悪夢 - traitor -



「それではわたしはこれで。ゲアハルト司令官とレオのところに寄ってから戻ります」
「だったら、誰か一緒に行かせるわ」
「いえ、そんな」


 平気です、と言うよりも先に扉が叩かれる。エルザはちらりと視線を扉に向け、誰何を問うとエルザに仕えている文官の声がした。入室を促すと、彼は深々と一礼して「お話中のところ、申し訳ありません」と礼儀正しく口にする。以前、シリルと会った時に彼と共にいた文官の男とはまた雰囲気が異なり、どうやら主人の性情に部下も影響を受けることが伺えた。
 エルザの人となりに影響を受けた様子の文官の男は「来週のご公務の件で伺いました」と手にしていた資料を差し出す。公務があるということは初耳であり、一体どのようなものなのだろうかと考えていると、エルザは困ったように眉を下げて笑った。


「ごめんなさいね、本当はもっと早く伝えるべきだったのだけれど急に決まったことなのよ」
「急に?」
「本来はシリルの公務だったのだけれど、お母様が公務を取り止めにしようとしたの。外は危険だ何だと仰って。それで代わりに私が行くことにしたのよ」


 困ったものね、と言わんばかりに溜息を吐くエルザに対し、アイリスは何とも言えない表情を浮かべた。城よりも外出先の方が命を狙われる危険性は高い。狙われる可能性のある場所は多く存在し、それらからシリルを身を守ろうとするとかなりの人数の警備兵や近衛兵が必要となる。そして注意すべき対象も多く、場所だけでなく集まるであろう国民にまで注意を割くとなると、国軍の兵士まで投入する必要があることは想像に難くない。
 ならば、まだ狙われるとしても勝手知ったる場所でもあるバイルシュミット城の方が守ることはまだ容易と言える。特に今は王位を継ぐ立場にあるということもあり、彼の王位継承を何より願っているキルスティが神経質になっている。尤も、彼女の場合はその様子から普段から然程変わらないのだろうが。


「公務は来週だからそれまでに体調が整えば一緒に行ってくれるかしら。たまには城を離れてみるのもいいと思うわ」
「わかりました。それでは詳細を、」
「それはまた後日にしましょう。今日はゲアハルトとレオのところに行くのでしょう?ああ、そうだわ。彼女に誰か付けてあげて、今から地下牢に行くのよ」
「それが、エルザ様……実は……」


 文官の男は言い辛そうに言葉を濁した。その様子にアイリスも宿舎を出てすぐに会ったレックスから聞いた話を思い出した。今日になってキルスティが急遽、護衛を増やすように言い出したのだ。それによって、本来ならばエルザを護衛するはずの兵士も今日は外に出るわけではないのだからとキルスティやシリルの護衛に回されてしまったのだという。
 そのため、本日、彼女を護衛することの出来る軍人はエルザの預かりであり、近衛兵団に所属してはいるものの命令系統の異なるアイリスだけなのだ。恐らく、エルザから護衛兵を取り上げた理由は昨日の一件の為だろう。彼女から少しでも力を取り上げるべく、適当な理由を付けて護衛兵を離したのだ。
 エルザは呆れて何も言えないとばかりに重たい溜息を吐いた。まさかそのようなことになっているとは思いもしなかったのだろう。アイリスも話には聞いていたが、まさかエルザの護衛兵まで回されているとは思いもしなかったのだ。


「エルザ様、わたし」
「駄目よ。貴女は用を済ませたら宿舎に戻って休んで頂戴。私は平気だから、出かけるつもりもないもの」
「しかし……」
「大丈夫よ。何なら今この城で最も安全なお母様たちのところにお邪魔するわ。それならいいでしょう?」


