王城 - masquerade -



 宿舎を飛び出したアイリスは鍛錬場の隅に座り込んでいた。バイルシュミット城の中で彼女が落ち着ける場所など決して多くはなく、気付けば足が通い慣れたこの場所へと向いていたのだ。鍛錬場の室内は暗く、月明かりが青白く場内を照らし出していた。
 鍛錬場には幸いなことに誰もいなかった。誰も来ない場所というわけではないものの、騎士団の鍛錬場に比べれば使用している者はあまりにも少なすぎるほどの人数しかアイリスも見かけたことはなかった。今日もそうらしく、アイリスが鍛錬場を後にしてからは誰も来ていないらしい。
 どうしてなのだろうかと疑問に思っていた。立派な鍛錬場があり、王家の護衛という重責があるにも関わらず、鍛錬場で鍛錬を積む者はとても少ない。ごく一部の者が鍛錬場を使用しているところしかアイリスは見たことがなかった。その理由は、先ほどアイリスが手を上げた女性兵士が何気なく言った言葉そのものなのだろう。


「……あんな人たちなんかの為に、戦って来たわけじゃあないのに」


 王族は兎も角としても、決して貴族を守る為に戦って来たわけではない。ベルンシュタインという国に彼らが含まれているのだということは重々分かっているものの、それでもやはり、貴族層の者たちの為に戦って来たわけではないのだ。ベルンシュタインに生きる者の幸せを守りたい――その気持ちに嘘はないが、あのようなことを言われて、黙っていることなど出来るはずもなかった。
 戦いの最中、死んでいった者は多くいる。彼らの中に誰か一人でも貴族を守らなければと思って戦っていた者がいただろうか。彼らを守って死ぬことを光栄だと思った者がいただろうか。いたなどと、アイリスは考えられなかった。
 この国を成り立たせる為には貴族は必要な存在であるとはアイリスも分かっていた。しかし、あのように守られて当然だという態度を決して許すことが出来なかったのだ。少なくとも、アイリスは彼らの為に戦ったことはなく、そこに喜びも誉れも感じたことはない。そして、恐らくそれは他の誰にでも言えることだろう。
 アイリスは膝を抱え、そこに顔を押し付けた。掌は未だに痛む。けれど、それ以上に心の方が痛かった。これまで自分が確かに持っていた矜持を踏み躙られたように感じられたのだ。それと同時に、もう一つ、思うところがあった。


「お、いたいた。そんな端っこで何やってるんだよ」
「……レックス」
「探したんだぞ?色々報告しなきゃいけないことが……何かあったのか?」


 静まり返っていた鍛錬場に足音が響き、その数瞬後には明るい声音が響いた。薄暗闇に隠れた姿を確認するまでもなく、それがレックスのものであることはすぐに分かった。色々と報告しなければならないことがある、という彼の言葉にアイリスは顔を上げ、何だろうかと思うも、それを訪ねるよりも先に彼女の異変に気付いたレックスの心配げな顔が月明かりに照らし出された。
 何かあったのか――その問いに何と答えようかとアイリスは迷った。先ほどのことをそのまま彼に伝えるべきだろうかと思う反面、要らぬ心配をかけたくもなかった。それが今更な考えであるということも分かってはいたのだが、いつまでも心配を掛けたくはなかったのだ。
 それでも、こうして自分のことを気に掛けてくれるレックスに対して嘘を言うことは憚られ、アイリスは「……あのね、」と先ほどの出来事を訥々と語った。レックスはその間、何を言うのでもなく、彼女の言葉に耳を傾けていた。静かな鍛錬場に聞こえるのはアイリスの声だけだった。


「……そっか。オレもアイリスが言ったことは間違ってないと思う。多分、オレがお前の立場でも同じことを言ってた」
「……」
「でもさ、手を出すのはお前の間違いだよ。何を言われても、こっちから手を出すべきじゃなかった」


 今の状況で騒ぎは起こすべきではなかったし、今でも危ない立場がより危険さが増すだけだった。
 その言葉にアイリスは小さく頷いた。分かっていたことだ、騒ぎを起こせば自分の立場が危うくなるということも自分を預かりとしてくれているエルザに対して迷惑を掛けるということも。それでも、気付いた時には手をあげていたのだ。何を言われても、それだけはするべきではなかったのだという後悔がアイリスの心の中にはあった。
 耐えなければならなかったのだ。どれだけ罵られようと、蔑まれようと、貶されようとも、それがたとえ自分ではなく、仲間に対して向けられたものであったとしても。それが出来なかったのは、冷静でいられなかったからだ。我慢することの出来なかった自分の弱さが招いたことだ。


「……分かってる、分かってるよ。わたしが我慢するべきだったんだってことは」
「アイリス……」
「だけど、どうしても我慢出来なかったの。あの人たちを守る為だけにわたしたちは戦って来たわけじゃない。あの人たちなんかの為に、アベルは残ったわけじゃ……」


