悪夢 - traitor -



「すみません、わたしの力不足でした」


 エルンストと顔を合わせてから数日後、アイリスはゲアハルトが幽閉されている牢を訪れていた。連日、ルヴェルチの行動を調べようとしていたのだが、一向に彼の姿を見つけることが出来なかったのだ。何の手柄もなしにゲアハルトの元に行きたくはなかったものの、エルンストから言伝を預かっているということもあり、アイリスは彼の元を訪ねたのだ。
 幾度も来ているということもあり、警備兵に引き止められることもなく地下に降りて来ることは出来た。しかし、それは決していいことではなく、そうなってしまうほどの時間、ゲアハルトとレオは幽閉されているということでもある。エルンストは彼らを出さない方が彼らの為であるということも言っていたが、そうだとしてもやはり扱いは改善されるべきであるとアイリスは思っていた。牢越しの痩せたゲアハルトを見れば尚更だった。
 先日、シリルはレオはもうすぐ地下牢から出してもいいと言っていた。それは彼の王位継承権を剥奪した上で、の話ではあるものの、ゲアハルトが解放される見通しは立っていない。そのことを思うと、せっかくの直談判の機会を生かすことが出来なかったと今更ながらに手柄がないことも含めて情けなさで胸がいっぱいになった。


「いや、構わない。いくら調べようとしても行動どころか行方が掴めないのであれば、あいつはこの城にいない可能性の方が高い」
「ですが、仮にも今は代理執政官です。いくら何でも数日もの間、城にいないというのは……」
「あいつに何かあったのかもしれないな。こればかりは俺にも分からないが……とにかく、あいつが城にいるいないに関わらず、今後も注意して行動してくれ」
「分かりました。それから、エルンストさんから言伝を預かっています」


 エルンストから、とゲアハルトは目を瞬かせるも、すぐに「連絡が取れたようでよかったよ」と僅かに表情を緩める。心配することはないと口にはしていたものの、やはり少なからエルンストの安否を気に掛けていたのだろう。アイリスはこくりと頷くも、彼の様子まで口にすることは出来なかった。
 随分と痩せてやつれていたなどと言えば、きっとゲアハルトは心配するだろう。しかし、今はエルンストの力が必要なのだ。それを思うと、言うべきではないと思ったのだ。だが、「でも、どうせあいつのことだから無理していたんだろ?たまにはちゃんと休め、と今度顔を合わせた時にでも伝えておいてくれ」とゲアハルトは口にした。
 その言葉にアイリスが目を瞠ると、ゲアハルトは微苦笑を浮かべる。その笑みに自身の考えていたことなど全てお見通しだったのだということに気付いた。アイリスは恥ずかしげに顔を赤くして視線を逸らすと、「エルンストさんからの言伝ですが、」と口を開く。


「探し物の行方が掴めた、と仰っていました」
「……探し物……そうか」


 分かった、とゲアハルトは頷き、深い溜息を吐き出した。そしてひんやりと冷たい鉄格子を握ると、それを力無く揺らす。びくりとも動かないそれに彼は溜息と共に微苦笑を洩らした。「それを聞いたら此処を余計に抜け出したくなるよ」と言うゲアハルトにアイリスは何も言うことが出来ず、視線を逸らすことしか出来なかった。
 出来ることなら彼をこの場から出してあげたいと思う。しかし、牢から出たとしても、飛び出したその場所がゲアハルトにとって以前と変わらぬものというわけではなく、彼にとって安全な場であるとは限らない。ルヴェルチによって国葬の場でヒッツェルブルグ帝国の第一皇子であるということが明らかにされて以来、その話題は今も城の中で人々の話題に上がっているのだ。
 そんな中、ゲアハルトが表に出ればどうなるのか、それは想像に難くない。下手をすれば、命を狙われることもあるかもしれない。たとえ命を狙われたとしても、そう簡単に討ち取られることはないだろうが、それまで共に戦っていた人間から命を狙われるという行為自体がゲアハルトを深く傷つけるだろう。向けられる視線も好意的なものではなく、そんな中に放り出されることになるのだ。それを思うと、どうしようもなく不安になった。


