代償 - regret -



「アイリスっ!……無事でよかった」


 軍令部の一室。そこにいるように言われたアイリスの元に慌ただしく駆け付けたのはヒルデガルトだった。相当急いで来たらしく、彼女は息を乱しながら部屋に飛び込むと、アイリスを見るなり強くその身を抱き締めた。余程心配をかけてしまっていたのだということを実感し、また、戻って来たのだという安堵にアイリスはきゅっと小さく唇を噛みながらよかった本当によかったと繰り返すヒルデガルトに対して頷きながらその背に腕を回した。
 アイリスはアベルと共にフェンリルの背に乗って王城へと帰還した。追手の追撃から逃れる為に王都を取り囲む塀を越えたのだ。運よく、走らせていた方向が北区に近かったということもあり、軍令部に辿り着くことは決して難しくはなかった。塀の中に入ってからは追われることもなく、潜入していた帝国兵の殆どが追手として差し向けられていたらしい。
 だが、軍令部に到着するなり、二人は絶句した。建物の一部が半壊し、何とか布で覆われている状態だったのだ。それも布で覆われている場所がゲアハルトの執務室であるということに気付けば、彼らの顔は色を失った。けれど、そのことを気にしていられる状況ではなかった。軍令部の警備に就いていた兵士がフェンリルやその背に跨るアイリスとアベルを見るなり、すぐに応援を呼んでしまったのだ。
 すぐにフェンリルの召喚をアベルは解いたのだが、この場に到着するまで彼の背に乗っていたところは警備の兵士だけでなく、軍令部に辿り着くまでにも多くの人間に見られていることだろう。仕方がなかったこととはいえ、迂闊なことをしてしまった。しかし、不幸中の幸いはアイリスを保護した旨を伝えに来た国境連隊からの連絡を受け取ったレックスがそのことをヒルデガルトに話していたことだ。すぐに姿を見せた彼女はアベルを裏切り者として捕縛はしたものの、その身柄の監督を彼女の腹心の部下であるメルケルに預けてくれた。少なくとも酷い仕打ちを受けることはないはずだと、手錠が掛けられたその手を見ることは辛かったが、アイリスも一応は安堵することは出来た。無論、これから先、どのようなことになるかは知れない。一時凌ぎには過ぎないが、一時でも帝国の人間から確実に身を守ることが牢であれば可能であることを思えば、何とか見送ることも出来た。
 出来ることなら連れ帰ってくれたことを改めて感謝したかった。アベルがいなければ、再び王都の地を踏めることはなかっただろう。後でどうにかアベルと会えないか交渉しなくてはと思いつつも、今は兎に角状況を確認しなければとアイリスはヒルデガルトから身体を離すと「ヒルダさん、わたしがいない間、何があったか教えてくれませんか」と問い掛けた。


「ああ、勿論だ。だが、その前にアイリス、君の身に起きたことを聞かせて欲しい」


 心配げな表情のままヒルデガルトは言う。本当ならばもう少し時間を置いてからと思っていたのかもしれない。だが、こうして会って早々に聞かれるということは、それだけ状況は緊迫しているということでもある。アイリスとしても、報告しなければならないとは思っていたのだ。わかりました、と頷くと掻い摘んでこれまでのことを話した。
 保護されたというアルヴィンからアルバトフ邸に到着するまでのことは既に聞いているらしく、アイリスは言い辛さを感じながらもアルバトフ邸に現れたのは邸の主であるエラルド・アルバトフではなく、エルンストだったことを告げた。大方、予想はしていたのだろう。ヒルデガルトは一瞬表情を動かしたが、すぐにまた聞く体制に戻る。
 エルンストによって意識を奪われ、気付いた時にはカサンドラらが使っていた薄暗い森の中の隠れ家の一室にいたこと、そして、そこでは拘束こそされてはいたものの、食事も与えられていたこと、そこで見聞きしたことを伝えた。だが、さすがに舌を噛んだことは言えず、アイリスはその点だけは言わずに、同じく隠れ家にいたアベルとどういうわけか逃亡に手を貸してくれたブルーノの存在を口にした。


