王城 - masquerade -



 エルンストからの連絡が届いてから早数日、アイリスは未だにゲアハルトやレオの居場所の手掛かりを掴めずにいた。何度か地下牢の近くまで足を運んだものの、何の確証もなしに足を踏み入れるには危険すぎる。シリルの許可は得てはいるものの、それを振り翳して何度も地下牢を出入りすれば、ルヴェルチを刺激することになるだろう。そうなると、二人を移動させられるかもしれず、エルザにも迷惑が掛かるかもしれない――それを思うと、エルンストの手紙にもあったように焦ってはならないのだということを思い出す。
 アイリスは二人の手掛かりを探る為に城内を歩いていた。緘口令が敷かれていても、そろそろ人の口が緩み始める頃合だ。何らかの手掛かりが得られるのではないだろうかと、なるべく人の多い場所に顔を出していた。それはアイリスにとっては苦痛を伴うことだ。それでも、この数日で向けられる視線の数も当初に比べれば減ったようにも思える。恐らくは、彼らの興味が失せ始めているのだろう。しかし、それと同時に未だ嫉妬と苛立ちを含んだ視線が目立つようにもなり、それを向けられる度にアイリスは身体を強張らせた。何度向けられても、そういった類の視線だけは慣れることが出来なかった。


「……っ」
「あら、ごめんなさい」


 そろそろエルザの元に戻ろうとした矢先、背後から歩いて来た女性の近衛兵がぶつかって来た。だが、廊下は決して混み合っているわけではなく、寧ろ広々としている。そんな中、思いっきり肩をぶつけて来たのだ。彼女は謝罪の言葉を口にして颯爽と歩き続けるも、一瞬向けられたその冷やかな視線の奥底に見え隠れする嫉妬に気付けば、今のが故意によるものだということは明らかだった。
 好奇の視線が減ると同時に、このようなことが増え始めた。歩いていればぶつかられるのは当たり前、階段を下りていれば背後から突き飛ばされるのも当たり前になっていた。当初は気付かず、勢いよくぶつかられてはそのまま倒れ込み、階段で突き飛ばされた時は危うく大怪我をするところだった。回復魔法を使うことが出来なければ、今頃自分は死んでいたかもしれない――そんなことを考えながら、アイリスは自分にぶつかっていった近衛兵の背中を見送った。
 痛む肩に触れながら、深い溜息を吐く。仕返しはまず出来ない。そのようなことになれば、近衛兵団から追い出されるのは自分だろう。相手から受けた嫌がらせであろうと、こちらから手を出せば、大袈裟なほどに騒いで自身を悪者に仕立て上げることは想像に難くない。悪者にされたところでアイリス自身は構わないと思ってはいるものの、ゲアハルトやレオを見つけられていないのに追い出されるのはやはり困る。それを思うと、耐えるしかなかった。
 幸いにも、嫌がらせの種類は多くはない。どのような場所にいれば何をされるのかは大体把握出来ているということもあり、大怪我が予想されるものに注意していれば、大丈夫なはずだと彼女は考えていた。出来ることなら止めて欲しいものの、自身が近衛兵団にいる限りは無理だろうとも思っていた。嫉妬というものはそう簡単に消え失せるものではない。


「……殿下があんなことするから」


 だからといって、アイリスが何も感じていないわけではない。事の原因であるシリルに対しての苛立ちは日々募る一方だ。近衛兵団に異動してから顔を合わせてはいないものの、同じ城内にいるのだと思うと、思わず顔を顰めてしまう。シリルの言動の所為でこのような目に遭っているのだと思えば、今すぐ一発殴ってやりたいぐらいの気持ちだった。
 しかし、近衛兵団にいるからこそ、城内を自由に動けるのだと思えば、決して悪いことだけではない。だからこそ、複雑な心境だった。シリルに対しては苛立ちもあり、怒りもある。しかし、城内に引き入れてくれたことを考えると、やはり感謝の気持ちはあるのだ。無論、それは純粋な感謝の気持ちではないが。
 あまり気にしないようにしていても、あのような嫌がらせの後はやはり気が滅入ってしまう。いつもの溌剌とした雰囲気は消え失せ、表情は憂鬱で暗いものだった。そんな顔で城内を歩くべきではないということは分かってはいるのだが、仕方がないと割り切れるほど、彼女はまだ大人ではなかった。兎に角、エルザの元に戻ろうと思考を切り換え、歩く速度を速めた直後――廊下の柱の影から現れた手がアイリスの腕を掴んだ。腕を掴まれているということに気付いた時には既に遅く、半ば強引に柱の影に引っ張り込まれる。嫌な予感が脳裏を過り、アイリスは咄嗟に口を開くも、声を出すよりも先に手で口を塞がれてしまう。


