王城 - masquerade -



「丁度いい、少し付き合え」


 エルンストと別れた後、アイリスはルヴェルチの居場所を探すべく当初の目的へと向かって歩いていた。しかし、あともう少しで到着するというところであまり出会いたくはなかった人物、シリルと鉢合わせてしまったのだ。どうして此処に彼がいるのだろうかと思う反面、引き連れている文官らの手に書類があることを思えば、何かしらの会議をしていたのだということが伺えた。
 アイリスは関わり合いにならないようにと一礼してすぐに脇を擦り抜けようとしたのだが、擦り抜ける間際に腕を掴まれて一言、付き合うように言われたのだ。一体何なのかと問うよりも先に引き連れていた文官らをシリルは解散させ、その場には彼と二人きりになってしまった。
 気まずさに視線を逸らしていると、「来い」と言われると同時に軽く腕を引かれる。アイリスは「お放しください、殿下。わたしは他にすることが、」と声を掛けるのだが、それをシリルは黙殺し、彼女の腕を引いて歩き出してしまう。半ば引き摺られながらもアイリスは手を振り解こうとしたが、存外、シリルの膂力は強かった。いくら振り解こうとしても手首が解放されることはなく、暫くの後に彼女は溜息と共に抵抗を諦めた。


「……此処だ」


 一体何処に連れて行く気なのだろうかと考えつつ、引っ張られるがままに足を動かし続けた後、到着したのは城の庭園だった。手入れの行き届いたそこは以前、エルンストと共に王城警備に当たった場所とはまた違う、城の中に作られた中庭のようだった。その美しい庭園を目を細めて見つめつつ、どうしてシリルは自分をこの場に連れて来たのだろうかと考える。
 このような場に用があるとは思えず、アイリスが用事について考えていると引っ張られていた腕が解放された。それと同時に彼女はシリルから幾分か距離を取り、「この庭に何用でしょうか」と問い掛けた。しかし、シリルはそれには答えず、そのまま庭園の隅の小屋へと歩き出してしまう。
 一向に答えようとしないシリルにアイリスは呆れた様子で溜息を吐きつつ、このまま踵を返すことも躊躇われた為、致し方ないとその背に続いて歩き出す。それでもある程度の距離を置き、周囲に注意を配っているとシリルは小屋の中に入って行った。いくら何でもそれに続いて入ることは出来ず、彼女は小屋の傍で足を止めた。
 それほど古くはない小屋ではあるものの、美しい庭園の隅にぽつんと建てられたそれは周囲の整えられた景観の中では一際目立つ存在だった。この中に何があるというのだろうかという好奇心が鎌首を擡げるも、アイリスは頭を振って好奇心を外へと追いやる。その代わりに夏の燦々と降り注ぐ陽光をいっぱいに受ける庭園の草花へと視線を向けた。
 暑い夏の盛りもそろそろ終わりに差しかかろうとしている。未だ日中は暑いものの、夜はまだ幾分か過ごしやすくもなった。季節が変わる前に現状が少しでも改善され、ゲアハルトやレオが表に出てきても大丈夫になればいいのに――そんな漠然とした願いを考えていると、視界の前をいつの間にか小屋から出てきていたシリルが横切った。


「あの、」
「どうせすることもないのだろう。暫く私の護衛をしろ」


 それだけ言うと、シリルは小屋から持って出て来たイーゼルにキャンバスを立てかけるとすぐにまた小屋に取って返した。どうやら今からデッサンをするつもりらしい。しかし、アイリスも何をするかまで彼に言うことは出来ないものの、しなければならないことはあるのだ。
 しかし、護衛に就くことが出来ないと伝えようにも椅子と共に絵具などを抱えて出て来るシリルと目が合えば、言葉ではなく溜息が口から出た。そんなに絵具を抱えて片手で椅子を持って歩けば、落としてしまうのではないかという心配が上回ったのだ。我ながら甘い、とアイリスは内心自分自身に呆れながら「お持ちします」とシリルが持っている絵具を受け取った。


「貴様はそこの日陰にいろ」


 所定の位置に画材を用意したシリルは椅子に腰かけると早速、庭園の様子を見つつ真新しいキャンバスに木炭を走らせ始める。それを少し離れたところから眺めつつ、護衛なんて必要ないのではないかと考えていた。それほどまでに周囲には人の気配すらなく、静まり返っていたのだ。
 それを不思議に思っていると、「静かだろう」という声が聞こえて来た。アイリスが何も答えずにいると、「この東の中庭は普段、人の立ち入りを禁じているからな」と人の気配もなく、静まり返っている答えをシリルは口にした。その言葉に納得する反面、アイリスは僅かに身構える。やはり何としても振り解くべきだった、護衛なんてすぐに断るべきだったという考えが脳裏を過る。
 しかし、今ならばシリルを説得することも出来るのではないかとも思った。彼の言葉が確かならば、この場には自分とシリルの二人しかいない。誰にも邪魔されることなく、ゲアハルトとレオの解放は無理でも待遇の改善ぐらいは説得出来るかもしれない。あのような夏場にも関わらず、ひんやりと寒い場所より幾分もましなところは他にあるはずであり、それを伝えることの出来るいい機会だとアイリスは思い直し、デッサンに勤しむシリルの横顔に視線を向けた。