「妙な男だな、そのブルーノという奴は」
「はい……ただ、彼に面倒を見てもらっていましたが、そんなに悪い人というわけでもなくて……」
「子どもだからとアイリスとアベルを逃がす辺り、良識的と言えば良識的ではあるが……帝国の人間がすることではないからな」


 ヒルデガルトもブルーノの件に関しては困惑している様子だった。しかし、帝国軍に所属している以上、敵であることに変わりはない。よくしてもらい、逃がしてもらったことを思えば、彼はアイリスにとって命の恩人だ。アベルが彼女の部屋に行くことが出来たのも、偏にブルーノが目を瞑っていたからであることを明らかであり、彼には返し切れない恩がある。
 けれど、次に会った時には戦わなければならない敵であり、恩を仇で返す様な真似になってしまう。致し方ないこととはいえ、それでもどうにかならないものかと思わずにはいられない。それが自分の甘さであるということは重々承知してはいるのだ。捨て切れない甘さは自分の身を滅ぼすことにも繋がりかねないことも分かっている。それでも、逃がしてくれたその時のブルーノの顔が忘れられないのだ。


「その後はアベルと逃げて来たのか……」
「そうです。……アベルが契約している召喚獣を使って」


 森の中を移動し、街に出たのは今日になってから――いくつか街を経由して最終的に王都に最も近い街の国境連隊の詰所に向かったのだと言うと、ヒルデガルトは「そうか」とだけ言って口を閉ざした。色々と思うところはあるのだろう。もしかしたら、アベルの処分についても考えているのかもしれない。
 だが、口を挟むようなことはしなかった。軍令部に着いた時、彼は自ら手首を差し出したのだ。進んで拘束された。罪を認め、罰を受ける気でいる。そんな彼の気持ちを踏み躙り、あれやこれやと口を挟むことはアイリスには出来なかった。アベルが助けを求めているのなら助命を嘆願しただろう。けれど、そうではないのだ。彼は受け容れることを選んだ。ならば、もう何も言うことは出来ない。


「……レックスは、大丈夫でしょうか」
「すぐに応援を出した。それに、あいつはそう簡単にやられるような奴ではないよ」


 軍令部から出てきたヒルデガルトに対し、アイリスはすぐにレックスの救援を求めた。追撃して来た帝国兵らの人数を思い返せば、こちらに向かって来ていた人影の大多数が自分たちの追撃に回されたことは分かる。だが、追撃して来た帝国兵らの中に指揮官らしき者はいなかったのだ。つまり、レックスと剣を交えているということだ。どのような相手かは分からないが、いくら彼の腕が立っても不安にならないわけがなかった。
 不安げな顔をするアイリスの肩を叩き、ヒルデガルトは大丈夫だと元気づける。そんな彼女の気遣いにアイリスは笑みを浮かべて見せた。だが、それは酷く弱々しいものでしかなかった。


「……ヒルダさん、どうして司令官の執務室があんな状態になっているんでしょうか」


 軍令部の有様を見てからずっと気になっていたことだ。まるで館内で戦闘があったかのような状況であり、場所が場所であるだけに不安が過る。実際、本来ならばゲアハルトがアイリスに事情を聴いているはずだ。しかし、今目の前にいるのはヒルデガルトであり、ゲアハルトが姿を現す気配は一向にない。
 だが、聞かずとも凡そのことは予想が付いていた。この場に一向に姿を見せず、かと言って思っていたよりも騒がしくない軍令部内のことを思えば、エルンストが関与しているということは想像に難くなかった。現に、ヒルデガルトは言い辛そうに言葉を濁し、視線を彷徨わせている。はっきりと物事を口にする彼女らしくない態度を見ているうちに予想は確信に変わった。