「……っ」
「しっ!……頼むから静かにしてくれ、オレだよ」


 身を捩って何とか拘束から抜け出そうともがいていると、頭上から焦ったような小声が聞こえて来た。心当たりのあるその声音にぴたりと身体を止めたアイリスは大きな目を瞬かせながら恐る恐る視線を頭上へと向ける。すると、そこにはよく知る赤い瞳の青年――レックスが立っていた。


「レックス……!あれ、でも……」


 しかし、いつもとは何かが違っていた。此処にどうしているのか、どうやって此処まで来たのか、無事だったのかなど、様々な疑問が脳裏を過るも、それらを一旦脇に除け、まじまじとレックスの姿を見つめた。そして、「その髪の色、どうしたの?」とトレードマークとも言える真っ赤な髪ではなく、黒髪の彼の姿に目を見開いた。


「染めたんだよ、此処に入り込む為に。実は、昨日から入り込んでたんだけど、なかなかお前と接触出来なくてさ……今まで心細い思いさせて悪かった。でも、これからはオレもこの城にいるから」


 だから、一緒に頑張ろうな。
 自分の頭に骨ばった大きな手を乗せるレックスにアイリスはきゅっと唇を噛み締めた。そうでもしなければ、緩んだ涙腺から一気に涙が零れてしまいそうだった。じわりと安堵感から浮かぶ涙で視界は滲み、目の前にいる彼の顔もよく見えない。それでも、少しだけ困ったように苦笑を浮かべている気配が伝わって来た。
 近衛兵団として入城してからというもの、ずっと心細かったのだ。エルザはいつも気遣ってくれていたが、彼女の優しさに甘えるわけにはいかないと気を張っていた。それに加えて、周囲からは腫れ物のように扱われ、この数日は嫌がらせも増えて来ていた。ゲアハルトやレオの行方を掴むことも出来ず、城の中にいるというのに何の役にも立てないことが悔しく、周囲からの視線や嫌がらせを受けて、それに滅入ってしまう自分が情けなかった。
 自分は少しも強くなんてないのだということを思い知らされたように感じたのだ。エルンストが言ってくれた言葉に応えられない自分が嫌で、情けなくて、悔しくて、少しでも挽回したいと思って行動しても、何の成果も出せていない。誰かが傍にいてくれなければ、何も出来ない自分を恥じ、責めたことは数知れず、その間にもただ、無為に時間だけが過ぎていく――そのことが、怖くて、申し訳なくて、苦しかったのだ。


「……大丈夫。一人では上手くいかなくても、二人でなら何とかなる」


 だからそんなに自分を責めることなんてないのだと、ぼろぼろと大粒の涙を零すアイリスの頬を両手で包み、少し屈んで視線を合わせながら彼は優しい声音で言った。胸に沁み入るその言葉が嬉しく、それと同じぐらいに情けなさも感じた。こんな風に泣くなんて子どものようだ、と。泣いている場合ではないというのに、涙は弱さの象徴なのに、という思いが胸の中を駆け巡る。
 けれど、一向に涙が止まる気配はなく、熱い涙が頬を伝う度、頭の中に詰まっていた様々な考えが流れ出ていくようだった。早く止めなければ、とアイリスは肩を震わせて小さくしゃくり上げながら目元を擦る。だが、すぐにその手はレックスにやんわりと掴まれ、「擦ったら赤くなるだろ」と苦笑混じりに言われてしまった。そして、軽く腕を引かれて抱き寄せられ、ゆっくりととんとんと規則正しいリズムで背中を叩かれる。それ以上は何も言わずに、ただただ背を叩くレックスの優しさに涙が止まらず、アイリスは声を押し殺して涙が止まるまで彼の胸に顔を押し付けていた。


