反撃 - the hope -




 瞼がやけに重かった。しかし、これ以上、寝てばかりいるというわけにもいかない。アイリスはゆっくりと身体を起こすと、涙の乾いた頬に触れた。酷い顔をいていることは分かっていた。とにかく顔を洗いに行こうとベッドを下り、アイリスはすぐ近くの壁に掛けられていた薄汚れた深紅の軍服を手に取った。さすがに起きてすぐの格好で未だ何処かも分からない場所を歩き回るのは気が引けたのだ。
 掛けられていた近衛兵団の軍服を見遣り、アイリスは僅かに顔を歪めた。このまま外に出るわけにはいかない為、手近なものを羽織ろうと思っただけだ。だが、自分がこれを着るに値するのだろうかと思ったのだ。そもそも、これから自分の立場がどうなるかは分からない。近衛兵団から騎士団の所属に戻ることが出来るのか――そこまで考え、昨夜、レックスに辞職を勧められたことを思い出す。


「……わたしが不向きなことぐらい、分かってたよ」


 それでも何か出来ればと、自分の力を役立てることが出来ればと思った。この国を守りたいと思ったのだ。自分と同じような存在をこれ以上、増やさない為にも自分の手で何かしたいと。だが、今にして思えば、本当にその思いだけだったのだろうかとも思う。レックスのように、故郷を帝国軍に滅ぼされたことをほんの少しも憎んでいないのだろうか、養父を奪った帝国軍に復讐したいと思わなかったのか――それがアイリスには、分からなかった。
 そこまで考え、彼女はふるふると首を横に振った。とにかく顔を冷たい水で洗って頭をすっきりさせた方がいいと思ったのだ。そうすれば、少しは考えも前向きになるはずだとアイリスは深紅の軍服を羽織った。そして裾を伸ばして整えていると、ふとかさりという音がした。
 何だろうかと身の回りに視線を向けるも、それらしきものはない。アイリスは首を傾げながら軍服のポケットに順番に手を入れていくと、胸の内ポケットから薄汚れた白い封筒が出てきた。それを見るなり、アイリスは目を大きく見開いた。それは、数日前にシリルから後で返して欲しいと言われて預かっていた手紙だった。


「……シリル殿下……っ」


 今にして思えば、彼はあの時、既に死を覚悟していたのかもしれない。レオを閉じ込めていた牢の鍵を上着のポケットに入れたまま、その上着を放り出して部屋を空け、このような手紙をアイリスに預けていたのだ。込み上げる涙をぐっと堪え、彼女はその手紙を胸に部屋を飛び出した。辺りを見渡すと、そこはゲアハルトの執務室がある軍令部の中だった。窓を開け放ち、周囲を見渡して今自分自身が軍令部のどの辺りにいるのかを確認する。
 アイリスが寝かされていた部屋はどうやら軍令部の別棟のようだった。とにかく急いでゲアハルトの下に行かなければと思い、駆け出そうとした矢先、「待ってください!」と後方から慌てた声が聞こえてきた。何だろうかと足を止めて振り向くと、そこには血相を変えた様子の二人の兵士がいた。


「あの、わたし急いでて、」
「ゲアハルト司令官から一人で行動させないように言われているんです。何処かに行くのなら俺たちが着いて行きます」
「ど、どういうことですか?一人で行動させないようにって」
「俺たちも理由までは……でも、とにかくそういう命令なんです」


