カーニバル - stray cat -



 廊下に並ぶ窓から微かに見えるカーニバルの終わりを告げる花火を横目に、初老の男は暗い廊下を歩いていた。ある部屋の前で立ち止まり、努めてゆっくりと呼吸を繰り返す。しかし、まるでそれを邪魔するかのように身体の芯を震わせる花火を打ち上げる音に男は苛立たしげに眉を寄せた。
 ドアノブに手を掛けて一気に開けば、室内は明かり一つなかった。だが、カーテンが開け放たれたバルコニーのガラス戸から差し込む月明かりと色とりどりの花火によって暗い室内は照らし出され、真っ暗闇ではない。室内には、部屋に足を踏み入れた初老の男の他にも何人かいるものの、誰も男を振り向くことはなく、それぞれの場所から花火を楽しんでいるところらしい。


「カサンドラはどうしました」


 苛立たしげな様子を隠そうともせず、男は口を開いた。そのすぐ後に、鼓膜を震わせる花火の音が聞こえる。夜空に大輪が咲き誇り、呆気なく散っていく。男の苛立ちとは正反対の様の花火を眺めるいくつかの人影の中、一際小柄な影が「カーサならバルコニーだよ」と笑みを含んだ声で答えた。


「ならば、今すぐ呼び戻してください。花火など、見ている時間が惜しい」
「だめだよ、ルヴェルチさん。カーサは今、お楽しみ中なんだから」
「……下手に声を掛けると殺されんぞ、お前」
「そうそう。カーサはこの花火を見るのを楽しみにしてわざわざ本国からベルンシュタインまで来たんだから」


 そう言って、楽しげな少年の笑い声が聞こえ、ルヴェルチと呼ばれた初老の男は唇を噛んだ。物騒な言葉も少年の声に紛れて聞こえたものの、その言葉通りに邪魔をしようものなら首が飛ぶ恐れもある。バルコニーを一瞥し、じとりと汗ばむ夜風にスカートの裾を靡かせるその背を見遣り、ルヴェルチは顔を顰めた。
 まるで緊張感のない空間だった。これから話す内容のことを考えれば、まずこのような空気にはなるはずもない。だが、現実は予想とは裏腹に空気はまるで緊張感がないもので、何よりこの場に集まっている者たちの素性は点で共通点がなかった。屈強な男もいれば、折れてしまうのではないかと思ってしまうほど細い男もいるだけでなく、子どもや女までいるのだ。ルヴェルチは今更ながら手を結んだ自分の判断は正しかったのだろうかと脳裏に不安が過った。


「……あいつ、何で花火なんか見たがってたんだ?」
「知らないの?ブルーノ。ベルンシュタインの初夏のカーニバル最終日の花火を見た男女が結ばれるっていう話」
「……っつか、そんなもん見なくてもカサンドラは……」
「分かってないなー、ブルーノは。カーサは女の子なんだよ?その辺りの乙女心を分かってあげなきゃ。たとえ相手が死体でも」
「…………女の子って歳でもねーだろ」


 さらりと少年の付け足した言葉を長し、ブルーノと呼ばれた青年は呆れを多分に含んだ溜息を吐き出す。すると、「あーあ、カーサが聞いたら怒るよ?それ」と少年は溜息を吐きながら首を横に振る。まるで分かっていないとばかりの動作にブルーノは眉を寄せるも、それ以上は口にしなかった。


「ルヴェルチさんだって思うでしょ?ブルーノみたいなことを言ってると女の子にモテないよね」
「……まあ、女性の扱いには気を付けた方がいいのではないかと思いますが」
「だよね、やっぱり」
「うっせーよ。女の扱いなんていちいち気にしてられっかよ。っつか、そんなこと気にするってことはお前、好きな女でもいるのかよ」
「ボク?まさかー、ボクは女の子なんてどうでもいいよ。ヴィルヘルム様のお傍にお仕えするにあたってのマナーだよ。それにボクは女の子なんかよりも、」


 言葉を遮るように唐突にバルコニーのガラス戸が開いた。そこから姿を現せたのは妙齢の女性であり、長い髪を美しく結い上げて上品なドレスを纏っている。そして彼女は渋面を作っているルヴェルチが部屋にいることに気付くと口元に笑みを浮かべて優雅に一礼した。


「あら、お越しになっていらっしゃったのね、ルヴェルチ卿。御機嫌よう」
「……ああ。カサンドラ嬢もお元気そうで何よりです」
「カーサ、ルヴェルチさんはカーサが花火を見終わるのを待っててくれたんだよ」
「そうでしたの。お待たせしてしまってごめんなさいね。けれど、お待ち頂けて私の目的も果たせましたわ」