「エルンストさん……ですよね」


 だからこそ、アイリスは自分の口でその名を上げた。彼の名前を口にすると、ヒルデガルトは視線を伏せ、それから力無く「……ああ」と呟く。彼女もまだ受け容れることが出来ずにいるのだろう。ヒルデガルトにしてみれば、カサンドラだけでなくエルンストまでも裏切ったことになるのだ。そう簡単に事実を受け容れることなど出来ないはずだ。
 それでも、ヒルデガルトは順を追ってこれまでの経過について話してくれた。エラルド・アルバトフとの縁談が罠であるということに気付いたゲアハルトとレックスがすぐに邸に向かったが、そこは既に蛻の殻であり、怪我を負ったクレーデル家の執事であるアルヴィンが残されていたのだという。彼が怪我をしていたということにアイリスは驚き、酷く心配するも命に別条はなく、今は安全な場所にメイドらと共にいるのだということがヒルデガルトの口から告げられるとほっと安堵した。


「ただ……クレーデル家の何処かに白の輝石があると踏んでいたエルンストを追い詰めて、ゲアハルトとその場で剣を交えることになった」


 その言葉にぎょっと目を見開くも、アルヴィンを始めとする使用人たちが何とか難を逃れていたのだということを思えば、戦場となって邸が半壊しようとも気にならなかった。アイリスにとって家は然程大事なものではないのだ。壊れてしまっても修理すれば済むのだ。だが、そこに住んでいる者の身に何か起きれば、それはどうすることも出来ない。だからこそ、「邸もきっと荒れたと思いますが、気にしていませんから」と言い添えるとヒルデガルトは暫し考え込んだ後に「すまない。ちゃんと責任を持って修理には当たらせるからもう少し待っていてくれ」と口にした。
 慌てて言うヒルデガルトに微苦笑を浮かべるも、やはり気掛かりにしている様子を隠すことは出来ない。どうしても聞かなければならないことであり、いつかは聞こうと思っていたことでもある。暫し視線を重ね合った後、ヒルデガルトは一瞬顔を伏せた後に「二人のことだが」といよいよアイリスが聞きたいと思っていた本題に彼女は触れた。


「エルンストは応援に駆け付けたレックスらが捕縛。ゲアハルトは……今も意識不明だ」
「そんなっ」
「詳しいことはエルンストも黙秘しているからまだ分かってはいないが、レックスの報告によるとカサンドラが介入していたらしい」
「……あの人が」
「ああ。あいつが介入するよりも前に大方の決着はついていたようだ。ただ、不意を突かれてゲアハルトがやられたということだ」


 その声音は絞り出したようなものだった。既に事が起きてから一週間近く経過しているのだが、それでもまだゲアハルトの意識が戻らないということにアイリスは不安を隠せなかった。それと同時に、悔恨の念でいっぱいになる。元を正せば、自分の振る舞いに原因があったのだ。エルンストとちゃんと向き合ってさえいれば、少なくともゲアハルトが今も意識不明であるということはなく、エルンストだって捕縛されるようなことを仕出かさずに済んでいたかもしれない。
 無論、それらはあくまで結果論だ。アイリスの行動に関わらず、起きていたことかもしれない。だからこそ、悔やんでいる暇があるのなら、今出来ることをするべきであるということもこれまでのことからよくよく分かってはいるのだ。それでも、今回ばかりはすぐに思考を切り換えることは出来そうになかった。


「……アイリス」


 気遣わしげに名前を呼ぶヒルデガルトに肩を抱き寄せられる。温かなその温もりは心地よく、それに甘えてしまいたくなる。だが、そうすることは自分には許されないのだとアイリスは唇を噛み締めると、「分かってたんです」と呟く。その声は、震えていた。


「エルンストさんが、どう思ってくれてるのか……薄々だけど、気付いてました。一緒にいて欲しいって言われたのに、わたしは……その場凌ぎのことしか言えなかった。ちゃんと、受け止められなかった」


 気付いてはいた。そうなのかもしれないとも思っていた。けれど、そういう目で見たことはなかったのだ。ちゃんと真剣に、考えたこともなかった。それが駄目だったのだ。薄々でも気付いていたのなら、ちゃんと考えた上で接するべきだった。自分の考えを伝えるべきだった。その場凌ぎのことを言うのではなく、エルンストのことを想えばこそ、受け止めた上で返事をするべきだった。
 時間が欲しいのなら、最初に言えばよかったのだ。そうすれば、もっと違う結果になったはずだ。悔やんでも悔やみ切れず、胸の痛みは増すばかりだった。だが、自分が感じている痛みよりもずっと、エルンストが感じていたものの方が重く、痛かったはずだ。そして、それを彼に与えたのは他ならぬ自分自身であり、追い詰めたのもまた、自分なのだとも分かっていた。


