崩壊 - the fall -



 何も出来なかった。あの場にいたのに、何も出来なかった。アイリスは唇を噛み締め、じわりと浮かぶ涙を拭うことなく廊下を走り続けていた。ともすれば、立ち止まりそうになる足を叱咤し、振り向きそうになる顔を前方を睨むことで我慢した。そうでもしなければ、今すぐにでも来た道を戻ってしまいそうだったのだ。
 自分は何も変わっていない。アベルを置き去りにして生き永らえた時から少しだって成長していない――アイリスは爪が食い込むほどに拳を握り締めた。自分はまた、庇われてしまった。本来ならば守るべき相手に庇われ、逃がされた。そのことが心底から情けなく彼女は感じていた。
 それでも言われた通りにエルザの元へと急いでいるのは、それが今自分に出来る最善のことだからだとも思うからだ。あの場にいても、自分に出来ることは少ないだろう。寧ろ、足手纏いになったかもしれない。かといってそれがシリルを置き去りにしていい理由にはならないものの、今はそうとでも思わなければ前に進むことなど出来そうになかった。


「……っ」


 キルスティの居室から離れ、アイリスは彼の部屋にあるのだというレオの鍵を探すべきだろうかとシリルの居室を回ってエルザの居室へと向かう廊下を走っていた。だが、角を曲がったところでシリルの居室の周辺に集まった人影に気づき、アイリスは慌てて足を止めた。
 角に身を隠して様子を伺うとばたばたと居室の周辺で動き回っている人影は見慣れない格好をしていた。廊下の暗闇に紛れるように黒い衣服を纏うその姿は警備兵のものではなく、近衛兵のものでもない。考えるまでもなく、ルヴェルチの手引きによって侵入していたであろう帝国軍の兵士らだろう。
 アイリスは音を立てないように気を付けながらその場を離れるとエルザの居室へと急いだ。彼女の居室には護衛が就いている為、簡単に手出しはされないだろうが万が一もある。まだそれほど大きな騒ぎにもなってはいない為、今ならばまだエルザを外に逃がすことも出来るだろう。そう考え、懸命に足を動かしていた矢先――大きな爆発音が轟いた。


「な、何……!?」


 一体何事なのかとアイリスは咄嗟に周囲を見渡す。だが、すぐに後方から先ほどシリルの居室周辺にいた帝国軍の兵士らが騒ぎ始めた為、その場から慌てて離れる。兎に角、今の爆発音で非常事態であるということはバイルシュミット城全体に知れ渡ったはずだ。つまり、エルザもこの城で何かが起きているということに気付くだろう。
 彼女に何て説明をすればいいのかとアイリスは顔を歪めるも、エルザを連れて逃げるようにというシリルの言葉を思い出す。彼はエルザとレオの無事を願っていたのだ。シリルの口からレオの名前まで出るとは思いもしなかったものの、今は細かなことまで考えている余裕はない。だが、レオを助けようにも彼が閉じ込められている特別牢の鍵は手元にはない。どうするべきかと考えようにも、兎に角、今は城からエルザを逃がさなければとアイリスは半ば滑り込むように到着した彼女の居室の扉を開け放った。


「ア、アイリス!一体何が起きてるの?!」


 居室に飛び込むとそこには顔を青くしたエルザと彼女に付いているように頼んだ文官がいた。先ほどの爆発音が届き、跳ね起きたらしいエルザの格好はアイリスと入れ替わりに寝室に入った時のままだった。だが、今から着替えているような余裕はない。アイリスは表情を引き締めると、「帝国軍が城内に侵入してます」と早口に口にした。


「帝国軍が?!でも、どうやって……!」
「ルヴェルチ卿の手引きです。エルザ様、早く城を脱出しましょう、騎士団の宿舎まで行けばエルンストさんと合流出来ます」
「それでは、警備兵や近衛兵にこのことを伝えて来ますっ」


 エルザの手を半ば強引に掴むと、報告を聞いていた文官は顔を青くしながらも早く事の次第を伝えるべく、居室を飛び出して行った。それを見送り、アイリスは再度、エルザを促す。彼女は顔を青くしたまま頷くも、数歩も行かぬうちに「待って!」とアイリスの手を掴み返した。
 その声音は切実さが籠っていた。それ故に彼女が何を言わんとしているかも分かってしまう。アイリスは唇を噛み締めたまま、振り向くことが出来ずにいた。その所作で、恐らくはエルザも気付いたのだろう。それでも、「シリルは……?」と彼女は口にした。


