崩壊 - the fall -



 夜も更けた頃、昼からずっと寝ていたアイリスはその頃になって漸く目を覚ました。エルザからまだ寝ているように言われていたものの、横になって随分と楽になったということもあり、今度は空腹になってしまったのだ。そのことを伝えると、彼女は呆れ半分の苦笑を浮かべて「その様子だと大丈夫そうね」と安堵したように言う。
 それから文官の男を呼んで夜食の準備を命じたエルザに休むようにアイリスと勧めた。今までずっと彼女のベッドを占領してしまっていたのだが、いつもならばそろそろエルザも横になっている時間帯だ。シーツなどを取り換えてベッドの支度をして就寝を勧めると、そこまでしなくていいのにとエルザは肩を竦めて苦笑した。


「いえ、そういうわけにはいきませんから」
「律義ね。私は気にしないのに」
「わたしが気にするんです!……ベッド、お貸し下さってありがとうございました」
「いいのよ、気にしないで。貴女にはいつも助けられてばかりだもの」


 そう言うと、エルザは寝室に進む足を止め、「夜食ももうすぐ来るだろうから、もう少し起きてようかしら。一人で食べるのも味気ないものね」と踵を返そうとする。その心遣いは嬉しいものの、さすがにこれ以上、アイリスとしてもエルザに迷惑は掛けられなかった。彼女ならば、決して迷惑などではないと少し拗ねた風に言うのだろう。それは想像に難くない。だが、共に食べるならまだしも、自分の夜食にエルザを付き合わせるわけにはいかないと思ったアイリスはエルザの背を軽く押して寝室へと促す。


「大丈夫です。そのお気持ちだけ頂戴しておきますね」
「気にすることなんてないのに」
「これで明日、エルザ様の目元に隈なんて出来ていればわたしがシリル殿下やエルンストさんに叱られてしまいます」


 だからもうお休みください、と促すと、エルザは渋々ながら寝室に足を踏み入れた。しかしすぐに振り向くと、「アイリス、貴女は病み上がりなんだから食べたらすぐに寝るのよ」と眦を吊り上げて言う。一眠りしたことでいくらか体調はよくなったものの、根本的なところは何一つとして解決していないのだ。
 アイリスは気付かれない程度の所作で腹部の傷を撫でながら、「分かってます。エルザ様にご心配をかけないように気を付けます」と眉を下げて笑った。その言葉にエルザは何とも言えない表情を浮かべるも、結局のところは仕方がないとばかりに溜息を吐き、就寝の挨拶を口にする。


「おやすみなさい、エルザ様」


 その言葉と共に一礼し、アイリスは扉を閉じた。そして、一息吐くと軍服の裾を捲り上げて腹部を確認する。特に傷が開いているということもなく、痛みは幾分か引いていた。無茶ばかりしているから傷が開いているのではないかとも心配になったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。
 しかし、このまま無茶を続ければ傷が開いてしまうことは明らかだ。回復魔法は決して万能ではない。傷を癒しはしても、その後も安静にしていることが必須なのだ。それを重々分かっているにも関わらず、こうして動き回っているのだ。傷が開いたとしても文句など言えない。もう少し詳しく患部の様子を見たいところではあるものの、包帯に手を掛けたところで扉がノックされた。アイリスはすぐに服装を整えると控えめな返事を返しながら扉へと近付いた。
 誰何を問うと、扉の向こうからは既に顔見知りとなっている文官の男の声が聞こえた。用件は勿論、先ほどエルザが頼んでくれた夜食を持って来たということであり、アイリスは申し訳なく思いつつ扉を開いた。幾分も顔色のよくなっている彼女を一瞥した彼はどこかほっと安堵している様子でもあった。それも無理もないことである。自分の仕えている主人の警護に就いている人間が倒れたとなれば、気が気ではないだろう。


「どうぞ、お召し上がりください」
「お手数をお掛けしてすみませんでした」


 テーブルに置かれたバスケットの中にはサンドイッチやサラダが入っていた。彼が作ってくれたのか、それとも就寝前の下女に作らせたのかは知れないものの、アイリスは感謝の念を抱きながら「いただきます」と両手を合わせた。ぱくり、とサンドイッチに口を付けると、パンの間に挟まれたトマトの酸味が口の中に広がる。おいしい、と表情を綻ばせていると、ふとテーブルの向こうに立った文官の彼の表情が曇っていることに気付いた。


