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「――報告は以上となります」


 報告書にまとめたことを中心に付け足しつつ報告を行う。しかし、順を追って話すと、やはりその時のことが思い起こされ、アイリスの表情は曇っていった。それでも何とか報告を終えることが出来たのは、リュプケ砦から帰還してそれなりの時間が経過しているからだ。気持ちの整理が少なからず付いていたからこそ、こうしてしっかりと報告することが出来た。
 静かに報告を聞いていたゲアハルトは一つ頷き、「ご苦労だった」と労う。そして、手元に置いていたアイリスの報告書を脇に避けると、机の上に肘を付き、指を組み合わせた彼は明るい青の瞳を彼女に据える。見透かす様なその視線から思わず逃げたい心境になるのは、アイリスに心苦しく思うことがあるからだ。


「……今回は君に小隊を任せたわけだが、」
「小隊を任せて頂いたのに、……大切な兵を死なせてしまって申し訳ありませんでした」


 触れられることだろうとは思っていた。小隊を任せられ、期待されたことは嬉しかった。自分にその期待に応えるだけのことが出来るかどうかは不安だったが、それでもゲアハルトの期待に精一杯応えたいと思っていた。しかし、結果としては預けられた大切な兵士を守り切ることが出来ず、一人の兵士を死なせてしまった。
 もっと早く動けていたら、もっと自分に力があったら、もっと余裕を持てたのなら――何度も思っていたことが、再び心の中に沸き上がる。その気持ちに突き動かされるように、帰還して身体を十分に休めてからは報告書に手が付かない時はひたすら鍛錬を積んでいた。強くなりたい、その一心でがむしゃらに身体を動かしていた。
 頭を下げるアイリスにゲアハルトは僅かに目を細め、そして息を吐き出す。「頭を上げろ」という静かな声が鼓膜を震わせ、アイリスは言われた通りに頭を上げるも、彼の目を見ることは出来なかった。


「確かにアイリスに預けた小隊の兵士が一人死んだ。だが、それは決して君の失敗に因るものではないだろう」
「だけど、わたしがもっと早く対応出来てたら、」
「誰だってそう言うさ、兵士を失ったことの重さに気付いている者なら」


 言い募ろうと顔を上げたアイリスは、向けられていたゲアハルトの視線に戸惑った。叱責されることはないだろうが、期待に応えられなかったことを残念に思われるだろうと思っていた。失望されるだろうと思っていたのだ。けれど、今こうして自身に向けられている視線に、そういった類のものは一切含まれていなかった。労いと気遣いと、そして優しさが混ざった、そんな視線を向けられていた。
 どうしてそんな視線を向けてくれるのだろうか。アイリスは目を瞠りながら、口を噤んだ。


「兵士のことを本当に想っていない者はそのようなことを口にはしない。口にしたとしても本心ではなくただの建前でのことだ。だが、君は違うだろう。本当に亡くした兵士のことを想っている。……君に預けた他の兵士らから報告が届いてる」


 君の頑張りはちゃんと届いているし、君は俺の期待に応えてくれた。
 そう言って彼は笑った。アイリスはその言葉に、きゅっと小さく唇を噛んだ。そうでもしなければ、もう泣かないと決めたのに涙が零れそうになるからだ。目頭は熱くなり、鼻がつんと痛む。そんな彼女にゲアハルトは苦笑を浮かべるも変わらず優しい眼差しをアイリスに向ける。


「だから、無茶な鍛錬はやめてくれ。周りから話が届いてるぞ」


 焦って無茶なことをしては却って怪我の原因になるし、力なんて付くものではない。
 ゲアハルトの言葉にアイリスはこくりと頷く。焦ってどうにかしようとしたところで、どうにかなるものなんて何もないとは彼女も分かってはいたのだ。けれど、何もせずにはいられず、がむしゃらに鍛練用の短い木刀を振り回していた。だが、それで何かが身に付いたとしても、それはただの付け焼刃に過ぎない。それでは戦場で生き抜くことも、自分以外の者を守ることなんて出来やしないのだ。
 頷いたアイリスにゲアハルトは小さく安堵の息を吐く。だが、すぐに表情を引き締めて真剣な顔をする。その変化に気付き、アイリスも顔を引き締めて背筋を伸ばすも、彼は物言いたげにするものの、なかなか口を開こうとしなかった。
 そして、先ほどとは異なり、どこか自信のなさがその明るい青の瞳に見え隠れしていた。表情には出ないが、ゲアハルトの瞳は雄弁に彼の心情を表している。だが、今のような様子は初めて見るものであり、アイリスは困惑した様子で口を開く。


