崩壊 - the fall -



 太陽が沈み、月が昇った頃、アイリスはエルザの元を離れてゲアハルトが幽閉されている地下牢へと向かった。ルヴェルチと遭遇しないことを祈りながら重たい足を動かし続け、何とか北の地下牢に辿り着くことが出来た。壁に手を付きながらゆっくりと薄暗い階段を下りていく。一段下りていくごとに空気は冷たくなっていくようだったが、熱に火照った身体には今はとても心地よいものだった。
 解毒は効いてはいるらしい。しかし、毒そのものを完全に打ち消すことは出来ず、あと数日はこの状態が続くことは想像に難くなかった。その間に何もなければいいと思っているとゲアハルトが幽閉されている階層に到着した。アイリスは牢へと続く扉の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返す。
 ひんやりとしながらも埃っぽい空気に眉を寄せる。軽く咽返りながらも気持ちを落ち着けたアイリスはゆっくりと扉を開けた。階段よりも薄暗いそこは、既に通い慣れた場所でもあった。彼女の歩みは澱みなく、目的の牢の前で立ち止まると鉄格子のすぐ傍に来ていたゲアハルトと目を合わせるように膝を付いた。


「こんばんは、司令官。ごめんなさい、昨日来るつもりだったんですけどルヴェルチ卿が丁度来ていたみたいで……」
「ああ、気まぐれを起こしたみたいでな。早速だが、現状を教えてくれるか?」

 一体何の用でルヴェルチが訪れていたのかが気になったものの、一先ずは現在の状況については報告する。帝国軍特殊部隊の鴉が動き出したこと、彼らにエルザが襲われたこと、レオが東の塔に幽閉されていたこと、そして、シリルの即位が二日後に迫っているなどを口にするにつれて、ゲアハルトの表情が厳しいものへと変わった。
 そんな彼の表情を見ながらも、アイリスはアベルのことだけは口にすることが出来なかった。黙っているべきことではないということは分かっていた。ゲアハルトに話したのであれば、何か有効な手段を助言してくれるかもしれないとも思ったのだ。だが、彼はそのような人物ではないということも分かっていた。
 ゲアハルトは優しいが、それだけの男ではない。同じぐらいに冷たくもある。それを分かっているからこそ、本当のことを告げることなど出来るはずもなかった。口を閉ざすアイリスに気付いたゲアハルトは「何かあったのか?」と心配げに口にする。


「……いえ、東の塔に侵入した時にシリル殿下とお会いしたのですが……」
「揉めたのか?」
「……それに近いですね。殿下を傷つけることを言ってしまったんです」


 それも気掛かりなことではある。考えていたのはアベルのことだが、アイリスはそれをシリルとのやり取りのことに挿げ替えて口にした。ゲアハルトは微苦笑を浮かべながら「あの方は根に持つような方ではないさ」とあまり気にするなと言う。しかし、そう言われて分かりましたと言える性格でもなく、アイリスは眉を下げて困ったように笑った。
 そうしてふと、いつもとゲアハルトの様子が異なることに気付いた。普段ならば、もっと外の状況について知ろうと様々なことを問い掛けて来る。しかし、それがないのだ。ゲアハルトはそれっきり口を閉ざすと、視線を下げて何か考え込んでいるようだった。何か思うところがあるのだろうかと思いつつ、慣れない沈黙に窮したアイリスは「あの、」と口を開いた。


「ルヴェルチ卿はどうして来られたんですか?」


 気まぐれを起こした、と彼は言っていた。しかし、気まぐれを起こしたぐらいでゲアハルトの元まで来るだろうか。ルヴェルチの性情については詳しくは知らないものの、何か用があって彼の元まで訪れ、それによってゲアハルトは今、何か考えているとした方が有り得ることだった。
 アイリスはずっと明るい青の瞳を見つめた。いつもならば怖いぐらいに真っ直ぐ瞳は逸らされ、どこか沈鬱な色を浮かべていた。そうして暫しの間を置き、ぽつりと彼は呟いた。「シリル殿下の御即位は二日後、と言っていたな」と問うゲアハルトにアイリスはこくりと頷いて見せた。シリルの即位が一体どうしたというのだろうかと思っていると、彼は深い溜息を吐くと顔を俯けながらどこか疲れたような笑みを浮かべた。