 キルスティの元であれば、警備兵や近衛兵が必要以上に集められているということもあり、安全だろう。怪我人であるアイリスが一人でエルザを守るよりも余程安全性は確かであり、そのように言われると頷かざるを得ない。しかし、昨日の今日であり、エルザをキルスティに会わせていいものだろうかという不安もある。
 しかし、そこまで自分が口を挟むのは出過ぎたことだろうとアイリスは出かけた言葉を飲み下し、「分かりました。それではわたしはこれで。またご公務の件は後日伺います」と言って立ち上がった。文官の男が部屋から出ないということはこのまま来週にあるのだという公務の打ち合わせがあるのだろう。
 あまり邪魔をしてはならない、とアイリスはエルザと彼に一礼すると足早に彼女の居室を後にした。そしてその足で北の地下牢へと向かう。廊下は静まり返り、時折掃除などをしている下女を見かける程度のものだった。普段ならば至るところで城内の警備に当たっている兵士らの姿も常よりもずっと少なく、その殆どがキルスティやシリルの元にいるのだということが伺えた。


「……これじゃあ誰が何処から侵入して来るか分からないじゃない」


 これはさすがにやりすぎだ、とアイリスは柳眉を寄せて溜息を吐いた。確かに護衛を増やせば身を守ることも出来るが、多くの護衛を連れ歩けばそれだけ人目に付き、悪目立ちしてしまう。それだけでなく、こうして城内の警備が手薄になるという弊害さえ出てしまうのだ。そんなことぐらい考えずとも明らかなことであり、どうしてそんな命令が通ってしまうのだろうかと不思議でならなかった。
 アイリスはそんなことを考えつつ、近付いて来た地下牢を前に足を止めた。昨日まではこの場に来ることに緊張はなかった。否、最初は緊張していたものの、幾度となく訪れているうちに緊張はなくなっていったのだ。しかし、今は以前までとはまるで違う。地下牢を前にすると、自然と身体が震えてしまうのだ。
 今から向かおうとしている場所はまさにその恐怖が植え付けられた場所である。もしかしたらその場から動けなくなるかもしれない――そんな不安さえ感じながらも、アイリスは止めていた足をゆっくりと前へと動かした。今、最も優先すべきはレオの安否の確認だ。そして、何があったのかをゲアハルトに報告することであり、そのためには地下牢に進まなければならない。
 努めてゆっくりと呼吸を繰り返しながら、彼女は一人で地下牢の傍で警備している兵士に声を掛け、地下牢に入る旨を伝えた。普段ならば所属や名前などを聞かれるものの、「どうぞ」とその兵士は何も聞かずにアイリスに許可を出した。何故だろうかと不思議に思うも、その兵士の様子はあからさまに面倒だという態度であり、元々地下牢の警備を担当する兵士ではないのかもしれない。
 こんな様子で大丈夫だろうか、と不安になるものの、今のアイリスにとっては有り難い配置でもあった。許可を与えられた彼女は頭を下げると、足早に地下へと続く階段を下り始めた。薄暗い階段に注意しながら下りていると、ひんやりと冷たい風が肌を差す。何度来ても慣れないそれに柳眉を寄せつつ、アイリスは壁に手をついて胸に巣食う恐怖に竦みそうになる足を動かし続けた。


「……足音?」


 かつん、と微かな音が耳に届いた。それほど遠くはなく、かといって近くもない距離から聞こえる足音にアイリスは足を止めると辺りを見渡した。壁に反響している為、正確な距離などを知ることは出来ない。
 アイリスは壁に背を寄せ、身を縮ませる。そのような体勢になったところで見つからないはずもないのだが、逃げるにはあまりにも階段を下り過ぎていたのだ。そもそも自分以外の誰がこのような地下牢に訪れているのだろうという疑問もあった。アイリスやエルザ、キルスティなどは訪れたことがある。だが、少なくともアイリスは彼女自身が地下牢を訪れた時に他の誰かが来ているところを見た、ということはなかった。
 そんな状態でかつんかつんと規則正しい靴音が聞こえて来るのだ。どうしようもない緊張感に襲われそうになっていると壁に取り付けられた松明がアイリスの心情を示すように大きく揺らぎ、灯されている炎が小さくなったようだった。そして、ついに薄暗闇の中で彼を見つけた。