「どうかしましたか?」


 何かあったのだろうかと手にしていたサンドイッチを皿に戻し、アイリスは首を傾げた。何か言いたげにしているものの、言っていいかどうか迷っているような様子だった。かと言って、急かすことも躊躇われる。アイリスはうーん、と困ったような笑みを浮かべると、ひとまずは待つべきだろうとバスケットに入っていたサラダを取り出した。
 ぱくりと青々とした野菜を口に運んでいると、「実は、」と迷いながらも彼は口を開いた。アイリスはそこでフォークを置くと、言葉を迷いながらも先ほど見たのだという光景について語る彼の言葉に眉を顰めた。


「正妃様のお部屋を訪れるルヴェルチ卿を見たっていうのはいつ頃ですか?」
「お夜食の準備を仰せつかった頃ですから、少し前のことになります」


 明朝はシリルの即位式だ。恐らくはその打ち合わせの為にルヴェルチが呼ばれたのだろうが、この夜も更けた時間帯ということに彼も引っ掛かりを覚えているのだろう。しかし、何かあると確定しているわけではないからこそ、口にすることを躊躇っていたに違いない。
 しかし、状況が状況だ。怪しい動きではないとは言い切れないのだから、何かあるかもしれないと思って行動した方がいいに決まっている。アイリスはナプキンで口元を拭うと、椅子から立ち上がった。まだ半分も夜食を食べていないものの、だからといってここで悠長に食べているわけにはいかない。


「ちょっと様子を見て来ますね」
「それでは私も、」
「いえ、エルザ様のお傍に付いていてください。お一人にするのは心配ですから」


 それだけ言うと、アイリスは足早に居室を後にした。扉の傍で警備している近衛兵に少し離れる旨を伝えると、彼女は暗闇の続く回廊をキルスティの居室を目指して歩き出した。







 緊張感が高まり、呼吸音さえも響いて聞こえるほどそこは静まり返っていた。ルヴェルチらに剣を向ける近衛兵らは一様に緊張で強張った顔をしているものの、相対するカサンドラらにそういった緊張は見受けられない。剣を向けられているにも関わらず、少しも取り乱さないその様は異様なものだった。


「クーデター……いいえ、元はそのようなつもりは御座いませんでした。しかし、こうして殿下が私の命を奪おうとなされるのであれば、私も抵抗しないわけには参りません」
「どうだかな」


 元々どのようなつもりであったかなど、結局のところは本人しか知る由もないことだ。ルヴェルチの言葉をシリルは鼻で笑うと、ちらりと視線を彼の背後に控えている五人へと向けた。どのような素性の者であるかは知れない。だが、カサンドラの顔に見覚えがあったのだ。
 赤紫の髪に血のように真っ赤な瞳。それを暫し見つめていると、彼女はにこりと笑みを浮かべた。美しい笑みだが、その瞳は少しも笑っていなかった。寒気のする笑みを向けられ、シリルは僅かに眉を寄せつつ、いつ彼女を見たのかと思い出そうとする。そしてふとした瞬間にその引っ掛かりは取れた。


「ああ……そうだ。貴様、確かギルベルトに付き纏っていた女か」
「……付き、纏っていた……?」


 何気ないシリルの言葉にカサンドラの表情が凍りつく。大きく見開かれるその瞳に彼は驚きながらも、「ゲアハルトやエルンストらと同じ部隊だっただろう」と言葉を付け足した。だが、それが聞こえているのかいないのか、彼女は顔を伏せるとぶつぶつと何かを呟き始める。
 近くにいたブルーノは溜息を吐くと、我関せずとばかりに顔を背け、カインも「ボク知ーらない」とカサンドラと少し距離を置く。一体何なのだと思っていると、顔を伏せていたカサンドラが顔を上げた。そこには先ほどまでの笑みはなく、無表情であり、血のような真っ赤な瞳は苛立ちや怒り、憎しみに燃えていた。
 そこで漸く自分が要らぬことを言ったのだということに気付くも、発言をなかったことには出来ない。シリルは椅子に座り直すと、真っ向からその視線を見返す。ここで逃げてはならないのだと強く肘置きを握り締めた。なぜなら、彼女こそが姉であるエルザの婚約者だったギルベルト・シュレーガーを手に掛け、その上、騎士団に所属する女性兵を幾人も手に掛けて逃亡した罪人なのだ。挙句、ルヴェルチと手を組んでいるのだ。ここで逃がすわけにはいかない――その一心だった。


