し合いだ、そう言ってしまえばそれまでのことではあるものの、そう簡単に割り切れることではなかった。それでも、泣き言を言うことだけは出来なかった。生きる為に、守る為に人を殺して来たのは、この戦場にいる誰もが経験していることだ。それが続くことを承知の上で今も尚、戦場に立ち続けている者だけがこの場にいるのだ。そんな中、自分だけが嫌だと、もう嫌だと、そんなことを言えるはずもない。
 アイリスは微かに震える手をぎゅっと握り締める。そして泣き言を吐き出す代わりに、別の言葉を口にする。


「あの人、どうなるの?」
「リュプケ砦攻略が終わったら、エルンストさんに報告する。多分、あの人のことだから王都まで持ち帰って研究材料にするだろうな」
「研究材料……」
「……けど、あの人が生きてたら、だけど」


 ぼそり、と付け足される言葉にアイリスは背筋を冷やした。エルンストは特務があると言って単身、リュプケ砦に突入した。その手助けはしたものの、突入してからの彼の消息は分かっていない。レックスからエルンストの強さは聞いているものの、やはり不安は過る。しかし、無事が分からないのはエルンストだけでなく、前線で戦っているレオやアベル、ヒルデガルトらも同様のことだ。途端に思考は強化兵からリュプケ砦の前線にいるであろう友軍へと移行する。
 早く戻らなければ、と自然と足は早くなる。レックスも話していて不安になったらしく、いつしか二人の足は駆け出していた。走れば走るだけ、アイリスの足の傷は痛みを訴え始める。じくじくと痛むそれに眉を寄せれば、彼女の様子を見るべく振り向いていたレックスがそれに気付いた。走る速度を緩め、「大丈夫か?」と気遣わしげに言う。


「うん、これぐらい大丈夫。レックスこそ、平気なの?」
「オレは切り傷には慣れてる。それにアイリスが寝てる間に手当も一応はしたから。森を抜けるまでまだ距離はあるから、辛くなったらちゃんと言えよ」


 そう言いながら、レックスはアイリスに手を差し出した。走っている最中に足を庇う余りに転びそうになっていることに気付いていたのだろう。申し訳なさを感じながら遠慮がちにその手を握ると、ぎゅっと強く握られる。気にするなと言わんばかりのその手の温もりにアイリスは微かに笑みを漏らした。
 短時間で感情がぐるぐると変化する。哀しみを感じ、嬉しさを感じ、様々なことを感じた。こんなことを今、自分が感じていてもいいのだろうかと思うこともあった。けれど、我慢すればするだけ、心が苦しくなるということにも気付いていた。ちらりと視線を上げると、様子を見ていたらしいレックスと暗い赤の瞳と視線がかち合う。すると、彼は逸らすことなく軽く笑った。安心させるような、そんな笑みを向けられると、心が温かくなる。まるで自分の考えていることなど見透かされていて、そんな心配はしなくていいと言ってくれているようにも思えた。
 手から伝わる体温は温かく、少しずつ流れ込んで来るようだった。早くみんなのところに帰りたい、無事を確認したい、という気持ちは変わらないものの、急いてた気持ちはいつの間にか凪いでいた。レオやアベルたちはきっと大丈夫、こんなところで負けるような人たちではないという気持ちに変わっていた。彼らなら大丈夫、そう信じる気持ちになっていたのだ。
 時折、休憩を挟むものの、根本的な疲労は蓄積されていく一方であり、走ってもすぐに呼吸は荒くなっていく。足の痛みも増す一方だったが、アイリスはレックスに手を引かれて懸命に走り続けた。早くみんなに会いたいという、その一心で足を動かし続けていた。そうして、太陽が登り、青々とした空が広がる頃に漸く、遠目に森の終わりが見え始めた。


「アイリス、後少しだ!」


 息を弾ませながら言うレックスにアイリスはこくこくと何度も頷く。耳を澄ませば、指揮を飛ばす声や叫び声、怒声が聞こえている。まだ負けてはいなかった、奮戦していた。何とか間に合ったことに二人は安堵し、互いに視線を交わして頷き合うと、走る速度を上げた。早く自身の目で状況を、仲間の無事を確認したかったのだ。二人は懸命に足を動かし、そして漸く、森を抜けた。


 
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