会戦 - secret mission -



「本日未明、ベルンシュタイン本隊がクラネルト川中流域よりライゼガング平原に侵入。ヘルト砦付近に布陣しているとの斥侯からの報告です」


 部屋に飛び込んで来た兵士の報告をティーカップを片手に聞いていたカサンドラは「あら」と声を洩らす。長い睫毛で縁取られた目を瞬かせ、考え込むように視線を宙に彷徨わせる。そんな彼女の様子に隣に座っていた少年は、どこか怯えた様子で直立不動の姿勢を保つ兵士を一瞥しながら「どうしたの?カーサ」と声を掛ける。


「予想していたよりもずっと後方に布陣しているからどうしてかと考えていたのよ。一応は予想していたことだからこそ、貴方の案を採用して兵士をヘルト砦に潜ませているけれど……やる気がないのかしら」


 カサンドラの予想では、ヘルト砦を越えて平原の中央部まで攻め込んで来るはずだった。その通りになれば、ゼクレス国から出兵する本隊とヘルト砦に潜ませている兵士でベルンシュタイン本隊を前後から挟撃するところまで考えていたのだが、ベルンシュタイン本隊がヘルト砦の手前に布陣した為にその策は使えなくなってしまった。
 とは言っても、この策はあくまで予備的なものでしかない。失敗で元々、成功すれば幸運という程度のものだ。そしてカサンドラ自身は、恐らくはゲアハルトに見抜かれているとも思っている。用心深い人間であるということは彼女も知っている為、彼が無人のヘルト砦に何の警戒も抱かないはずがないと踏んでいる。
 それでも兵を潜ませたのは隣に腰掛けている少年がどうしてもやりたいと言ったからだ。ヴィルヘルムに忠実なこの少年が、彼の為に戦果を挙げたいと言った、ただそれだけのことだった。何より、たとえ失敗したところで困らない練度の低い兵士を潜ませている。失ったところで実害はなく、寧ろ食い口が減ったと喜ばれさえするだろう。そのことを思えば、大して気に留めるべきことではないだろうかとさえ思えて来る。


「ベルンシュタイン本隊に国王の姿はあったのかしら」
「国王の陣はありましたが、姿を確認したとの報告はありません」
「そう。……でも、こちらが本隊を動かしている状況であの国王が動かないはずないもの。それなら問題なく事は進んでいる」
「だけど、ちゃんとブルーノは上手くやれるのかなー」
「大丈夫よ、きっと。彼だって鴉の一員だもの。与えられた任務はしっかり遂行するわ」


 事も無げに言いつつ、カサンドラはカップに口を付ける。飴色のそれで喉を潤しながらも、ベルンシュタイン本隊のことを考える。彼らが布陣している場所は今いる場所からは遠く離れている。どれだけ急がせても得られる情報は数時間前のものであり、鮮度は各段に落ちる。
 本来ならば、今回の戦闘の指揮官に任じられているカサンドラ自身が指揮を執るべく前線に出るべきではある。しかし、彼女にはその気はなかった。なぜなら、この戦闘はあくまでもベルンシュタイン本隊の注意を引く為のものでしかないからだ。本当の狙いは別の任務に就いているブルーノを動きやすくするという、ただその一点のみだ。ならば、わざわざカサンドラが前線に出るまでもなく、ベルンシュタイン本隊にプレッシャーを与え、一定以上の緊張状態に置いて小競り合いを繰り返せばいいだけのことだ。詰まる所、この戦闘に勝ち負けに意味はないのだ。


「私たちは此処でただ待っていればいいだけ。……それでは手筈通りに、進軍開始。こちらからの攻撃は明日の昼、ただしベルンシュタイン側から攻撃して来た場合は迎撃」


 随時報告を上げることを怠らないように言い添え、カサンドラはカップを傾ける。命令を預かった兵士は敬礼すると、慌ただしい足取りで部屋を後にした。しかし、それは命令を早く伝えなければと言うよりも早くこの場を逃げたいがために急いでいるようにしか見えず、彼女は微苦笑を零した。随分と嫌われたものだと思いながらも考えるのは、着任してからの二年間、帝国軍を退け続けたベルンシュタインの国軍司令官であるゲアハルトのことだ。
 策が成功する自信はある。だが、何が起こるか分からないのが戦闘である。自分がこうして紅茶を喫している間にも気付かぬうちに裏で何かが動いているかもしれない。否、動いているに違いないのだ。ゲアハルトが何もせずに真っ向から迎撃するだけの戦闘をするはずがない。そのことをカサンドラは確信していた。