「……受け止められなかったとしても、それも仕方ないことだと私は思う。アイリス、だって君はまだ、たった十六歳の女の子なんだから」


 子どもなのだから仕方が無いのだと彼女は言う。けれど、アイリスは思うのだ。“子ども”という免罪符が通用するほど、世界は優しくはないのだと。現に、自分が直接的間接的問わず、原因や遠因になって引き起こされたことの数々を思えば、どれほどの被害があるのか――そのことを思うと子どもだから仕方が無いと言い切ることは出来るはずもない。
 無論、何事の遠因にもならずに生きることなど不可能だろう。誰もが何かしらの遠因となり、無関係でいられることなど有り得ないはずだ。それでも、今回のことだけは別格だ。司令官であるゲアハルトが重傷を負って意識不明であることは少なくとも、ベルンシュタイン全体に影響を及ぼすことだ。そして、自分はその原因を作ってしまった。
 気に病まずにいることなど出来るわけもない。自分を責めずにいることなんて、出来るはずがないのだ。そして、きっと自分のことを責めないであろう彼のことを思うと、どうしようもなく胸が痛んだ。お前の所為で親友と剣を交える羽目になった――そう言って詰られたら、どれだけ気が楽だろう。帰って来てよかった、と微笑まれたら、どれほど胸が痛むことだろう。詰ってくれた方がいい。責めてくれた方がいい。けれど、優しい彼がそんなことを言うとは思えず、心が軋んだ。
 

「……エルンストさんとアベルはどうなるのでしょうか」


 幾分か間を置いた後、アイリスはぽつりと呟いた。意識が戻らないというゲアハルトのことは気掛かりではあるものの、それと同じぐらい、エルンストやアベルのことも気掛かりだった。彼女の問い掛けにヒルデガルトは言葉を濁しながらも、慎重な様子で教えてくれた。


「エルンストは……家のこともある。だから、実際に何をしたかは表に出さず、適当な容疑を……その、重くはない罪に処すことになる、かもしれない」
「……圧力ですか?」
「はっきり言うとそういうことだ。決して褒められたことではないが、さすがに先王の主治医であり、名門貴族の次期当主が……一兵士を誘拐しようとしたなんてこと、表沙汰にするのはシュレーガー家にとっても軍部にとっても避けたいことだからな」


 シュレーガー家と軍部の面子を保つ為にも今回の一件は秘されることはほぼ間違いないらしい。それが分かっているからこそ、エルンストも黙秘を貫いているのだろうかと思うも、すぐにそうではないだろうと考えを打ち消す。彼はそんな人間ではない。ただ、まだ話せるほど落ち着いてもいないから、口を閉ざしているだけなのだろう。


「……ヒルダさん」
「何だ?」
「エルンストさんと、会うことは出来ますか?」


 もう一度会わなければならないと思っていた。そのこともあって戻って来なければならないと強く思ったのだ。それはブルーノに背を押されたからということもある。けれど、会うことの必要性をアイリス自身も感じていた。だからこそ、何が何でも会わなければならないのだ。嫌がられても、拒否されても。そうでなければ戻って来た意味も、アベルやブルーノが自らを危険に晒しても帰してくれた意味がなくなってしまう。
 ヒルデガルトはアイリスの言葉に僅かに目を瞠る。彼女にしてみれば、自分を誘拐した相手に会いたいと言っているのだから、すぐに理解出来なくとも無理はなかった。暫しの間、視線が交錯する――最初に逸らしたのは、ヒルデガルトだった。彼女は困ったように頬を掻きながら「無理ではないが、あいつは今、誰にも会いたがっていないからな……」と呟く。