「アイリス?どうかしたのか?」
「……いえ、何でも。それよりも、」


 これからどうしましょう、と言いかけた矢先、地下牢の階段の方から複数の足音が聞こえて来た。扉に遮られていることもあり、誰が通ったのかは知れないものの、今まで自分以外の何者かが地下牢を訪れているところなど見たことがなかったアイリスは音が扉をじっと見つめていた。
 食事の時間ではないことは明らかだ。ならば一体誰なのかと思うと、「ちょっと確認して来ます」と自然と身体が動いた。心臓が早鐘を打っていた。アイリスは軍服の上からそれを押えつつ、そっと音を立てないように気をつけながら階下へと続く地下牢の階段へと視線を向け、目を見開いた。


「……正妃様……まさか」


 一度しか顔を合わせたことはないものの、その姿を見間違えるはずもなかった。どうして正妃であるキルスティがこのような地下牢を訪れているのだろうかと思うも、すぐに階下の地下牢にはレオがいることを思い出し、彼女がそこに向かっているのだということに気付く。
 アイリスは慌ててゲアハルトの牢の前に戻ると、「レオの牢に正妃様が向かったみたいです。わたしも行って来ます」と早口に告げる。待て、とすかさず呼び止める彼の声がするも、アイリスの足が止まることなく駆け出していた。扉を開けると、足音をなるべく立てないように気をつけながらも階段を駆け下りていく。
 嫌な予感がしたのだ。二人を会わせてはならないと、そう強く思ったのだ。キルスティがいかにレオに対して憎悪の感情を向けているのかは先日の国葬での一件でアイリスも身をもって知っていた。そして、同様にレオも彼女に対してこの上ないほどの恐怖を抱いている。
 何度か牢に通って、漸く最近になって少しずつ前向きになってくれていたのだ。だが、キルスティと顔を合わせたとなれば、その前向きになりつつあったレオの変化も水泡に帰すことは明らかだ。しかし、それだけであればまだいい。また少しずつ前向きになれるように励ませばいいのだ。だが、キルスティがレオを責めて追い詰める為だけにわざわざ地下牢を訪れるとは思えなかったのだ。


「レオ、……っ」


 祈るような気持ちでアイリスは彼の名前を呟く。どうか無事でいて欲しい――アイリスは唇を噛み締めながら、ひたすら階段を駆け下り、レオが幽閉されている牢へと急いだ。
 階段を駆け降りたアイリスは閉ざされた扉のノブを握り、そっと押し開けて中を覗き見ようとした。けれど、「早く飲みなさいよ!」というキルスティの甲高い声が響き、彼女は弾かれるようにして扉を開け放ち、室内へと飛び込んだ。何の前触れもなくいきなり開いた扉にキルスティを始め、彼女に付き添っていた近衛兵団の兵士らがぎょっとした表情を浮かべる。


「正妃様……何をなさるおつもりでしょうか」


 アイリスは足早にレオが幽閉されている牢獄の前に立つと、乱れた呼吸を整えながら目の前に立ち、不快そうに顔を歪めるキルスティに視線を向けた。彼女に付いて来ていた近衛兵の一人の手には小さな白い小瓶があり、それをレオに飲ませようとしていたのだということは想像に難くない。中身も恐らくは毒物で間違いないだろう。
 まさかこのような行動に出るとは思いもしなかったが、此処に自分が来ることもまたキルスティには想定外ではあるのだろう。暫し互いに睨み合うも、先に視線を逸らしたのはキルスティだった。


「貴女こそどうして此処にいるのかしら。誰が立ち入りを許可したというの」
「……地下牢への立ち入りはシリル殿下よりお許し頂いています。正妃様こそ、何方の許可を得てこのようなことを……レオを殺そうとしているのでしょうか」