「どうしたの?カーサ。……手が、震えてるよ」


 微かな震えだった。カップを握る手が震え、飴色の水面が微かに揺れている。不思議そうな顔をする彼にカサンドラは何でもないわと微笑み、カップをテーブルに戻した。そして深く呼吸を繰り返し、昂る気持ちを押さえつける。
 自信のある策を見破られるのか、それとも見破られずに自分の策が歴戦の指揮官であるゲアハルトに土を付けることが出来るのか――それを考えると押さえつけた気持ちが再び昂り始める。どうしようもないほどの昂揚感に、カサンドラは薄く紅を差した唇の端を吊り上げ、堪え切れずに笑みを零した。










「……ん、」


 きゅっと眉を寄せ、重たい瞼を持ち上げる。意識はぼんやりとしていたが、聞こえて来る足音にアイリスは素早く身体を起こすと枕元に置いていた杖へと手を伸ばした。そしてそれを手に取ると同時に「誰!」と声を張り上げれば、その声は薄暗い洞穴の中に響き渡った。


「オレだって、レックス」
「あ……ごめんね。つい……」
「いや、オレこそ驚かせて悪かった」


 微苦笑を浮かべながら謝るレックスにアイリスは眉を下げて首を横に振った。
 アベルと話をした後、しばらくしてからレックスとレオが戻って来た。そしてまた馬に跨って数時間走り続けた後に休憩を挟みんだ際に近くに洞穴を見つけた。そろそろ馬を休ませ、自分たちも仮眠を取った方がいいということになり、そこで身体を休めることになったのだ。馬も走らせ過ぎてはいざと言う時に動けなくなってしまう。復路のことを考えれば、馬を十分に休ませておかなければならなかった。
 交互に見張りをしながら夜を明かし、今朝方まで起きていたアイリスはレックスが来るまで洞穴の奥で眠っていたのだ。包まっていた毛布を畳みながら、彼女は外に出ていたレックスにレオとアベルはどうしたのかと問い掛ける。


「二人は外を探りに行ってる」
「そっか……」
「レオとアベルが戻って来たら出立するからそれまでに飯も食っておけよ」


 そう言って差し出された携行食糧を受け取り、アイリスは包みを剥がすとそれを口に運んだ。そんな彼女を横目にレックスは傍に座り込むと、「こうして洞穴に寝泊まりするのは二度目だな」と苦笑混じりに口にした。


「そうだね。リュプケ砦の時もこうして洞穴で一晩明かしたんだよね」
「ああ。まあ、状況は違うけどな」


 ははっと明るく笑うレックスにアイリスも頷く。けれど、脳裏に浮かんだのはあの時に聞いたレックスの入隊理由のことだ。彼は自分から家族を奪った帝国軍のある軍人に復讐しようとしている。その気持ちは理解出来ないものではなく、仕方ないとさえ思いもする。けれど、復讐したところでレックスの家族が戻って来るわけではなく、新たな憎しみを生み出すことにしかならない。
 出来ることなら、そんなことは止めて欲しいと思うのだ。だが、それを口にしたところで、恐らくレックスは止めてはくれないだろう。彼の心に巣食う復讐心はアイリスが何か言ったところで消え失せるほど、容易いものではない。


「……ねえ、レックス。あの時、話してくれたことだけど……」


 それでも、何も言わずにいられるほど、レックスのことを捨て置くことはアイリスには出来なかった。復讐することだけを目的に自分自身の全てを捧げているようにしか見えない彼が、彼女にとってはとても悲しく、寂しく見えたのだ。もしも、彼の願いが成就され、復讐を成し遂げたとして、その時にレックスには何が残るのだろうか――それを思うと、やはり思い直して欲しいと強く思うのだ。復讐の先に残るものは何もない。あったとしても、それは輝かしい未来ではないはずだ。


