カーニバル - stray cat -



「……もう、無理」
「ア、アベル、しっかりして!」


 巡回警備の担当である王都ブリューゲルの東区に到着し、数時間。街はカーニバルを楽しむ人々と出店で溢れ返り、道も混み合っていた。そんな中、アイリスとアベルは迷子の保護や道案内、スリやひったくりの捕縛などで走り回っていた。
 額の汗を拭いながら疲れ切った様子で座り込みそうになるアベルにアイリスは慌てて駆け寄る。一度、東区に設置されている詰所に寄って休憩しようと提案すると、アベルは小さく頷いた。元々暑さに弱く、人混みも苦手な彼がこうしてずっとこのような場にいること自体がそもそも向いていないのだろう。
 それじゃあ行こう、と促した矢先、耳を劈く泣き声が聞こえて来た。咄嗟に二人が泣き声が聞こえて来る方向に視線を遣れば、親と逸れたらしい子どもがお母さん、何処に行ったのと泣いていた。どうやら迷子らしく、周囲にいる観光客らも顔を見合わせ、子どもに声を掛けたり、その子どもの母親を探すように辺りに声を掛けている。


「……ったく、仕方ないな」
「あ、それならわたしが、」


 行くから、アベルは先に詰所に行きなよ、と言おうとしたところで、視界に地図を片手に右往左往している女性が目に入る。一見して道に迷っているということは明らかであり、気付いたにも関わらずそれを放っておくわけにはいかない。アイリスは道案内をしてくる旨をアベルに伝えると、それぞれの対応を終えたら東区の詰所で落ち合うことを決め、彼女は赤みを帯びた紫の髪の女性に声を掛けた。


「よろしければ、ご案内しましょうか」


 そう声を掛けると、女性はぱっと地図から顔を上げ、困ったような微笑を浮かべる。目的地は何処なのかと問い掛けると、「このお薬屋さんに行きたいの。このお薬屋さん、とても効くと聞いて」と地図をある点を指差す。そこは東区にある薬屋であり、大通りから離れた場所にある。
 アイリスは地図で場所を確認すると、「こちらです」と先立って歩き出した。なるべく人混みを避けた方がいいだろうと考え、脇道に逸れる。大通りから外れると、道はそれほど混雑していない。女性はアイリスの隣に並び、「ブリューゲルの道に詳しいのね」と彼女は笑みを浮かべ、不意にアイリスの腕の紅色の腕章へと視線を向けた。


「あら、貴女って軍人さんなのね」
「ええ、まあ……まだ新人ですが」
「それでも凄いじゃない。ちなみに所属はどこなの?」
「……それはちょっと」


 あまりぺらぺらと自分のことを明かすわけにはいかない。気を悪くするだろうかと思いつつアイリスは答えを濁したが、女性は「ごめんなさいね、部外者に話してはいけないこともあるわよね」と笑う。気分を害さずに済んだことに安堵しつつ、アイリスは理解を得られたことに感謝を述べる。
 そうして脇道を歩いていると、不意に風が吹き、ふわりと花の香りがした。何の香りだろうかと辺りを見渡すも、辺りに花屋があるわけではなく、植木鉢がいくつかある程度だった。それにしてもいい香りだったと思っていると、ぱちりと女性と目が合う。赤い色をした瞳は柔和に笑みを湛え、「どうしたの?」と首を傾げる。


「あ、……その、いい香りがしたので」
「いい香り?」
「ええ、花の香りです」
「花……ああ、この香りかしら」


 そう言うと、女性は手にしていたバッグから小瓶を取り出し、中の液体を揺らした。そして、彼女が蓋を開けると先ほどと同じ香りがした。どうやら香りの正体は彼女の香水らしい。


「この香りです。とてもいい香りですね、何の花ですか?」
「薔薇よ」
「へえ……、本当にいい香りですね」
「ありがとう。私も気に入っているの、よかったら使ってみる?」


 首を傾げて笑う彼女にアイリスは慌てて首を横に振る。決してそんなつもりで口にしたわけではなく、また、今は任務中でもある。そういうわけにはいかないとアイリスが言うと、彼女は微苦笑を浮かべて「真面目なのね」と言いつつ、小瓶をバッグへと戻した。
 そうして会話を続けているうちに目的の場所へと到着する。ブリューゲルにおいても薬だけでなく、その元となる薬草なども取り扱っている為、有名な薬屋である。主に軍で使う薬品もこの店から買い上げていることが多く、何度かアイリスも注文する為に訪れたことがあった。


「それでは、わたしはこれで」
「あ、待って。ねえ、今は使えないと思うけれど、よかったら貰ってちょうだい」


 道案内を終え、東区の詰所へと戻ろうとするも女性はアイリスを呼び止める。そしてバッグから取り出した小瓶をアイリスの手に握らせる。お礼だと言って渡されたのは先ほどの香水だった。彼女が動く度にふわりと薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。とてもいい香りだとやはり思うも、だからといって受け取ることは出来ない。礼を貰うほどのことをしたつもりはないのだ。