「司令官?あの……」
「……アイリス」
「……はい」


 どうしたのかと問おうとするも、それを遮るようにゲアハルトが口を開いた。しかし、すぐには言葉が続かない。歯切れの悪い様子を見ていると、何か悪い話をされるのではないかと聞くことすら恐ろしくなる。
 もしかしたら、レックスやアベルに何かあったのだろうか――その考えが脳裏を過ると、途端に不安が膨れ上がる。先日、エルンストと昼食を共にした時にはこの数日の内に、早ければ今日か明日にでも二人は帰還すると知らされていた。二人は無事なのかと不安げにアイリスが両手を握り、視線を伏せると、その様子に気付いたゲアハルトが「どうした?」と心配げに問い掛ける。


「あの、……もしかして、レックスやアベルに何かあったのかと……」
「特にそんな報告はないが……、ああ、俺のせいか。不安にさせて悪かった。レックスやアベルは無事に帰還中だ、国境付近にも帝国軍は姿を見せていない。だから、その点は安心してくれ」
「それじゃあ一体……」


 一先ずは自分の予想が外れたことに安堵の息を漏らす。そして、他に何があるだろうか、アイリスは考えつつゲアハルトの言葉を待った。深刻な表情で考えている彼女にゲアハルトはどこか困ったような笑みを浮かべ、「大したことではないが、」と前置きしてから改まった様子で漸く口を開いた。


「……俺は、君に小隊を任せたことは失敗だとは思っていない。君にはそれだけの力があると思ったことは本当だ、期待に応えてくれると思った。だが、君を深く傷つけることになって、申し訳なく思っている」
「そんな……わたしは、小隊を任せて頂いたことは光栄に思っています。司令官が気にされるようなことは何もありません」


 小隊を任せられたことで自分が少しも傷つかなかったかと言えば、嘘になる。だが、それは彼が気にするべきではないとアイリスは首を横に振る。何より、戦場で傷ついたのは彼女だけでなく、もっと多くの兵士が傷ついている。それらをゲアハルトが一つ一つ気にしていたら、彼の方が先に参ってしまうだろう。
 アイリス自身、ゲアハルトが自身を気に掛けてくれていることはよくよく分かっていた。ローエの件が深く彼の中で罪悪感として残っているということも知っている。だが、アイリスは決してそのことに囚われていて欲しくはないのだ。ローエの件は決してゲアハルト一人の所為で起こったことではない。ルヴェルチの失策もあり、ローエの近くの捕虜となった帝国兵の収容所があったなど、様々な偶発的な要因が重なって起きた不幸なのだ。
 それを一人で背負い込む必要もなく、また、自分をそんな風に特別扱いしてくれなくていいとアイリスは言葉を重ねるも、ゲアハルトは困ったように笑うばかりだった。


「分かってる。俺一人の所為ではないことも、偶然が重なったからだということも」
「……だったら、」
「だが、もしローエがあのようなことにならなければ、君は今、此処にはいないはずだ」


 ローエが壊滅的な被害を受けることがなければ、アイリスが戦場に立つことはそもそもなかったはずだろうと彼は言う。戦禍を被り、そこでクレーデルに拾われることもなければ、自身の中に眠っていた魔力にも気付くことはなかった。ならば、幸せに穏やかに孤児院で暮らし、誰かに恋をして結ばれるという、ごく普通のありふれた幸福な人生を歩んでいただろう、と。
 それは今のアイリスの状況と正反対だ。血で血を洗う戦場に立つこともなく、人の死に直接触れることもなく、辛くて苦しくて怖くて、心が軋むこともない。平和そのものの、彼女には在ったはずのもう一つの未来だ。


「俺が、……いや、他の多くの要因が重なった結果、君から奪ったのはそういうものだ。居場所や家族だけではなく、本来は君が歩むべきだった幸せな未来だ」
「……」
「……ホラーツ様も気にされていた。帰り際にもそのことを俺に仰っていたことはそれだ」