「シリル殿下が御即位したら、俺は斬首刑に処されるらしい」


 思いもしない言葉がゲアハルトの口から零れた。アイリスは目を見開き、彼が口にした斬首という言葉を反駁する。そしてそれが何を意味しているのかを理解すると、彼女の顔色は一気に青褪め、ぐらりと視界が揺らいだ。どうして、とアイリスは鉄格子を掴みながら早口に問い掛けるも、対するゲアハルトは酷く落ち着いた様子だった。
 彼の様子からすると、どうやら予想していたことではあるらしい。しかし、一向にアイリスの顔を見ようとはせずに、「俺は帝国の人間だ。既には廃嫡されてるだろうが、第一皇子であったという事実に変わりはない」と彼女とは正反対に酷く落ち着いた声音で口にした。


「不都合や罪を全て俺に被せて刑に処すことで、シリル殿下は裏切り者を処罰するという国王として晴々しい一歩を踏み出す、ということさ」
「裏切り者だなんて……ルヴェルチ卿こそが裏切り者ではありませんか!」
「真実は容易に捻じ曲げられるものだ。俺だってそうしてきた。俺に全てを被せて死に追いやる……即位間もない国王の最初の一歩として、これ以上のものはない」


 まるで他人事のように淡々と口にするゲアハルトにアイリスは唇を噛み締めると、痛いぐらいの力で鉄格子を握り締めた。「……諦めるんですか?」と漸く喉の奥から絞り出した声は震えていた。彼はまだ諦めないと言っていた。けれど、二日後に迫った即位式を終えれば、早くとも二日後にはゲアハルトは斬首刑に処されることになっている。つまり、彼の命は早ければ残り二日の命ということであり、それを突き付けられて絶望しない者などいるはずもなかった。
 それでも、アイリスはまだ諦めて欲しくはなかった。ルヴェルチが言い出しただけであり、シリルが了承しているとも限らない。何とか出来る可能性はまだ残されているはずなのだ。だからこそ、諦めて欲しくないという思いでそれを口にした。けれど、彼の返事を聞くことが怖かった。諦めたような笑みを見ることになるかもしれないことが、怖かった。


「……諦めてはいない。まだ二日ある、そうだろ」
「……はい」


 あと二日ではなく、まだ二日も時間がある。状況を変えるには少ない時間だが、決して無理ではない。漸く向けられた明るい青の瞳は、まだその輝きを失わず、諦めの色も浮かべてはいなかった。そのことに安堵しながら、アイリスはこの場から今すぐゲアハルトを連れ出そうかとも考えた。エルンストが用意してくれた合い鍵は持ち歩いている。
 しかし、それを口にしてもゲアハルトは首を横に振った。逃げればそれこそルヴェルチの思う壺であり、彼がでっち上げるであろう事実を真実であると認めることになってしまう。だからこそ、逃げるわけにはいかないのだと彼ははっきりとした口調で言った。


「合い鍵を用意していることもルヴェルチは分かっているはずだ。それでも鍵も手錠も変えずにいるということは、俺が逃走するように追い込もうとしているのだろう」


 そうなると、ゲアハルトはこの場に残ったまま、動くことの出来るアイリスらがどうにかするしかない。何をどうすればゲアハルトの斬首刑を取り止めることが出来るのかは分からない。しかし、立ち止まっている場合ではないのだ。
 アイリスは鉄格子を握り締めたまま、ゲアハルトの牢を見つけた時のことを思い出す。あの時、彼に約束したのだ。たとえ誰が敵になったとしても、周りがどれほど敵だからけだとしても、自分だけは彼の下で戦うのだと、彼の剣とも盾ともなると、約束したのだ。


「……わたしが何とかしてみせます。司令官を斬首刑になんてさせません」
「……ああ」
「わたしが、司令官を必ず守ってみせます」


 アイリスの言葉にゲアハルトは眉を下げながらも、どこか穏やかな笑みを浮かべて頷いた。頼りなく思われているだろうとは思っている。自分にどれだけのことが出来るのかは分からない。ルヴェルチの方が駆け引きも何もかも上手だろう。それでも、自分がどうにかしなければゲアハルトを守ることが出来ないのだ。
 形振りなんて構っている場合ではない。アイリスはすぐさま立ち上がるも、その拍子に腹部に激痛が走った。唇を噛み締めてその痛みに耐えるも、表情を取り繕うことまでは出来なかった。顔を歪めるアイリスにゲアハルトは「どうした?」と立ち上がり掛けるも、彼女は追究を避けるように鉄格子から離れた。


