カーニバル - stray cat -



 医務室へと向かい、扉を開けるとそこにはここ数日、入れ違いになることが多かったエルンストの姿があった。しかし、いつものように机に向かっているわけでもなく、かといって栄養剤を精製しているわけでもなく、ぐつぐつと煮立つ精製中の寸胴の前に移動させた椅子に腰かけてうつらうつらと舟を漕いでいた。アイリスが医務室に入っても気付かないほど、身体は疲労して睡眠を求めているらしい。
 そんな様子に驚きつつも不用心だという思いと身体は大丈夫だろうかという心配でいっぱいになる。どれだけ忙しくとも、エルンストはいつも何も言わない。さらっと何事も手早く片付け、疲れの色を見せずにいることが多い。けれど、彼だって人間だ。働き続ければ身体は疲れ、身体が疲れると睡眠を欲し、身体も不調となる。現にエルンストの顔色はお世辞にも良いとは言えない色だった。目の下にも隈が出来ており、睡眠時間を削って連日動き回っているのだということが伺える。


「……寝るならちゃんとベッドで寝たらいいのに」


 さすがに自分よりも上背のある男をベッドまで移動させられるほどの力はアイリスにはない。かといって、このままにしておくことは出来ない。初夏とはいえ、夜となればまだ少し冷えるのだ。持っていた籠をテーブルに置き、アイリスは棚からブランケットを取り出すとそれをそっとエルンストに掛ける。
 アイリスは視線をエルンストから煮立っている寸胴へと向ける。昨日も共に精製したこともあり、作り方は大体覚えている。一先ず、摘んで来た薬草を洗わなければと水場へと移動して薬草を丁寧に洗う。その間もなるべく音を立てないように注意しながら作業を進めた。
 洗い終えた薬草を小さく千切り、それを寸胴の中の液体へと入れていく。全て入れ終えると、アイリスは傍に用意されていた木のへらで中の液体を掻き混ぜ始める。ふわりと香る薬草の濃厚なにおいに一瞬眉を寄せるも、掻き混ぜ続けていると不意に背後からくぐもった声が聞こえて来た。


「……う、……ん」


 肩越しに振り向けば、先ほどまでは穏やかだった寝顔が顰められている。その後も表情は変わらず、魘されているわけではないようだが、どうやら何か夢を見ているらしい。悪夢、とまではいかない様子だったが、決して夢見はよくはない様子であり、気付いていながら見逃すわけにもいかない。
 アイリスはへらを置くと、遠慮がちにエルンストの名前を呼ぶ。しかし、名前を呼ぶ程度では目を覚まさず、相変わらず顔は顰められている。寧ろ、眉間に寄せられている皺は濃さを増しているようだった。一体どんな夢を見ているのだろうかと思いつつ、アイリスは彼の肩をそっと揺さぶって再度名前を呼ぶ。


「エルンストさん、起きてください。エルンストさん」
「……ん」
「起きてください、エルンストさん」


 起きて、と肩を揺さぶりながら声を掛け続けていると漸く薄らと持ち上げられる瞼から青い瞳が見え隠れする。それはゆっくりと幾度か瞬きを繰り返し、そしてのろのろとゆっくりと持ち上げられた視線はアイリスへと向く。眠たげではあったものの、「……アイリス、ちゃん」と常とは違う、掠れた声で名前を呼ばれ、彼女は苦笑を浮かべながら頷いた。


「お休みになってたのにごめんなさい。夢見が悪いみたいだったので起こしてしまいました」
「いや……、起こしてくれて助かったよ」


 嫌な夢だったんだ、と肺に溜まった空気を全て吐き出すように深い溜息を吐く。その後も顔を俯けたまま動こうとしないエルンストを横目にアイリスはコップに水を汲むとそれを手渡した。冷たい水を飲めば、少しは気分も落ち着くかもしれないと思ったのだ。ありがとう、と彼は差し出されたコップを受け取ると、それを一気に煽る。そしてまた顔を俯けるエルンストを見ていると、今はそっとしておいた方がいいだろうと決め、寸胴へと向き直る。
 焦げ付かないようにへらで中身の液体を掻き混ぜ、寸胴を煮詰めている火を消す。後は冷めるのを待って、この栄養剤を待ち侘びている疲れ切った仲間たちに配るだけだ。へらを置いて振り向けば、丁度エルンストがゆっくりと顔を上げるところだった。