 そこまで言って、ゲアハルトは深く息を吐き出した。その様子を見て、アイリスは開きかけた口を閉ざし、視線を伏せた。
 時折、考えることはあった。もし、自分が戦場に立つことがなかったのなら、ローエが戦禍を被ることがなければどうしていただろうか、と。ゲアハルトが言うように、孤児院で穏やかに暮らし、小さな妹や弟たちの面倒を見ていたのだろう。そして、孤児院の誰かと、ローエの街の誰かと恋をして、結ばれていたのだろうか、と。
 それは確かに幸せな未来だろう。戦場からは程遠く、平穏な時間と温かな居場所。それはとても魅力的だった。今の生活のように、戦場に出れば明日、自分が生きているかどうかも分からないということはなく、痛い思いも辛く苦しく悲しい思いをすることもないだろう。それを思うと、どうして今、自分が此処にいるのかとすら思ってしまう。


「……アイリス」
「……はい」
「……もし、君がもう耐えられないと言うのなら、後方に戻ってくれていい」
「え、……でも」
「君の力が必要なことに変わりはない。だが、君のことを傷つけてまで、苦しく辛い思いをさせてまで留め置くことは、したくはないんだ」


 ホラーツ様に言われたからではなく、俺自身がそう思っている。
 ゲアハルトは視線を伏せながら言う。そして、「特別扱いしないで欲しいと君は先ほど言ったが、そういうわけにはいかない。俺は君に自分の出来る限りのことをしたいと思っているし、それは決めたことだ。勝手だとは承知の上だからどうか許して欲しい」と微苦笑を交えて言った。
 向けられたその言葉に、アイリスはきゅっと唇を噛む。彼は勝手だと、彼女は思った。ローエのことは気にしないで欲しいと言っているのに、それを止めてくれないことも、自身の意見を聞かずにあのようなことを言うことも。そして、向けられるその優しさも言葉も、あまりにも優しくてずるいと、そう思った。


「……司令官、確かにわたしは貴方に呼ばれて第二に来ました」
「ああ」
「でも、……今は、わたし自身が此処にいたいと思ってます。辛い思いもしました、苦しい思いも悲しい思いも、たくさんしました。泣いたことだってあります。エルンストさんにだって、後方に戻っておいでと言われました」
「それなら、」
「戻りません。わたしは、自分の意思で第二にいると決めました。ベルトラム山での戦闘で、わたしは目を逸らさずに全て見届けると決めました。リュプケ砦で強化兵と戦って、わたしは守る為に戦うことを決めました」


 司令官だってさっき仰ったでしょう、自分で決めたことだから勝手なのは分かってるけど、許して欲しいって。
 その言葉に、彼は微かに瞠目する。そしてすぐに口を開くも、それより先に「だから、」とアイリスが言葉を発した。


「どうか司令官も、分かってください。わたしは貴方にずっと守られなければならないほど弱くはありません。貴方が気に掛け続けなければならないほど弱くはないんだって認めてください」
「アイリス……」
「必ず強くなります。だから、わたしを第二に置いてください。お願いします」


 いくら言葉を重ねても、ゲアハルトが後方に戻れと第二騎士団からアイリスを外せば、それに従う他ない。だからこそ、アイリスは彼に頭を下げる。どうしても第二騎士団に居たかった。最初はいきなりの前線の異動となり、困惑ばかりしていた。しかし、今はそこが自分にとっては大事な居場所となっている。
 明日があるか分からなくとも、血で血を洗う場所でも、たとえそこが死と紙一重の場所でも、一緒に生き残りたい、守りたいと思える仲間がいるのだ。そこから自分だけが遠ざかることなど出来るはずもない。仲間が傷つけられそうになっているその時に、手が届かないことほど、辛く苦しいことはない。


「……これで、俺が君の願いを却下したら俺が悪いみたいじゃないか」


 頭を上げてくれ、と困ったような声音が聞こえる。言われた通りに頭を上げると、ゲアハルトは少しだけ眩しそうにアイリスを見て苦笑を浮かべた。


「少し見ないうちに随分と軍人らしくなった。正直、君の口からああいったことが出るとは思わなかった」
「……そうでしょうか」
「ああ。……だから、俺も君の気持ちを無碍にするべきではないな」


 もう二度と、君に他所に行けとは言わない。
 ゲアハルトは観念したように肩を竦めて笑う。その言葉にアイリスは心底から嬉しそうに笑みを浮かべると、有難う御座います、と頭を下げた。その言葉で、漸く第二騎士団に本当に迎え入れられたのだと、第二騎士団の一員として認められたのだと実感できた。
 そんな彼女の様子にゲアハルトはそこまで喜ぶとは、と苦笑を浮かべる。そして、「君の活躍に期待している」と彼は立ち上がり、アイリスの肩を叩く。その言葉は、アイリスが初めて彼と出会った時にゲアハルトが彼女に掛けた言葉と同じだった。


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