「……ごめんね」
「いいって、オレは何もしてないから。……それにしても、酷い顔だな。鼻も真っ赤になってるぞ」


 ぐすりと鼻を鳴らしながら、暫くの後に涙が止まったアイリスはレックスからそっと離れた。目元に腫れぼったさを感じながら、このままエルザの元に戻れば泣いたことがすぐに見抜かれてしまう。どうしよう、と眉を下げていると、ちょんっと鼻をレックスに抓まれてしまう。涙が止まったことではっきりと見ることの出来る彼の表情は悪戯っぽく、髪の色こそ違えど、その顔はまさに常と変わらぬレックスそのものだった。
 やめてよ、と軽く顔を横に振って鼻を抓む手を振り払えば、しゃら、っと音が聞こえた。それと同時に「あ……、」という声も聞こえ、どうしたのかとアイリスは赤くなった瞳をレックスに向ける。すると、口元を押えて少しばかり頬を赤くしている彼と目が合う。が、すぐに大袈裟なほどに逸らされ、黒く染められた髪の隙間から見え隠れする真っ赤な耳に、アイリスはどうしたのかと首を傾げた。


「どうしたの?」
「別に……それ、使ってくれてるのかと思っただけだ。そんなことより、時間がないから本題に移ろう」


 それ、というものが何を指しているのか、アイリスは数瞬考え、レックスがカーニバルの時に贈ってくれた髪飾りだということに気付く。城に来てからは髪を結っているため、いつも付けているのだ。改めて礼を言わなければと思って口を開くも、それよりも先に彼は本題に話を切り換えてしまう。照れているらしく、少し強引に話を切り換えたレックスにアイリスは内心苦笑するも、時間がないことは事実である為、小さく頷いた。


「どうやって此処まで来たの?今は城の出入りも制限されてるし、新しく誰かを採用するとは思えないんだけど……」
「元々、昨日から警備兵として入城が決定していた人と入れ換わったんだ。だから、今此処でのオレの名前はロルフ・バルシュミーデということになってる」
「バルシュミーデって、ヒルダさんの……」
「ああ、親戚だって言ってた。エルンストさんはルヴェルチの監視だけでなく、……その、家からの圧力もあるみたいでさ」


 言葉を濁す様子からも、エルンストはまともに動ける状態ではないということが伺える。大丈夫なのだろうかと不安になるも、エルザも圧力に負けるような人ではないと言っていたのだ。きっと大丈夫だろうと自分に言い聞かせながら、「ヒルダさんの口利きなんだね」と口にする。
 バルシュミーデ家も軍閥貴族として有名な家系だ。そのため、城の出入りが規制されていても、予てからの予定通りに入隊が認められたのだろう。仮にこれが別の人間であれば、入隊はなかったことにされていたに違いない。ますますルヴェルチを代理執政官になどしてはおけないと思いつつ、アイリスは自身が着用している近衛兵団の深紅の軍服とレックスが纏っている警備兵の軍服があまりに違うことに気付く。
 色こそ同じ深紅ではあるものの、近衛兵団の軍服の方が金糸をふんだんに用いた凝った意匠のものだ。それに対して警備兵の軍服は質素なもので、王族を直接護衛する役目と王城を守る役目とで王族との距離感が違うにしても、これはやり過ぎなのではないかと改めて思う。それが顔にも出ていたらしく、「どうしたのか?」と問い掛けるレックスにアイリスは思ったことを口にした。


「まあ、距離感の違いもあるだろうけど、近衛兵団は貴族出身の奴らが多いからな。オレたち騎士団の兵士とは毛色も違うだろ?」
「だから……」
「アイリス?」
「ううん、気位の高い人が多いから納得がいっただけ。でも、それだとそのロルフさんも普通は近衛兵団に入隊するはずじゃないの?」


 近衛兵団には貴族出身の兵士が多いということで、アイリスは漸く嫌がらせの理由がはっきりと分かった。要するに、王族と近しい間柄になりたい、寧ろそれを目的として入隊している者が多いのだろう。縁談が回って来るのを待つよりも、近衛兵として近付いた方が余程機会が巡って来る。だからこそ、近衛兵団に所属する女性兵らは自分を目の敵にしていたのだろう――理由ははっきりとしたが、それでもやはりうんざりとした気持ちにはなる。アイリスは思わず顔を顰めたが、訝しむ表情を浮かべるレックスに何でもないと首を横に振り、疑問を口にした。


「ロルフさんの御両親の意向らしい。騎士団に入隊するにはまだ実力が足りていないから、警備兵として鍛錬を積んでからにしろって」
「何だかヒルダさんのお家らしいよね、そういうの。でも、替え玉なんてよく了承してくれたよね」
「そこが問題だったんだよ。……エルンストさんとバルシュミーデ団長が言い聞かせて何とか了承まで漕ぎ着けたけど、その人、完璧主義の人でさ。こうなったら自分という人間を叩き込んでやるーって入隊日までの間にみっちりと色々叩き込まれたよ」