「ごめん、気を遣わせて」
「いえ、大したことはしていませんから」


 顔を上げたエルンストはいつも通りの笑みを浮かべていた。弱音を吐くわけでもなく、どんな夢を見たのかも言うこともなく、常と何ら変わらない表情をしていた。何を聞いても、何でもないよとしかきっと答えてはくれない笑みを見たアイリスは、改めて自分の弱さを実感する。目の前にいるたった一人の相手のことすら支えられないのだということが悔しくてならなかった。
 もしも自分が強ければ、心がもっと強かったのなら、信頼して貰えたかもしれない。どんな夢を見たのかを教えてくれたのかもしれない。エルンストだけでなく、レオだってもっと自分のことを頼ってくれたのかもしれないことを思うと、心の強さが喉から手が出るほど欲しくなった。その思いは、自分がいつも彼らに支えられてばかりだと思っているからこそ、余計に強まるばかりだった。
 けれど、思っているだけでは手に入れることは出来ない。心を強く持つようにと、エルンストにはそれこそ出会った当初から言われていたことだ。入隊直後よりは幾分も強くなったとはアイリス自身、思ってはいたけれど、自分の求める強さには程遠い。そのことを情けなく思っていると、「何にも聞かないんだね、君は」とぼそりとエルンストが呟いた。


「……そうですね。聞いても、エルンストさんは教えてはくれないでしょうし、……それに、わたしはまだ人一人を支えられるほど強くありませんから。だから、エルンストさんが話してもいいと思ってくれるぐらいわたしが強くなったら、その時に改めて聞かせてください」


 その言葉は彼にとっては予想していなかったものだったのだろう。酷く驚いた表情を浮かべたエルンストは暫しアイリスを見つめ、それから相貌を崩して眉を下げて笑った。「うん、……そうするよ」と微苦笑を滲ませながら口にした彼は椅子から立ち上がり、ソファへと移動する。そのまま深くそこに腰かけ、アイリスを手招きする。


「こっち、座って」


 ぽんぽんと自身の横に座るようにとそこを叩きながら言うエルンストにアイリスは一瞬戸惑うも、言われるがままに隣に腰かける。二人用ではあるものの、それほど余裕があるわけでもなく、肩と肩が触れ合う。この距離感は決して初めてというわけではなく、もっと近くに寄ったこともある。けれど、それはどちらかというと故意にではなく、致し方ない理由があってのことだった。だが、今回は前者であり、腰かけたもののアイリスはどうしたらいいのかところころと表情を絶え間なく変え続ける。
 しかし、そんな彼女の戸惑いを気にした様子もなく、エルンストはこてんと頭をアイリスの肩へと預けた。話題を探すことに意識を向けていた彼女は突然の彼の行為にぴんと背筋を伸ばし、身体を強張らせる。一体どうしてこんなことになったのか、いやしかし、この姿勢は辛くはないのだろうか、そもそもこんなところを誰かに見られでもしたら――と、様々なことで一気に頭がいっぱいになる。


「あ、あの……エルンストさん、」
「別に膝を貸してって言ってるわけじゃないんだ。肩ぐらい貸して欲しいな」
「……えっと……」


 確かに膝を貸すよりは幾分も気持ちも楽ではある。しかし、時折頬を掠る柔らかな髪がくすぐったく、すぐ近くに聞こえる声や肩に感じる温かさに否応なく鼓動は早くなる。努めてゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、アイリスはちらりと視線を隣に座っているエルンストへと向ける。
 視線を向けてもその表情を伺い知ることは出来なかったが、その代わりに彼の色素の薄い黒髪の旋毛が見えた。普段は見ることのないそれに思わず目を瞬かせつつ、アイリスは視線を膝の上に置いている自身の手へと向けた。肩にエルンストが頭を乗せているため、碌に動けない。体勢はどうにも窮屈で、その上、緊張している為に身体はがちがちになってしまっていた。


「……ねえ、アイリスちゃん」
「……何でしょう」


 まだ何か要求があるのだろうかと緊張を深めつつ答えると、エルンストは意外な言葉を口にした。


「何か喋ってくれないかな」


 思いもしない言葉にアイリスは目が点になる思いをしながら言葉を濁す。何か喋ってくれと言われても、一体何を喋ればいいのかが分からない。すっかりと緊張してしまっているため、上手く思考することさえ出来ずにいるのだ。
 そんなアイリスを知ってか知らずか、エルンストはその体勢のままで微苦笑を浮かべる。