「お願いします、ヒルダさん。どうしてもエルンストさんに会いたいんです」
「アイリス……」
「会わなきゃいけないんです。そうじゃなきゃ、帰してくれたアベルや逃がしてくれた人に対して顔向けできません」


 お願いします、と頭を下げると慌てた様子で「頭を上げてくれ!」というヒルデガルトの声が聞こえて来る。その言葉に恐る恐る頭を上げると、相変わらず困った表情を浮かべたままではあったものの、何とか許可を取ってみると頷いてくれた。今のエルンストは騎士団指揮の下、牢に幽閉されてはいるものの、身分が身分であるため、聴取や接見も用意ではないらしい。
 それでも、一応は約束を取りつけられたことに安堵していると「どちらかと言うと、アベルの方がまだ顔を会わせやすいはずだ」と思ってもみなかったことをヒルデガルトは口にした。アベルは帝国軍の人間であり、内通者だったのだ。彼の方がエルンストに比べてまだ顔を会わせやすいとは思ってもいなかったアイリスはどうしてと目を見開いた。


「あいつは協力的な態度なんだ。色々と話してくれている。勿論、裏付けを取る必要はあるが、あいつの様子を見ていても嘘ではないことは明らかだから。あと、アベルには禁術行使の嫌疑も掛かっているが、ベルンシュタインで契約を交わしたわけでもないから恐らくはこの点も大丈夫だろう」


 アベルが話すことを予想して彼が知っている計画などは変更されるかもしれない。否、寧ろその可能性の方が高いだろう。それでも、何も手口を知らないまま対応するのではなく、ある程度手口を予想した上で動けることを思えば、アベルの罪が軽くなることは想像に難くはない。命まで奪われることは無さそうであるということにほっと安堵の息を吐いていると「だが……」とヒルデガルトが言い難そうな表情で口を開いた。


「これはあくまで会うことに関しては、だ。……復帰となるとそうはいかないだろう。恐らく、原隊復帰を期待しない方がいいはずだ」
「……そうですか」
「ああ。……最終的な判断を下すのはレオ陛下だが……陛下も今は甘さを見せるべきときではない。だから、少なからず罰を受けることになるとは思っておいて欲しい」


 力になれなくて申し訳ない、とヒルデガルトは頭を下げた。何もそのように頭を下げられる必要はないのだと慌てるも、彼女の表情は優れなかった。そうしているうちにも夜は更け、「そろそろアイリスも休んだ方がいい」と促される。確かに、そろそろ横になりたくはあったこともあり、この場での話は思っていた以上にあっさりと終わった。
 凡そのことは知ることが出来たものの、やはりそう簡単に納得できることでもなかった。けれど、いつまでもこの場にいるわけにもいかない。アイリスは促されるままに立ち上がると「それではそろそろ休ませて頂きますね」とヒルデガルトに声を掛ける。今日ぐらいは慣れたところで寝た方が体を休めることが出来るだろうということで騎士団の宿舎に戻ることとなり、そのために護衛の兵士を呼ばれてしまう。大袈裟だと思う反面、帝国軍に捕まり、多少なりとも彼らのことを知ってしまった自分の口封じに追手が放たれていることを思えば、決して仰々しい護衛ではないことは明らかだ。
 アイリスは彼らに付き添われながら、まだ仕事があるというヒルデガルトと別れて騎士団の宿舎に向かって歩き出す。視線を向けると、そこには所々の部屋の温かな灯りが窓から零れていた。その温かい灯りにアイリスはやっと戻って来れたのだということを実感した。


 





「……時間が、もうないのよ」


 隠れ家の自室に引きこもったカサンドラは微かに震える声で呟いた。もう時間がない――それは常々思っていたことだ。元々、そう長くは保つことは出来ないと分かってはいたのだ。それを騙し騙し、あらゆる手段を使って保たせてきただけに過ぎない。カサンドラは震える手でベッドに寝かせている冷え切ったそれに触れる。
 色の悪い手を握り締めるも、そこには温もりもなければ微かな力さえも残っていない。ひんやりと冷たい、握り返してはくれない死者の手だ。魔法を使って身体の腐敗を遅らせてはいるものの、近付けば否応なく漂う腐敗臭が鼻腔を突く。それは日に日に濃さを増しているようでもあり、それに気付く度に焦りは募る一方だった。
 カサンドラはベッドに寝かせている遺体――ギルベルトの頬に掛かった色素の薄い黒髪を払う。その髪も痩せこけ、とても細いものだった。生前のような艶はなくなり、彼の何もかもが衰えていっていることを如実に感じさせる。そのことにカサンドラは顔を歪めながら、心臓の音が聞こえない胸に顔を押しつけた。身体を包み込む腐ったにおいを、一層強く感じながら。