 その時のことを思い出したのか、レックスの顔は青くなる。ヒルデガルトとは気が合うらしく、時折剣術の鍛錬を共に積んでいるところを見かけたことがあるものの、彼女の親戚のロルフとは合わないらしい。鍛錬に関して、滅多に顔を青くするようなことのない彼にとっては珍しい様子であり、ロルフがどういう人物であるのかが気になって来る。
 彼が了承してくれたからこそ、レックスは今此処にいるのだと思うと全てが終われば、一言感謝したいと思った。会う機会があればいいのだがと思いつつ、話は本題に戻る。どちらもまだゲアハルトとレオの居場所を掴めていないということで二人は顔を合わせて溜息を吐いた。だが、警備兵として入り込んでいるレックスは王城の出入りに関しても調べることが出来る為、城から二人が連れ出された形跡がないということだけははっきりとしていた。


「やっぱりどれかの地下牢だろうな」
「地下牢の警備って警備兵の管轄だよね。それでも分からない?」
「オレは下っ端の下っ端だからな。城内の警備もまだ任せてもらえない。……でも、何とか探るよ。その為にオレは此処にいるんだから」


 その言葉にアイリスは自身が何の為にこの場にいるのかということを思い出す。シリルを恨むことでも、近衛兵団の女性兵らの嫌がらせに悩むことでもない。エルザを守り、ゲアハルトとレオを助ける為にいるのだ。その為にこの場にいるのだ、他のことを気にしているような暇はなく、形振りなど構っていられない。
 アイリスは深く呼吸を繰り返し、自分自身を落ち着ける。自分のことばかりに気がいって、本来の目的を見失っては本末転倒ではないかと思いつつも、漸く目が覚めた気がした。赤く腫れてしまってはいるものの、それでも瞳にはいつもの光が戻り、表情もすっきりとしたものに変わっていた。


「……そうだよね。わたしもレックスも、司令官とレオを助ける為にいるんだもんね。多分きっと、それが正しいことだと思うから」

 
 頷くレックスにアイリスは小さく頷き返し、ふうと息を吐き出す。肩に入っていた力を抜き、改めてこれからしなければならないことを話し合う。今後、定期的に情報を交換しながらアイリスはルヴェルチの監視、レックスは地下牢の警備兵に接近して情報を得るということになった。
 ルヴェルチの監視など危険だとレックスは言い張ったが、アイリスは決して譲らなかった。地下牢のことをいくら探ろうとしても、この点に関しては実際に警備業務が割り振られている警備兵のレックスの方が向いている。ならば、無理に自分が探してルヴェルチに勘付かれるよりも、彼の行動を監視した方が余程いいように思えたのだ。


「大丈夫、無理はしないから。わたしの方がレックスよりも自由に城の中を動けるんだから」
「それはそうだけど……」
「こっちの状況をエルンストさんにも伝えた方がいいだろうし、ある程度状況を掴んでなきゃこっちは後手に回るしかなくなるよ」
「……そのことなんだけどさ、実はこの数日、エルンストさんが連絡が取れてないんだ」


 言い辛そうにレックスが口にした言葉にアイリスは目を見開いた。この数日、エルンストから連絡が来ていないのは自身も同様だが、それは単に連絡を控えているからだと思っていた。だが、これまで外に逃がした第二騎士団のレックスを始めとする数名とはそれほど間を置かずに連絡を取り合っていたらしい。
 主に鳥を使って間を置かずに連絡を取り合っていたというが、この数日間はいくら待っても連絡が付かないらしい。何かあったのではないかと思うも、迂闊に宿舎に近付くことは出来ない為、エルンストの身に何が起きているのかが分からないとのことだった。その言葉にアイリスは至極心配げな表情を浮かべる。万が一のことがあったとしたら、何かしらの騒ぎになるはずだ。王家との繋がりがある貴族の子息なのだ、何の噂にもならないはずがない。
 だからきっと大丈夫なはずだ、何か理由があって連絡を取っていないだけだとアイリスは自分に言い聞かせるように口にする。レックスも今現在の指揮を執っているのはエルンストだということもあり、やはり不安に感じているらしく、表情にありありと現れていた。