「何だっていいんだ。レオが馬鹿をやった話でもいいし、アベルに怒られた話でもいいし、レックスの苦労話でもいい。何だっていいんだ、今日の出来事だっていい。とにかく、何か話して聞かせて欲しいんだ。ああ、でも……出来るだけ、楽しい話だと嬉しい」


 らしくもない様子に戸惑いを覚えつつ、アイリスは何でもいいと言いつつもエルンストが挙げた喩えを思い返す。どれもこれも心当たりのある出来事がすぐ浮かぶものばかりだったが、少なくともそれらは決して当事者からすれば楽しい話ではないことは確かだった。そのことにこっそりと溜息を吐くも、それならば今日の出来事もふまえての話がいいだろうかとその時のことを思い出しながら彼女は口を開く。


「えっと、……今日の巡回警備の時の話なのですが――」


 レックスとレオと三人で午前中から中央広場の巡回警備に就いていた時の出来事を口にする。レックスが喧嘩の仲裁に入る為、その間はアイリスとレオの二人で巡回を行っていた。その際に、レオに寄り道をさせないように注意することをレックスから言われていた。そのことはレオ自身も耳にしていたにも関わらず、いざレックスが離れていくとふらりふらりと出店へと寄って行こうとするのだ。
 結局、その間中、アイリスはずっとレオの腕を掴んでいなければならなくなった。しかし、それだけでレオを止めることは出来ず、アイリスは引き摺られるようにして出店に引っ張り込まれそうになったことがあったのだ。だが、その場を運悪く、合流する為に戻って来たレックスに見つかってしまった。


「それで、レックスがレオを叱りつけたんです。任務中なのにサボって何してるんだ、って」


 彼はとても真面目だとアイリスは思った。レオも決して不真面目ではないが、レックスのように任務中だからと割り切ることは殆どない。無論、それは今回のような巡回警備などの任務の時だけで帝国軍と交戦状態になった時まで割り切らずにいるということはない。アイリス自身としては、出来ればもう少し真面目に任務に就くべきであると思ってはいるものの、レオと接している人々の楽しげな様子を見ると、あまり口酸っぱく言うことも出来ずにいた。


「そこから二人がいつもの言い合いになっちゃったんです。わたしも止めなきゃって思ったんですけど、先に動いたのは近くで出店を出していた人で、店の前で軍人に言い争いなんてされたら客が来ないだろうって二人とも怒られちゃったんです。喋られないように口にパンを突っ込まれて、それで、」


 お詫びにみんなで客寄せすることになって、と言いかけたところで、肩に乗せられていたエルンストの頭がぐらりと揺れた。寸でのところで倒れかかる身体を押えてソファの背もたれにしっかりと凭れさせる。いつの間にか、彼は眠ってしまっていた。
 話し始めた頃は相槌を打ち、時折可笑しそうに笑っていたものの、いつの間にかそれらもなくなっていた。寝ているとは思いもしなかったアイリスはこっそりと溜息を吐く。頭は相変わらず肩に預けられたままであり、動くに動けない。移動しようと思えば、出来ないことはないのだが、様子がおかしかったことを思うとそれをすることも躊躇われたのだ。
 アイリスは先ほどエルンストに掛けたブランケットがソファの脇にあったことを思い出し、それに手を伸ばす。その際に彼の頭がずれ、起きてしまったのではないかと慌てるも瞼はしっかりと閉ざされたままで、規則正しい寝息が聞こえている。そのことにほっと安堵の息を吐きつつ、アイリスは引き寄せたブランケットをエルンストに掛けた。


「……ちょっと可愛いかも」


 起こさないように慎重に首を伸ばしてエルンストの寝顔を覗き込めば、それは存外可愛らしいものだった。常々、辛辣なことを口にすることが多い彼だが、その寝顔を見ていると嘘のように思えて来るほどのものだった。あまり見ていれば起きてしまうかもしれない、寧ろ、実は起きていてからかわれるかもしれない――アイリスは好奇心を抑えながらソファに背を預け、深く息を吐き出す。
 今日でカーニバルは二日目であり、疲労も頂点に達している。出来ることなら、早くベッドに潜り込みたいところではあるものの、今しばらくはそれも出来そうにない。アイリスは欠伸を噛み殺しつつ、少しだけ仮眠を取ることを決めると、そのままゆっくりと瞼を閉じた。


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