 キルスティに対して、シリルの許可があると告げることをアイリスは一瞬躊躇った。彼女は彼を溺愛している。それは先日の国葬での様子を見ていれば明らかなことだった。そんなキルスティに対してシリルに関することを告げれば、どのような目に遭わされるか分かったものではない。しかし、嘘を告げても恐らく結果は変わらないだろう。寧ろ、許可もなく此処まで来たとでっち上げられかねないことを思えば、本当のことを告げた方がまだいいように思えたのだ。
 現にキルスティの頬は苛立ちに紅く染まり、扇子を握る手は怒りに震えていた。余程、アイリスのことが気に入らないらしく、彼女を睨みつけるその目は憎悪に染まっていた。それを真っ向から受け止めるアイリスも決して怖くないわけではないのだ。震えそうになる足を叱咤してその場に踏み止まっているのは偏にその背に庇うレオの為だ。
 自分がこの場を離れれば、何をしてでもキルスティはレオを毒殺しようとするだろう。それを思えばこそ、アイリスはこの場から退くわけにも逃げるわけにもいかなかった。


「……アイリス……」


 聞こえるか細い声にアイリスは肩越しに振り向く。いつもの明るさなど消え失せ、恐怖と不安に彩られた碧眼と視線が重なった。明るくなくともいい、笑ってくれなくてもいい。それでもいいから、せめて恐怖と不安を拭いたいと、その一心でこれまでこの地下牢に通っていたのだ。そして少しずつ、そうした恐怖や不安を解かしていたにも関わらず、たった一度のキルスティの訪れで逆戻りしてしまった。
 アイリスは大丈夫だよとばかりに笑いかけると、表情を引き締めて相変わらず顔を歪めているキルスティを睨みつける。何をしてでも彼を守らなければならないと思った。今、それが出来るのは自分自身だけであり、守ることが出来なければレオの命はない。


「……お戻り下さい、正妃様。お戻り頂けなければ、」
「戻らなければどうするというの。また手を上げてエルザに取り直してもらうつもりなのかしら」
「……っ」
「そもそも私が貴女如きの命令を聞く必要なんてどこにもないわ。そこを退きなさい」
「いいえ、退きません。キルスティ様にお戻り頂けるまでわたしはこの場を、」


 退きません、と言おうとするも、それよりも先に視界が一瞬ぶれる。何事かと思考が追いつくと同時に頬に痛みが走り、打たれたのだということを漸く理解する。頬に走るじんじんという痛みに柳眉を歪めるも、アイリスはキルスティを真っ直ぐに見据え、動く気がないのだということを態度で示す。
 対するキルスティは怒りで興奮を露にし、紅を引いた唇を噛み締めている。その目は怒りと憎悪に満ち、射殺さんばかりの視線をアイリスに向けていた。そして、一向に退く気配のない彼女に対して「退きなさいって言ってるのよ!」と甲高い声を荒げると、手にしていた扇子を振り被った。
 それは容赦なく振り下ろされ、アイリスの横っ面に叩きつけられる。脳が揺れ、視界が明滅するも続けざまに肩や腕、背や頭を叩きつけられ、アイリスは痛みに耐えるように唇を噛み締めた。扇子で横っ面を叩きつけられた拍子に切れたらしく、口内は鉄の味に満ち、口の端からは僅かに血が零れた。


「……っ」
「アイリス……!」


 悲痛なレオの声が聞こえるも、それに答えるだけの余裕がアイリスにはなかった。続けざまに扇子を放り出したキルスティに髪を掴まれ、ひんやりと冷たい鉄格子に頭を叩きつけられる。けれど、悲鳴を出すことも許しを乞うことも彼女はしなかった。それだけはしてなるものかと、一文字に唇を引き結ぶ。
 離して下さい、という抵抗さえもアイリスはしなかった。否、出来なかった。抵抗などしようものなら、暴力を振るわれたとキルスティは誇張するだろう。そうなれば、自身を預かりとしているエルザにも迷惑が及ぶだけでなく、ゲアハルトやレオのことを守ることも出来なくなる。それを思えば、殴り、打ち、引っ掻き、掴み上げて来るキリスティの手も、蹴り、踏み躙る彼女の足も、掴むことは勿論、触れることも出来なかった。
 怪我はいずれ治る。今は痛みはしても、後で回復魔法で治せばそれで終わりだ。今は耐えなければならない。耐えなければ、レオを守ることが出来ない――ただそれだけを思い、アイリスはキルスティの暴力に耐えていた。