 眉を下げて困り切った様子で言う彼らは、丁度休憩を取るべく入れ替わろうとしていたところらしい。そこに突然、アイリスが扉を開け放って飛び出して来た為、彼らは慌てて二人で戻って来たとのことだった。それは悪いことをしてしまったと思うも、とにかく今は急がなければならなかった。彼らも連れて行っていいのかは分からないものの、この場にゲアハルトを呼び付けることも躊躇われ、結局のところ、アイリスは二人と共にゲアハルトの執務室に向かうことになった。
 一体どうして彼はこのような命令を出したのだろうかと考えていると、一つだけ心当たりが浮かんできた。鴉だ。彼らはアイリスを捕縛しようとしていた。殺すわけでもなく、生かして捕えようとしていたのだ。養父であるコンラッド・クレーデルがベルンシュタインの国宝である白の輝石を研究していたが、その研究内容を求めているようだった。
 だが、アイリスには何のことだか、心当たりがなかった。養父がそのような研究をしていることも知らなかったし、そもそも白の輝石がどのようなものであるのかもそれほど詳しくは知らない。ただ、ベルンシュタインの建国当初から存在するという宝だと聞いている。それだけだった。
 自分の知らぬうちに何かしらの手掛かりを与えられていたのかもしれない。しかし、やはり首を傾げてしまう。帝国軍が狙うということは余程大切なもののはずだ。それを実の子でもなく、たまたま引き取ることになった戦争孤児に託すだろうか。いくら養父でもそのようなことはしないはずだとアイリスは自嘲するように首を小さく横に振った。


「ゲアハルト司令官――」


 考えているうちにゲアハルトの執務室に到着していたらしく、アイリスは扉の向こうの彼に呼び掛ける声にはっと顔を上げた。すぐに返ってきた誰何の声に兵士は緊張した様子で返事をする。どうやら、彼が帝国の人間だということを知っても、少なくともこの場にいる二人はゲアハルトに対する尊敬は変わらないらしい。
 だが、彼らのような人間だけとは限らない。先日は状況が状況だったということもあってゲアハルトの指揮が望まれたということもある。どのような経緯で彼がベルンシュタインに来たのかも何も、アイリスも知らないのだ。それでも彼が信用に足る人間だと彼女自身は思っている。しかし、他の人間がそうだとも限らない。それを考えると、やはりこれからのことが心配でもあった。
 程なくしてアイリスに執務室に入るようにという返事が聞こえた。彼女は胸に抱いていた手紙を握り締め、共に来てくれた二人の兵士に頭を下げるとノックをした後に扉を開いた。失礼します、と執務室に足を踏み入れると、そこには当たり前のようにエルンストの姿もあった。アイリスは思わず足を止めてしまう。昨日のことを思い出すと、まともに彼の顔を見られなかったのだ。だが、失礼な態度を取った自覚もあり、何より謝らなければならないと思っていたのだ。
 だが、今はそれよりも先にゲアハルトに知らせなければならないことがある。「おはよう、アイリス。気分はどうだ?」と問い掛けるゲアハルトに答えながら、アイリスは彼のいる執務机へと足を進めた。


「おはようございます、司令官、エルンストさん。実は……」
「これは?」
「……シリル殿下から生前、預けられていたものです」


 アイリスの様子から只ならぬ気配を感じたらしく、ゲアハルトとエルンストの表情は険しくなった。そして、彼女がシリルに預けられていた手紙を差し出すなり、彼らの表情は目に見えて変わった。驚きに目を見開き、互いに顔を見合わせている。まさかアイリスに預けられているなどとは思いもしなかったのだろう。
 手紙を受け取ったゲアハルトは薄汚れたそれの表裏を見遣り、「殿下が生前に……」と声を漏らした。アイリスは頷くと、その手紙を受け取った時のことを話した。シリルに居室に呼び出されたこと、その時にわざとレオの鍵の型を取れるような隙を作っていたこと――恐らくは自分自身の死を覚悟していたこと。


「シリル殿下からこのお手紙を預かった時……誰にも見せないように、誰にも手紙のことは言わないようにと念押しされました。そして、殿下は、何かあればその中を見るようにとも仰っていました」
「……そうか。中身は見たのか?」
「いえ。今朝になってこのお手紙のことを思い出して……申し訳ありませんでした、もっと早くに思い出すべきでした」