 橋を落とすことが出来なければ、作戦は失敗し自分たちも生き残ることは出来なかっただろう。そして、帝国兵らを勢い付かせ、本隊を劣勢に追い込んでいたかもしれない。それを分かっていたからこそ、アベルはあの場に残り、確実に橋を落として作戦を成功させることを選んだ。
 それによってアイリスらは生き残り、本隊にも影響が出ることはなかった。だが、少なくともその時、王家の為、貴族の為、という考え方はなかった。誰一人として抱いている者などいなかっただろう。誰もが生き残る為、周りの仲間の為、国の為にと戦っていたのだ。そんな彼らに対して、自分たち貴族を守れることを光栄に思えなどとよく言えたものだとアイリスは唇を噛んだ。


「……アイリス、もうアベルのことは……」


 顔を俯けるアイリスにレックスは控えめに口を開いた。続く言葉が何かは、考えるまでもない。もうアベルのことは考えるな、とそう言いたいのだということは躊躇う素振りを見せるレックスの態度から容易に読み取ることが出来た。
 それでも、はっきりと言うことが出来ないのは彼が優しいからだろう。その優しさに自分は甘えているのだという自覚もあった。今もこうして口にしてくれていることはレックスが自分のことを思ってだということも分かっているのだ。けれど、だからといって向けられる優しさを全て受け入れることは出来ない。それが申し訳なくもあり、情けなくもあった。


「分かってる、……分かってるよ。レックスが言おうとしてることは分かってる。……わたしの中でも、アベルのことを考えない日が増えてるの。でもね、わたしはそれが怖くて仕方ないの」
「……」
「いつか考えなくなるだけでなく、アベルのことを忘れてしまうんじゃないかって。何もかもをなかったことにして、わたしはアベルのことを忘れるじゃないかって……そう思うと、怖くて怖くて仕方ないの」


 親しくしていたと、少なくともアイリスはそう思っていた。そんな相手を目の前で失って、それを受け入れ、いつか忘れ去ってしまうのかもしれないと思うと、こうして日々の中で少しずつ彼のことを考える時間がなくなっていくのが怖かった。それに気付くと、どうしようもなく怖くて仕方なくなった。
 アベルは忘れて欲しいと、とそう言った。だが、アイリスは彼のことを忘れたいなどとは思っていない。前に進む為に、レックスが言わんとしていることは分かってはいるけれど、それでも忘れたくはないのだ。それにも関わらず、頭は少しずつ彼のことを考えくなる。失った存在のことを受け入れ、ぽっかりと空いていたはずの場所が埋まりつつある。
 それは自然なことではあった。そうやってアイリスは養父の死を受け入れた。ならば、アベルのことも同様に受け入れて然るべきだとも彼女自身は思うのだ。だが、感情と理性が出す答えは必ずしも一致するとは限らない。


「アベルがいない今が当たり前になっていくの、……それが当たり前のことだとしても、わたしは……」
「……アイリスがそうやって悩むことを、多分きっと、あいつは望んでないと思う」
「分かってる、アベルはそういう人だっていうのは、……でも」
「近衛兵団の人たちにアベルのことごと馬鹿にされて腹が立って、頭がぐちゃぐちゃになってるんだ。……アイリス、いいか。アベルのことを思うなら、お前は前に進むことだけを考えろ」


 あいつが繋いでくれた命だと思うなら、自分のことをもっと大事にしろ。
 俯く顔を半ば無理矢理持ち上げられ、紅い瞳と視線が重なる。そこで漸く、自分が顔を俯けていたのだということに気付く。あれだけゲアハルトやレオに顔を上げるように言っておいて、自分は顔を下げていたのか――頭のどこか、冷静な部分でアイリスは淡々と考えた。
 アベルが逃がしてくれたからこそ、今も自分は生きているのだと思っている。だからこそ、彼の分まで生き延びなければならない。その為には、どれだけ辛くとも前を向かなければならないのだ。前を向いて一歩一歩歩いて行かなければならない。それは生きているからこそ出来ることであり、生き残ったからこそしなければならないことでもあった。


「お前が今、一番に考えなきゃいけないことは?」
「……司令官と、レオを助けること」
「そうだ。二人を助ける為に、オレたちが此処で出来ることをしなきゃいけない。……そのことを、忘れるなよ」


 全部終わったその時に、またどうするか考えよう。
 その言葉には恐らくはアベルのことを含まれているのだろう。未だ、彼の確かな死亡報告が届いているわけではない。それでも、あの一件から既に半月以上が経過していることもあり、生存している可能性は極めて低い。ならば、彼の為に出来ることはあと一つだけとも言えた。
 身体はなくとも、ちゃんと弔おう――レックスが言わんとしていることはそれだ。アイリスはこくりと小さく頷き、深く息を吐き出す。細く長く息を吐き出すそれは、まるで少しずつ自分の中に残るアベルへの思いを解き放っているかのようでもあった。いつまでも大切に抱えていては、少しだって前に進めない。だから、今は、少しの間だけ、自分の外へと出さなければ、と。その間、レックスはただ黙って優しくアイリスの背を撫で続けていた。少しでもささくれ立った心が落ち着き、前を向けるようにと願いつつ。



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