「急に立ち上がったから……ただの立ち眩みです」
「ならいいが……」
「大丈夫ですよ、わたしは。……それでは、わたしはこれで」


 この場に留まっては怪我のことがゲアハルトに知られかねない。知られたところで、牢に幽閉されている彼に出来ることはないだろうが、あまり心配は掛けたくはなかったのだ。アイリスは一礼すると、足早に階段へと向かった。少し重たく感じる扉を開けて階段に出た彼女はそこで漸く深く息を吐き出した。後ろ手に扉を閉めながら、アイリスはずきずきと痛む腹部を押える。
 軍服の下に手を差し入れて確認するも、特に触れた手にぬるりと血が付くということはなかった。それでも、あまり無理はするべきではなく、じっとしていなければならないことに変わりはない。だが、ゲアハルトがどのような状況に置かれているのかが分かった以上、じっとしているられるはずもなかった。
 すぐにこのことをエルンストに知らせなければと急いで地下牢を後にしたアイリスは歯を食いしばって痛みに耐えていた。兎に角今は何とかしてエルンストと連絡を付けなければならない、とそればかりを考えていた。額から伝う汗を拭いながら、重たい身体を懸命に動かして歩いていた矢先、かつんと微かな足音が耳に届いた。しかし、人の気配はなく、アイリスは咄嗟に音が聞こえた背後に向けて身構える。だが、誰何の声を上げるよりも先に口元を手で押えられ、構えた腕も容易に取られてしまう。


「俺だよ」


 身体を捩り、何とか逃れようとした矢先、不意に耳に届いたのはよく知る声――エルンストのものだった。柱の影に身を潜めていたエルンストは一歩踏み出し、アイリスの口を覆っていた手を外しながら差し込む月明かりの下に姿を現した。どうして此処に、とも思うものの、今はその疑問よりも丁度良かったという逸る気持ちの方が先行する。
 アイリスは「あの、すぐにエルンストさんに報告しなきゃいけないことがあって!」と早口に言う。しかし、いつもならどうしたのと、と言うのだが、今日はただじっと視線を向けられる。深い青の瞳を真っ直ぐに向けられ、アイリスは居心地の悪さを感じた。それと同時に、背筋に冷たい汗が伝い、彼女は気付いてしまった。隠していることなど、彼には全て知られてしまっているのだ、と。
 昨夜の一件を知っているのはレックスだけだ。彼には決して他言するなと口止めしてはおいたものの、エルンストに話してしまったのだろう。しかし、アイリスにはそれを責めることも出来なかった。報告義務を怠ったのは他の誰でもなく彼女自身だ。義務を果たしたレックスを責めるべきではなく、責められるべきは自分自身であるということも分かっていた。
 顔を伏せるアイリスにエルンストは溜息を吐いた。色々と言いたいことがあるのだろう。耳に届いた重たい溜息に、アイリスは小さく唇を噛んだ。これならばまだ怒鳴られた方が余程いいとさえ思っていると、「まあいいや、先に報告を聞くよ」と溜息混じりに彼は口にした。


「……さっき、司令官のところに行って来たんです」
「知ってる、エルザに聞いたからね。だから此処で待ってたんだ」
「そうだったんですね。……それで、……昨日、ルヴェルチ卿も地下牢に来ていたので何だったのか聞いたら――」


 シリルの即位後に斬首刑が決まったのだということを告げると、エルンストは目を大きく見開いた。その様子から、彼もこのことは知らなかったらしいことが伺える。口元に手を遣って考える素振りを見せるエルンストをちらりと見上げると、彼は眉を寄せていた。判断に窮しているのだろう。


「分かった。俺の方でも何とかしてみるよ。……でも、アイリスちゃん、君がしたこととは話は別だよ」
「……はい」
「アベルが鴉の奴らと一緒に行動しているということは伏せていいことじゃない。君の気持ちが分からないわけではないけど、本来なら営倉行き程度では済まない」