 頭を下げるアイリスにゲアハルトは首を横に振った。とてもではないが、思い出せる余裕など彼女になかったことを彼もよくよく分かっているらしい。エルンストも特に何も言わなかった。それだけ自分が酷い状態だったのだということが伝わってくるも、それでも早く思い出すべきだったことに変わらない。
 もっとしっかりしなくては、と自分に言い聞かせているとゲアハルトは机の引き出しから取り出したナイフを使い、手紙の封を切った。そこから取り出されたのは一枚の紙片であり、そこには短い文章が書かれていた。ゲアハルトは首を傾げ、それをアイリスとエルンストの方に向けて机の上に置いた。


「空に向かって真っ直ぐに咲く……何これ、暗号?」


 エルンストと共に差し出された紙片を覗き込むと、彼はそこに書かれた一文を読み上げた。それ以外には何も書かれてはおらず、エルンストとゲアハルトを睨むようにその一文を見つめる。様々な暗号の知識をもって読み解こうとしているのだろう。アイリスはそれを横目にただじっと几帳面さが伺える文字を見つめ続けた。
 書き遺されていた言葉を何処かで聞いたことがあった気がしたのだ。それはいつだったか、何処だっただろうかとアイリスは記憶を遡る。そしてふと、ある文字に気付いた。咲く、と書かれているということは何らかの植物を指していることが分かる。それに気付くと、ある記憶が脳裏を過った。


「あ……っ」
「どうした?何か思い出したのか?」
「あの、あそこに……、殿下のお庭に……!」
「東の庭か」
「だけど、あそこは塔が崩れて焼け野原になってるけど……」


 その言葉にアイリスは目を瞠る。東の塔に火が放たれたとは聞いていた。その火があの庭を美しく彩っていた花々まで燃やし尽くしてしまったのだと思うと、やはり表情は翳ってしまう。だが、今はそれを気にしている場合ではない。そこにシリルが残した何かがあるかもしれないのだ。


「違うんです、多分きっと……場所は覚えてます。殿下が教えて下さったんです」
「そうか。早速行こう。エルンスト」
「了解、数人連れて来るよ。先に人払いもさせておく」


 それだけ言うと、エルンストは足早に執務室を出て行った。ちらりともこちらを見ない彼にアイリスは僅かに顔を歪めた。しかし、今はそのことを考えている場合ではない。もしも残された一文を読み解き間違っていたらまた一からやり直しなのだ。本当に自分が思っていることが答えなのだろうかと不安を感じていると「大丈夫だ」とそれに気付いたらしいゲアハルトが口を開いた。


「殿下が君に預けたということは君になら伝わると思ったからこそだ」
「……はい」
「大丈夫だ。きっとそこに殿下が残して下さった何かがある」


 行こう、と促されアイリスは執務机の紙片を手に取り、それを胸に抱き締めながら東の庭へと向かって歩き出した。
 すぐ隣を歩くゲアハルトをちらりと見るも、彼の様子は以前と何ら変わりなかった。身体の調子も悪くはないらしく、少しの疲れも見せない。どうしたらそんな風に強くなれるのだろうかと考えていると、ふと明るい青の瞳が彼女の方を向いた。「どうした?」と微苦笑を浮かべながら問い掛けられ、アイリスは慌てて視線を戻す。


「いえ……もう、お元気そうだなと思って……」
「ああ。だが、アイリスは元気ではなさそうだ」
「……それは……」
「……シリル殿下のことを、アイリスが気に病む必要はない」
「でも、」
「たとえご存命であったとしてもルヴェルチと手を組んでいたのだからただでは済まなかった」


