過去 - good bye,days -




「ああ、そうだ。アイリス」
「何でしょう」


 執務室を後にしようとした矢先、アイリスはゲアハルトに呼び止められた。どうしたのだろうかと足を止めて振り返ると、彼は少し申し訳なさそうな表情で「しばらくの間は軍令部で寝起きして欲しい」と口にした。配属は近衛兵団から第二騎士団に戻ることにはなったものの、状況が状況であり、いつカサンドラらに身柄を狙われるか知れない。そうなったときのことを考えると、宿舎に戻すわけにはいかないのだという。
 尤も、それはアイリスの身の安全というよりも周囲の人間が巻き込まれかねない為だ。カサンドラらが与えるであろう周囲への損害を最低限にする為にも、要は隔離するということだ。しかし、アイリスからしてみても、そうしてもらった方が有り難くもあった。自分がいたが為に周囲に害を与えるかもしれないなんてことは耐えられないのだ。


「分かりました。今使わせて頂いてるお部屋でいいんですよね?」
「ああ。あの部屋は自由に使ってもらって構わない。護衛もこのまま続行だ。窮屈だろうが、辛抱してくれ」
「それじゃあ後でお前の友達に着替えだとか届けるように頼んでおくな。あの同室の子でいいか?」


 そう言った彼は少しだけ顔を歪めていた。本当は、第二騎士団に戻って来て欲しくはなかったのだろう。それが分かっているだけに申し訳なさはあるものの、レックスは止めるような言葉を口にはしなかった。それがアイリスの意志ならばと、尊重してくれるつもりなのだろう。そのことに心の中で感謝しつつ、レックスの言葉にアイリスが頷くと、彼はそのまま宿舎に向かおうと足を踏み出す。だが、「レックス、その後でいいから一つ頼まれてくれるか」とゲアハルトの声が掛かる。すぐに踵を返して彼に向き直ったレックスは表情を引き締めていた。


「明日、クレーデル邸に向かうことになるがその前に邸に話を通しておいて欲しい。第二の兵士で信用に足るとお前が判断した者も連れて行って、今日はそのまま、邸の警備に当たってくれ」
「了解しました」
「この書状を渡せば、特に何も言われることはないはずだ」


 ゲアハルトが差し出した書状を受け取ったレックスはそれを懐に仕舞うと敬礼した後に足早に執務室を後にした。「指示があるなら先に伝えておけばいいのに」と溜息混じりに言うエルンストに、ゲアハルトはむっと僅かに顔を顰めた。だが、すぐにお前にも指示があるぞ、と書類を差し出す。先ほど話題に上がっていたルヴェルチと繋がっていた兵士の名簿だろう。エルンストはそれに目を通しつつ、「これはすぐに手を付けるけど、」と口を開く。


「ちょっと実家に呼び出し喰らったから戻って来るよ。夜中には戻るからさ」
「そうか。なら、今回はその仕事だけでいい」
「いいの?」
「他の奴らに任せても事足りる程度のものだ」


 気にするな、とゲアハルトは口にする。だが、その瞬間、僅かにエルンストの表情が変わった。目を見開き、そして奥歯を噛み締めた後、「それじゃあ最初から俺に丸投げしなくてもいいのに」と呆れた顔を作って口にした。その様子を見ていたアイリスはどうしたのだろうかと思う。エルンストらしくない表情を垣間見たように思えたのだ。
 だが、それを問えるような雰囲気でもなく、エルンストは名簿を片手に「それじゃあ戻るよ」と執務室を出て行ってしまった。咄嗟に追いかけようとするも、足を踏み出すよりも先に執務室の扉が閉まってしまう。あ、と思わず声を洩らしたアイリスに「どうかしたのか?」とレオは首を傾げる。