「アイリスが言おうとしてることは、何となくだけど分かってるつもりだ。……だけど、オレは止めないよ」


 察しのいいレックスはアイリスが言わんとしていることを表情から気付いたらしい。正確に読み取られた思考に、それならどうして止めてくれないのかと彼女はあくまでも冷静な様子のレックスに食い下がった。
 踏み込むべきところではないとは分かっていた。いくら事情を知っていたとしても、踏み込むことが許される場所とそうでない場所は存在する。それを分かっている上で彼の心に踏み込んでいるのだ、拒絶されても何の文句も言えない。それでも、少しでもレックスを踏み止まらせることが出来るのなら、拒絶されてもいいとアイリスは思っていた。
 養父は言っていた。復讐は新たな憎しみを生み出すだけだ、復讐は何も生み出さない。復讐したところで何も変わりはしないのだ、と。それと同時に思ったのは、レックスを引き取って育てた彼の剣の師匠が、どうしてそのことを教えてやらなかったのかということだ。もしかしたら、教えていたのかもしれない。それがレックスの心に届かなかったのかもしれない。それでも、自分よりもずっと長くレックスと共にいたのだろう。彼の気持ちも知っていたのだろう。それなら、止めてくれればよかったのに――そう思わずにはいられないほど、彼の紅い瞳の奥に昏い復讐心がちらついていた。


「あの男を殺さないと……オレは前に進めないんだ」
「……レックス」
「復讐したところで失ったものは帰って来ないし、何にもならないことは分かってる。だけど、オレはそれを求めてるわけじゃない。何も帰ってこなくていい、何にもならなくていいんだ」


 ただ、あいつを殺して懺悔させなければ気が済まない。
 紅い瞳に苛烈な怒りが見え隠れする。それはたった一本の理性という糸で抑えつけられているだけであり、それも恐らく腕に黒い鳥の刺青が入った男を目の前にすれば、容易く理性の糸は切れてしまうだろう。そうなれば、後は長年抱き続けた怒りや憎しみ、悲しみのままに剣を振るうことになる。
 そんな姿は、見たくなかった。いつも鍛錬の時に見せる真っ直ぐな剣筋が乱れ、怒りや憎しみのままに振るわれる様は見たくなかったのだ。


「ただそれだけの為にオレはこれまで生きてきた」
「……でも、」
「オレの家族を奪って、守りたかった居場所を壊したあいつを……帝国軍をオレは絶対に許さない」


 必ずこの手で殺してやる――暗い決意を口にするレックスを前に、アイリスは口を閉ざした。声が届かない。言葉が届かないのだ。強すぎる彼の決意を前にして、どれだけの言葉を重ねたところで少しだって届かないのだ。自分の無力さをひしひしと感じ、アイリスは口を閉ざし、顔を俯けるしかない。
 どうして自分はこんなにも無力なのだろうか、レックスにもレオにもアベルにもたくさんのものを貰ったというのに、いつだって助けられてきたのに、自分は彼らに少しも返せていない。少しも力になれていない、そのことが悔しくて情けなくて仕方なかった。


「レックス、アイリス!」


 それから暫しの後、洞穴にレオとアベルが戻って来た。その表情は緊張を帯びたもので、自然とレックスとアイリスの背筋も伸びる。レオの後に続いて戻って来たアベルも珍しく緊張した面持ちであり、「何かあったのか?」とレックスが問い掛けると小さく頷いた。


「帝国軍が行軍してた。多分、あの速度と人数からだと明日の昼には交戦状態に入ると思う」
「そうか。……それなら、予定通りだな。本隊が動いてる分、橋は手薄になってるはずだ。……とは言っても、オレたちは四人だからその数十倍は余裕でいるだろうけどな」


 先ほどまでとは打って変わっていつもと何ら変わらない様子で苦笑さえ浮かべているレックスの顔を、アイリスは見ることが出来なかった。「それじゃあ用意が出来次第、出立するぞ」と立ち上がる彼を見送り、アイリスは身の周りを片付けるべく立ち上がったところで「どうかした?」とレオに声を掛けられる。