「いえ、でも……大したことはしていませんので」
「そんなことないわ。貴女が声を掛けてくれなかったら、辿り着けなかったもの」


 そう言って笑う彼女はとても綺麗で、――やはり、受け取ることは出来なかった。自分には似合わないと、そう強く思ったのだ。こういったものは自分のように手を汚したものではなく、目の前の彼女のような人にこそ似合うと、アイリスは思った。同じ赤は赤でも、赤い薔薇と血の色はまるで違う。アイリスは小瓶を彼女の手に返し、「わたしには似合いませんから」と後ろに数歩下がった。


「わたしはこれで失礼します。カーニバルをお楽しみ下さい」


 それでは、とアイリスは頭を下げるとそのまま踵を返して詰所に向けて歩き出した。その足取りは少しばかり重たく、彼女の表情もどこか影のあるものだった。
 考えていたのは、以前、ゲアハルトに掛けられた言葉だった。彼は言った、ローエが攻められなければ、自分はもっと違う人生を歩んでいたはずだ、と。その言葉を、先ほどの女性を前にして思い出したのだ。アイリスよりも少し年上の女性ではあったが、彼女は自分との違いを感じていた。人を殺めたことがあるのとないのとでは、やはり違うのだとそう思ったのだ。
 覚悟はしていた。守る為には戦わなければならないとも思った。その思いは今でも変わらず、リュプケ砦での自分の行為は間違っていないとも思っている。だからこそ、ゲアハルトやエルンストがアイリスのことを思って後方支援に戻ることを提案しても、アイリスはそれを自分に意思で拒否したのだ。
 それでも、時折、揺れてしまうことがある。軍に所属していない、ごく普通の同年代の少女を見かけると、僅かであっても揺れてしまう。そんな自分を彼女は恥じている。なんて情けないのだ、と。
 そうしている間にも、気付けば詰所の近くまで戻って来ていた。アイリスは肺に溜まった空気を全て吐き出すように深く息を吐き出し、自分の気持ちを落ち着かせる。幾度か深呼吸を繰り返してから詰所に入ると、中には疲れ切った様子ながらも楽しげな様子の兵士らと椅子に腰かけて目を閉じているアベルがいた。


「お疲れ様です」
「あ、お疲れー。疲れたろ、ちゃんと水飲んで何か食って倒れないように気をつけろよ」


 声を掛ければ、疲労の色が濃いながらも明るい笑顔を向けられる。カーニバルの警備は大変なことも多いが、戦闘と違って剣を握って殺し合うということはまずない。だからこそ、いつもよりも兵士らの表情も明るいのだろう。
 アイリスは差し出されたコップを受け取り、テーブルの上に置かれた軽食の皿からカップケーキを選び取ると、アベルの隣に腰かけた。眠っているのだろうから起こさないようにしなければと音を立てないように気を付けていたものの、どうやら起こしてしまったらしい。目を開けたアベルは隣に腰かけているアイリスを一瞥すると、欠伸を噛み殺しながら傍に置いていたコップに口を付けて一気に煽った。


「遅くない?」
「ごめんね、ちょっと大通りからは外れた薬屋さんだったから」
「薬屋……ああ、あそこ。まあ、その分休ませてもらったからいいんだけど。……この香り」


 コップをテーブルに置き、一息吐いたアベルは柳眉を寄せて辺りを見渡す。アイリスは「薔薇の香りのこと?」と首を傾げる。


「それなら、わたしが案内した人の香水の香りだよ」
「案内した人?」
「うん、綺麗な女の人。紫色の髪に赤い瞳でね、この香りがよく似合う人だったよ」
「……ふーん」


 興味なさげに言いつつ、アベルはゆっくりと椅子から立ち上がる。そして「あんただって似合うと思うけど」と呟き、それを聞いたアイリスは思わず素っ頓狂な声を上げる。そんな彼女にアベルは笑みを噛み殺しつつ、アイリスの額を指弾した。予想外の痛みに顔を顰めながら指弾された額を押えているうちにアベルは少し離れたところに移動していた。


「アベルっ!何するの!」
「どうせあんたのことだから、うだうだどうしようもないことを悩んでたんでしょ」
「別に、そんなこと、」
「嘘。あんた、顔に出やすいんだから見え見えの嘘なんて吐かない方がいいよ」


 そう言いつつ、詰所を出ようとするアベルにアイリスは慌てて立ち上がるも、「あんたは休んでなよ」と彼は言う。彼女よりも先に詰所で休憩を取っていたのだから先に任務に戻るのだというが、だからといってアベルを一人で行かせていいものかと悩む。そんな彼女に溜息を吐きつつ戻って来たアベルはアイリスの肩を押さえつけ、椅子に座らせる。
 そして手近なテーブルにあった菓子をいくつか手に取るとそれをアイリスの手に握らせた。「これでも食べて、ゆっくりしなよ。それですぐに卑屈なことを考えるのも止めなよ」と言うと、足早に詰所を後にした。アベルが出て行った扉を見つめ、アイリスは一つ息を吐くと、握らされた菓子を食べ始める。甘い味が口の中に広がり、ほっと安心する。


「……もう」


 レオもアベルも最近どうかしてる、とアイリスは唇を尖らせる。頬に熱を感じつつ、アイリスは自身を落ち着かせるように冷たい水の入ったコップを頬に押し当てた。


 

120907


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