王城 - masquerade -



 先ほど、鳥が運んで来た紙を広げたエルンストはそこに書かれている幼い頃、兄と幼馴染と共に作った文字を見つめ、溜息を吐いた。状況はやはり芳しくない。バイルシュミット城の中を自由に動くことが出来る手駒は少なく、かといってエルンスト自身が乗り込んでゲアハルトやレオの行方を捜すわけにはいかない。それが見つかれば、自分だけではなく、シュレーガー家にも危険が及ぶ。
 この際、家のことなど気にしている余裕はないが、すぐに動かすことが出来る兵力のことを考えれば、今は耐えなければならない。エルンストは深い溜息を吐き出すと、エルザから届いた返事を手の内で燃やした。一先ず、アイリスの手元まで物資を届けることは出来た。多少、骨は折れたものの、いつも以上に警備が厳重である城内に中身を検められることなく届けるとなると、方法は限られてくる。
 エルンストは先日、名義を借りるべく訪ねた際の従妹のことを思い出し、うんざりとした溜息を吐き出す。忙しく、時間がないというにも関わらず、頑固な態度を取られたことを思い出して苛立ちが蘇ったのだ。彼女に対する自分の仕打ちに申し訳なさがないわけではない。だが、いつまでもそれを引き摺られてもどうしようもないとエルンスト自身は思うのだ。


「物資は届いた。なら次は……、っ」


 しなければならないことは山ほどある。先日、アイリスが持ち帰った防御魔法を打ち破ったという矢の検証も終わった。早いところ、結果を彼女に知らせなければと思いつつ、思考を切り換えて次にするべきことに取りかかろうと立ち上がった矢先、ぐらりと身体が傾いだ。咄嗟に机に手を付き、転倒は免れたものの、ぐわんぐわんと視界が揺れる。強烈な眩暈がエルンストを襲い、そのまま力無く椅子へと崩れるように腰掛ける彼の顔色はこの上なく悪かった。
 その時、何の前触れもなく医務室の扉が開く。こんな時に一体誰だ、とエルンストは伏せていた顔を上げ、柳眉を寄せながら睨むように開かれた扉へと視線を向ける。そして、断りもなく入室した男を見遣り、一段と顔を顰める。


「何の御用でしょう、テオバルト監察官」
「おや、ご在室でしたか」


 深紅の軍服を纏った恰幅のいい男は一瞬顔を顰めるも、すぐににやついた笑みを浮かべてわざとらしく言う。ルヴェルチによって派遣された監察官の男は頻りに深紅の軍帽から覗く髪を払い避けながら、片手を背中に回して悠然とした足取りで歩み寄って来る。その度に揺れる軍人らしからぬ腹部の脂肪に顔を歪めながら、エルンストは内心舌打ちした。
 ノックもなしに医務室に入って来たということは、エルンストがいなければ勝手に室内を物色しようと思っていたに違いない。見られて拙いものは既に場所を移し替えている為、検められてもやましいことはないが、やはり気分はよくない。勝手に検めるなと言ったところで、自分は監察官だと押し切られることは分かっていることもあり、黙って好きにやらせるしかない。
 それに対しての苛立ちはあるものの、下手に楯突けばテオバルトの思う壺である。エルンストは相変わらずにやついた笑みを浮かべている彼を内心罵りながら、穏やかな声音で口を開く。


「それで急にどうしました?体調でも崩されましたか」
「体調が悪いのは貴君だろう。顔色が悪いぞ、医者の不養生とは感心しないな」
「元々こういう顔色ですよ。テオバルト監察官こそ、少しは運動された方がよろしいかと。軍医として忠告差し上げます」
「……っ」


 腹囲のことを指摘されたテオバルトの頬はさっと羞恥に赤く染まり、彼の背後に控えていた兵士らも小さく噴き出している。普段から思っていたのだろうが、こうして真っ向から指摘されるところなど今まで見たことはなかったのだろう。戦慄くテオバルトは射殺さんばかりにエルンストを睨みつけるも、彼は涼しい顔でそれを受け流す。
 さすがにテオバルトに付いている兵士らも止めなければ拙いと思ったのか、「テオバルト様、そろそろ本題に」と促し始める。その様子からも、どうやら軍属というよりもテオバルト――延いては彼の実父であるルヴェルチに近しい兵士であることが伺え、そのことにエルンストは不快感を露にした。
 だが、彼らからしてみれば、自分はゲアハルトに近しい人間であり、国王に忠誠を誓っているとは言えないことに変わりはない。それでもルヴェルチに与するよりは余程真っ当だとエルンスト自身は思っている。しかし、どちらにしろ、今現在勢いがあるのはゲアハルトではなくルヴェルチだ。そして、それはそのまま与している者の勢いにも影響しているた。