「ううん……何でもない」
「ならいいけど。それではオレもこれで。……アイリス、ちょっといい?」
「あ、うん。司令官、失礼します」
「ああ」


 どうしたのだろうかと思いつつ、アイリスは一礼するとレオに続いて執務室を後にした。執務室を出ると、そこには自身に付いてくれている護衛の兵士だけでなく、見慣れた深紅の軍服を纏った近衛兵の姿があった。思わず目を瞬かせていると、レオが言い辛そうに「あー……一応、オレの護衛。要らないって言ってるんだけど」と溜息混じりに言った。
 しかし、周囲からしてみればレオは次期国王だ。近衛兵が護衛として付くことも何らおかしなことではない。とは言っても、彼らの内情をよくよく知ってるアイリスからしてみれば、近衛兵が護衛として付いているといっても心許なくはあった。いざとなれば、レオの方が腕が立つのではないかとさえ思っていると「あ、この人たちは司令官が選んだ人だから大丈夫だって」とアイリスの顰めた表情から考えていることに気付いたらしいレオがこっそりと耳打ちした。


「それならいいけど……」
「大丈夫大丈夫。オレはそんな簡単にやられるほど柔ではないから。それより場所を移そう」


 そう言うと、レオはゆっくりとした足取りで歩き出した。何処に行くのだろうかと思いつつ、レオの後に続いて歩いていると、彼は軍令部の裏庭へと向かっているようだった。既に陽が沈み始めているということもあり、特に人気はない様子だった。自分はともかくとして、此処で大丈夫なのだろうかと思っていると足を止めたレオは「アイリスと二人で話がしたいから此処で待っててくれ」と近衛兵らが口を挟む前にアイリスの腕を掴んで裏庭へと足を踏み出した。
 レオ、と声を掛けるも、彼は平気だよと言うばかりで足を止める気配はない。仕方がないか、とアイリスはこっそりと溜息を吐くと、彼が腰かけたぽつんと置いてあったベンチの隣に腰掛ける。思えば、こうしてレオと二人で話をするのは随分と久しぶりだった。


「護衛が付くって結構肩苦しいな」
「でも、仕方がないよ」
「まあな……でも、今までずっと自由だったからやっぱりやり難い」


 レオは溜息混じりに言いつつ、窮屈だと言わんばかりに肩を回す。そんな彼の様子にアイリスは苦笑を浮かべながらも、「レオが王子様だったなんてね」と口にする。本当に、思いもしなかったのだ。だからこそ、彼の身分が白日の下に晒された時、驚きが隠せなかった。
 しかし、今にして思えば、ホラーツと顔を合わせた時に感じた既視感は決して錯覚ではなかったのだということを実感する。ホラーツの笑顔はレオととてもよく似ていた。容姿だって似ているのだ。どうしてもっと早くに気付かなかったのだろうかとさえ思えてならなかった。


「今まで黙っててごめん」
「ううん、仕方ないことだから」
「本当はずっと言わないままで言おうと思ってたんだ。その方がいいと思ってたし、そうなるとも思ってた。オレに王位が回って来ることなんてないと思ってたからさ」
「……うん」
「ああ、ごめん。でも、アイリスを責めるつもりなんてない。誰のことも、責めるつもりなんてないから」


 どうなるかなんて誰にも分からないんだからさ、とレオは言う。それでも、やはり、自分にもっと力があればという思いが込み上げて来た。彼はそもそも、王位など望んではいなかったのだ。ただ、今まで通り過ごせていればいいと思っていたのだろう。たとえ、身分が明らかにされたとしても、シリルが健在であり、王位継承権が剥奪されたままだったのなら彼は今までと何ら変わらぬ生活を送ることが出来ただろう。
 そして、それはシリルの望みだったに違いない。そのやり方は強引だったものの、シリルはレオをただの一人の人間として、政争から遠く離れたところに追いやって、生きていって欲しいと思っていたのだろう。だからこそ、彼は何をしてでも、たとえ本人に厭われようとも、レオを守ろうとしていた。


「……兄上はオレのことを弟だと思ってくれていたんだ」
「……うん」
「手紙に書いてあった。手荒にして悪かった、嫌な思いも痛い思いもさせてしまってすまなかった、って」
「……」
「王位をお前に押し付けることになって、すまなかったってさ……兄上の所為でも、誰の所為でもないのにな」