「……殿下、お願いがあります」
「何だ?」
「ゲアハルト司令官とレオ殿下の待遇を改善して頂きたいのです。あのような地下牢では、二人とも身体を悪くしかねません」
「ああ、そう言えば地下牢に行ったのだな。あそこは夏でも肌寒い場所だ、長期間、そのようなところにいれば体調も崩すだろうな」


 それで、その代わりに貴様は何が出来ると言うのだ。
 先ほどまでと何ら変わらぬ声音でシリルは代価を問う。二人の待遇を改善する代わりに一体何が出来るというのか――その問いに対する答えがすぐには見つからず、アイリスは言葉を詰まらせた。何でも、などと言えば何を言われるか分かったものではない。自分に出来る何ならば、シリルに認めさせることが出来るのだろうかとアイリスは口を閉ざして考えていると、僅かな間の後に彼は肩を小刻みに震わせて笑い出した。


「冗談だ。心配せずとも、レオはすぐに出してやる。ゲアハルトは無理だがな」
「え?」
「もうすぐあいつの王位継承権の剥奪が決定する。今日はその会議だった」


 継承権を剥奪した後はどうでもいい、すぐに牢から出してやる――シリルは然も平然とその言葉を口にした。しかし、既にそこまで話が進んでいるとは思いもしなかったアイリスは目を瞠り、言葉にならなかった。レオの王位継承権が剥奪されれば、確かに彼は牢から出ることは出来るかもしれない。しかし、ベルンシュタインの王位継承権を所有する者は一人となり、シリルの即位が確定する。
 本当にそれでいいのだろうかと問うまでもなく、シリルが自動的に王位に就くのだ。そうなれば、キルスティの願いは成就し、それだけでなく、現在は代理執政官であるルヴェルチも宰相などの重役に就く可能性さえある。何より、たとえ王位継承権を剥奪されたとしても、キルスティがレオに何もしないという確証はないのだ。
 考え得る先のことにアイリスは僅かに顔を青くする。どれだけ考えても、この国にとって益になるとは思えないのだ。レオが継承権を剥奪されなかったとしても、後ろ盾のない彼に出来ることは少なく、王位に就くことは本人の希望の有無に関わらず難しいだろう。それでも、選択肢があるのとないのとではやはり違うはずだ。しかし、ベルンシュタインの未来に関わる次期国王の選択肢は失われようとしている。


「……殿下、それは」
「あいつの王位継承権剥奪は私の願いそのものだ。あいつに玉座に座らせるわけにはいかない」
「……それがこの国の将来に関わる選択肢を減らすものだとしてもですか?」
「ああ。この国の将来よりもこの国に生きる人間よりも、私にとっては大事な願いだ」


 そこまで玉座に就きたいのか、とアイリスは唇を噛み締める。国よりも国民よりもレオの王位継承権を剥奪することの方が余程大事だと言うシリルに対して不快感を露にするも、彼はそれを気に留めることなく「貴様に理解されようなどとは思っていない」とあっさりと口にする。
 しかしそれは、アイリスに対してというよりも周囲に対して吐き出された言葉のようだった。誰かに理解されようとは思っていない、その言葉の裏側に一体どのような思いが込められているのか、アイリスは気付くことが出来なかった。


「この城の来て、貴様はどう思った?」


 それから暫しの間を置いて、シリルは唐突に口を開いた。漠然としたその問い掛けにアイリスは困惑した表情を浮かべながら、「どうと言われましても……」と言葉を濁す。美しい城だと思っていた。煌びやかな場所だとも思っていた。それは決して間違ってはいなかったけれど、それ以上に嫉妬と憎悪に塗れた場所であると今は思っている。
 それをそのままこの城で生まれ育った人間に言っていいものかと迷っていると「私には、この城はまるで仮面舞踏会のように思えてならない」と視線をキャンバスに向けたままシリルは口を開いた。


「美しく着飾り、笑みという仮面を被って誰もが動き回っている。その下では嫉妬や憎悪に塗れた醜悪な本性が隠されている、そう思わないか?」


 ちらりと向けられたその瞳は酷く冷めたものだった。この城にいる全ての人間を一切信用などしていないと言わんばかりのその様にアイリスは何も言うことが出来なかった。誰のことも信用できず、頼ることの出来ないこの場所で彼は一体どうやって生きてきたのか、シリルが口にした言葉の意味を考えると、想像することさえ出来ず、彼が抱える暗い部分を覗き見た気がした。