「……だったら尚更、今自分に出来ることをやるしかないよね」
「そうだな。……それじゃあ、オレはもう行くよ。無理するなよ、アイリス」
「レックスもね」


 名残惜しげにしながらも、レックスは持ち場に戻るべく足早に歩き出した。その歩みに迷いはなく、離れていく凛としたその背中がアイリスには眩しく見えた。これまでの自分の歩みはあのように真っ直ぐで凛としたものだっただろうかと考え、すぐに首を横に振る。
 決してそのようなことはなかった。迷い迷って、顔も下を向いていただろう。だが、もうそんなことをしているわけにはいかないのだ。レックスのように、真っ直ぐに迷いなく進みたいと、負けたくないと心の底から思ったのだ。アイリスは一つ息を吐き出して頭を切り換えると、レックスが歩き去った方向とは反対を向き、ゆっくりと、しかし堂々と顔を上げて一歩を踏み出した。













「どうだったんだよ、カサンドラ」


 がちゃり、と扉を開けるとソファからブルーノの声が聞こえた。寝そべっているらしく、その姿は視界には映らないものの、連日の暑さで彼が参っているのだということはその声音から伺えた。ゼクレス国は帝都よりも南に位置し、本国よりも気温が高い。とは言っても、ベルシュタインよりも北に位置している為、まだいくらかは涼しいのだ。
 それでもうんざりとした暑さにブルーノは顔を顰めている。カサンドラは彼が寝そべっているソファの向かい側に腰掛けながら、暑いのならば被っているローブを脱げばいいのに、と思いつつ溜息を吐く。ブルーノがそれをきっちりと頭から被っている理由を彼女は知っている為、敢えてそれを口にはしないが、脱いだところで誰も気にしないということをそろそろ分かればいいのにとは思うのだ。
 暑苦しい見た目のブルーノから視線を逸らしながら、カサンドラは「本隊壊滅は毒に因るものだったわ」と口にする。つい先ほどまで、ベルンシュタインが置いていった毒入りの兵糧に手を付けて死者が続出した本隊から運ばれて来たいくつかの死体を解剖していたのだ。その結果、死因は毒物による中毒死であるということが確定した。


「解毒剤は?」
「作っても無駄よ。同じ毒をそう何度も使うような人ではないもの」
「……うちは何度も使ってるだろ」
「経費と人員の問題よ。それに、たとえ解毒剤を作られていたところで困ることはないわ。それを使用出来る人間の絶対数が少ないもの」
「つまり、解毒が間に合わないってことか?」


 気だるげに言うブルーノにカサンドラは頷きながら、ローテーブルに置かれていた扇子を手にする。それで自身に風を送りながら、結い上げた赤い髪に触れた。
 どれだけ解毒剤が用意されていたとしても、それを使用出来る者が少なければ解毒を必要する全ての人間にそれが行き渡ることがない。何より、ベルンシュタインの兵力は決して多くはない。ゲアハルトの機転と策によって今もそこに在り続けているが、彼がいなければ既にヒッツェルブルグ帝国に膝を付いていても何らおかしくはないほど、人数的には頼りない兵力だ。そんな彼らが十分な人数を後方支援に回せるはずがなく、少数の人間が動き回って何とか成り立っているのが現状だということをカサンドラはよく知っていた。


「それが分かってるならベルンシュタインも対処してるんじゃないのか?」
「そこまでの余裕はないわよ。後方支援、特に回復魔法や医療行為が出来る人間を育てることは簡単ではないもの。それに時間を費やすより、単純に練兵に費やした方が余程効果があるわ」


 だからこそ、帝国軍本隊も毎度、手こずるのだ。兵力こそ少ないものの、一人一人の実力が高く、数に物を言わせている帝国軍とは正反対の軍隊だ。しかし、彼らを一つにまとめることの出来る数少ない人物は既にいない。国王であるホラーツはブルーノによって亡き者にされ、ゲアハルトは失脚している頃だ。そんな中、常と変わらぬほどの統率力を発揮出来る人材はベルンシュタインにはいないだろう。
 その間に体勢を整えなければと考えていると、ぺらりと数枚の紙がブルーノから投げ渡される。テーブルに広がったそれらをまとめていると、「さっき届いた橋の再建に関する書類だってよ」と彼は溜息混じりに言う。その口振りや様子から既に目を通した後であり、芳しくない内容であるということが伺える。
 しかし、だからといって自身が目を通さないわけにはいかない。寧ろ、この書類は指揮官であるカサンドラに宛てられたものだ。死亡したダールマンが指揮を執っていた本隊の生存者らは既に手筈通り、橋を架け直すべく昼夜を問わず動いている。しかし、その進行は遅々とし、未だ必要物資の確保も完了していないのだ。