 ちらりと見た彼の横顔は泣いてしまいそうな笑みを浮かべていた。アイリスは視線を逸らすと、夕焼けに照らされた芝生へと視線を投じた。生温い風が頬を撫で、もうすぐ夏が終わるのだということを感じさせる。


「オレが兄上に初めて会ったのはもう十年以上前のことなんだ。オレは下町……母さんの実家で生まれてさ、生まれてから数年はそこで育てられたんだ」


 けれど、どうしてもって父上が母さんとオレを城に呼び寄せた――そう言ってレオは懐かしむように目を細めていた。その当時のことを思い出しているのだろう。
 突然、城で生活することになり、自分はこの国の王子であるのだということが教えられた。そして、引き合わされた姉と兄。最初は意味がよく分からなかったのだと彼は苦笑混じりに言う。


「姉上はよく遊んで下さったけど、兄上はそうでもなかった。いつも絵を描いてばかりで、それも殆ど見せてもらえなかった。……でも、いつもオレを呼びに来るのは兄上だったな」
「幼い頃から不器用な人だったんだね」
「そうだな。……本当に、不器用な人だった」


 レオはそう言うと顔を俯けた。彼が話してくれる幼い頃の話は、どれもエルザとシリルのことばかりだった。楽しく過ごしていたのだろう。けれど、時折苦しげに顔を歪めるのは、それだけではないからだ。キルスティの存在がレオと彼の母親、アウレリアを苦しめていたのだろう。どれほどの仕打ちを受けたのかは、その一端を目にしていたアイリスには想像に難くなかった。


「だけど、数年も経たないうちに城での生活も終わった。母さんが病気になって、実家に下がったんだ。……オレもそれに付いて行った」
「それで……亡くなられたんだよね」
「ああ。すぐに父上がオレのところに来たよ、オレを引き取ってくれるとも言われた。……だけどさ、オレは城に行きたくなかったんだ」
「……うん」
「あの方が怖くてさ……避けてるうちに、兄上と姉上とも疎遠になってさ。姉上とはたまに連絡を取ってたけど、……正直、このまま縁が切れたらなって……思ってたこともあった」


 だけどさ、やっぱり二人はオレの兄さんで姉さんだったんだ。
 今回のことでそれをより実感したらしく、もっと兄弟らしく接することが出来ていればと彼は思ったらしい。けれど、それに気付いた頃には既に遅かったのだと、レオは顔を伏せてしまった。そんな彼にアイリスは「エルザ様がいるじゃない」と声を掛ける。彼にはまだ、家族と呼べる存在が残っている。きっと、レオに宛てられたシリルの手紙にも、彼女のことをよろしく頼むということが書かれていたはずだ。


「レオにはまだお姉さんがいるんだから。ひとりじゃないよ」
「……アイリス」
「本当に本当に、大変だと思う。わたしに出来ることはないかもしれない。でもね、わたしはレオに王様になって欲しいなって思ってるよ」
「でも、オレは……」
「初めて会ったときに言ってたこと、覚えてる?人を傷つけるのは痛くて怖いし、逆も一緒……人を傷つける痛みも、傷つけられる痛みも知ってるレオは、きっといい王様になれるよ」


 戦うことの辛さも苦しみも悲しさも知ってるからこそ、たくさんのことを悩むはずだ。どうすることが一番いいのか、考えても考えても答えが出ず、そのことが苦しくて仕方なくて、逃げ出したくなるかもしれない。重たい責任が圧し掛かり、もう嫌だと投げ出したくなることもあるだろう。けれど、たった一人でそれを背負いこむ必要もないのだ。エルザだっている、ゲアハルトだっている。自分だっているのだ。レオを支えて、一緒に重荷を背負うことだって出来る。