 画材を小屋に片付けたシリルはアイリスに帰るように促すと、その足で自室へと向かって歩き出した。絵画は趣味の一つだった。煩わしい政務とは違い、自分で好きなものを好きなように描くことが出来る絵画は嫌いではなく、同様に楽器を演奏することも嫌いではなかった。
 そういった芸術に没頭する反面、剣術や軍事に関しては全くと言っていいほど興味や関心がなかった。剣など滅多に握ることもなく、身体を鍛えることもしない。ホラーツに連れられて戦場に行ったことなど片手の指で足りるほどの回数だ。そういうこともあって特に軍部からは次期国王とは認められないと言われているということもシリルは知っていた。
 だが、そのようなことはどうでもいいのだ。シリルにとっては瑣末なことでしかなく、不得手なことをしようとは元々思っていない。そういうことを得意な者にやらせればいいのだと考えている。彼にとって今最も集中していることはレオの王位継承権を剥奪することであり、それ以外のことはどうだってよかったのだ。


「どういうつもりなのよ、ルヴェルチ!」


 丁度、母親でありキルスティの居室の前を通りかかった時だった。居室から聞こえて来た甲高い声にシリルは足を止めた。周囲を見渡してから扉に近付き、音を殺してそっと扉を薄く開ける。室内を覗き込めば、苛立ちを露にしたキルスティとルヴェルチの後ろ姿が見えた。


「いつまで時間が掛かっているのよ、さっさとあの子から継承権を剥奪してシリルを王位の就けなさいよ!」
「ですから、継承権の剥奪には手続きが必要だと申し上げているではありませんか。剥奪を強行すれば、シリル殿下の印象が……」
「そんな悠長なことを言っている間にあの子が軍部の連中に担ぎ上げられでもしたらどうするのよ。ルヴェルチ、貴方は責任が取れるんでしょうね」
「キルスティ様、ですから」


 キルスティが何よりも自身の国王就任を願っているということは知っていた。そのような座をシリル自身は求めてはいないものの、それをはっきりと母親に伝えたことはない。伝えたところでどうにかなるものではなく、キルスティが怒り狂うだけであるということは目に見えているということもあった。
 彼女がルヴェルチと手を結んでいるということを知ったのは数か月前のことだった。未だに国王の座をシリルとレオのどちらに譲るかを決めようとしないホラーツに対して、彼女は業を煮やしていた。そして、その頃に接近して来たルヴェルチと手を結んだのだ。しかし、その交換条件についてはシリルも知らずにいた。ルヴェルチはシリルが王位に就くよう尽力し、その見返りとして何かを受け取るはずだ。それが何なのだろうかと思いつつも、然程興味もなかった彼はそっと扉を元に戻して自室に戻ろうとした。
 だが、「貴方が失敗したら、約束のものは渡すことは出来ないわ」という声にシリルは足を止めた。


「白の輝石は貴方には渡せない。……分かっているわよね、ルヴェルチ」


 母親の口から出た言葉にシリルは目を瞠った。失われた国宝であり、その行方は依然として知れぬままだ。しかし、キルスティはそれを与えることを条件にルヴェルチと手を結んでいるということが明らかになり、シリルは口元を手で押えた。
 どうして失われたはずのものを母親が手にしているのかは知れない。ルヴェルチがそれを交換条件に提示した理由も知れない。しかし、自分の知らないところで何か大きなものが動いているのではないかという底知れないものを感じ、背筋が冷えた。そんな時、「シリル殿下!」と背後から声を掛けられ、彼はびくりと肩を震わせた。


「何だ」
「大工からの報告で、東の塔に建設中の特別牢の完成ですが、怪我人が出て完成までもう少し時間が」


 慌ててキルスティの居室から離れ、シリルは側近へと近づいた。そして、報告される内容にはっと息を呑み、慌てて周囲を確認する。誰もいないことを確認した後に「完成を急がせろ」と小声でぴしゃりと命じる。怪我人が出たならば補充すればいい、金ならばいくら掛かってもいいから兎に角完成を急がせろ、と言うシリルに側近の男はどうしたのかと目を瞬かせる。 
 しかし、柳眉を寄せて命じるシリルに慌てて頭を垂れると、その命令を伝えるべく踵を返してすぐさま歩き出した。それを見送ったシリルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら母親の居室を振り向く。その中で繰り広げられている密談はあまりにも醜いものであり、彼は不快感を露にしながら今度こそ自室に向かって歩き出した。



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