過去 - good bye,days -



「遅かったな。あ、持つよ」
「ありがとう。ちょっとアルヴィンさんたちと話してて」


 エルンストと共にコンラッドの書斎に戻ると、部屋に残っていたゲアハルトらは捜索を続けていたようだった。戻って来たアイリスらに気付いたレックスが声を掛け、彼女が持っていたティーセットなどが載せられた盆を受け取る。
 さすがにエルンストと何があったのかなど言えるはずもなく、また、言っていい気もしなかったアイリスは何事もなかったように振る舞う。レックスらも久しぶりに彼女が実家に戻ったことを知っている手前、後でゆっくり話して来ればいいと勧めてくれた。その心遣いが嬉しいものの、決して嘘ではないが、嘘を吐いていないとは言い切れない状況に少し胸が苦しくなった。


「一先ず、休憩にしませんか。アルヴィンさんがお茶菓子も用意してくれたので」
「ああ、そうしよう」
「つっかれたー……さすがに肩凝るな」
「上ばっかり見上げてたから首も痛い……」


 それぞれ、肩や首を回しながら書斎の片隅にあるソファに腰掛ける。アイリスはカップに紅茶を淹れつつ、思っていたよりも冷めていないことにほっとした。それぞれの前にカップを置くと、早速レックスとレオは茶菓子に手を伸ばし始める。以前と変わらぬ二人の様子にくすりと笑みを浮かべていると、ソファに腰掛けながらも視線を伏せているエルンストの様子に気付く。
 あのような話を先ほどした手前、自分が声を掛けていいものかどうか逡巡するも、気付いているのに放っておくことも出来ず、「エルンストさん、紅茶が冷めますよ」とアイリスは努めて平静を装って声を掛けた。彼はその言葉に視線を上げると、暫しの後にそうだね、と緩い笑みを浮かべ、カップを手に取った。


「それにしても、相変わらずアルヴィンさんはお菓子作り上手いな」
「あ、レックスは此処にも来たことがあるんだっけ。お父さんに面倒見てもらってたって言ってたよね」
「ああ。騎士団に住み込みで雑用とかしながら師匠に剣術を教わって、たまに邸にも連れて来てもらってた」


 レックスは懐かしむように表情を緩めて口にした。てっきりこの邸で生活していたとばかり思っていたアイリスが不思議そうに首を傾げていると「養子に来ないかって言われたけど断ったんだ」と彼は苦笑を浮かべながら口にした。その言葉にはさすがにレオらも驚きを隠せず、どうして断ったのかと彼に尋ねる。既に没落していたとはいえ、仮にも貴族の家柄だ。養子になれば、少なくとも衣食住に困ることはなく、コンラッドから剣術を習うにしても都合がよかったはずだ。
 だが、彼はそうではないのだと首を横に振った。「オレはクナップを滅ぼしたあの鴉に男を殺す為に此処に来たんだ。貴族の養子になる為じゃない」と理由を口にした。レックスらしい理由だったが、やはりその言葉を聞くとアイリスは表情を曇らせずにはいられなかった。独断専行した時も思ったことだが、彼はあまりにも自分の全てを復讐に捧げ過ぎている。復讐を遂げる為なら悪魔に命さえ売り渡しそうな気配さえある彼に、アイリスは以前よりも危機感を感じていた。


「そ、それにしても、コンラッドさんって跡取り探してたんだな。レックスに声は掛けるし、アイリスを養女にするし……あんなに優しい人なら結婚もすぐ出来たはずなのに」
「そっか。レオのお母さんの後ろ盾だったんだよね、お父さん」
「そうそう。小さい頃、何度か遊んで貰ったことがあるんだ。すっげー面倒見のいい人だった」


 目を細めて笑うレオにアイリスがそうなんだ、と笑みを浮かべていると、ふと表情を曇らせるゲアハルトとレックスに気付いた。どうしたのだろうかと思っていると、ぱちりとゲアハルトの明るい青の瞳と視線が重なる。彼は微かな笑みを浮かべると「コンラッド殿には俺もよくしてもらった」と口を開く。


「色んなことを教えてもらったよ。軍人としての基礎も、指揮官としての心構えや兵法も、全てコンラッド殿から教わったことだ」
「剣の腕も立って、魔法の腕前も凄くて、果ては料理から楽器の演奏から何でも一人でこなしちゃう上にホラーツ陛下からの信任も厚いっていう……まあ、とんでもない人だったよね」


 でも、それを鼻に掛けることもない、素朴で優しい人だった。
 カップをテーブルに戻しつつ口にしたエルンストの言葉にアイリスは脳裏にコンラッドの姿を思い浮かべた。それほど長い時間を共に過ごしたわけではなく、別れも唐突に訪れた。いつもと同じように邸を出た養父は冷たくなって戻って来た。涙が止まらなかったことをよく覚えている。今でこそ、養父のことを思い出として話すことが出来るようになったものの、最初は思い出せばすぐに涙が浮かんで来たのだ。
 そのことを思い出していると「オレもコンラッドさんがピアノ弾いてるところ見たことあるな」とレオが口にした。その言葉にアイリスも養父がよくピアノを弾き、そして、それを自身にも教えていたことを思い出す。この半年、ピアノに触れることもなかったが、養父に教えられたその一曲だけははっきりと記憶に残っている。そしてそれを思い出すと同時に、ある違和感が胸の中に広がった。