「自分に自信、持ってよ」
「……アイリス」
「レオなら大丈夫って、わたしも、みんなも信じてるから」


 一人じゃないんだからね、と付け足すと、レオはこくりと頷いたっきり顔を伏せてしまった。微かに震える肩に気付かぬふりをして、「ねえ、そろそろ広場のあのお菓子屋さんに限定ケーキが発売する頃じゃないかな」と空に瞬く一番星を見上げながら言う。護衛が付けられている以上、そう簡単に出歩くわけにもいかないことは分かっている。けれど、今はありふれた日々に話していたような、そんな普通の話がしたかったのだ。「レオは王子様なんだから、ちょっとお願いして買ってきてもらおうよ。レオは頑張ってるんだから、それぐらいの我儘なら言っても罰は当たらないよ」と冗談めかして言うと、小さく笑った後に、彼は言ってみようかなと少しだけ楽しそうに口にした。




 




「父上、エルンストです」


 任されていた尋問に一区切り付いたところで、エルンストは北区にあるシュレーガー家の邸に戻っていた。既に月も中天を越えている頃だが、それぐらいの頃になることは知らせていた為、恐らくまだ起きていることだろう。どうせなら寝ていればいいのにと思うも、まるでそれを見透かしたように扉の向こうからは入るようにという返事が返って来た。そのことにエルンストは内心舌打ちしつつ、「失礼致します」と淡々とした声音のまま、扉を開いた。
 足を踏み入れると、室内は薄暗かった。しかし、その日は雲一つなく、月明かりが眩しいほどであり、視界には困らなかった。大きな窓から差し込む月明かりに目を細めていると「これからどう動くつもりだ」とエルンストと同じ色素の薄い黒髪をした眼鏡を掛けた初老の男――ディルク・シュレーガーが口にした。


「機密事項もありますので詳しく申し上げることは出来ませんが、明日はクレーデル邸にてコンラッド・クレーデルが携わっていた白の輝石の研究資料を捜索する予定です」
「現物も奪われたままなのに資料など探してどうする」
「帝国軍が狙っている以上、捨て置くわけにもいきませんので」


 ディルクの言動からもキルスティとルヴェルチの取引についても把握していたことが伺える。しかし、カサンドラらが偽物をシリルに掴まされたことまではまだ知らないらしく、そのことにエルンストは内心ほっとした。だが、彼にしてみれば、ディルクは何処にでも目と耳を持つような男だ。知らない振りをしているだけの可能性もある。用心するに越したことはないかと思いつつ、エルンストは冷めた目で自身の父親を見つめ返していた。
 ディルクはシュレーガー家の繁栄のことしか考えていない。貴族の在り方としては然程珍しくないということはエルンストも分かってはいた。だが、その為に他を排し、どのようなことも平然と行うその様は決して受け容れることは出来そうになかった。とはいっても、自身もまた、似たようなことをしているだけに、所謂、同族嫌悪というものなのだろうとエルンストは思っていた。


「それで、どのような用件で呼び戻されたのでしょうか。あまり暇ではないのですが」
「ああ。縁談の話だ」
「……は?」


 探りを入れられるとばかり思っていた。だからこそ、どのように切り抜けようかとそればかりを考えていたのだ。しかし、自身の父親の口から出た言葉は予想していたものに何ら掠ることもない、縁談の話だった。咄嗟にその音が言葉に結びつかなかったものの、意味を理解した途端にエルンストはこれ以上ないというほどに顔を歪めた。


「俺は結婚などするつもりはありません。それに俺は、」
「女嫌いだということは知っている。が、お前はシュレーガー家の跡取りだ。そろそろ結婚しても何らおかしなことはない、それに今は時期もいい」
「……時期?」


 訝しむようにエルンストは顔を顰める。一体どういう意味なのだろうかとその真意を冷たい碧眼から見出そうとするも、何を考えているのかさえも分からない。今も昔も、父親の考えていることなど分からなかった。昔はそれを理解したいと思っていた。それを理解することが出来れば、認めてもらえるかもしれないと思っていたのだ。