 王位には就けなかっただろう、とゲアハルトは言う。それは言外に生きていても死んでいても凡その結果は変わらないのだと含まれていた。ベルンシュタインという国単位で見てみれば、シリルの死は決して小さなものではなかったものの、国を売った臣下と手を結び王位に就こうとした王子、というよりも、戦禍に巻き込まれて即位前夜に薨御した――という方が余程外聞もいい。国民全体には後者が事実として伝えられるのだろう。
 アイリス自身、シリルの口振りから彼がルヴェルチと手を結んでいたということは分かっていた。そのようなことをすれば、形勢が逆転し、ゲアハルトらが状況を盛り返していれば、たとえ王子であっても無事では済まないことは明らかだ。つまり、彼は王位に就くことは出来なかった。結果的に、シリルは即位前夜に命を落とした。生きていても死んでいても凡その結果は変わらないというのはこういうことだった。
 だが、だからといって簡単に割り切ることはアイリスには出来なかった。シリルの近くにいることがなければ、彼のことをよく知らなければ、そこまでして王位に就きたかったのだろうかなどと他人事のように考え、すぐに頭の片隅に追いやっていただろう。しかし、それをするにはあまりにも彼のことを知り過ぎていた。無論、全てのことを知っていたわけでもなければ、理解していたというわけでもない。だが、シリルのことを簡単に捨て置くことが出来ないほどには、彼のことを知っていた。理解しようともしていたのだ。


「……それでも……手を伸ばせば、届く距離だったんです」
「……」
「でも、分かってもいるんです。……殿下をお助け出来てもその場限りのことだって……追い付かれて共倒れになることぐらい、分かってます」
「……ああ」
「それに……殿下はご納得されていたようです。ご自身の死も、受け容れていらっしゃるようでした」
「そうだな……」


 だから、これ以上、自分が気にするべきではないことも分かってはいるのだ。シリルのことを思えばこそ、自分のことを責めるべきでも、彼を助けられたはずなのにと嘆くべきではないのだ。シリルは来る死を受け入れていた。思えば、この数日間の彼は穏やかそのものだったように思う。死に備えて様々なことをしていたのだろう。その一つがアイリスに預けられた手紙だった。
 しかし、彼は一体どのような気持ちでそれを用意したのだろう。辛くはなかったのだろうか、苦しくはなかったのだろうか――怖くは、なかったのだろうか。今となっては知る術もないが、何も気付けなかったことが歯痒くてならなかった。そうしている間にも東の庭の近くまで辿り着き、アイリスはそこから見えた庭の惨状に目を見開いた。


「……こんなに、酷いなんて……」
「塔の瓦礫は片付けられ始めている。……アイリス、場所は分かるか?」
「は、はい……えっと……確か……」


 レオが移送されてすぐのことだった。ルヴェルチとゲアハルトが幽閉されていた地下牢で鉢合わせた時にたまたまやって来たシリルが助けてくれた後、連れて来られたのだ。今にしてみれば、恐らくルヴェルチが入って行くところを見て追いかけて来たのだろう。口では憎まれ口ばかり叩いていても、根っからの腐った人間ではなかったのだ。
 その後、東の庭を訪れて彼と話をした。そしてふと、シリルは庭園の中程で足を止めてアイリスを手招きしたのだ。彼女は記憶の中の場所と照らし合わせながらその場に立ち、足元の焼け焦げた花壇へと視線を向けた。そこには、当時も何も咲いていなかった。シリルは春になると紫の花が咲くのだと言っていた。その話を思い出し、アイリスは恐る恐る、自身の目元に手を遣った。


「どうした?」
「……春になると、此処に……紫の花が咲くのだと仰っていました」
「……紫の花……おい、アイリスっ」


 その場にしゃがみ込んだアイリスはゲアハルトの制止を振り切り、素手で土を掘り返し始めた。手が汚れることも、爪が痛むことも厭わずに彼女は一心不乱に掘り返し続けた。程なくしてエルンストがレックスやレオを連れてやって来たが、彼らはアイリスの様子に唖然としていた。
 親を亡くし、赤子の頃に孤児院に引き取られた彼女は名前さえもなかった。そんな彼女に孤児院の院長がアイリスという名前を付けたのだ。その花と同じ色を紫の瞳だったために、アイリスと名付けられたのが彼女だった。そして、シリルは決してその花の名を口には出さなかったけれど、そこに植えられ、空に向かって真っ直ぐに咲く紫の花は彼女の名前と瞳の色と同じ、アイリスの花だったのだろう。
 その花が好きなのかと聞いた時、シリルは曖昧な返事をした。それもそうだろう。答え辛かったに違いない。今更ながらに、アイリスは気付いてしまった。それと同時に、不器用にも程があると思わずにはいられなかった。そして、土を掘り返し続け、唐突に指先に硬いものがぶつかった。