 多分、初恋だった。
 カサンドラが初めてギルベルト・シュレーガーと会ったのは、まだ彼女が少女と呼ばれる年頃のことだ。その日、たまたま両親に連れられて参加した夜会で彼の姿を見かけたのだ。元々、彼女は貴族の出だった。けれど、貴族とは言っても半ば没落しているようなものであり、カサンドラ自身、夜会に参加したのはこの時が初めてだったのだ。
 それでも、没落しかけていても貴族であることに変わりはないということで礼儀作法やダンスの手解きも受けていた。けれど、その日、それを披露することもなく、彼女は壁の花に徹していた。眩しかったのだ。目の前に広がる煌びやかな世界が眩しく、近付くことが出来なかった。自分も一応はその世界の一員なのだと足を踏み出そうとしても、結局は踏み出すことが出来なかった。
 彼を、見つけてしまったからだ。目の前に広がる煌びやかな世界の中でも一際輝いて見える存在があった。色素の薄い艶やかな黒髪に意志の強さを伺わせる紫の瞳の青年。すらりとした身体が纏っている一目見ても仕立てのよさが分かるスーツに、それに似合う優しげな微笑と洗練された所作。彼が姿を現せた瞬間、広間の空気が一変したようにさえ感じられるほどだった。


「見て、シュレーガー家のギルベルト様よ」


 彼のことを見つけた令嬢たちの間に小さな歓声が起こる。漏れ聞こえてきた彼の名前にカサンドラは僅かに目を見開き、少しだけ移動してよくよく彼の姿を見つめる。ベルンシュタイン切っての名門貴族シュレーガー家の跡取り息子――その人物の名前こそがギルベルト・シュレーガーであり、その名はカサンドラも聞いたことがあった。
 壁に寄りかかって彼を見送ったカサンドラは周囲の令嬢らのように歓声を上げることはなかった。分かっていたのだ。この夜会に集まっている令嬢らの中でも自分が最もギルベルトから遠い位置にいるということぐらい、そんな自分が相手にされることなど有り得ないということぐらい、分かっていたのだ。だからこそ、最初から夢など見ようとも思わないのだ。歓声を上げることもなく、ただ、見ているだけでも十分だった。
 本来ならば、こうして彼の顔さえ見ることはないだろう。相手は名門貴族の跡取りであり、自分は没落寸前、辛うじて貴族を名乗っているだけの娘――それでも、視線を外すことが出来なかったのは、ギルベルトが浮かべる笑顔がとても明るく、裏表のなさを感じさせるものだったからかもしれない。
 そう、多分、初恋だった。一目見て、惹かれたのだ。馬鹿なことをしている――それは分かっているのだが、どうしても目を離すことが出来なかった。釣り合うはずもないことは分かっていた。だからこそ、高望みをするつもりもなければ、どうこうなりたいなどと無謀なことを願うつもりもない。ただ、見ているだけなら、自由だろうと思ったのだ。ただ、それだけだ。それだけだった。それが、カサンドラが初めてギルベルトと会った時のことだ。