「ルヴェルチ卿……どうして貴方が此処に」
「これはこれはアイリス嬢。貴女こそ、どうして此処にいるのでしょう」


 階下から階段を上って来ていたのはルヴェルチだった。ずっと行方が掴めなかった相手とまさかこのような地下牢でアイリスと出くわすとは思いもしなかった彼女は目を瞠るも、すぐに「ゲアハルト司令官とレオ殿下の様子を見に来ただけです」と口にした。この北の地下牢に幽閉されているのは現在、この二人だけであり、嘘など吐いたところで意味はないのだ。
 アイリスの返答に対し、途端にルヴェルチは眉を寄せ、顔を顰めた。警備兵は何をしていたのか、と言わんばかりの様子に彼はアイリスがシリルより許可を得て来ているということを知らない様子だった。シリルとルヴェルチは結託しているはずにも関わらず、どうしてなのだろうかと疑問に感じていると、「残念ですが」と唐突に憮然とした態度でルヴェルチは口を開いた。


「此処にはレオ殿下はいらっしゃいませんよ」
「……どういうことでしょうか」
「そのままの意味です。彼はこの場にはいません」


 ルヴェルチの言葉にアイリスは目を見開くも、すぐに柳眉を寄せて睨むように彼を見た。嘘を吐いているのかどうかを見極めようとじっとルヴェルチの顔を見るも、疲れの漂うその表情からは真意は読み取れなかった。
 レオが地下牢にいないというのは一体どういうことなのか――アイリスはルヴェルチの背の向こうに続く階段の先へと視線を向けた。無論、この場からレオが幽閉されている地下牢を見ることは出来ない。しかし、視界に移るその様子は先日と何ら変わりはなかった。もしも、彼の言う通り、レオがこの場にいないのであれば、一体誰が移送したのかという疑問が湧く。
 仮にエルザがレオを別の場所に移したのであれば、まず知らせてくれるはずだが、つい先ほど会ったときにレオに護衛を付けるつもりだと話していたのだ。そんな彼女がレオを別の場所に移したとは考え難い。エルンストの可能性もあるが、それならば自身かレックスかのどちらかにやはり知らせてくれるはずだ。だが、彼もエルザ同様に、幽閉されている方が安全だと言っていたこともあり、エルンストが移送したとは考え難いのだ。
 勿論、ルヴェルチの言っていることが本当だという確証はない。アイリスをレオに近付けたくないが為に嘘を吐いているという可能性も十分にあるのだ。だが、同様にそれが嘘だと言い切ることも出来ない。自身の目でレオが幽閉されている地下牢を確認することが一番手っ取り早くはある。しかし、目の前に立ちはだかるルヴェルチがその場を動いてくれる気配はなかった。


「ところで、どうして貴女はこのような所にまで来れたのでしょう。この地下牢への立ち入りは禁止しているはずです」
「……シリル殿下に許可を頂いてますので」


 どうやらレオが移送されたことだけでなく、シリルがアイリスの地下牢への立ち入りを許可しているということも知らされていなかったらしいことがルヴェルチの一瞬歪んだ表情から読み取れた。「ああ、そう言えばそのような話も聞きましたね」と然も今思い出したとばかりの言葉を口にするも、それはあまりに苦しい言い訳だった。
 ルヴェルチとシリルは仲違いをしているのか、それともそもそも彼らが結託していたわけではないのか――そんなことさえ考えられる反応にアイリスは慎重にルヴェルチの様子を伺う。兎に角、このような場でルヴェルチと二人きりという状況は避けたい。適当なところで地下牢を出るべきだとアイリスは判断する。


「それでは、わたしはこれで」
「お待ちなさい。このような場ですが、せっかく会ったのです。少し話をしようではありませんか」
「……離してください」
「私は貴女とも一度話がしてみたかったのですよ、アイリス・ブロムベルグ。いいえ、アイリス・クレーデル」
「……」