「此処に何か……痛っ」
「アイリス、もう止めろ。レックス、レオ、掘り返すのを手伝ってくれ。エルンストは手当を」


 尚も手を伸ばすアイリスの腕を掴み、ゲアハルトは何処からかシャベルを持って来ていた二人に指示を出す。そして、立ち上がらせたアイリスをエルンストに任せると自身もレオから手渡されたシャベルを手に地面を掘り返し始めた。
 アイリスはエルンストに促されるままに庭園の手入れ用に作られていた井戸に向かった。そこから汲み出された水を桶に張ると、彼はゆっくりとアイリスの手に付いた土を落とし始めた。何の準備もなしに素手で掘り返した為に細かい傷がいくつも手にでき、爪からも血が出ていた。水が傷に染みるも、いつものように軽口を叩かないエルンストに対し、アイリスは「あの……」と口を開く。


「……お腹の怪我のこと、黙っててすみませんでした」
「アベルのことを気にして言わなかったのは分かってる。……でも、下手をすれば今頃死んでたかもしれない傷だった」


 解毒剤を飲んではいたものの、完璧に解毒出来たというわけでもなかった。何より、回復魔法で傷を癒したとしても無理をしては意味がないのだ。本当ならば身体を休めるべきだったのだ。それをせずに満足な治療もしなかったからこそ、熱に魘され、体調が思わしくない日が続く羽目になった。
 言い返す言葉もないアイリスはすみません、と謝ることしか出来ない。そんな彼女にエルンストは深い溜息を吐いた。そして、「もっと自分のことを大事に出来ないの?」と問い掛けられる。


「アイリスちゃんがシリル殿下のことを悲しんでるように、君が死んだら周りの人間が同じように悲しむとは思わないの?」
「それは……」
「君は頑張り屋だし、そういうところは好ましく思ってる。……でも、自分を大事にしないところは、好きじゃない」
「……エルンストさん」


 緩く、温くなりつつある水桶の中で手を握られる。指先の傷はいつの間にか癒され、痛みはなくなっていた。顔を伏せるエルンストの表情を伺うことは出来ず、掛ける言葉も見つからなかった。もう無理はしないと自分のことを大事にすると約束すればいいのだろうかとも思う。だが、自分のことは今より大事にすることは出来そうだが、無理をしないという約束は出来そうになかった。
 守れない約束をすることほど、不実なことはないとアイリスは思っている。けれど、このまま黙っていることも憚られた。こんなにも心配を掛けていたとは思わなかったのだ。腹部の怪我を放ったおいたのはあくまでも自分自身の選択であり、それが引き金となって死ぬかもしれなくても、自業自得だと思っていた。
 そういう考え方が駄目なのだろうと思いつつ、アイリスは緩く握られたままだったエルンストの手を小さく握り返した。ぴくりと震える肩に彼女は困ったように眉を下げながら微かな笑みを浮かべた。


「心配掛けてごめんなさい、」
「エルンストさん!アイリス!」


 アイリスが口を開いた矢先――庭を掘り返していたレックスの声が響いた。その声音の緊張した様子に何か出てきたのだろうかと二人は揃って視線を向ける。レックスらの足元には小さな箱のようなものがあり、どうやらそれが先ほどアイリスが掘り当てたもののようだった。
 一体それは何なのだろうかと思いつつ、アイリスは立ち上がった。しかし、足を踏み出そうにも先ほどまでとは違ってしっかりと手を掴まれてしまう。驚いて振り向くも相変わらず顔を伏せているエルンストの表情は伺えないままだった。ちらりとレックスらの方を一瞥した後、アイリスは困惑した様子で「あの……」と声を洩らす。


