涙 - the return -



 次から次へと運ばれて来る負傷した兵士の手当に奔走し、一段落がついた頃には既に空は橙色に染まっていた。今日はこのまま此処で夜を明かし、明日になってから動くことになるのだろうかと思いつつ、アイリスは包帯や消毒液などの備品を整理していると、「お疲れ様」と軽い調子でぽんと肩を叩かれる。鼓膜を揺らしたその声に弾かれるように振り向けば、そこには常と変わらない笑みを浮かべるエルンストがいた。


「エルンストさん!ご無事だったんですね……!」
「そりゃあ、もちろん。まあ、無傷っていうわけではないけどね」


 そう言われて目の前に立つエルンストの姿を一瞥すると、確かに所々衣服が赤く染まっていた。特に痛がっている様子もなく、大したことはないのだろうが、それでもその色は彼女の顔を曇らせる。手当を、と言うと、彼はやんわりと首を横に振って「もう治したから平気だよ」と口にする。念の為に、と腕を掴んで袖を捲り上げれみれば、そこには傷一つなく、代わりに頭上から彼の苦笑が降って来る。
 信用ないのかなー、と呟くエルンストにアイリスは袖を下ろしながら「確認するぐらいいじゃないですか」と唇を尖らせる。信用していないわけではないものの、彼女にしてみれば彼はあまり自分のことを大事にしていないように思えてならないのだ。だからこそ、無理しているのではないか、黙っているのではないとつい疑ってしまう。


「それで、特務の方はどうだったんですか?」
「あー……うん。まあ、あんまり良くない結果になっちゃった、かな」
「失敗ということですか?」
「いや、失敗……と言えば失敗なんだけど、それなりの収穫はあったんだ」


 だけど、失敗かどうかを決めるのはあくまでも司令官だけどね。
 エルンストはそう言いつつ、アイリスの隣に立って備品整理を始める。そして、目に見えて減っている消毒液や包帯の残りの量に「戻ったら補充しなきゃな」と面倒臭そうに呟いた。そうは言っても、備品発注も何もかも一切のことを後方支援に配属されている兵士に丸投げして、最終確認しかしていないという話を以前、耳にしたことのあるアイリスにしてみれば、溜息を吐かずにはいられない。
 そんなアイリスに「何々、どうしかした?」と聞いて来るエルンストの様子に先日のような真剣な顔をしていた様子は欠片もなく、あれは幻だったのではないかとすら思えて来る程だった。ただ、彼があのような顔をしないということは、それだけ今が安穏な時間であるということでもあり、アイリスは少しの笑みを浮かべて何でもないと首を横に振った。


「そう言えば、今はどういう状況なんですか?ずっと手当ばかりしていたので、よく分からないのですが……」
「バルシュミーデ団長とレックスがリュプケ砦に入ってあっちの、まあ……指揮官クラスの人と話してる。今日はさすがにもう動かないけど、明日からは忙しくなるよ。リュプケ砦の兵士ら全員を捕虜として移送しなきゃいけないからね」
「捕虜として移送するって、」


 一体どこに、と続けようとした矢先、「アイリスさん」と名前を呼ぶ声が背後から聞こえた。その声には聞き覚えがあり、振り向けばそこには彼女に任された小隊の二人の兵士がいた。先日、別れてから戦場に復帰していたらしく、彼らも怪我を負って手当を受けていたらしい。運ばれて来る負傷兵の手当をしながらその姿を探していたものの見つけられずにいたが、どうやら彼らもアイリスの姿を探していたらしい。
 強化兵を前にして別れたということもあり、小隊の二人は彼女の無事に心から安堵した様子で目の端に涙を浮かべていた。エルンストは行ってあげなよ、とやんわりとアイリスの手から包帯を取り上げて、その背を押す。言われるがままに足を進めれば、二人も彼女の傍へと駆け寄る。


「ご無事で、本当によかったです……っ」
「レックスさんと森に強化兵を引き付けたって聞いたときは心配で……!」
「心配掛けてごめんなさい。でも、この通り、大丈夫だから。二人も無事で本当によかった。それで、彼は?手当してる間も探していたけど、見つからなくて」
「あ……」


 一番気がかりだった毒矢を受けた兵士のことを尋ねると、二人は顔を見合わせた。そして浮かんだ哀しげな表情を見れば、彼がどうなったのかは改めて聞くまでもなかった。アイリスは二人を前に、言葉を失った。毒矢を受け、それから出来る限りの処置はした。そして、後方のテントに連れて行き、解毒剤を投与するようにと指示を出したのだ。けれど、指示を出したとしても、その通りに治療が行われる保障はなかった。テントに着いた時点で助かる見込みがないと判断されれば、治療は行われないのだ。
 それを尋ねると、二人は首を横に振った。「治療は、ちゃんと……解毒剤も……でも」と声を震わせながら、兵士は答えた。治療を受けた上で、彼は助からなかったのだ。もっと早く、毒抜きの処置が出来ていたのなら、結果は変わっていただろう。アイリスは唇を噛み締め、ぎゅっと拳を握った。守れなかったことが、申し訳なくて、悔しくて、仕方なかった。