「シリル殿下、今のお言葉は撤回して頂きたいですわ」
「何故?ギルベルトは姉上と婚約していた。それを邪魔したのは貴様だろう……そう、名前は確か、カサンドラ……家名は、」
「取り潰された家のことなどどうでもいいでしょう。そんなことよりも、」


 自分の所為で取り潰されたことを分かっているのだろうかと思う反面、瞳孔が開くほどに興奮しきった様子で前言撤回を求めるその様は常軌を逸していた。カサンドラの仕出かしたことを聞いた時から狂っていると思ってはいたが、いざこうして目の当たりにすると予想以上のものだった。
 しかし、それをルヴェルチは片手で制した。黙れとばかりに片手を上げ、視線はシリルへと真っ直ぐに向けている。それを受け、シリルは鼻で笑いながら、よくこのような者と手を結んだものだと僅かに呆れの溜息を吐いた。自分ならば、もう少し相手は選ぶところだ、と。


「それで、貴様の望みは何だ、ルヴェルチ。王位か、私と母の命か」
「いいえ、そうではありません、殿下。私はただ白の輝石を頂戴出来ればそれでいいのです」


 白の輝石さえ渡して頂ければ、殿下と正妃様のお命は約束致します。王位もお約束しましょう。
 薄い笑みと共に吐き出された言葉を聞くなり、キルスティは焦りと恐怖に塗れた声でシリルの名を呼んだ。そして、まるで押しつけるように自身が抱えていた箱を押しつけて来る。その必死に形相から、彼女が早く白の輝石なんて渡してしまえと思っているのだということは明らかだった。
 その何としても助かりたいのだという母親の姿をシリルは冷めた目で見ていた。まるで王家の人間としての誇りのない姿だった。このような逆賊に仮にも国宝を与えようというのか、と。これがホラーツやエルザであれば、決してそのような選択はしなかっただろう。何が何でも、たとえ自分の命が危険に晒されようとも、逆賊の提案に乗ることを拒むだろう。だが、キルスティはそのような選択をしなかった。


「さあ、シリル殿下。それを此方に」
「……断ると言ったら?」
「シリルっ!?一体何を言っているの!早くそんなものはくれてやりなさいっ」


 そうすれば助かるのよ、とキルスティは叫び声にも似た声を出す。それに対してシリルは煩わしげに溜息を吐く。こうなることは予想してはいたものの、彼女は退席させておくべきだったと思わずにはいられない。そんなことを考えているとふと、早くルヴェルチに白の輝石を渡すようにと叫んでいたキルスティの口から短い悲鳴が聞こえた。
 何事かとがばりと勢いよく振り向けば、シリルを急かすべく近衛兵らの間から身を乗り出していた彼女の喉元に深々とナイフが突き刺さっていた。大きく目を見開き、愕然とした表情を浮かべている母親と目が合い、シリルの顔からは一気に血の気が引いた。


「煩いなあ」
「……カイン」
「別に平気だよね、元々殺すつもりだったんだから。ねえ、カーサ?」


 窘めるアベルに対してにこやかにナイフを投擲したカインは言う。そして、漸く落ち着きを取り戻しつつあったカサンドラに話を振る。その間も、喉元から血を流しながら倒れ込むキルスティを支え、近衛兵らの緊張感は一気に高まる。まさに一発触発の状況であり、身動ぎ一つ出来そうになかった。
 次に動けば、口を開けば自分が手に掛けられる――その考えが脳裏に過る。自身の身体の震えを感じながらも、それでもシリルは白の輝石を手渡すという行為が出来ずにいた。この箱の中身を渡せば、命と王位は約束するとルヴェルチは口にした。だが、そのようなものは反故されるに決まっている。たとえ守られたとしても一時的なものであり、後で必ず殺されるだろう。つまり、今死ぬか後で死ぬかの二択でしかないのだ。