「初めまして。第一騎士団副団長、ギルベルト・シュレーガーだ。今日からこの小隊を隊長として率いることになった、よろしく頼む」


 再会は偶然だった。本格的に家は没落の一途を辿り、カサンドラはその再興の為に軍に志願することとなった。元々、魔法を扱うことが出来たため、いつかは軍に志願させられるのだろうとは思っていた。顔も知らぬ男と勝手に縁を組まれて結婚を強いられるぐらいなら、武功を立てて家を再興する方が余程良いと思っていたこともあり、カサンドラは二つ返事で両親の命令に従った。
 そこで、再び出会ったのだ。無論、ギルベルトは夜会にカサンドラがいたことなど知らないだろう。彼にとって夜会とは社交の場であり、自分などとは違って連夜、参加していることだろう。それに、話してさえもいなければ、近付いてすらいないのだ。ただ、壁に寄りかかって周囲と歓談し、時折、令嬢とダンスを踊る彼を見ていただけだ。再会などと思うことさえおこがましい――そう思いながらも、初めて会ったあの夜と変わらぬ笑みを浮かべる彼が、やはり彼女には眩しく見えたのだ。


「カサンドラ、君は筋がいい。勤勉だし、考え方が柔軟だ。……弟も君みたいにもう少し柔らかく物事を考えてくれたらな」


 苦笑して彼は言った。弟であるエルンストとあまり仲がよくないことは知っていた。特例入隊でエルンストも同じ小隊にいるのだが、話しているところなど殆ど見たことはなかった。ギルベルトが気に掛けて話しかけても殆ど会話が続くこともなく、時にはエルンストが無視していた。
 無理もないと彼女は思うのだ。エルンストにとってはギルベルトの存在が眩しすぎるのだ。これで嫌なところが一つでもあればまだよかったのだろうが、贔屓目でなくとも文句の付けようがなかった。性格だっていい、兵士を率いるだけの力量だってある。剣技も魔法も文句なしだ。そんな人間が傍にいて、捻くれずにいる方が無理な話だ。
 けれど、そんな傍から見ても完璧な彼にも苦手なものや嫌いなものがあった。辛いものが嫌いで、甘いものが好きで、苦手な野菜があって、朝起きるのが苦手。近くで見てみると、少し子どもっぽいところがある人だった。思いがけず、近付くことが出来たから知ることが出来た。こんな少し子どもっぽいところを知ってる者なんて早々いない――それを知れたことが、カサンドラは嬉しかったのだ。それらを知る度に、少しずつ、好きになっていったのだ。


「聞いたか?隊長のご婚約、正式に決まったらしい」


 頭から冷水を浴びせかけられたようだった。目の前が真っ暗になって、心に重く冷たいものが圧し掛かって来るような重圧感に息が苦しくなった。けれど、考えてみれば当たり前のことだった。ギルベルトは名門貴族の出自だ。相応の令嬢との婚約が決まったって何ら不思議なことではない。分かっていたことではないか――そう自分に言い聞かせつつも、聞こえて来る話し声に耳を傾けているとどうやら元々縁組は決まっていたらしく、最近になって正式に決まったということだった。
 元々決まったのがいつだったのかは知れない。だが、もしかしたら初めて彼と出会った頃には既に話は出ていたのかもしれない。カサンドラは視線を伏せる。最初からどうこうなろうなどとも、なれるとも思っていなかったのだ。期待していなかった。有り得るはずもないと思っていた。だからこそ、見ているだけで十分だったのだ。話しているだけで、幸せだった。それ以上など、求めるつもりもなかったのだ。
 だが、見ているだけで十分だったのに、彼が率いる小隊に配属されて話をするようになって少しずつ欲張りになる自分がいたことも事実だ。見ているだけでよかったのに、話したいと思うようになった。話せるだけでも幸せだったのに、触れてみたいと、思うようにもなっていた。分不相応な願いなのだということを今回の話で否が応にも思い出させられた。自分はただの没落貴族であり、彼は名門貴族だ。触れたいだなんて、許されるはずもない。――こんなことなら、遠くから見ているだけで十分だった頃に、距離に、戻りたいと、カサンドラはじわりと浮かんだ涙を隠すように手で顔を覆った。