 一礼の後に素早く身を翻すも、一歩を踏み出すよりも先にルヴェルチの手が無遠慮にアイリスの手首を掴んだ。口調こそ穏やかなものだが、引き止める手に込められた力は強く、痛みにアイリスは眉を寄せた。何をするのだと肩越しに振り向けば、先ほどまでとは表情さえ異なり、どこか必死さの感じられる狂気を含んだ笑みがそこにあった。
 向けられる瞳は昏い光を宿し、何を考えているのかは勿論、そこにあるはずの感情さえ読み取ることが出来ない。背筋に冷たい汗を流しながらも、アイリスは震えそうになる手をぎゅっと握り締めて拳を作り、負けてはならないとその目を見返した。


「単刀直入にお聞きしましょう。貴女は養父殿から白の輝石について何か聞いていませんか?」
「……白の輝石?」
「ええ、そうです。この国の失われた宝について」


 ルヴェルチの口から出た言葉にアイリスは眉を寄せた。白の輝石という名を聞いたことがないわけではない。しかし、それが養父でありコンラッド・クレーデルからというわけではなく、あくまでもルヴェルチが言ったようにこの国の宝であるということを孤児院の院長から聞いたことがあるだけだ。
 何より、それが失われたという事実さえ、今この場で初めて知ったのだ。「失われた、とはどういうことでしょうか」とそれを口にしたルヴェルチに問い掛ければ、彼は暫しの間、アイリスを探るような視線で見つめた。それは先ほど彼女がルヴェルチに対して向けた同様のものであり、やはり気分のいいものではない。
 痛くもない腹を探られる気分とはこういうものか、と思いながらも未だ離されない腕に顔を顰めるもますます腕に力が込められるだけで解放される様子はなかった。


「ルヴェルチ卿、」
「本当に、本当に何も知らないのか!?コンラッド・クレーデルから何も聞かされていないのか!」
「……っ!……ご存じかと思いますが、養父はわたしを引き取って二年もせずに戦死しました。過ごした時間はもっと短いのに、そんなわたしに何かを託しているとでもお思いですか」


 ここまでルヴェルチが必死になって聞き出そうとしていることなのだから、何か大切なことであるということは分かる。しかし、アイリスはいくら思い返しても、養父から白の輝石について聞かされたことは何一つとして思い出すことが出来なかった。
 ルヴェルチに言ったように、引き取られて二年もせぬうちに第七騎士団の団長だったコンラッドは戦死した。今から半年ほど前のことである。引き取られてから何かと時間を取って共に過ごしてはくれていたものの、大切なことを託してもいいと思われるほどに距離を埋められたかどうかは知れない。
 自分ならば、とても大切なことを血の繋がらない、たった数年しか共に過ごしていない相手に伝えるだろうか――そこまで考えると、脳裏にはいつも優しく笑っていた養父の顔が浮かんだ。自分で口にしたことではあるものの、やはり寂しさは感じる。自分は養父にとってどのような存在であったのかは今となっては知ることは出来ない。それが悲しくもあり、心の奥底に閉じ込めたはずの寂しさがゆっくりと滲み出て来ているようだった。


「本当に、何もっ」
「そこで何をしている、ルヴェルチ」
「……シリル、殿下……」


 掴まれていた腕を引き寄せられ、そのままずるりと階段から落ちそうになる。しかし、硬く目を閉ざすよりも先に肩に腕が回され、体勢を崩していた身体が支えられる。それと同時にきつく掴まれていた腕が緩み、よく見るとルヴェルチの腕が掴み上げられていた。
 一体誰なのかと視線を上げると、すぐ傍に立っていた人物にアイリスは目を瞠った。どうしてこのような地下牢にシリルがいるのか、と彼女は信じられないものを見るかのように彼を見つめた。てっきり、キルスティと共に厳重な警備の元にいるのかとばかり思っていたのだ。
 アイリスの視線に気付いたシリルは「何だ」と短く問い掛ける。その声音は不機嫌そのものであり、眉間に皺が寄るほどくっきりと眉も顰められている。何がそこまで彼の機嫌を損ねているのかは知れないが、一先ずはルヴェルチと二人きりという状況から解放されたことに安堵した。いくらルヴェルチであっても、シリルの前で無体なことはしないだろう。