「……ごめん。何でもない」
「はい……」
「とにかく、俺が言いたいことはもっと自分を大事にして欲しいってことだから……それだけは覚えておいて」
「気を付けます」
「その言葉、あんまり当てには出来ないけどね」


 耳には痛い言葉だった。言葉を詰まらせるアイリスに立ち上がったエルンストは肩を竦めて笑ってみせた。そして、そのまま彼女の手を離すと、足早に箱を開けようとしているゲアハルトの元へと歩き出した。アイリスも慌ててその後に続く。
 ゲアハルトの元に辿り着くと、丁度箱が開いたところだった。何が入っているのだろうかと控えめに覗き込んだところ、「これは……っ」とゲアハルトとエルンストの息を呑む気配が伝わって来た。そこに入っていたのは布袋と手紙であり、布袋の中身を確認していたゲアハルトとエルンストは驚きを隠せない様子だった。


「何なんですか?それ」
「……白の輝石だ」


 絞り出すようなゲアハルトの声音にアイリスやレックス、レオは目を見開いた。十年以上前に失われたと聞いていたものであり、それをルヴェルチに――延いては鴉に――与えることを条件にキルスティはシリルを玉座に据えようとしていた。つまり、本来ならばそれは既に鴉の手に移っているはずのものなのだ。
 本物なのだろうかとアイリスらは顔を見合わせる。しかし、白の輝石を手に様子を確認するゲアハルトやエルンストは揃ってそれを本物であると口にした。「でもどうしてそんなものを兄上が持っていたのかが……だってそれは失われたはずで、それを狙って今回の侵攻もあったはずです」とレオは納得がいかない様子だった。


「ああ。やけにあっさりと退いたところを見ても、奴らが白の輝石を奪取したものだと俺も考えていた」
「実際、カサンドラは目的のものは手に入れたってはっきりと言ってたからね」
「……偽物を掴まされたってことですか?シリル殿下に」
「だけど、相手は鴉の人たちですよ。偽物を掴ませると言っても、そんな簡単に引っ掛かるなんて……」


 鴉という特殊部隊の人間は普通ではなかった。そんな彼らをシリルが出し抜けるなどとは思えなかったのだ。しかし、ゲアハルトは首を横に振りながら「状況が状況であれば、カサンドラも確認を後にしたはずだ」と口にする。つまり、確認するような余裕を与えなければいいのだ。実際、白の輝石を入手した後、ルヴェルチは逃げ出し、キルスティの居室は爆発した。そのような状況で白の輝石だと言われて受け取ったものを偽物かもしれないとその場で確認する余裕はなかっただろう。
 しかし、相手はカサンドラだ。彼女でなくとも、周囲の人間が確認を促す可能性があった。それをアイリスが指摘すると、「でもね、輝石はずっと失われ続けて……まあ、あのババアが隠し持ってたわけだけどさ、いくらカサンドラでも本物を見たことはなかったはずだ」とエルンストは言う。


「シリル殿下は芸術家関係の人との繋がりが深かったから適当に色の似た魔法石を用意させて、白の輝石とそっくりと偽物を用意することぐらい簡単だったはずだよ」
「正妃様はシリル殿下には甘かったからな。彼が見てみたいと頼めば、すぐに見せたはずだ。後はそれを模写してしまえばいい。殿下は絵がお上手だったからな」


 そう言いつつ、ゲアハルトは箱に入っていた数枚の封筒を手に取る。そしてその一枚をレオに差し出した。「オレに?」と彼は信じられないとばかりに目を見開く。だが、そこには確かにレオの名前が書かれていた。半ば唖然としているレオにゲアハルトはもう一通差し出すと「エルザ殿下宛だ。届けて差し上げてくれ」と口にする。それを受け取ったレオはこくりこくりと何度も頷いた。自分に手紙が残されていたなどとは思いもしなかったのだろう。
 そして残りの一通には宛名がなく、ゲアハルトは封を切るとそれを読み始めた。だが、半分も読まぬうちにそれを封筒に戻し、溜息を吐いた。「宛名ぐらい書けばいいものを」と呟くと、彼は封筒に戻した手紙をアイリスに差し出した。