 それだけのことをしたという自覚はある。それでも、アベルのことを敵だと思いたくはなかったのだ。彼は迷っている素振りを見せていた。説得すれば、此方側に戻って来てくれると思った。そのためには、アベルが裏切り者だったという事実は隠さなければならない。そうでなければ、彼は酷く傷つけられてしまうだろう。
 自分勝手なエゴだとも思っている。アベルがそれを望んでいるわけでもなく、戻って来て欲しいという自分自身の気持ちを押し付けているに過ぎない。それでも、辛そうに、苦しそうに顔を歪めているアベルのことを裏切り者だと切り捨てることなど出来るはずもなかった。


「本当ならこのまま営倉行きにするところだけど……司令官のこともある。でも、二度目はないから」
「はい、申し訳ありませんでした」


 アイリスは深く頭を下げた。そして、これからアベルはどうなるのかとそれを問おうとするも、それよりも先にエルンストは深い溜息を吐いた。どうしたのだろうかと尋ねると、彼は頭を掻きながら「これからはレックスと一緒に行動してって言おうとしたんだけど、今何処にいるのか分からないのを思い出したんだよ」と疲れた表情で言う。
 一体どういうことなのかと問えば、エルンストは此処に来る前のことだと前置きしてから口を開いた。本当はこの場にレックスも連れて来ようと思っていたらしい。アイリスに口止めされた時点で彼女の注意するべきだったということを二人まとめて叱ろうと思っていたのだが、連れて行こうと立ち寄った警備兵の詰所でレックス――ロルフ・バルシュミーデの行方が掴めないと騒ぎになっていたのだという。


「どうして……」
「さあね、俺にも分からない。アイリスちゃんも知らないみたいだし……」


 何だって急に、とエルンストは呆れ果てていた。しかし、レックスの性格を考えれば、任務を放り出して何処かに行くということは考え難い。何者かに連れ去られた可能性も考えるが、一体誰がそのようなことをするだろうかとも思う。誰かを連れ去るようなことをする者と言うと、鴉の存在が脳裏に過るも、彼らにレックスを連れ去る理由など考えられない。
 しかしふと、アイリスはあることに気付いた。そうでないことを祈りながらも、彼女は声を微かに震わせながらエルンストに声を掛けた。アイリスの先ほどまでとは異なる様子に僅かに眉を寄せながら、「どうかした?」と彼は口にする。


「あの……レックスに、鴉の話はしましたか?」
「鴉の?ああ、うん。したよ、そりゃあ勿論……」
「それです!レックスは、……レックスは一人で鴉を探しに行ったんですっ!」


 彼の故郷を攻め、家族を奪った帝国軍を率いていた人間が黒い鳥の刺青を腕に入れた人間だったのだということをエルンストに話すと、彼は目を見開き、舌打ちした。「そうだ……、あいつはクナップ出身だった。迂闊だった」と額に手を遣ると、エルンストは足早に踵を返して歩き出した。アイリスも慌ててその後を追い掛けながらこれからどうするのかと問い掛ける。


「俺は隠れ家に詰めてる奴らのところに行ってレックスを探し出させる。とは言っても、多分、北区のルヴェルチの邸辺りにいるはずだ。アイリスちゃんは先にそっちに向かって欲しいんだ」
「分かりました」
「でも、くれぐれも無理はしないように。レックスを連れ戻すことが最優先だ」
「了解です」


 今、騒ぎを起こすわけにはいかない。鴉を退けるだけの力があるわけでもなく、その用意があるわけでもないのだ。だからこそ、レックスが動き出す前に止めなければならない。アイリスは足早に数歩前を歩くエルンストに続き、努めてゆっくりと呼吸を繰り返しながら懸命に足を動かす。
 どうしようもなく身体が熱く、ともすれば立ち止まってしまいそうになる。しかし、足を止めているような余裕はない。アイリスは通用門から外に出ると、「気を付けてね、アイリスちゃん」と心配げに言うエルンストに対してしっかりと頷き、ふらつきそうになる足に力を入れて一歩一歩意識しながら夜の王都を駆け始めた。



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