「属国から必要物資を調達、それをこっちか対岸に集めて人員を徴発して動かしても完成までは早くて一年と半年、だとさ」
「……そんなの、待っていられるわけないじゃない!」
「叫ぶなよ!つか、そんな文句を俺に言われてもどうしようもねーだろ。一番重要な支柱がぼきっと折れてんだから」


 フードの上から耳を抑えながらブルーノは苛立たしげに癇癪を起し、爪を噛むカサンドラを睨んだ。しかし、彼女はそんな視線に気づくことなく、足元に目を通した書類を叩きつける。とてもではないが、一年と半年など、橋の完成まで待つことは出来ない。橋がなければ、ベルンシュタイに行くことが出来ないというわけではないものの、軍を動かす際には橋を渡ってベルンシュタインをクラネルト川流域から攻める方がより多くの兵士を比較的短い時間で動かすことが出来るのだ。
 だが、今度少なくとも橋が再建される一年半後まではその手段が使えない。ベルンシュタインを攻めようと思えば、倍以上の時間を要するリュプケ砦方面から攻めなければならないのだ。しかし、そちらの経路から攻めれば、行軍に時間を要する為、その間にベルンシュタインは迎撃態勢を完璧に整えてしまう。
 しかし、不幸中の幸いか、今現在のベルンシュタインにはゲアハルトのように統率力をもって事に当たることの出来る者は決して多くはない。つまり、両者とも、動くに動けない状態にあるとも言うことが出来る。これはカサンドラが望んだ展開でも、予想していた展開でもない。そのため、これから一体どのように動くことが最良なのかと彼女は頭を悩ませる。次の失敗は決して許されないのだ。


「それにしてもすっげーぼっろぼろにされたな、あの橋。あそこまでする必要あったか?」
「ないわよっ!いくら橋の破壊命令が出ていたそていもあそこまで叩き壊すなんて……いくら何でもやりすぎよ」


 声を荒げ大きく肩で呼吸を繰り返すカサンドラはすっかりと興奮し切っていた。常の冷静さは消え去り、橋を破壊されたことへの怒りと再建までかなりの時間を要するということに焦りを感じていた。最重要施設を破壊されたのだ。決して許されることではなく、カサンドラは今後与えられるであろう罰に対して眉を寄せる。
 今回の橋の一件に関しては、カサンドラがゲアハルトの策を読み切れなかったが為に起きたことだ。そのことは認めているものの、だからといって自分一人に非があるというわけではない。橋を守り切れなかった他の鴉に所属する面々にも非はあるだろう。だが、何もカサンドラは与えられる罰が恐ろしいわけではない。それ以上に、現在彼女主体で進められている黒の輝石の研究から外されることの方がずっと怖いのだ。


「……絶対許さない」


 ぼそりと呟かれたその言葉は底冷えのする声音で思わずブルーノは口を噤んだ。しかし、そんな彼に気付くこともなく、カサンドラは苛立ちのままに足元に散らばる書類を踏みつける。一際高いヒールの音が室内に響いた。
 そんな中、不意に慌ただしい靴音が扉の向こうから聞こえて来た。また何かあったのだろうかと考えていると、「しっ失礼致します!」と焦った様子の兵士が居室に飛び込んで来た。
 それまで寝そべっていたブルーノも身体を起こし、緊張に顔を強張らせている兵士に向けて「何があったんだよ」とカサンドラに代わって声を掛ける。さすがに今の不機嫌そのものの彼女に対応させるわけにはいかないと思ったらしい。


「ヴィ、ヴィルヘルム殿下がお見えになりました……!」


 その言葉にカサンドラとブルーノは目を瞠り、そして互いの顔を視合った。ヒッツェルブルグ帝国皇子であり、特殊部隊鴉を取り仕切る人物であり、今は本国で黒の輝石の使用調査を行っているはずだ。一体そんな彼がどうして此処にいるのかと柳眉を寄せながらも、既に待っているらしい相手をこれ以上、待たせるわけにはいかない。
 仕方がないと溜息を吐いたカサンドラはブルーノに「行きましょう、ブルーノ」と声を掛け、素早く居室を後にし、ヴィルヘルムが待っているという部屋に向かって歩き出した。




130210




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