「そう言えば、わたしも父からピアノを教わりました。ただ……」
「ただ、どうした?」
「弾き方は教わったのですが、譜面の読み方は教わらなくて……」
「それじゃあ弾けないんじゃない?」
「いえ、耳で聴いて目で見て覚えるように言われました。それまで聞いたことがない曲だったので題名も分かりませんが」


 今にして思えば、奇妙なことだった。譜面の読み方も教えなければ、とてもではないが、ピアノを教えたとは言えない。どうしてだったのだろうかと不思議でならず、更に記憶を掘り返せば、その理由も尋ねたことがあったような気がしたのだ。だが、はっきりとは思い出せず、アイリスはどうしてだっただろうかと思い出そうと必死に頭を悩ますも、肝心の理由が思い出せそうになかった。
 ただ、養父が酷く申し訳なさそうな顔をしていたことだけは思い出せた。脳裏に蘇った表情のことを思うと、きっと何か大切な理由があったのだということは分かる。だが、ピアノの曲を耳や目で覚えさせるような理由とは一体何だったのだろうかと考えるも、それらしい理由は思いつきそうになかった。
 どうしてだろうかと考えながら自然と下がっていた視線を上げると、それぞれ理由を考えている様子だった。その中でも特にゲアハルトとエルンストは眉を寄せて深く考え込んでいる様子であり、それが自分に託された手掛かりなのだろうかと目を瞠る。そんな彼女と視線を合わせたゲアハルトは真剣な表情のまま、「アイリス、その曲を弾いてみてくれないか」と口にした。








 白い布を顔に被せられ、ベッドに寝かされている父親を前にヴィルヘルムは静かに佇んでいた。その碧眼はどこかぼんやりとしたものであり、どこか遠くを見ているようでもあった。
 元々、覚悟は出来ていたことだった。ヴィルヘルムの実の父親であり、皇帝のメレヴィスは一年以上、臥せっていることが多い日々を過ごしていた。主治医からもそろそろだということも聞かされていた。だからこそ、暇を見つけてはメレヴィスの元を訪れてはいたものの、言葉を交わすことは殆どなかった。
 掛ける言葉がなかったというわけではない。話したいことがなかったというわけでもない。ただ、細くなりゆっくりと、けれど、確実に死に近づいていく父親の姿を前に何も言うことが出来なかったのだ。もっと何か話せばよかったと、声を掛ければよかったと思うも、それ以上にああ何故父上が、という気持ちでいっぱいだった。


「……父上」


 メレヴィスを死に追い込んだものは人でも毒でもなく、黒の輝石だ。禍々しいそれに触れた為だ。黒の輝石は災厄しか齎さない――人には死を与え、自然を破壊する災厄の石。それがヴィルヘルムが黒の輝石に対して抱いている感想だった。黒の輝石に触れたメレヴィスは少しずつ病んでいった。身体を病み、心を病み、見るに堪えない日々が何年も続いた。それを思えば、こうして静かに息を引き取ることが出来たことを喜ぶべきなのかもしれない。漸く黒の輝石の呪縛から逃れられたのだ、と。
 けれど、そうは思いはしても、素直にそう思うことは出来ない。そもそも、メレヴィスが黒の輝石に触れることになった原因が、まだ残っているのだ。メレヴィスは輝石を研究したいが為に命を差し出すような研究員とは違い、触れるつもりなど元々なかったのだ。だが、彼は触れてしまった。突如として黒い光を放出したその石から、すぐ傍にいた彼の甥を守る為に。


「……っ」


 その場にヴィルヘルムはいなかった。そのため、どうしてそのような事態になったのか、詳細を知ることは出来ない。その場にいた者はゲアハルトを残して、誰もが死に絶えてしまったのだ。
 黒の輝石に触れてからのメレヴィスの変貌は凄まじいものだった。それまで温和だった父の面影は徐々に消え失せ、狂気に蝕まれていった。とても見ていられなかった。そんな中、黒の輝石に触れたことで彼の中で膨れ上がった狂気はある日、爆発した。致し方ない、とメレヴィスの兄であり、ゲアハルトの実の父親であり当時の皇帝だったオズワルドがある決断を下したそのすぐ後だった。
 オズワルドは限界までメレヴィスを救うべく手を尽くしていた。その死者としてゲアハルトが白の輝石を保有しているベルンシュタイン王国に向かったのだ。相反する輝石に触れることで正気に戻そうと考えていたのだが、それをするにはあまりにもメレヴィスは狂気に侵されていた。そのため、オズワルドは苦渋に選択として、彼に死罪を処すことを決めたのだ。
 だが、死んだのはメレヴィスではなく、オズワルドだった。胸中に巣食っていたどす黒い感情に突き動かされるがままに、メレヴィスは実の兄であり、皇帝を弑逆したのだ。その頃には既に帝国全土に渡り、異常気象が続き、食糧難に陥っていた。餓えは人の心を貧しくする。メレヴィスは臣民に訴え掛けた。その飢えを取り除く為に他国に打って出ようと――そうして受け容れられた彼は簒奪者ではなく、皇帝として認められ、その地位に就いた。
 その後は周辺の国々を次々に併合していくも、時間が経てば経つだけ、メレヴィスは性格だけでなく身体を病んでいった。そして、彼を救うことの出来る可能性を求めて国を出たはずのゲアハルトが戻ることはなく、彼はベルンシュタインの兵士となっていた。その時のことを思い出し、ヴィルヘルムは唇を噛み締めた。
 そのまま彼はメレヴィスに一礼すると、踵を返して居室を後にした。いつまでも此処にいるわけにはいかないのだと歩を進めると、廊下の脇には副官が待っていた。ヴィルヘルムに対して一礼した彼は口を開くも、言葉を発する前にヴィルヘルムが歩き出してしまう。