「……アイリスちゃん、行ってあげなよ」


 自然と顔を俯かせていた彼女の頭に手を置き、エルンストは囁くような声で言った。君にはまだやらなきゃいけないことがあるでしょ、と。その言葉に顔を上げたアイリスは自身を見下ろす青い瞳を見つめた。それは湖面のように静かだった。何をしなければならないのかは、分かっていた。アイリスはこくりと小さく頷くと、二人に彼の元に連れて行って欲しいと頼んだ。
 元よりそのつもりだったのだろう。二人は静かに頷くと、先立って歩き始めた。その背を追って足を踏み出せば、隣にはエルンストがいた。どうして彼まで来るのだろうかと不思議に思っていると、それが伝わったらしくエルンストは苦笑を浮かべる。ただの付添だよ、とだけ言うと、それっきり彼は口を閉ざした。彼自身、他にもしなければならないことは多くあるだろう。けれど、こうして付き添ってくれることは嬉しかった。そうでなければ、きっと途中で足を止めてしまっているだろう。
 程なくして、戦いの中で命を落とした兵士らが寝かされているテントに辿り着いた。兵士らの腕にはどれも黒い布が巻きつけられ、もう二度とその目が開かないのだということが一目で分かった。そんな彼らの間をすり抜け、先立って歩いていた二人は足を止めた。彼らの前には穏やかな顔で目を硬く閉ざした、彼がいた。


「……、」


 掛ける言葉が見つからなかった。アイリスは彼の傍らに膝を付き、目に焼き付けるように穏やかに眠るような死に顔の彼を見つめた。毒を受けていたのだ、苦しくなかったはずがない。それでも、どうしてこんなにも穏やかなのだろうと思うと、今にも涙が零れそうになった。口を開いては閉じ、開いては閉じ、とそれを繰り返すアイリスに「死ぬ間際に、言ってました。……アイリスさんの隊でよかったって」と女兵士の微かに震えた声が耳に届く。


「仲間思いで、絶対に見捨てようとせずに最後まで守ってくれて、嬉しかったと」
「……そんな……わたしは……」
「最期まで、アイリスさんのことを気に掛けてました。だから、無事だったと教えてあげてください」


 涙の混じった、優しい声で促される。アイリスはきゅっと唇を噛み締めて熱くなる目頭に堪え、そして、そっと冷たくなった彼の手を両手で握った。握り返されることのない、冷たい手が彼はもう息を引き取ったのだということを伝えてくる。けれど、アイリスは涙を堪えて笑みを作ると、まるで彼が生きているかのように語りかける。


「ちゃんと、戻って来ました。わたしは生きていて、他の二人も無事です。強化兵だってみんな倒して、リュプケ砦の帝国兵たちは降伏しました。……全部、終わりましたよ」


 返事はなく、けれど、彼の穏やかなその顔を見ていると、聞いてくれているのではないかとすら思えて来た。アイリスはその顔を見つめ、そして、顔を俯けると自身を落ち着かせるように一つ深い呼吸をする。彼を任された小隊長として、彼の為にしてあげられることはあと一つ、残っている。その為に来たのだ。アイリスは顔を上げると、近くで処置をしていた後方支援の兵士に声を掛けて、それを受け取った。
 彼女の手には長い針があった。それを手に、アイリスは彼の傍に膝を付き直す。戦場で命を落とした者は、例外なく、その遺体を確認される。本人の顔や名前、所属はもちろん、脈拍や呼吸を確認した後に、仲間の手によってもう一度殺される。それは決して死者に扮した帝国兵をベルンシュタインの領地内に連れ帰らない為に行われることだ。それは、歩兵であれ、将兵であれ、一切の例外なく戦場で命を落とした全ての者を対象として行われる。
 アイリスは針を手に彼の穏やかな顔を見つめる。痛い思いはもうさせたくはなかった。傷つけるようなこともしたくはなかった。出来るだけ綺麗なまま、家族の元に帰してあげたかった。そっと針を手に、その先を彼の耳元に添える。そしてそのまま、針を刺し入れた。嫌な感触が手に伝わり、針を刺し入れた耳からはどろりとした血が溢れ出す。エルンストは傍で処置をしていた兵士から受け取った布をアイリスに差し出した。
 受け取った布を耳に宛がい、ある程度の出血を押えたところで布を斬り裂いてそれで栓を作った。後はそれを耳に入れるだけだった。これで、彼自身が戦場で命を落としたのだということが認められ、家族の元に戻ることが出来る。アイリスが静かに立ち上がると、「これに署名して」とエルンストは書類を差し出した。


「その子の死亡届。死亡確認した、君の名前を此処に」


 差し出された書類に自身の名前を書き込み、これで全てが終わった。後はもう、何もしてあげられない。命を落とすことがあると分かっていても、家族は死を簡単には受け入れられない。だからこそ、問題が起きないように、率いていた者が必要以上の痛みを負わないように、遺族との面会は禁じられているのだ。
 書類を受け取ったエルンストはそれを一瞥して確認すると、部下の兵士にそれを手渡す。その間も、彼の傍では二人の兵士が悲嘆に暮れていた。アイリスよりもずっと、付き合いが長かったのだろう。彼の死を悲しんでいる二人に掛けられる言葉はなく、アイリスは顔を逸らすと、テントから出るべく歩き出した。
 どうしようもなく、心が重かった。あまりに辛くて、苦しくて、逃げ出したくなった。それでも、零れそうになる涙を我慢し続けた。唇を噛み締め、血が滲むほどに拳を握り締める。それでも、テントを一歩出ると、涙が一筋、堪え切れずに頬を伝った。


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