「わたし、ですか?」
「ああ。内容から察するにアイリス宛だ」
「でも……」
「あれで不器用な方だからな。気持ちが分からなくもないが、宛名ぐらいは書くべきだ」
「何て書かれてたの?」
「聞くな。それより、戻ってすぐにこれからの方針を決める。……殿下が残して下さった反撃の機会だ。無駄にするわけにはいかない」


 何が何でも手に入れなければならず、鴉に奪われたのだから何をしてでも奪い返さなければならないと思っていたものが思わぬところで手に入ったのだ。ゲアハルトは掌で太陽の光を受けて鈍く光るそれを見つめ、自分に言い聞かせるように呟いた。







 
 
 
 
「やられた、やられたやられた!」


 がしゃん、と陶器のカップやポットがテーブルから落とされ、床で割れた。耳触りな音にカインやブルーノは顔を顰めるも、とてもではないが諌めることさえ躊躇われるほどのカサンドラの様子に誰も口を開かなかった。彼女の手には痛々しい白い包帯が指先から肘まで巻きつけられ、頬にもガーゼが貼り付けられている。衣服で見えないものの、肩や脇腹にも同様に包帯が巻き付けられていた。
 バイルシュミット城への侵攻から一夜明け、カサンドラは漸く手に入れた白の輝石を取り出していた。鈍く光るそれは帝都の黒の輝石の研究施設で見たものと寸分違わぬ形状をしていたのだ。魔力を込めれば光り輝き、それ自体がまるで生きているように脈動する――それを知っていたからこそ、カサンドラはそれを掌に乗せ、ゆっくりと魔力を込めたのだ。
 そしてそれは、予想通り、白い光を放った。だが、それは収縮することなく、そのまま彼女の掌で込められた魔力に反応して爆発したのだ。その寸前に様子がおかしいと感じ、咄嗟に防御魔法を展開したため、腕を吹き飛ばされることはなかったものの、見るも無残な様になったことは言うまでもない。


「シリル……っ脳無しの盆暗のくせに、私に偽物を掴ませるなんて!」


 キルスティの部屋を爆発させた時の彼の様子を思い出す。キルスティは兎も角として、元よりシリルに白の輝石を渡す気はなかったのだろう。だが、最初からカサンドラらと相討ちを狙っていたとも考え難い。ルヴェルチとキルスティが手を組むことになった時のシリルの様子は王位にも何にも興味がない、何もかもがどうでもいいと言わんばかりの様子だった。
 そんな彼がどうしてこのような手を思いつくまでになったのかがカサンドラには分からなかった。今更ながらに姉の人生をめちゃぐちゃにした自身に復讐しようと思ったのだろうかとも思うも、あの夜までカサンドラのことをシリルは記憶の彼方に追いやっていた様子であり、彼女自身、シリルと直接顔を合わせるのは初めてだった。
 いくら考えたところで答えが見つかることはなく、苛立ちをぶつけようにもシリルは既にこの世にはいない。どうしようもないほどの苛立ちにカサンドラはソファに並べられていたクッションを手当たりしだい、投げ始め、それでテーブルを叩き始める。びり、と布の破れる音がすれば、そこに手を掛け、一気にクッションのカバーを破り捨てる。羽毛が散ればそれを踏み躙り、床に穴を開ける勢いで踵を叩きつけ始めた。