「単刀直入に言おう。ゲアハルト元司令官から流されていた裏金は何処に消えたのかな、エルンスト・シュレーガー軍医」


 興奮し切った瞳はぎらつき、頬は紅潮していた。恐らく、自分自身の手でエルンストを追い詰めていることに悦びを感じているのだろう。その表情を真っ向から向けられたエルンストは僅かに頬を引き攣らせるも、さり気なく視線を逸らして肩を竦めて見せる。


「裏金なんて、一体何のことだか」
「とぼけたって無駄だ!証拠なら此処にある」


 そう言ってテオバルトは懐から数枚の書類を取り出した。机へと放り投げられたそれを広げ、そこに細かく書かれている金額の明細に目を通す。金の流れは確かに軍令部から医務室に向けてのものであり、備品の補充の為の請求だとしても有り得ない金額がそこに書かれていた。
 だが、その金額にエルンスト自身は心当たりはなかった。否、より正確に言えば、書類に記載されている事柄については心当たりはなかった。実際にはテオバルトの指摘通り、ゲアハルトから白の輝石の捜索を始めとするエルンスト自身やシュレーガー家の私兵を動かす際に必要となる金は受け取っている。最近では、毒薬精製の為にそれなりの金額を用立ててもらったこともあり、その金額はテオバルトが示したものとそれほど大差はないものだった。


「証拠、ねえ……」


 ぱらり、と目を通し終えた資料をテーブルの上に落とし、エルンストは溜息混じりに言う。確かにこれは証拠になるだろう。ただし、証拠能力はこの書類に記載されている内容が真実であった場合だ。しかし、常識的に考えて、まずこのような金額の決済が軍令部で通るはずがない。テオバルトらが適当な金額をでっち上げ、サインなどを偽造しただけの書類であるということは明らかだった。何より、彼が証拠だと言い張るこの資料には決定的なでっち上げの証拠をエルンストは見つけてしまった。
 そして大前提として、本当に裏金であるのなら、このような人の目に付くような形で残すはずもない。それを指摘すれば、恐らくテオバルトはゲアハルトの執務室を検めたのだということを主張するだろう。ゲアハルトが捕縛されて以降、彼の執務室は立ち入り禁止となり、エルンストでさえも近付くことが出来ずにいた。裏金、というテオバルトの一言に一瞬、心臓が跳ねたものの、ゲアハルトであれば、人の目に付いては困るようなものは全て完璧に隠しているか処分しているだろうという予想は難くない為、すぐに冷静さを取り戻すことが出来た。
 テオバルトが医務室を訪れた理由は、恐らくでっち上げるつもりの裏金問題により真実味を増す為の小細工を行う為だろう。例えば、何らかの物証となり得るものを隠しに来たといったところのはずだ。しかし、いざ来てみれば、医務室には自身が在室だったということもあり、予定を変更せざるを得なくなったのだろうとエルンストは考えていた。または、エルンストの挑発に乗せられたまま、仕返しでもしてやろうと考えたのかもしれない――後者の方が可能性は高いだろう、と鼻息を荒くするテオバルトに対し、エルンストはこっそりと溜息を吐いた。


「こんな紙切れ数枚が証拠になるとでも本当に思っていらっしゃるんですか?貴方は」
「か、紙切れなんて失礼な!これは立派な証拠だ!」
「だとしたら随分とお粗末な証拠ですね。たった数枚の紙切れを並べて裏金だ何だと言われても。貴方がでっち上げただけでは?だとしても、やはりお粗末なやり口だ。貴方のお父上の方が余程上手にでっち上げられますよ。やり方、教わらなかったんですか?」
「パ、パパのことを悪く言うなっ!」