「ああ。シリル殿下が薨御された今、次期国王の座はレオ殿下に移った。それに伴って情勢も一気に変わっている」
「……回りくどい仰い様ですね。父上は俺にエルザと結婚しろとでも仰りたいのでしょうが、俺は彼女と結婚するつもりはありません」


 苛立ちを隠そうともせず、エルンストは吐き捨てるように口にした。エルザのことを嫌っているというわけではない。幼い頃からの顔見知りであり、今は気兼ねせずに接することの出来る数少ない存在でもある。だが、それはあくまで友人という区切りでのことだ。とは言っても、異性として見たことがないかと言えば嘘になる。しかしそれも、兄であるギルベルトを出し抜きたいと思っていたからこその感情であり、そこに恋愛感情はなかったことぐらい分かってはいた。
 貴族の結婚にそういった恋愛感情が必要ではないということもエルンストは理解している。自身の両親の間にそのような感情があるとはとてもではないが思えないほど、冷え切った様を見続けて来たのだ。だからこそ、そのようなものであるという認識はある。そしてそれを、過去の自分は受け容れてもいた。そういうものだと思っていたのだ。けれど、今はそれを受け容れられそうになかった。以前の自分であれば、ギルベルトが生きていた頃の自分であれば――無論、その場合は自身にエルザとの婚姻の話が回って来るはずもないだろうが――その話に飛びついていただろう。
 しかし、今となっては飛びつくどころか、話を聞くことさえ嫌だった。エルザは未だギルベルトのことを愛している。一国の王女としては国の為にも早く次の縁談を取り結ぶべきではある。だが、人前では気丈に振る舞っていても、見えないところで嘆き悲しんでいることを知っているからこそ、自分がエルザを娶るべきではないのだと強く思うのだ。


「そうか。……ならば、ハンナをレオ殿下の后に推すか。そして、お前はアイリス・クレーデル嬢を娶ればいい」
「……え」
「彼女とは親しくしているそうではないか。女嫌いにも関わらず」
「それ、は……っ、しかし、どうしてそこで彼女が出てくるのですか!無関係で、……」


 無関係でしょう、という言葉は最後まで続かなかった。真っ直ぐに見据えられるその目に射竦められたわけではなく、言わんとしていることを理解してしまったからだ。
 ディルクは時期と言った。シリルが薨御し、それによってレオが次期国王となった。つまり、今現在、レオの后の座を妙齢の娘のいる貴族たちは挙って狙っていると言える。シリルの時も同じだったが、その時はキルスティが健在だったこともあり容易に進言することも出来なかったのだろう。
 だが、今は違う。レオには後ろ盾がいないのだ。本来ならば、彼の母親であるアウレリアの後ろ盾となっていた貴族――つまり、クレーデル家がそのまま彼の後ろ盾になるはずだった。しかし、アウレリア自身が薨御し、ホラーツの信を受けて力を持っていたコンラッドも戦死した為にクレーデル家には以前ほどの力はなく、また、コンラッドは親類の縁に恵まれなかったが為に家督はアイリスが継いでいる。実子ならまだしも、彼女は養女であり、レオを支えるほどの力はない。
 だからこそ、ディルクはエルンストにアイリスを娶れと言ったのだ。シュレーガー家の嫡流に女がいない為、傍流のハンナをレオの后に据え、彼の後ろ盾となるだけでなく、元より縁の深い家柄の関係に当たるアイリスを迎え入れることによって他の貴族を排するつもりなのだ。そして、自分がたとえアイリスを娶らないと言ったとしても、ディルクの中では既にアイリスを迎え入れることは確定事項となっているのだろう。エルンストが拒否したならば、傍流の男に同じことをさせるだけなのだ。


「……父上っ貴方はこの家を守る為にそこまでしなければ気が済まないのですが」
「ああ、そうだ」
「この国が滅びれば、家も何もないでしょう!」
「ゲアハルトがこの国を守るだろう。あいつはホラーツ陛下に大恩がある。それを無下に出来るような男ではない」
「……っ」