「いい加減に、退きなさいよ!退いて、私に跪いて謝りなさい、許しを乞いなさいよ!」
「……っ」
「私に楯突いたことを、シリルを誘惑したことも何もかもを謝りなさいよ、この売女っ」


 鉄格子に押し付けていたアイリスの頭をそのまま床に打ち付けた。髪は乱れ、所々が血で赤く染まっていた。床に頭を打ち付けられた拍子に髪をまとめていた赤い花の髪飾りが外れてすぐ近くに落ちてしまった。「やめ、……やめてくださいっ正妃様!」とレオの叫びが聞こえる中、アイリスは取れてしまったそれに手を伸ばすも、指先が髪飾りに触れるよりも先に手の甲を思いっきり踏みつけられた。
 ぐりぐりと踏みつけられる度に骨が悲鳴を上げるも、アイリスは漏れそうになる声を懸命に押し殺す。それでも何とかレックスから贈られた髪飾りに手を伸ばそうとするが、美しく彩られた爪が髪飾りを抓み上げてしまった。目の高さまでそれを持ち上げたキルスティはじろりとそれを一瞥し、「安っぽい髪飾りね。まあ、媚びることしか出来ない貴女のような安い人間にはお似合いかしら」と吐き捨てるように言うと、床に髪飾りを叩きつける。そして、容赦なくアイリスの手を踏んでいたその足で髪飾りを踏みつけた。踏み握られた髪飾りは花びらが破れ、留め金が壊れ、ただの赤い花の形をしていたものになってしまった。そこで初めて、アイリスの目から涙が零れた。


「もう、……もう止めてくださいっ正妃様!アイリスを助けてください、お願いします……!アイリスは関係ない、オレが……オレが毒でも何でも飲むから、だから……!」
「レオ、それはっ」
「やっと気付いたのね。自分がそうしてそこで生きているからこの子が苦しんでいるって。貴方の存在がこの子を傷つけてるのよ」
「……っ」
「そんなこと、そんなことない!レオ、……っ」
「お黙りなさい。……そうね、貴方が今この場で死ぬならこの子には手を出さないでいてあげてもいいわ」


 そんなことはしなくていい、とアイリスは堪らず声を上げようとするも、キルスティはそれを遮るように彼女の頭を踏みつける。冷たく硬い石畳に頭を押し付けられる痛みに顔を歪めていると、笑みを孕んだキルスティの声が頭上から降って来た。痛みが全身を襲う中、アイリスはそれでも何とか動こうともがく。
 そして、視界の端でキルスティの指示に従ってレオの毒の入った小瓶を手渡そうとする近衛兵が動いた瞬間、アイリスは渾身の力を振り絞って頭を踏みつける彼女の足を振り解き、近衛兵に形振り構わずぶつかった。いきなり動き出すとは思いもしなかったらしいキリスティも近衛兵らも対応が遅れ、近衛兵の手からは小瓶が零れ落ち、それは床に落ちてぱりんと音を立てて割れた。
 床に広がる毒物にキルスティは身体を震わせながら怒りを露にすると、「何をするのよ、この淫売!」と声を荒げながらアイリスの髪を掴み上げる。そしてそのまま床に零れた毒物が広がるそこに顔を押し付けようとする。さすがにそれには腕を付いて抵抗すれば、すぐにキルスティは手伝うようにとそれまで控えていた近衛兵らに命令した。