 顔を真っ赤にして言うテオバルトにエルンストは思わず噴き出しかけた。しかし、堪え切れず、肩がつい震えてしまう。くつくつと喉の奥で殺しきれない笑みを漏らしていると、怒りに震えたテオバルトが力強く机に拳を叩きつけた。鈍い音が部屋に響き、それと同時にエルンストの笑みも止まる。


「偽物だと言うなら証拠を見せてみろよ!」


 ぞんざいな口調で唾を飛ばしながら言うテオバルトにエルンストは不快感を露にしながら眉を顰め、そして嘲笑を浮かべた。その歪んだ笑みを向けられたテオバルトは口を開き、罵声を浴びせ掛けようとするも、それよりも先にエルンストがテーブルに散らばっていた書類を引き寄せ、そしてある一枚をテオバルトの目の前に突き付ける。


「な、何だ……これが何だって言うだ」
「まだ気付かないとは、貴方の目は相当な節穴らしい」
「無礼が過ぎるぞ!今すぐその発言を、」
「撤回なんてしませんよ。それに目が節穴でないのなら、貴方はただの大馬鹿者だとしか言いようがない」


 そう言いつつ、エルンストは目の前に突き付けていた書類をテーブルに叩きつけ、一番下に記されているゲアハルトのサインを指差す。それが一体どうしたというのだと声を荒げるテオバルトを鼻で笑い、彼はそこをとんとんと指先で叩く。


「だから貴方の目は節穴で、大馬鹿者だって言ってるんですよ、テオバルト監察官」
「わ、私をこれ以上、侮辱するならっ」
「パパが黙ってないぞー……ですか?言えるものなら言えばいいですよ。……まあ、もう一度パパに会える保証はありませんが」
「な……っ」


 エルンストの言葉と共に指がぱちんと鳴らされる。それと同時にテオバルトを始めとする医務室に詰め掛けていた兵士らが直立不動の姿勢になり、そのままばたんと床に倒れる。同様に身動きが取れず、倒れ込んだテオバルトを一瞥したエルンストは改めてテーブルの上の書類に視線を向ける。
 そして、どうして気付かないのかと呆れて物も言えないとばかりに盛大な溜息を吐くと、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そして、自身に向けられる殺意と恐怖で綯い交ぜになった視線にエルンストは口角を吊り上げて笑った。


「ほら、よく見て。……まだ気付きませんか?」
「……ぅ、っ」
「無理ですよ、声も出ませんから。貴方方の身体は俺の反転させた防御魔法で拘束してる状態ですから。……それよりも、いい加減に気付いて下さいよ、テオバルト監察官」


 貴方、それでもベルンシュタインの人間なんですか、とエルンストはわざとらしいほどに呆れ返って言う。そして、仕方がないなーと溜息混じりに言いながら、「答えはね、テオバルト監察官」とまるで子どもに語りかけるように口にした。


「ゲアハルト司令官の名前の綴りが違うんですよ」


 その言葉にテオバルトは目を見開いた。信じられない、嘘だと主張するように身を捩る彼にエルンストはこんなことで嘘なんて吐くかと溜息を吐く。そして、机から引き寄せたペンを手に、正解を記してやれば、彼は羞恥にさっと顔を赤くした。そこで漸く、自分自身の失敗に気付いたらしい。
 エルンストはその様を冷めた目で見つめていた。何とも馬鹿らしいと溜息を吐かずにはいられない。こんな人間を監察官として派遣するとはルヴェルチは一体何を考えているのだろう、と。御しやすいという点ではこの馬鹿息子は丁度いい存在だろう。そうでない理由で起用しているのであれば、それは実に愚かだと思わずにはいられない。


「まあ、でも丁度よかった。軍服欲しかったんですよ、俺」
「……っ」
「だけどテオバルト監察官のって俺には縦が短くて横が大きいし……これは大分作り直さなきゃ駄目だな」


 エルンストは倒れた拍子に床に落ちていた軍帽を被りながら、テオバルトの拘束を緩めることなく、手早く軍服を脱がしに掛かる。深紅の豪奢な装飾の施されたそれを見ながら、「後で型紙用意しないと」と呟きつつ、彼は肩に深紅の上着を羽織った。そして頬杖を付きつつ、悔しげに自身を睨みつけて来るテオバルトに対して笑みを向ける。