 淡々と彼は言う。こういう人間だということは分かっていた。父に追い付きたいとも思っていた、追い抜きたいと本気で思っていたのだ。けれど、今になってみれば、そんな自分に吐き気がした。自分はこんな人間になりたいなどと思っていたのかと思うと反吐が出そうだった。


「クレーデル家は我がシュレーガー家に家格は劣るが、アウレリア様の後ろ盾だった家だ。レオ殿下の即位に合わせて家格も上がるだろう」
「だからって、」
「お前が娶らないなら他所の貴族に先を越されるぞ」


 ディルクの言葉にエルンストは目を見開いた。そんな彼に追い打ちを掛けるようにディルクは言う。「今はまだ様子を見ているだけのところも多いようだが、それも時間の問題だ。家格の上の貴族に申し込まれれば、断れまい」というその一言にエルンストは奥歯を噛み締めた。
 アイリスを政争に巻き込むようなことはしたくなかった。自分の意思で戦場に立つ以上、戦線を退くように言うつもりはエルンストにはなかった。そこは彼女の意志を尊重するべきだと思っているのだ。だが、意図せず、アイリスの意志とは関係なく、政争に巻き込まれるなど、看過出来ることではない。そんなエルンストから視線を逸らすことなく、ディルクは暫しの後に口を開いた。


「そこまで迷うことか。ならば、もう一つ案を出してやろう。レオ殿下の后にアイリス嬢を推して、」
「彼女を政争に巻き込むようなそんな提案なら聞きたくはありません!」
「ならばどうする。お前がエルザ殿下を、」
「お受けする気はありません。……このような話ならこれで失礼させて頂きます」


 エルンストは露骨に顔を歪めて口にすると、踵を返して歩き出した。その背に向けて、ディルクは口を開いた。


「以前のお前なら二つ返事で引き受けただろうに」


 その言葉に思わずエルンストは足を止めた。そんなことはない、と言えなかったのだ。父親に認められることだけを求めていた頃の自分であれば、これはギルベルトを出し抜く好機だとばかりに頷いていただろう。婚姻などそういうものだと割り切っていたからだ。それに意味などなく、家同士の繋がりの為の行為だと思っていたからだ。
 そう思えていた方がずっと楽だったのにとも思う。そう思えなくなったのはいつからだと考えていると、「お前が変わったのはゲアハルトの影響か」と呟く声が聞こえていた。言われてみれば、その頃からかもしれない。ゲアハルトやヒルデガルトと共にいるようになった頃から、軍に入隊してから変わったのかもしれない。兄と、ギルベルトと歩み寄り始めたのもその頃だった。


「あの頃のお前になら家督を譲ってもいいと思っていた」
「……っ、失礼致します」


 掛けられた思わぬ言葉にエルンストは唇を噛み締め、絞り出すように言葉を発するとそのまま足早にディルクの書斎を後にした。あの頃の自分になら家督を譲ってもいいと思っていたなどと、今更言われたところでどうしようもない。以前のように、もう割り切って考えるには、自分はあまりに感情的になってしまった。
 そして何より、以前ほど家督にも家柄にも興味もなければ魅力も感じてはいない。ならば、何に興味や魅力を感じているのかを考え、エルンストは脳裏を過ったそれを頭を振って片隅に追いやる。そのまま、逃げるようにして邸を出ると、生温い風が髪を揺らした。それと同時に耳に蘇ったのは、笑みを含んだ女の声だった。兄に奪われ、友人に奪われてしまうのかと、無いものねだりばかりをするのかという嘲笑うような声が脳裏に響く。それと同時に思ったことは兄や友人だけでなく、いきなり現れた王子だなんてどこのお伽噺だということだ。


「……くそっ」


 握り締めた拳を振り上げる。しかし、それをぶつけるところがなく、結局はだらりと腕を下げるしかない。惨めさが増し、エルンストはどうしようもない苛立ちと嫌悪感に押し潰されそうになりながらもそれに耐えるようにぎゅっと手が白むほど、拳を握り続けた。 

 


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