「殺しても殺しても殺し足りないわ!もっと痛めつけてやればよかった、爪を剥いで指を負って耳を削ぎ、鼻を削ぎ、歯を抜いて目を抉ってやればよかった!」
「カ、カーサ……それぐらいにしておかないと、怪我に障るよ……」
「貴方も貴方よ!閉じ込められていたレオを殺せず、たった一人の応援に邪魔をされたなんて冗談にもならないわ!」
「それは……!」
「ブルーノ、貴方も何をしていたのよ!揃いも揃って任務もまともにこなせないクズじゃない!」


 手当たり次第、傍にあるものを投げ付けるカサンドラにカインもブルーノも口を噤んだ。ほとぼりが冷めるまで放っておくべきだったと思っても既に遅く、苛立ちの捌け口に二人は定められてしまった。そんな彼らを横目にアウレールは傍観を決め込み、アベルは口を閉ざしていた。だが、さすがにこれ以上は黙っては見ていられず、彼は静かに口を開いた。


「カサンドラだってエルザの暗殺にもアイリスの捕縛にも、白の輝石の奪取にも失敗してるでしょ」
「アベルっ」
「だってカイン、これは事実だよ。人に物を言う前に自分を顧みなよ」
「……っ」


 カサンドラは何も言い返せなかった。しかし、そんな様子を冷やかに見るアベルのその様子が気に入らなかったのか、彼女はソファから立ち上がると彼に詰め寄った。咄嗟にカインが止めに入ろうとするも、邪魔をすればどのような目に遭わされるか分かったものではなく、ブルーノが後ろから羽交い締めにして止めた。
 それを横目にアベルは慌てるでもなく、淡々とした様子で「何?」と冷やかな声音で言う。それさえ今はカサンドラの神経を逆撫でするらしく、「私が、あの子を捕縛していたら気が気でなかったくせに、」と絞り出す様な声で彼女は言う。だが、アベルは顔色一つ変えることなく、その隻眼を細めて口を開いた。


「何、だったらありがとうとでも言えばいいの?」


 さすがにその一言には我慢ならなかったらしく、カサンドラは手を振り上げる。だが、それがアベルの頬を叩き、乾いた音を響かせることはなかった。振り下ろされたその手を、彼自身が掴んで止めたのだ。細い腕には似合わぬ膂力にカサンドラは奥歯を噛み締める。だが、いくら力を入れようにも、その手をこれ以上、振り下ろすことは出来そうになかった。


「僕は与えられた任務を遂行した。失敗した人に文句を言われる筋合いも、況してや手を上げられる覚えはないよ」
「それはっ、ルヴェルチを殺すなんて簡単な、」
「だとしたら采配ミスだね。自分ならエルザを暗殺してアイリスも捕縛して白の輝石も入手出来ると思ってたんでしょ。自分の力を過信し過ぎだよ」


 淡々と口にするアベルのその言葉にカサンドラは羞恥に頬を染めた。返す言葉が見つからず、彼女は奥歯を噛み締めるも、その肩は怒りに震えていた。アベルは「それじゃあ僕は部屋に戻るから」とだけ言うと、さっさと踵を返して行ってしまった。それを皮切りにブルーノとカインも足早に部屋を後にし、そこにはカサンドラとアウレールだけが残った。
 しかし、アウレールも壁に預けていた背を離すと、静かに部屋を出て行ってしまう。一人、部屋に残されたカサンドラは苛立ちのままに腕や身体の痛みさえ気にせずに椅子を床に叩き付け、壁に飾られていた絵画を投げ捨て、調度品を床に落とした。しかし、それでも苛立ちは収まらない。
 自分を出し抜いたシリルが許せない。馬鹿にしたアベルが許せない。白い包帯には血が滲み、痛みが増しているようにさえ思う。しかし、カサンドラはその痛みなど気にせず、握り締めた拳を横薙ぎに振るい、色とりどりの花が飾られた花瓶を床に落とした。指先が痛み、血が滲む。その赤は苛立ちと憎しみ、そして怒りに染まった彼女自身の瞳と同じ色をしていた。必ず奪ってやる、と呟くその声は地を這うような声音であり、まるで呪いをかけるかのような響きが籠っていた。


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