「殿下が何故、このような場所に……いえ、それよりも殿下、お尋ねしたいことが、」
「尋ねたいことならば私にもある。貴様、この数日の間、何処に行っていた」
「……それは……」
「貴様は今、このベルンシュタインの代理執政官だ。私の代わりに政務に滞りなく勤めるのが貴様の役目だ。違うか」
「……いえ、仰る通りで御座います」


 シリルはアイリスを自身の背後に押しやると、落ち着きを取り戻しつつあるルヴェルチに対して声を荒げることなく淡々と言葉を投げかける。それを聞きながら、やはりこの数日の間、ルヴェルチは城を離れていたらしい。いくら探しても見つからないはずだとこっそりと溜息を吐く。



「分かっているならば何故、城を離れた。貴様を代理執政官に任じた私の顔に泥を塗るつもりか」
「滅相も御座いません!……しかし、シリル殿下……私は、」
「言い訳ならば結構。アイリス、来い」


 ばっさりとルヴェルチの言を切り捨てると、シリルはアイリスを促して階段を上り始めた。何の為に彼が来たのかが不思議でならなかったものの、この場はシリルに言う通りにした方がいいと判断した彼女はすぐに彼の後に続いた。その場にはまだルヴェルチがいるということもあり、背後が気になってはいたものの、地下牢を出ても彼が付いて来ることはなく、アイリスはほっと息を吐いた。


「あの、シリル殿下、」
「来い」


 礼を言って、すぐに宿舎に戻ろうと思った。本当はゲアハルトに報告に行きたかったが、さすがにルヴェルチがいたとなると暫くは地下牢に行くのも様子を見てからにした方がいいと思ったのだ。もしくは、誰か共に行ってくれる者がいれば話は別だが、キルスティの様子からすると、数日の間はエルザも自由に護衛を動かすことは出来ないだろう。
 しかし、声を掛けるや否や、シリルはアイリスの言葉を遮って颯爽と歩き出してしまう。従うべきだろうと悩むも、助けられたにも関わらず何の礼も言わずに、ということは気が引け、仕方がないと溜息を吐いて彼女はシリルの後を追った。一体何処に向かうのだろうかと思っていたが、すぐに先日、連れられて訪れた東の庭園であることに気付いた。
 今日はあまり天気がよくない。絵を描くには適していないのではないだろうかと考えている間に中庭に到着した。しかし、先日のようにシリルが小屋に行くことはなく、疲れたような表情で美しく整えられている花々を見つめていた。その数歩後ろに控えたアイリスは何となく話しかけにくい雰囲気に開きかけた口を閉ざした。


「……災難だったな」
「え?」
「昨日は母上に手を上げられ、今日はルヴェルチに絡まれる」
「ああ、……はい、そうですね」


 災難、の一言で片づけるのもどうかと思われるが、何があったのかは既にシリルの知るところにあるのだということは分かった。こういうところを見ると、以前から聞いていた第一王子の印象とは大きく異なっているように思えてならない。何を考えているのかは分からないものの、状況を把握し、弁も立つ。軍事や政務には然程興味はないようではあるが、決して凡愚というわけではないらしい。
 

「怪我の具合は?」
「あ、回復魔法士の手配をして下さって有難うございました。お陰様で何とか」
「とは言っても、安静にしておくべきだろう。……連れて来ておいて、私が言うことではないが」
「……」
「もうあの地下牢に行ってもレオはいないぞ。ゲアハルトはいるが」
「……レオを移したのは、シリル殿下でしょうか」


 それはほぼ確信に近かった。キルスティかもしれないとも考えたが、彼女であればレオをわざわざ移送などせずに昨日と同様にその場で手に掛けるはずだ。しかし、ならばどうしてシリルがレオを移送したのか――その理由は考えても分からなかった。彼はレオから王位継承権を剥奪しようとしている。その手続きがまだ終了していないからこそ、レオを生かしておきたいのだろうかとも考えたが、それならばキルスティがレオを手にかけるはずもない。
 いくら憎い女の息子であったとしても、シリルの王位継承に影響があるかもしれないことを彼女がするとは思えない。そうなると、ますますシリルの行動の真意が分からなかった。これではまるで、彼がレオを守ろうとしているようではないかとさえ思えてくる。それはないだろう、と国葬の場でのやりとりを思い出しながら可能性を打ち消していると、「そうだ」と短い返事が返って来た。