「……エルザ様を連れて逃げるようにとのご命令です。行きましょう」
「待って……教えて頂戴、アイリス」
「……」
「あの子は、シリルは……お母様は……」
「……シリル殿下はご自身の手で幕引きをされると、仰っていました。正妃様はわたしが到着した時には既に……」
「……っ」


 やっとのことで絞り出した声は震えていた。何も出来なかったことを思い起こされる。シリルの手を掴むことも、引っ張ってでも連れ出すことさえ出来なかった。守らなければならない相手にも関わらず、守られてしまった。そのことを酷く情けなくと思うと同時に、どうしようもなく辛く苦しい気持ちに心が掻き乱される。
 だが、それでもシリルに託されたものがあるのだ。それを成し遂げなければ、それこそ彼に庇われ、逃がされた意味がない。アイリスは空いている手で口を覆い、目を見開いて大粒の涙を零しているエルザの手を握り締める。その手は酷く、冷たかった。彼女のことを思えば、落ち着くまで待つべきだとは思う。だが、今はそうしている時間はなく、こうして立ち止まっている時間さえ惜しいのだ。
 レオを助ける為には特別牢の鍵が必要だ。それがなかったとしたら、それこそ塔を壊す覚悟で扉を破壊しなければならないだろう。だが、それをするにもやはりエルザは先に逃がす必要がある。そうでなくとも、ゲアハルトは北の地下牢に幽閉されているのだ。彼の元にも急がなければならない。アイリスは焦りを感じながらも、「行きましょう」とエルザに声を掛け、半ば引き摺るようにして居室を飛び出した。


「おい、いたぞ!」
「殺すなよ!生かして捕えろとのご命令だっ」


 なるべく見つからないように気を付けながらも出来るだけ最短距離を選んで城から脱出しようとしていたものの、少し離れた場所から帝国軍のものらしき怒声が聞こえる。見つかってしまったことに舌打ちしつつ、アイリスはエルザの手をしっかりと握って走る速度を上げる。
 しかし、何とか追手を撒こうにも「あいつらだ!」と前方からも帝国軍の兵士たちが駆けて来る。アイリスは咄嗟に近くの角を曲がり、空いている手で杖を取り出した。何としてもエルザを逃がさなければならない。それはシリルから託されたことであり、彼から受けた最期の命令でもある。シリルを助けられず、エルザやレオさえも助けられなかったと考えるも、すぐにその考えを頭の外へと追いやる。
 あともう少しで城から出られるのだ。そうすれば、きっと先ほどの爆発音を聞きつけて動き出しているであろうエルンストたちと合流出来るはずだ。そうすれば、一先ずエルザの身の安全は確保出来る。そのことだけを考えて廊下を駆けていると、唐突にぐいっとエルザに腕を引かれる。体勢を崩しかけるも、何とか耐えたアイリスは一体どうしたのかと思いながらエルザを見た。すると、彼女は柱の影になっている部分の壁に向かってアイリスの手を引いたまま正面からぶつかろうとしていた。


「エルザ様っ!?……っ」


 一体何をするつもりなのかとアイリスは目を見開くも、制止するよりも彼女が壁にぶつかっていく方が早かった。咄嗟に硬く目を閉じ、来る衝撃に耐えようと腕で視界を庇っていると耳にはがこんという鈍い音が二度聞こえた。その後、少しの間を置いてからばたばたと追手の帝国兵らが駆け抜けていく靴音が聞こえた。
 恐る恐る目を開くと、そこは薄暗い小さな部屋――隠し部屋だった。あまり使われてはいないらしく、埃っぽい場所であり、アイリスは壁に手を付きながら辺りを見渡しているとすぐ近くに座り込んでいるエルザに気付き、傍に膝を付いた。


「エルザ様、お怪我は?」
「……アイリス」
「……はい」
「時間が無いのは分かってるわ。でもね、教えて頂戴。……シリルは自分で幕引きをすると言ったのよね?」


 つまり、あの子はルヴェルチと手を結んでいたということなのよね。
 その声は震えていた。恐らくは、エルザも何となく気付いていたのだろう。ホラーツを手に掛けたのはルヴェルチだということを。アイリスは返事に窮したが、ここで嘘を言ったとしてもそれを見破れない彼女ではないということも分かっていた。「そうです」と答えると、息を詰める気配がした。


「ですが、美術館での襲撃はシリル殿下の知らないところで行われたことです。それに、シリル殿下もルヴェルチ卿と手を結んだのも何か理由があってのことのようでした」
「……あの子は元々王位に興味はなかったのよ。きっとお母様がルヴェルチと結託したのね。……でも、何か目的や理由があったとしても、あの子まで手を組むべきではなかった。決してしてはいけないことをしたのよ、あの子は」