「え?どうして?」
「いや、……何か元気ないみたいだからさ。昨日から」


 心配げな表情を浮かべるレオにアイリスは僅かに眉を下げて笑ってみせた。平気だよ、と答えるもレオの表情は変わらない。それでも、何があったのかを言う気にはなれなかった。アベルもレックスも、信頼してくれたから話してくれたことのはずだ。それを、たとえ相手がレオであったとしても、みだりに話していいとは思えなかったのだ。
 何より、話すならば本人の口からの方がいいに決まっている。だからこそ、アイリスは「ちょっと疲れてるだけだよ」と言うしかなかった。レオはあまり納得していない様子ではあったものの、それ以上は追及することはなく、「そっか」とだけ言うとアイリスの片づけを黙って手伝った。


「ありがとう、レオ」
「いいって。それよりも、疲れたらちゃんと言えよな。……もうすぐ、オレたちも戦うんだから」


 予定通りに行くと、夜中には目的の橋付近に到着することになっている。そのまま夜が明けるまでの間に橋を爆破することにもなっているため、残されている時間は決して多くはない。僅かに柳眉を寄せて言うレオにアイリスは頷き、気を引き締める。色々と思うところはあるものの、今は作戦行動中だ。そちらに集中しなければ、自分の身が危険に晒されるだけでなく、他の三人のことも同様に危険に晒すことになってしまう。
 頷いたアイリスはレオは笑みを浮かべて頷き返すと、「それじゃあ行こうぜ」と踵を返して洞穴の出口に向かっていく。その背を追いかけて外に出ると、木々の隙間から差し込む燦々と明るい夏の日差しに視界が焼かれる。眩しさにきゅっと目を瞑っていると、「ほら、出立するぞ」とすぐ近くからレックスの声が聞こえて来た。
 

「わっ」
「ちゃんと鞍掴んで」


 声が聞こえると同時に足が地面から離れ、思わずアイリスは素っ頓狂な声を上げた。慌てて目を開けると、あっという間に馬の背に乗せられてしまっていた。自分一人では乗れない為、有り難くはあったものの、それがレックスも同乗する馬だと気付くと、少しばかり気まずさを感じた。
 言われるがままに鞍を掴むと、レックスが馬の背の前半分に跨った。途端に「オレがアイリスと乗ろうと思ってたのに!」というレオの声が聞こえて来る。しかし、「ちょっと、早く乗ってよ」という呆れたアベルの声が聞こえ、時間がないこともあってかレオは渋々といった様子でアベルが既に乗っている馬に同乗した。


「ちゃんと掴まっておけよ」
「あ、うん」


 それだけ言うと、レックスは軽く馬の脇腹を蹴って馬を走らせ始めた。緩やかにスピードを上げていくそれには、やはりまだ慣れず、アイリスは自然と瞼を硬く閉ざしてしまう。視界を閉ざすと、耳はより鋭敏に音を捉えるようになり、後方から聞こえて来るアレオとアベルのいつもの賑やかなやりとりさえ微かではあるものの捉えた。二人のやりとりがあまりにも普段通りで、そのことに安堵感を覚えていると、「……なあ」と唐突にレックスの声が聞こえて来た。


「なあに?」
「……ありがとな」
「え?」


 思いもしない言葉にアイリスは思わず目を開いた。目の前に広がる、子どもの頃とはまるで違う広い背中を見つめ、風に揺れる赤い髪を見上げた。真っ直ぐに前を向く彼の表情を伺うことは出来ない。どのような表情をしているのは知れないが、それでも言葉を口にするその声は先ほどとは打って変わってとても穏やかなものだった。


「気に掛けてくれてること、嬉しかった」


 告げられたそれに、アイリスは何も言えなかった。つんと痛む目頭に瞼を伏せ、答える変わりに腰に回した腕に力を入れた。
 決して何も届いていないわけではなかった。意志を変えるほどではなかったけれど、それでも微かにでも届いていたことが、嬉しかったのだ。微かにでも届いていたのなら、変えることだって出来るかもしれない――それが自分の独りよがりな我儘でしかなかったとしても、何も生み出さない、憎しみを募らせるだけの復讐を止めることが出来るなら、アイリスにとってはそれでよかった。
 視線を上げれば、木々の隙間からは青空が見え隠れしている。その空に星が輝く頃、目的の橋に到着する。それを爆破することこそが最も重要なことであり、成し遂げなければならないことだ。必ず生きて戻るようにと言っていたゲアハルトの言葉を思い出す。四人揃って戻ること――ただそれだけを願いながら、アイリスは自分自身を落ち着かせるように深い呼吸を繰り返した。


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