「で、殿下!」
「……分かっていたことだ。それに、父上はこれで漸くあの忌々しい石から解放された」
「……ヴィルヘルム殿下」
「私は正直……父上が今亡くなられてよかったとも思っている」


 死を願っていたというわけではない。ただ、無理に生き永らえるよりもずっといいとは思うのだ。何より、子どもの頃の名残は今のメレヴィスにはなく、全て消え失せてしまったものの、ヴィルヘルムの記憶には残っているのだ。彼はいつも言っていた。まだ分厚い雲に空が覆われる前、帝国の豊かな自然が好きなのだと、穏やかな笑みを浮かべて言っていたのだ。


「父上の愛した帝国の地を血で汚すところをお見せせずに済んだ」
「それは、殿下……我が軍がベルンシュタインに負けるという、」
「違う。……此方に遠征する余力が殆どない以上、奴らを内側に引き込むことになる。そうすれば、どちらの血が流れるにしても、帝国の地は汚れてしまう」


 そう口にすると、副官は納得した様子だった。だが、やはり内側にベルンシュタインの軍勢を引き込むことには抵抗があるらしく、どうにか食糧を調達するべきだと進言する。しかし、「その必要はない」とヴィルヘルムはあっさりと切り捨てる。それ自体が不可能というわけではないが、彼はそれをする必要性を感じていなかったのだ。
 わざわざ、こちらから打って出る必要はない。何もベルンシュタインに楽をさせる必要もまた、ないのだ。帝都アイレンベルグにベルンシュタイン軍が到達するには少なくとも三つの国を経由しなければならない。それらの国々の国軍を使えばそれで済むのだ。だが、そのようなことはゲアハルトも分かっているはずであり、それを打開する為の手を打って来ることだろう。だからこそ、大丈夫だと高を括らずに覚悟を決めなければならないのだ。


「相手は一筋縄にはいかない。我々の侵攻を悉く打ち破ったゲアハルトが……ライルがいる。こちらも相応の覚悟をもって動かなければ、あいつを叩き潰すことは出来ない」
「……殿下」
「ああ、それから父上の葬儀は質素に手早く済ませろ」
「い、いえ、そのようなわけには……皇帝陛下の崩御なのですから、仕来たりに準じて、」
「必要ない。……他国を侵略し、戦争を繰り広げ、血で血を洗う暴虐を尽くした父上の死を嘆く者など、多くはない」


 寧ろその死を喜ばれるだけだ。
 淡々とした声音でヴィルヘルムは口にした。元がどのような人物であったかを知っているだけに、たとえそれらの行動が事実であったとしても、そのような誹謗中傷を捨て置くことは出来そうになかった。だからこそ、ひっそりと終わらせて欲しいと思ったのだ。現在、殆どの軍事行動も国内の政治もメレヴィスに代わり、ヴィルヘルムが指揮を執っている。だからこそ、然程問題はないのだから早く葬儀を済ませるようにと副官に指示を出した。


「それから、例の仕掛けはどうなっている」
「は、はい。滞りなく、潜入工作を続行しているとの報告が上がって来ています」
「そうか」
「……あの……殿下」
「何だ」
「……本当に、よろしいのでしょうか。ライル様と戦うなど……昔はあんなにも仲がよろしかったではありませんか」
「昔のことだ」


 戦争を続けることなど止めるべきだと進言する副官に対し、ヴィルヘルムはきっぱりと切り捨てた。彼が言わんとしていることは分からなくもないのだ。だが、もうどうすることも出来ないところまで事は進んでいる。何より、メレヴィスを、ヒッツェルブルグ帝国を見捨てたゲアハルトを許す気など、ヴィルヘルムには毛頭なかった。


「従兄弟だ何だと、そんな情だけでどうにかなる時は疾うの昔に過ぎ去っている」
「殿下……」
「後は互いに兵を用いて、殺し合うだけだ」


 メレヴィスを前にしていた時とは異なり、その碧眼は怒りと憎しみに染まっていた。ただ前だけを睨みつけるその背は誰をも寄せ付けぬ冷たさに満ち、もう誰も何も声を掛けることなど出来なかった。


130910


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