 震える声でそう言うと、エルザはアイリスの手をぎゅっと握り締めた。そして、顔を上げた彼女は涙を流しながらも真っ直ぐな視線をアイリスに向ける。それを真っ向から受けた彼女は、その視線に射抜かれたように息を止めた。


「アイリス、レオとゲアハルトを助けに行って」
「ですが、」
「私を城から出してる間にも二人は危険な目に遭ってるかもしれない。それに、一度城を出てしまえば、戻って来れるかも怪しいわ。私は此処にいるから、」
「駄目です。ルヴェルチ卿から隠し部屋のことも知れてるかもしれません。エルザ様をお一人には出来ません」


 全ての隠し部屋の位置を知らされているとは限らないものの、末端兵は兎も角としても鴉と呼ばれているあの面々は把握しているかもしれない。そうでなかったとしても、彼らであれば、容易に隠し部屋など見つけてしまうだろう。その危険性がある以上、エルザをこの場に残して行くことは出来ない。 
 だが、彼女が言うことも尤もではある。こうしている間にもレオやゲアハルトの身に危険は迫っている。だが、同時に二人の元に行くことは出来ず、東の塔と北の地下牢とでは距離もある。どちらか一方に行くことしか出来ず、エルザを一人にすることも出来ない。アイリスは暫し考え込んだ後、迷いの抜けた表情で顔を上げた。


「エルザ様、一緒に来て下さい」
「でも、私は足手纏いになるわ」
「だからといってお一人にするわけにはいきません。それに、どういうわけかわたしのことは生きて捕えるように命令が出ているようです、わたしが一緒にいれば、容易く危害を加えることは出来ないはずです」
「そうかもしれないけど……」


 エルザは言葉を濁す。それも仕方のないことではあるが、アイリスは彼女の手をしっかりと握り締める。危害は加えられないはずだと言っても、それはあくまでも致命傷は、ということである。多少の危害を加えられることは明らかだが、殺されはしないはずだ。それは危険な賭けではあるが、現状で選択することの出来る最も妥当な判断だとアイリスは考えていた。


「それにこの城の抜け道もエルザ様の方が詳しいはずです。……エルザ様、ゲアハルト司令官が捕えられている北の地下牢への抜け道を案内してください」


 考えた結果、アイリスはゲアハルトの元へと急ぐことに決めていた。それはエルンストよりゲアハルトが捕えられている牢獄と手錠の鍵を預かっていることや戦力や恐らくは混乱しているであろう味方の統制を取ることを考えて出した結論だ。エルザを前にしてレオを優先しないことは申し訳なくもあり、心苦しくも思う。
 だが、彼が幽閉されている東の塔の鍵はエルンストが持っているのだ。きっと彼ならば、そちらに急いでくれるはずだと信じ、アイリスは目を見開いているエルザの青い瞳を見返した。残酷なことを言っているという自覚はあった。だが、今はこれが最善だと信じて動くしかない。
 暫しの後、エルザは顔を伏せて小さく頷いた。それが今出来る最善のことであると彼女も思ったのだろう。かといって、感情まで割り切れるはずもない。顔を伏せたままのエルザから視線を外し、アイリスは手を握ったまま立ち上がる。半ば引っ張り上げるようにしてエルザを立ち上がらせると、彼女は隠し部屋の出入り口である壁へと身を寄せた。外の様子を伺いつつ、特に変化が見受けられないことを確認した後にそっと壁に押しやると、がこんという小さな音と共に壁が動いた。


「……北の地下牢へは、この廊下を戻って角を右に曲がった先に抜け道があるわ。急ぎましょう」


 廊下はしんと静まり返ってはいたが、遠くからは喧騒が聞こえて来る。急がなければと焦りを感じていると、ぎゅっと手を握り返される感覚があった。こっちよ、と走り始めるエルザに慌てて足を動かして隣に並ぶと、彼女は目を赤く泣き腫らしながらも真っ直ぐ前を向いていた。
 家族二人を一度に亡くしたのだ。本当ならば、このように動けるものではないだろう。それでもこうして顔を上げて前を向いているのは、このままではこの国自体が終わってしまうのだということをよくよく分かっているからだろう。掛ける言葉を見つけられず、アイリスはそのことに唇を噛み締めながらもせめて彼女だけは守り抜かなければと強く杖を握り直した。



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