「母上に勝手をされては困るからな」
「……それでは、何処にレオは……」
「それは教えられない」
「殿下、」
「あいつは生きている。……それでいいだろう。私の目的が果たされるまでは、あいつのは命は私が保障する」


 そう言うと、シリルはアイリスから視線を逸らした。その様子からも彼がこの件についてはこれ以上、何も言う気はないのだということが伺える。こうなると、聞き出すことは困難だろう。しかし、まだ移送されてそれほど時間は経っていない。何とか手掛かりがあるはずだ、とアイリスは向けられたシリルの背に視線を向けた。


「殿下の目的とは何でしょうか」
「さあな。大したことではない」
「……」
「ただの私の自己満足だ」


 ああ、そうだ――呟かれた言葉の後、まるで思い出したかのようにシリルは唐突に声を上げた。そして、整えられた美しい庭園の中を進み、中程まで行ったところで彼は足を止めると「此方に来い」とアイリスを手招きした。一体何があるのか、と思いつつ、彼女は手招きされるがままに花々の中に足を踏み入れた。
 色とりどりの夏の花が咲き誇る中、シリルが佇むそこには咲いていなかった。何が咲いていたのだろうか、それともこれから何か植える予定なのだろうかと考えていると、「此処は春になると紫の花が咲く」と彼は口にした。


「紫の花、ですか?」
「ああ。空に向かって真っ直ぐに咲く。……あと数カ月早く貴様が城に来ていれば、見せてやれたが」
「……殿下のお好きな花ですか?」
「……そうだな。多分、そうなのだと思う」


 曖昧な言い方をするシリルに対し、アイリスは首を傾げた。しかし、その拍子にぐわんと視界が一瞬歪み、アイリスは顔を顰めて頭を押える。ルヴェルチと出くわした為、意識がそちらに向いていたものの本来ならばシリルが先ほども言っていたように安静にしていなければならない体調なのだ。
 顔を顰めるアイリスに気付いたシリルは「おい、大丈夫か」と声を掛けて溜息を吐くと、「辛いなら先に言え」と溜息を吐く。そして、彼女を促して庭園の入口まで戻るとたまたま通り掛かった兵士を呼び付け、アイリスを近衛兵団の宿舎まで送り届けるようにと命じる。


「見回りは抜けて構わん。今日は何処も彼処も警備は穴だらけだ。今更穴が一つ増えたぐらいどうということはない」


 渋る兵士に対してぴしゃりと言い放つと、シリルはアイリスを一瞥する。そして、「母上には気を付けろ。あの方は貴様を目の敵にしているからな」と溜息混じりに言った。その一端を担っているとい自覚はあるらしく、あまりこうして連れ回すべきではないのだろうが、という微かな呟きが耳に届いた。


「貴様を見ていると、父上のことを思い出すのだろう」
「ホラーツ陛下を、ですか?」
「ああ。父上はあいつの母親、アウレリアを殊更気に入っていた。よく城を案内していたそうだ、今の貴様にしていたように」
「……」
「アウレリアも軍人だった。それもあるのだろうな、……私の言うことではないが、母上には気を付けろ。今日はもう休め」


 それだけ言うとすぐに歩き出そうとするシリルをアイリスは慌てて呼び止めた。まだ、ルヴェルチから助けてくれたことの礼を伝えていないのだ。「今日はありがとうございました。助かりました」と兵士の手前、何のことは口に出さずに足を止めた彼に対して言うと、シリルは微かな笑みを浮かべてすぐにまた歩き出した。その笑い方は、どこかレオを思い起こさせるものがあり、はっと息を呑んだ。そして、アイリスはその背が見えなくなるまで、その場で見送り続けた。


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