「ああもう!面倒だよ!そこに白の輝石があるんでしょ!?だったらもう殺して奪っちゃえばいいんだよね!」


 痺れを切らしたカインは癇癪を起したように叫ぶと、シリルに対して手を翳す。ぶわりと彼の周囲に風が巻き起こり、苛立ちに満ちた黒曜石の隻眼に睨まれた彼はその場から動けなくなってしまう。背後からは「殿下っ」と焦りの声が上がる。が、攻撃魔法が発動するよりも前に「待って、カイン!」とよく似た声音が慌てた様子で制止した。


「な、何…!?何なの、アベルっ」
「駄目だ、この部屋……」


 注意深く辺りを見渡しながらカインを制止したアベルは顔を顰めた。その様子にシリルは内心舌打ちする。「魔法石が仕込まれてる……」というアベルの言葉に慌ててカインは攻撃魔法を解除した。しかし、既に放つ寸前まで高められていた魔力を殺し切ることは出来ず、予め仕込まれていた周囲の魔法石が反応し、ソファの一部や絨毯が爆ぜる。
 それにカインは驚いた声を上げながら咄嗟に飛び退き、アベルも身を翻す。自身が腰掛けていたソファの一部が爆ぜたということもあり、ルヴェルチは目を白黒させながら開いた口が塞がらず、動けなくなっていた。それをいい気味だと思うも、それを口にする余裕もシリルにはなかった。
 魔法石は予めシリルが仕込んでいたものではある。だが、気付かれるにはあまりに早かった。これによって彼らの動きを封じることが出来ればと思っていたのだが、それは気付かれぬうちにこちらの手で魔法石を爆発させることが出来てこそだ。既に部屋の至るところに魔法石が仕込まれているのだと知られてしまっている以上、彼らが攻撃魔法を使用することはないだろう。


「で、どうするんだよ、カサンドラ」
「どうするもこうするもないわ。これがシリル殿下のお答えだと言うのなら、することはもう決まっているじゃない」


 その声は先ほどまでとは違い、落ち着いたものだった。しかし、赤々とした瞳は依然として殺意を湛えている。彼女の怒りが鎮まったというわけでは決してないことが伺えた。
 することは決まっていると、カサンドラは口にした。それが何を意味しているのかが分かってはいたものの、それでもなお、シリルはその場から動こうとはしなかった。背後に控えている近衛兵らは一様に怯え、「殿下っ」と懇願するような小声が聞こえてくる。白の輝石を手放せと言いたいのだろう。もしくは、既に虫の息となっているキルスティをどうするべきかと判断を求めているのかもしれない。
 だが、今のシリルにとってはそれは瑣末なことだった。キルスティの傷は深く、どう考えても助かる傷ではない。たとえこの場に回復魔法士がいたとしても、死を免れることは難しいだろう。自身の母親が死に瀕しているということ自体に何も思っていないというわけではない。しかし、そのことに関して深い悲しみもまた、なかったのだ。


「……それにしても冷たい方ね。お母上が死に瀕しているというのに顔色一つ変えないなんて……ああ、でも、そうしていると今は亡きホラーツ陛下を彷彿させるものがありますわ」


 あの方も時に冷たい顔をされていたもの、とカサンドラは懐かしむように目を細めて言う。彼女の口からホラーツの名が出るとは思っていなかったシリルはその言葉に僅かに目を瞠った。だが、それも一瞬のことですぐに表情は抜け落ちる。
 そして、改めてシリルが口を開こうとした矢先、「お前が魔法石を爆発させるから誰か来ただろうが」とブルーノは舌打ちしつつ扉の方を睨んだ。つられるようにして閉ざされている扉へと視線を向けると、「どうぞ、お入りになって」とカサンドラはやけに楽しげな声音で口にした。
 扉の向こうに誰がいるのか気付いているのかもしれない――一体誰なのかとシリルは嫌な予感を感じながら、扉を睨むように見ていた。開けるな、このまま立ち去れ。そう強く念じるも、扉はがちゃりと音を立てて開いてしまった。そこには、細身の杖を握り締めた強張った表情のアイリスがいた。



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