「やめ、やめてくださいっ正妃様!」
「邪魔をするのだもの、先に殺した方が余程何もかもが上手くいくわ!貴女が死ねばシリルも目が覚める、私だって悩まされることはなくなるわ!」
「正妃様!」
「騒がなくてもちゃんと貴方も殺してあげるわ。この子の次にね。だからほら、早く床に口を付けなさい!」


 数人がかりで圧し掛かられれば、アイリスにもどうすることも出来ない。抵抗すれば、エルザに迷惑がかかるということもあって耐えていたが、それも限界だ。ばちり、と全身に魔力を行き渡らせ、静電気を発生させる。しかし、気分が昂揚しているらしいキルスティはそれには気付いていない。周囲の人間を弾き飛ばす程度に力を調節しながら圧し掛かってくる重量を押し返していた矢先、「何をしているんですか!」という声が響いた。


「エルザ……貴女、どうして此処に……」
「アイリス……!」


 目を見開くキルスティを横目にその場に飛び込んで来たエルザは床に倒れ込んでいるアイリスを見るなり、悲鳴にも似た声を上げた。アイリスに圧し掛かっていた近衛兵を掻き分け、エルザはぐったりとしている彼女を抱き上げて顔を歪めた。彼女に続いて入って来た数人の近衛兵も顔を顰め、キルスティと共にいた同僚を一瞥すれば彼らは顔を見合わせて苦い表情を浮かべる。
 アイリスの姿は酷いものだった。まとめて結い上げていた髪が乱れ、所々が血に染まり、口の端も切れていた。どこもかしこも薄汚れ、血が滲んでいるところや鬱血している箇所、腫れている箇所も少なくない。エルザに抱き起こされたアイリスは僅かに緊張の糸を緩めながら、彼女の名前を呼んだ。


「少し待ってて頂戴ね、アイリス。……お母様、此方にいらして下さい。貴方たちも牢を出て」
「エルザ、」
「この一件、全てシリルや他の方々にもお伝えします。いくら何でもこのようなことは許されることではありません!」


 アイリスをそっと床に寝かせたエルザは顔に掛かった髪を払うと、素早く立ち上がってキルスティと彼女に付いていた近衛兵に牢から出るようにと促す。その際にこの場で起きたことをシリルに報告すると彼女が言うと、目に見えてキルスティの顔色が変化した。彼女にとってはシリルを思っての行動だったのだろう。何としても彼を王位に就けたいという親心だったのかもしれない。しかし、その方法が決して許されるべきことではないものだった。
 声を荒げるエルザにキルスティは何とかシリルに対してだけは言わないようにと懇願するも、エルザは聞く耳を持たずに自身が連れて来た近衛兵らにすぐに牢から連れ出すようにと命じる。そして、自身もキルスティの腕を掴むと半ば引き摺るようにして地下牢から出て行った。
 途端に静まり返る地下牢にアイリスは漸くほっと安堵の息を吐いた。そして、ゆっくりと身体を動かして骨に異常がないかを確認する。痛みはあるものの、耐えられないほどの痛みではない。打ち付けられた頭にも特に異常はないようだが、あまり気分はよくなかった。一際痛む箇所に手を翳し、魔力を集中させて回復魔法を使って治癒していると、不意に耳にはくぐもった嗚咽が聞こえて来た。この場にはレオと二人だけであり、必然的にそれが誰の嗚咽かは絞られてしまう。
 アイリスはそれには気付かぬふりをして、自身の腫れた頬に触れる。口の端も切れているが、それよりもまずは頬を治癒しなければと回復魔法を使い、鏡こそない為、確認は出来ないものの手櫛で髪を整えた。そして、傍にあった壊れてしまった髪飾りをそっと軍服のポケットに仕舞いこむと、「レオ」と努めていつもと変わらぬ声音で彼の名前を呼んだ。