「テオバルト監察官、知りたいことがたくさんあるんですよ、俺」
「……」
「今更視線を外したって遅いですよ。この部屋に来た時点で貴方は負けだ。貴方如きは俺を捕えようなんて大それたことを考えるからこんなことになるんだ。身の程知らずなんだよ、あんたは」
「……っ」


 吐き捨てるような言葉にテオバルトは呻き声を上げる。恐らくは反論か罵声を浴びせ掛けようとしているのだろう。しかし、唇は動かすことすら出来ず、声帯を震わせることしか出来ない。先ほどまでとは打って変わった様子をエルンストは蔑みの目で見ていた。
 テオバルトらの監察によって何人の兵士が騎士団を追われ、捕縛されて連行されたかは知れない。それを思うと、募っていた苛立ちが爆発しそうだった。未だにもごもごと何か言おうとしているテオバルトに舌打ちしながらエルンストは彼の胸倉を掴み上げ、上半身を起こさせる。その身体の重さに一体何を食べたらこんなに肥え太るんだと思いつつ、怯えの色が混じるその顔を睨みつけた。言いたいことがあるなら言え、とテオバルトの口元を覆う防御魔法を解除すると、彼は声を震わせながら叫んだ。


「ぼ、僕にこんなことをしてただで済むと思っているのか!」
「……思ってるわけないだろ、そんなこと」


 地を這うような低い声にびくりとテオバルトは肩を震わせる。このようなことをして、無事でいられるとは思っていない。今後のことを思えば、冷静な対応をするべきだったということも、このようなことは決してするべきではなかったのだということも分かっているのだ。
 しかし、このような男を前にして黙っていられるほど、彼は冷静で落ち着いた人間ではなかった。テオバルトに傷つけられた仲間がいる、彼を始めとするルヴェルチらによって陥れられた仲間がいる。そして、美しい外見とは裏腹に嫉妬と憎悪に塗れた王城に一人放り込まれた仲間がいる。彼らのことを思えばこそ、エルンストは黙っていることも、テオバルトに従うことも出来なかった。
 今頃、ゲアハルトやレオはルヴェルチによって虐げられているかもしれない。アイリスはシリルの所為で周囲からきつく当たられているかもしれない。それなのに、自分は彼らに何も出来ないことが歯痒くてならなかったのだ。たった一人で周囲と戦っているであろうアイリスが危険な橋を渡っているというのに、自分はその場から少しだって動いてはいないではないか、と。


「俺の身が危険に晒されようが構わない。これまでも危ない橋なんていくらでも渡って来たんだ」
「そ、それが、」
「あの子だって、アイリスちゃんだって城で一人で頑張ってる。怖い思いしながら、それでも仲間の為に戦ってる。……だったら」


 テオバルトの胸倉を掴み上げる腕に力を入れ、エルンストは深い青の瞳に怒りを宿しながら真っ向から彼を睨みつける。そして、言葉を発する声音は意志の籠った強い響きを持つものだった。


「俺だってこれぐらいの危険な橋、渡り切ってやるよ。テオバルト、あんたの知ってることを全部吐かせてあんたの大好きなパパを敗北者として地面に這い蹲らせてやる」


 それが簒奪者にとって相応しい最期だ。
 そこまで言い切ると、エルンストは叩きつけるように掴んでいたテオバルトの胸倉を外した。体勢を崩した彼はそのまま重力に従って床に頭を打ち付け、痛みと父に助けを求める声を出し始める。不快だとばかりに防御魔法を張り直し、再び唸り声だけが聞こえ始める。
 しかし、エルンストはそれを黙殺すると、手始めにとばかりに懐から細みのナイフを取り出す。鈍色に輝く切っ先を見たテオバルトの目を見開き、何とか逃げようともするも、身体はその場に縫い付けられたかのようにほんの僅かにも動くことは出来なかった。その様をエルンストは蔑みに満ちた目で見下ろしながら「話したくなったらいつでも言ってよ、テオバルト監察官」と声を掛けながら、振り被ったナイフの切っ先をテオバルトに向けたまま彼は容赦なくそれを振り下ろした。



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