「隊長、エルザ殿下とのご婚約おめでとうございます!とってもお似合いです」


 相手はベルンシュタインの王女だった。貴族の令嬢だとばかり思っていたカサンドラは彼の婚約を祝う仲間たちを遠巻きしながら、驚きを隠せなかった。王女であるエルザのことは第一騎士団に配属されてから話したことはなくとも、時折その姿を間近で見ることはあった。金色の髪に美しい碧眼の姫君だ。二人が並べば、さぞかしお似合いだろうとカサンドラは自嘲するような笑みを浮かべた。
 詳しく話を聞けば、元々二人が幼馴染なのだという。シュレーガー家は王家と近しい名門貴族だ。幼い頃に知り合っていても何らおかしいことはない。だから、ごく自然なことなのだ、二人の婚約は――そう思うも、どうしようもなく心が冷めていく。好きだという気持ちが死んでいくわけではない。それ以外の何か、大事なものが、急速に冷えて自分の中から抜け落ちていくような感覚があった。
 けれど、それが何かを考える余裕はカサンドラにはなかった。きっとそれは、理性だとかそういう人として大事なものだったのだろう。だが、それが自分の中で死に、抜け落ちていくことに気付くことが出来なかった。それよりもずっとずっと、突き付けられた現実が重く、分かっていたことではあっても、釣り合わないと知りながらの恋だったけれど、一方的に終わりを告げられたことに気持ちが追い付かず、そのことでいっぱいいっぱいだったのだ。
 初恋だったのだ。叶わないだろうとは思っていた。叶えたいとも思っていなかった。それでも、少しずつ距離が縮まっていく度に、どうしようもなく心が震え、好きだという気持ちが深く根付いていったのだ。何度も思っていたのだ。釣り合わない。傷つく前に止めるべきだとは思っていた。けれど、捨て去ることが出来るほど、軽い気持ちでもなかったのだ。


「どうした?カサンドラ」


 彼はいつだって周りと何ら変わらぬ態度で接してくれた。対等でいてくれた。それが嬉しくもあり、心苦しくもあった。対等でなどいてくれるから、錯覚してしまうのだ、と。もしかしたら自分を見てくれるのではないか、触れてくれるのではないかと。何度も思い、その度に有り得ないことだと自嘲した。あまりにも不相応な距離に近付いてしまった。その距離が嬉しくもあり、辛くもなった。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、彼はそれ以上は近付かず、触れず、部下としてしか見てくれない。対等であっても、優しく接してくれても、一戦だけは越えないのだ。
 その目には最初から自分が映り込む余地などなかったのだ。自分に向けてくれた優しさも、眼差しも、それらは全てエルザのものだ。否、彼女に向けられるものは自分に向けられるものの比ではなく、もっと気持ちの籠ったものなのだろう。それを思うと、彼の優しさが辛くなり、眼差しさえも苦しくなった。自分はエルザのようにはなれない――時折、彼女の話を振られる度に優しく目を細めて笑う彼の横顔を見ていると、その事実を突き付けられたかのように、息苦しくてならなかった。
 ギルベルトの優しさが辛い。最初から釣り合うことはないと分かっていたのに、欲張りになった自分が憎い。こんなことなら、出会いたくなどなかった。そんな運命を仕組んだ神を呪いもした。それでも、やはり思うのだ。自分のことを見て欲しい、と。エルザではなく、自分のことを好いて欲しいと、そう思わずにはいられなかった。


「いえ、何でもありません」
「そうか?何か困ったことがあったらいつでも言ってくれ。俺でよければ相談に乗るから」


 それならば、貴方のことが好きなのだと伝えたらどうなるのだろう。ふとそう思いながらも、カサンドラはそれを口にすることは出来なかった。困らせることも分かっていた。だが、それ以上に断られることの方が怖かった。断られると分かりながら、伝えられるほど、カサンドラには勇気がなかったのだ。
 もしも、口にすることが出来ていたのなら何かが違っていたかもしれない。けれど、彼女は口にすることが出来ず、日に日に冷え切っていく心にも気付かず、どこからか湧き上がってきた黒い感情をそれと気付かず、抱き続けることとなった。どうすれば、彼を自分のものに出来るのか、ただそれだけを、考えるようになったのだ。どうしても自分のことを見て欲しかった、自分のことだけを見て、好いて欲しいと、その感情を捨て去ることが出来なかったのだ。




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