「わたしは平気だよ、だから泣かないで」
「……アイリス……でも」
「ほら、ちゃんともう治したから平気。ちょっと見た目は酷いけど、もう何処も痛くないから」


 無論、全ての怪我を治癒することが出来たわけではない。あくまでも酷い外傷を優先して治癒しただけであり、まだ鈍い痛みを訴えている怪我は多くある。それでも、アイリスはいつもと変わらない笑みを浮かべて大丈夫だと言い、牢の中に手を差し入れてレオの頭をゆっくりと撫でる。
 その手の動きはぎこちなく、動かす度に痛みが走った。それでも腫れているわけでもないため、骨に異常はないのだろうと思いつつ、暫くそうしていると「……何で」という嗚咽に紛れた声が聞こえた。それが何を指しての言葉かは知れないものの、恐らくはキルスティに抵抗しなかった理由だろうと思ったアイリスは微苦笑を浮かべる。


「だって、わたしが抵抗したら正妃様は余計に怒っただろうし、それを逆手に取ってわたしは城から追い出されていたかもしれない。……ううん、それだけで済めばまだマシだよね。反逆罪に仕立て上げられて、本当に殺されていたかもしれない」


 正妃様がそういう方だっていうのはレオの方がよく知ってるよね、と問い掛ければ、彼は何も言わなかった。思い当たる節があるのだろう。その肩はびくりと震えた。アイリスは手を伸ばし、頼りないその肩を撫でる。
 耐えなければ、レオを守ることが出来なかった。それは自分に力がないからであり、それしか方法を持たなかったからだ。もっと弁が立てば、言葉だけでキルスティを追い返すことが出来たかもしれない。ゲアハルトやエルンストであればそれも出来ただろう。しかし、自分は彼らほど口が上手くもなけれ、駆け引きも苦手だ。そうなれば、後は彼女の気が済むまで唇を引き結んで耐えるしかない。
 痛かった。怖かった。本当は、助けを求めたかった。それでも、この場を動くわけにはいかなかったのだ。自分が退けば、レオに殺されてしまう。彼に逃げ場はないのだ。それを思うと、自分が受けた痛みや恐怖よりもずっと、レオを目の前で失うことの方が怖かった。


「わたしはレオを守りたかった。ただそれだけだよ」
「……」
「それぐらいにレオのことを大事に思ってる。生きてて欲しいって思ってるの。……だから、わたしの代わりに死ぬなんてもう二度と言わないで」


 あの時の言葉ほど、背筋が冷えた言葉はなかった。そう思えるほどに、アイリスの心に重く深く、そして痛く辛く響いた。そんな言葉は二度と聞きたくはなかった。仲間を目の前で失うことも、二度と見たくはなかったのだ。


「正妃様が何と言おうと関係ない。わたしはレオの所為で怪我をしたわけじゃない。それも全部承知の上で退かなかったの」
「……アイリス」
「まあ、まさかここまでボコボコにされるとは思ってなかったけど……でもね、後悔はしてないよ。こうして今もレオが生きててくれる、それだけで十分なんだから」


 エルザが来てくれなければ自分が死んでいたかもしれない――それは分かっている。そのことを思い出せば、今でも身体が震えて来る。けれど、それを押し殺してアイリスは笑みを浮かべる。両手でゆっくりとレオの顔を持ち上げ、涙で濡れた頬を拭った。「泣かないで、レオ」とじわりと彼の目に浮かんでいる涙を親指で拭う。


「でも、オレ……オレの、」
「レオの所為じゃない。これはわたしが自分で選んだことなんだから。……でもね、ほんの少しでもわたしのことを気にしてくれるなら、もう簡単に死ぬことなんて選ぼうとしないで」
「……」
「わたしがせっかく身体を張って守ったんだから、レオもその分だけは頑張って生きて欲しいな」


 こういう言い方でしかレオを繋ぎ止められないことを情けなく思いながら、アイリスは眉を下げて笑った。もっと何か言えたらいいのにと思うも、言葉が何も出て来ないのだ。頷くもこともせず、ぐしゃりと顔を歪めるレオにアイリスは困ったように笑うと、後はただ、エルザが迎えに来るまで彼の頭を撫で続けるだけだった。



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