 ソファに座している少年の隣に腰かけ、カサンドラは嬉しそうに笑う。「満足したの?」と声を掛ける隣の少年に頷き、彼女はまるで少女のようにはにかむ。


「もちろん。ギルベルトも楽しんでくれたのよ」
「そっか。よかったね、カーサ」
「……では、花火も終わったということでそろそろ本題に入りましょう。時間は限りがある、有意義に使わなければ」
「そうですね。それでは、ブルーノ、お茶を淹れてちょうだい」
「……何で俺が」


 カサンドラの向かい側のソファに腰かけたルヴェルチが本題を切り出そうとするも、彼女は遮るように壁に凭れかかっているブルーノの給仕を頼む。ルヴェルチの言葉に同意はするものの、まるで気にしていない様子のカサンドラに彼は眉間に皺を刻む。しかし、彼女はただ微笑むだけだ。
 直に部屋には紅茶の香りが広がり、「ほら」と乱雑な言葉と共にテーブルには人数分のカップが並べられる。ブルーノは二人分のカップを手に取ると、自身と同様に壁際にいる自身とは正反対の屈強な体つきの男にそれを手渡した。


「いい香り……こうしてお茶を楽しむ余裕ぐらいなくては国を落とすなんてことは出来なくて?ルヴェルチ卿」
「……頂こう」
「ええ、そうしてください。ブルーノはお茶を淹れるのが上手ですから」
「あんたが口煩くああだこうだ言うからだろ……」


 吐き捨てるようにブルーノは愚痴を口にするも、カサンドラは気に留めずに紅茶を味わう。その独特の空気につい流されてしまいそうになるものの、ルヴェルチは紅茶のカップをテーブルに戻して改めて目の前に座している彼女を見据えた。
 傍から見れば貴族の令嬢に見えるが、実際はそのような者ではない。本来ならば、ベルンシュタインにはいるはずのないヒッツェルブルグ帝国に属している者だ。それはカサンドラだけでなく、この部屋にいるルヴェルチ以外の人間に当て嵌まることでもある。


「せっかちですね、ルヴェルチ卿。急いては事を仕損じる、という言葉をご存じ?」
「生憎、私は多忙なもので。申し訳ないが、早急に本題に移らせて頂きたい。……ところで、ヴィルヘルム様のお姿がないが……」
「殿下はいらっしゃいませんよ」
「……は?」


 然も当然とばかりに口にしたカサンドラにルヴェルチは目を瞠った。そんな彼にカサンドラの隣に座していた少年は口元に手を遣りながら、「来るわけないじゃん、ルヴェルチさん」と堪え切れない笑みを混じらせながら口にする。


「ヴィルヘルム様はお忙しい方なんだよ。今頃、本国で政務を執られてるはず。もう、カーサ……こういう大事なことはちゃんとルヴェルチさんに伝えなきゃ」
「しかし……それなら、」
「ごめんなさいね、ルヴェルチ卿。私ったら、すっかりとお伝えし忘れてしまっていました。けれど、今回の件は全て私に一任されてますのでご安心を。ヴィルヘルム殿下の名代として、私が鴉をまとめます。よろしくお願い致しますね、卿」


 言い忘れていたとばかりにカサンドラは笑みを浮かべて言う。しかし、その笑みからも敢えて今までそのことを伏せていたということは明らかだった。
 ヒッツェルブルグ帝国の裏で暗躍する特殊部隊である鴉は第一皇子であるヴィルヘルム直下の部隊である。つまり、カサンドラを始めとするこの部屋にいる鴉の面々は、それだけ帝国軍の中でも上位に位置する立場だ。とは言っても、あくまでも汚れ仕事全般を請け負う部隊でもある為、表に出て動くことは少なく、帝国軍の中でもその存在を噂程度にしか捉えていない者も少なくない。
 そんな相手を前に、ルヴェルチは苦虫を噛み潰した表情を僅かながらも浮かべてしまう。本来ならば、この場には鴉を束ねるヴィルヘルムの姿があるはずだった。そのようにルヴェルチ自身は聞いていたのだ。だが、実際に姿を見せているのはカサンドラたちのみであり、彼にとって鴉の力を借りて行うこれからの重大な一連の事柄は彼ら鴉にとってしてみれば取るに足らないことであるのだということが暗に示されていた。


「そんなお顔をなさらないで、ルヴェルチ卿。私たちは卿にお力をお貸ししますからご安心ください」
「ええ、勿論です。それについては既に契約を交わしている」
「そうですわね、その通りです。白の輝石を卿が見つけ出す代わりに、我々は卿のお力になる。忘れてはいませんから、そう怖い顔をなさらないで」


 少しも怖いなどとは思っていないことは明らかなカサンドラの様子にルヴェルチは眉を寄せながらも、一先ずは相手が契約の事柄について、忘れていないことに安堵する。そんなルヴェルチの様子を眺めていたカサンドラは笑みを深め、「それでは、そろそろ本当に本題に入りましょうか。卿が怒り狂ってしまう前に」と空になったカップをテーブルに置いた。


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